小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

福沢諭吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、子孫や死因まで解説】

福沢諭吉の簡単年表

1835年 - 0歳
摂津国大坂堂島浜で誕生

福沢諭吉は摂津国大坂堂島浜の中津藩蔵屋敷で父・百助と母・於順の間に次男(末っ子)として誕生しました。現在はその地に福沢誕生地記念碑が建っています。

1841年 - 5歳
漢学と一刀流を学ぶ

この頃は勉強があまり好きではありませんでしたが、藩士のもとで漢学と一刀流を習うようになります。一刀流はのちの居合道にもつながり、終生付き合っていくこととなったのです。

1854年 - 19歳
緒方洪庵の適塾へ

18歳からは論語、詩経などの書物を読み漁るようになっていました。19歳で蘭学を学びに長崎へ出ることになります。これは兄の三之助から勧められました。

1857年 - 22歳
適塾の塾頭になる

勉強の成績も良く、物覚えが早かった諭吉は22歳にして適塾の塾頭に任命されます。この頃から酒やタバコが好きで、愉快な学生生活を送っていたようです。

1858年 - 23歳
江戸へ発ち、私塾を創設

藩の命令で江戸から招聘を受け、中津から離れることになります。この年に慶應義塾の前身となる私塾を創設します。

1860年 - 25歳
咸臨丸で渡米

蘭学を学んできた諭吉ですが、英語を習得しないと外国人とのコミュニケーションがままならないことに気づき、勉強します。そして、25歳の時に咸臨丸で渡米をします。

1861年 - 26歳
錦と結婚

当時17歳であった錦と結婚しました。生涯で4男5女をもうけ、1924年6月2日、諭吉が亡くなってから約20年後に80歳で死去します。

1862-1867年 - 27-32歳
ヨーロッパとアメリカを行き来

1860年に咸臨丸で渡米してから、世界各国を飛び回るようになります。フランス、イギリス、オランダ、ロシアなどを巡り、1867年には再びアメリカへと旅立ちました。

1868年 - 33歳
慶應義塾の創設

江戸にあった私塾を新銭座に移動し、慶應義塾と名付けます。

1872年 - 37歳

累計300万部のベストセラーとなる「学問のすすめ」を執筆します。当時の封建社会から民主主義社会への移行を伝え、有識者の活躍をうながしています。

1880-82年 - 45歳
時事新報発行

大隈重信、伊藤博文、井上馨から新聞を作るように依頼があったのが1880年です。それから政治的動向の関係もあり、実際の発行は遅れましたが、1882年に「時事新報」が刊行されることとなります。

1892年 - 57歳
伝染病研究所の創立

北里柴三郎とともに伝染病研究所を設立します。この伝染病研究所はのちに野口英世が在籍することにもなります。

1901年 - 66歳
脳溢血にて亡くなる

1898年9月にも脳溢血にて倒れますが、回復します。しかし、その約3年後、再び脳溢血で病床に伏し、そのまま帰らぬ人となりました。

福沢諭吉の年表

1835年 – 0歳「摂津国大坂堂島浜で誕生」

中津藩蔵屋敷跡 福沢諭吉生誕の地

福沢諭吉誕生

福沢諭吉は摂津国大坂堂島浜の中津藩蔵屋敷で父・百助と母・於順の間に次男(末っ子)として誕生しました。父・百助がその一年後に亡くなってしまうため、すぐに大分県の中津へ引っ越しすることになります。現在は諭吉の誕生した大阪の土地に福沢誕生地記念碑が建っています。

藩士のもとで漢学と一刀流を学ぶ

5歳になって中津藩士・服部五郎兵衛のもとで漢学と一刀流を習い始めます。最初の頃は勉強も読書も嫌いでしたが、徐々に勉学にのめり込んでいき、15歳頃には勉強していないと周りからの目がきになるようになり、より熱中していくようになります。

18歳には白石照山の塾へ入りました。勉強の飲み込みは非常に早く、「論語」、「詩経」、「書経」、「史記」、「老子」などは暗記するほど読み込み、この段階で先輩の塾生もしのぐようになっていたようです。

