北里柴三郎の功績
功績1「破傷風菌の純粋培養に成功」
北里柴三郎は東京大学医学部を卒業後、ドイツのベルリン大学に留学し、ロベルトコッホのもとで研究を開始します。ロベルトコッホは炭疽菌の純粋培養や結核菌を発見した細菌学の第一人者です。地道に研究を重ねること4年、北里は破傷風菌の純粋培養に成功しました。
破傷風は主に土壌に広く生息している破傷風菌により引き起こされ、神経を侵すため、重篤な症状が発現します。8割近くの感染者が痙攣、呼吸困難、脳炎などの危険な状態に陥るため、現在でも集中的な治療が必要な病です。
功績2「血清療法の確立」
破傷風菌の純粋培養に成功した翌年の1890年には破傷風の毒を中和する抗体を発見します。抗毒素と言い、病原体に対する免疫を高める物質です。そして、弱体化させた毒素あるいは少量の毒素を生体内に注射することで抗体が生まれることを確認し、血清療法として確立しました。
この時代は現在の予防接種のような感染症に対する予防治療や原因治療があまりなかったために、この北里の提唱した血清療法は画期的な発表でした。この血清療法をジフテリアにも応用し、論文を発表します。この論文が後年、ノーベル賞候補に挙げられるのでした。
功績3「ペスト菌の発見 」
ペスト菌は古くから世界に存在し、昔から「黒死病」として恐れられていました。1894年に香港でペスト菌が流行したため、北里はその原因解明をするように命じられます。すぐに香港へと渡り、ペスト菌の研究を開始した北里ですが、そのわずか1ヶ月後に病原体を発見するのです。
香港での流行から5年後には日本にもペスト菌が入ってきます。この際には北里が自ら指揮を取り、感染防止に向けて尽力しました。ペストが広がる原因はネズミだということが分かっていたので、徹底的にネズミの駆除を行い、「黒死病」を鎮めることに成功したのです。
北里柴三郎の名言
「偉業を成そうと思うなら、その基礎をしっかり固めなさい。」
幼い頃から勉学に励んできた北里は医学のみならず、漢学や儒学にも精通しています。偉業は1日にして成せるものではなく、地道な積み重ねが大事だということを教えてくれているようです。その道の第一人者である人に師事し、正しい研究の仕方の基礎を学ぶことができたことも大きいのかもしれません。
「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ!」
人類が長きに渡り苦しめられていたペスト菌を北里が見つけるまで誰も発見できませんでした。香港で流行り出した際も人々は恐怖に慄き、街から人が消えたそうです。それだけの重大な病原体を見つけた時の喜びは実際に経験した当人でないとわからないでしょう。
「医者の使命は病気を予防することにある。」
北里は東京医学校の学生時代から予防医学の重要性に気が付いていました。その信念は生涯にわたって貫き続け、そして、実際に予防医学の発展へと貢献します。現代でも予防接種は頻繁に行われており、改めて北里の偉大さを再確認できます。
北里柴三郎の紙幣刷新の変遷
北里柴三郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「医療品の会社「テルモ」の発起人でCMにも登場」
テルモはもともと赤線検温器株式会社と言って、体温計の会社でした。この会社の発起人となったのが北里柴三郎です。当時の体温計はドイツ製が主流でしたが、第一次世界大戦によりその輸入が途絶えたため、国産品を作ろうということで創設したのです。
体温計はドイツ語で「テルモメーテル」言います。のちに会社名を「テルモ」に変更する際はこの言葉を参考にしました。北里はその設立に尽力したことからテルモのCMにも登場していたことがあります。
都市伝説・武勇伝2「新千円札に抜擢」
2024年から政府は新札を発行することを決定しました。その新千円札の肖像画に北里柴三郎が選ばれたのです。現行の千円札の肖像画は野口英世なので、二代連続で細菌学者ということになります。この2人は共通点が多く、伝染病研究所の出身、病原体発見に貢献、ノーベル賞候補などが挙げられます。
新千円札の裏側には葛飾北斎の富嶽三十六景の有名な「波」の絵である神奈川沖浪裏が採用されました。
都市伝説・武勇伝3「愛人との間に5人の子供をもうける」
北里柴三郎は妻の乕との間に6人の子供をもうけましたが、それ以外にも愛人との間に5人の子供を作ったという逸話があります。柴崎ナカとの間には2人の男の子、三村こおとの間には2女1男がいました。
ちなみに北里とともに新一万円札の肖像となる渋沢栄一には最低でも12人の子供、最も多い見積りだと100人の子供がいたのではないかと言われています。
北里柴三郎の簡単年表
1853年1月29日、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在:熊本県阿蘇郡小国町)に誕生します。
2年間の漢学の勉強を終えると、今度は母方の実家に住むことになりました。近所の儒学の塾にて勉学に励みます。
13歳になると、自ら熊本に出て勉強をしたいという旨を父に伝え、儒学と医学を学ぶことになります。
藩校時習館に入寮し勉強に励みますが、すぐに廃止となったため、熊本医学校に勉強の場を変えます。そこで恩師と出会い、医学を極めることを決心します。
22歳にして東京医学校(現:東京大学医学部)へ入学します。教授達とは折り合いが悪かったため幾度となく留年を繰り返しました。
第6代日銀総裁の長女である乕と4月に結婚します。7月には東京大学医学部を卒業し、晴れて医学士となりました。
東京医学校の同級生によってベルリン留学を命じられます。そこで当時の細菌学の第一人者であるコッホに師事し、研究を行いました。
研究室の同胞であるベーリングらとともに破傷風菌の純粋培養に成功します。世界初の業績で北里柴三郎の生涯の研究の中でも1、2を争うほどの大きな研究成果でした。
破傷風菌の純粋培養に成功した翌年には破傷風菌の抗毒素を発見します。そして、菌を少量、体内に入れることによって抗体を作り出すという血清療法を確立しました。この血清療法をジフテリアでも試みた論文を発表し、ノーベル賞の候補に挙がります。
留学からの帰国後、福沢諭吉とともに伝染病研究所を立ち上げます。北里はここの初代所長となり、再度研究に取り組むようになりました。
5月に当時ペストが流行していた香港へと派遣され、研究を開始します。研究の結果、6月にペストの病原菌を発見しました。
1890年に確立した血清療法をジフテリアに応用するという研究論文をベーリングとともに共同発表し、この年にノーベル賞の候補に挙げられます。しかし、研究の主導者はベーリングであるとの判断により、北里には賞が与えられませんでした。
政府の勝手な判断により、伝染病研究所が東大と合併することとなります。事実上の吸収合併でした。これに反発した北里をはじめとする研究員達は一斉に研究所を後にすることになりました。北里はその後、私財を用いて北里研究所(のちの北里大学)を設立します。
福沢諭吉と親交が深かった北里は、福沢諭吉の亡き後に今までの恩に報いるべく、慶應義塾に医学部を創設します。そして、初代医学部学長となり、教授には北里研究所の研究員を配置しました。
19世紀の終わり頃から多くの医師会が存在していましたが、1923年にそれらをひとまとめにして日本医師会が立ち上げられました。その初代会長に北里が任命されたのです。
1926年には妻の乕に先立たれてしまいます。そして、1931年6月13日、北里は自宅で脳溢血を引き起こして倒れ、そのまま息を引き取ってしまうのでした。