1854年 – 19歳「蘭学を学ぶために長崎へ」

蘭学事始

蘭学を学ぶために長崎市の光永寺へ

黒船がこの年に来航し、大砲の必要性が高まりました。兄・三之助が「オランダ砲術を学ぶためにはオランダ語がわからないといけない」と諭吉を説得し、蘭学を学ぶことを勧めます。そして、長崎奉行の役人であった砲術家のもとでオランダ語を学び始めました。

その一年後、中津藩家老の家柄である奥平家と不仲になり、長崎へいられなくなったため、江戸へ出ようと思い立ちます。その道中で大阪により、兄・三之助の進言を受けて、緒方洪庵の適塾に属するようになりました。

江戸に赴き、私塾を開設する

適塾へ通い始めて2年後には塾頭を務めるようになります。そして、藩の命令により江戸へ来るようにとの報告を受け、中津藩を離れます。江戸に来た諭吉は蘭学の「一少家塾」を設立します。のちの慶應義塾です。

この頃、外国人とコミュニケーションを取るためにはオランダ語ではなく、英語でないといけないということに気づき、英語の勉強を始めます。

1860年 – 25歳「咸臨丸で渡米」

咸臨丸で勝海舟や木村摂津守らとともにアメリカへ渡航した

勝海舟らとともに咸臨丸に乗ってアメリカへ

咸臨丸でアメリカに向かうこととなりましたが、同じタイミングで勝海舟も乗船しています。この頃から2人の仲は険悪で、後年になって薩長戦争の際にも文書上で言い争いをしたそうです。この時に咸臨丸に乗っていた木村摂津守とは親密な交際を晩年まで続けていました。

アメリカに行った際には文化の違いに大いに驚きました。そして、ジョン万次郎とともに「ウェブスター大辞書」を日本へ持ち帰って研究の助けとしました。

錦と結婚後にヨーロッパへ

1861年に錦と結婚し、その年の冬にヨーロッパへと飛び立ちました。イギリス、フランスなどを訪れ、ロンドンでの万国博覧会では蒸気機関車や植字機に触れることとなります。幕府から支給されたお金で書物を買い、日本に数多く持ち帰りました。

ヨーロッパでは銀行や選挙制度など当時の日本にはなかった制度に感銘を受け、日本でも取り入れるように働きかけます。また、日本人はもっと留学すべきだと痛感しました。

1868年 – 33歳「慶應義塾大学創設」

慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎

蘭学塾を慶應義塾に

江戸で開いていた蘭学の私塾を新銭座に移動し、慶應義塾と名付けます。その後に三田へ再度移動し、三田キャンパスが完成します。慶應義塾はこの時に創設してから150年以上、私塾の創設からは160年以上経過していることになります。

1872年「学問のすすめ」執筆

福沢諭吉の著書で最も有名な「学問のすすめ」を執筆します。当時の日本の人口は3000万人でしたが、300万部を超えるベストセラーとなり、この時代に最も売れた啓発本となりました。内容は日本が封建社会から民主主義社会へと突入したという提言が主です。

現在でも読めますが、当時の言葉であり、文章も難しいため少々読みにくいかもしれません。

1880年 – 45歳「新聞を作ることを依頼される」

時事新報

政府高官3人と会見をし、新聞の発行を依頼される

大隈重信邸で伊藤博文、井上馨と会見し、公報新聞の発行を依頼されました。しかし、内容は政府の考えを国民に知らせるということに限られていたため却下します。その後、政府が国会の開設をすると決定したため、新聞発行の任務を引き受けました。

その直後に北海道開拓官有物払下げ問題や大隈重信の失脚などが相次ぎ、新聞を作ることも延期となってしまいました。諭吉は発行の準備を整えていたため、地震で新聞を作ることを決意し、「時事新報」を発刊したのです。

伝染病研究所の設立

1892年長與専斎の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所を創設しました。諭吉は生涯にこれ以外にも多くの学校を作り上げており、慶應義塾に至っては当時1000人以上の学生がいました。現在では30000人を超える学生が勉学に励んでいます。

伝染病研究所はのちに野口英世も入所するところであり、北里柴三郎のペスト菌発見や破傷風の治療に貢献している施設です。

1901年 – 66歳「脳溢血で死去」

福沢諭吉の墓

脳溢血で病床に臥し、帰らぬ人に

1898年9月に脳溢血で倒れ状態が怪しまれましたが、その際はなんとか回復します。晩年は勉強と居合の練習などをしながら、自炊をして過ごしていたようですが、1901年の1月25日に脳溢血が再燃し、一週間の病床生活を送って、2月3日に亡くなりました。享年68歳でした。

葬儀には諸所の学校の学生を含め、15000人もの参列者が訪れました。

ちなみに近年の著名人の葬儀参列者は美空ひばりが約42000人、尾崎豊が約37000人、ZARDの坂井泉水が約41000人、忌野清志郎が約42000人となっていますが、諭吉の生きていた当時の人口は現在の4分の1なので、単純計算で現代に換算すると60000万人となります。

数字だけで比較するべきではないですが、それだけ民衆に多大な影響を与えた人物だったのです。

福沢諭吉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

現代語訳 学問のすすめ


声に出して読みたい日本語でおなじみの齋藤孝先生が翻訳した「学問のすすめ」です。

原著では昔独特の難しい言葉が並んでいるので、それをできるだけ平易な言葉に書き換えてつづっています。日本が変わりゆくとともに知識人が日本を背負うべきと説いた当時のベストセラー本です。

現代語訳 福翁自伝


こちらも齋藤孝先生が編集した福沢諭吉の自伝です。

慶應大学の創設や銀行の仕組みを日本に持ち込んだことなどさまざまな偉業を成した諭吉ですが、意外と破天荒なエピソードも記載されていて、その人間性に触れることができ、親近感を持てます。

学習漫画 世界の伝記 福沢諭吉 文明開化に尽くした教育者


上記の2作品は少し難しいので、簡単なほんで福沢諭吉の生涯を知りたいという方にはこちらの漫画がおすすめです。

イラストを用いて諭吉の人生を描いているので理解しやすく、楽しんで読むことができます。子供から大人まで幅広くおすすめします。

以下の記事で他にも福沢諭吉に関する書籍を紹介していますので、ご覧ください。

福沢諭吉をよく知れるおすすめ本9選【伝記から漫画まで】

おすすめの動画

【17分解説】学問のすすめ 福沢諭吉【前編】〜日本国民必読の名著〜

「学問のすすめ」を噛み砕いて解説しています。学問のすすめは現代語訳版でも理解するのが難しいので、読んでも理解できない可能性があります。その点、この動画では本の内容を要約して、抑揚をつけながら解説しているので、飽きずに見ることができます。

【武田邦彦・神回】福沢諭吉に学ぶ『絶対に友達になってはいけない人』

テレビにも出ている有名学者の武田邦彦先生が福沢諭吉の「脱亜論」を紹介しています。「脱亜論」は諭吉の優れた洞察力によってアジアよりも欧米に目を向けよという提案の書かれた書物です。これを学者ならではの視点から解説しています。

おすすめの映画

福沢諭吉


柴田恭兵、仲村トオル、南野陽子など華やかな面々をキャストに迎えて作られた作品です。

福沢諭吉の生涯を約2時間の映画に集約しています。主人公諭吉を柴田恭兵が見事に演じあげており、上映時間が短く感じるほどの映画となっています。

おすすめドラマ

幕末青春グラフィティ 福沢諭吉


福沢諭吉の生涯を明るいタッチで描いた作品となっています。

役者には、諭吉役に18代目中村勘三郎を迎え、永島敏行、榎木孝明などのキャストを起用しています。この3年前に好評を博した坂本龍馬編に次ぐ第2弾として製作されました。

福沢諭吉についてのまとめ

福沢諭吉は勉学にとても優れており、それを大衆のために還元し、世の中に多大な影響を与えた偉人です。

福沢諭吉がいなければ慶應大学も、銀行も、保険もなかったかもしれません。これだけの業績を成してきたのであれば、一万円札の肖像になるのも納得がいきますよね。

今回の記事で福沢諭吉に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

1 2 3

コメントを残す