北里柴三郎の年表
1853年 – 0歳「北里柴三郎誕生」
熊本県阿蘇に北里柴三郎誕生
1853年1月29日、父・惟保と母・貞の間に長男として北里柴三郎が生まれます。父は肥後国北里村で庄屋を務めてきた北里氏の末裔で、自身も庄屋を切り盛りしていました。母は豊後森藩士の娘で、嫁ぐ際に熊本へとやってきます。
母は教育熱心で、柴三郎を厳しく育てました。幼い頃から勉学のできる環境に置き、柴三郎もそれに応えていきます。
漢学や儒学を学ぶ
柴三郎が8歳の時には親戚の家に預けられ、漢学者の伯父から漢学を学ぶようになります。2年間で四書五経などを教わった後、今度は母方の実家へ住むようになり、そこで儒学、漢学を学んだり、書物を読んだりしました。
13歳には熊本で勉強したいと柴三郎自ら申し出て、熊本へ遊学することとなります。そこで医学の勉強も少しかじることになりました。16歳の時に熊本医学校へ入学し、恩師となるマンスフェルトに出会い、医学の道を志すようになります。
1875年 – 22歳「東京医学校へ進学、卒業後に破傷風菌発見」
東京医学校(のちの東京大学医学部)に進学
22の時に熊本医学校から東京医学校へ進学することとなります。医学校在学中はよく教授陣と揉めることが多かったため、留年を繰り返してしまいます。
卒業できたのは8年後の1883年で、晴れて医学士となりました。予防医学の重要性を認識し、その道へ進むことを決心します。
この年には妻の乕と結婚をします。乕との間には3男3女の6人の子供をもうけました。
破傷風菌の純粋培養に成功
1885年にベルリン大学へ留学することになり、細菌学の第一人者であるロベルト・コッホの元で研究に励みます。そして4年後の1889年には世界で初となる破傷風菌の純粋培養に成功しました。さらにその翌年の1890年には破傷風菌抗毒素を発見し、これを血清療法へと生かすのです。
血清療法とは少量の菌を動物の体内へ入れると血清中にその菌に対する抗体が生じ、病気の予防に繋がる仕組みです。簡単に言うと現在の予防接種のことです。
そしてこの年には血清療法をジフテリアへと応用する研究も進め、論文を発表しました。この論文によってのちにノーベル賞候補として挙げられるようになります。
1891年 – 38歳「伝染病研究所設立」
福沢諭吉とともに伝染病研究所設立
ドイツから帰国後、東大教授と研究に対する意見の不一致があり、大学側と不仲になってしまいます。そのため北里の身の置き場が無くなってしまいました。福沢諭吉がこの状況を知り、伝染病研究所を設立し、北里の研究の場を作ろうと尽力してくれます。
1891年に伝染病研究所が立ち上がり、北里は初代所長となりました。ここでは感染症予防や細菌学の研究に取り組むようになります。
ペスト菌の発見
1894年、香港でペスト菌が流行していました。北里はこの病原菌を見つけるために5月に香港へと派遣されます。
そして、その1ヶ月後、ペスト菌の病原体を発見します。ペスト菌は現在エルシニアペスティスと呼ばれていますが、この名前の由来となったアレクサンダー・イェルサンも同時期にペスト菌を発見していたのです。
1901年 – 48歳「ノーベル賞候補に挙がる」
ジフテリアと破傷風の血清療法に関する論文でノーベル賞候補に
1890年に血清療法を確立しますが、その年にジフテリアにも応用できるのではないかということで研究を進めます。そして、同僚のベーリングとともに「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。
この論文が1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がります。しかし、研究の主導者がベーリングであること、ベーリングのみがジフテリアの他の論文を提出していたことなどが理由で北里は受賞できませんでした。
北里研究所の創設
1914年、伝染病研究所と東京帝国大学の合併が伝えられます。しかしこれは事実上、吸収合併という形であったため、北里をはじめとする伝染病研究所の研究員達が猛反発し、研究所を飛び出すという事態がおきます。
北里はその後自らの資金を用いて北里研究所を創設します。これはのちに北里大学となりました。北里研究所では狂犬病、インフルエンザなどの研究に没頭します。
1917年 – 64歳「慶應大学医学部を作り、初代学部長に」
慶応大学医学部を創設し、初代医学部長となる
福沢諭吉が創設した慶應義塾に医学部を作ることに尽力します。北里がドイツから帰国した際に、居場所を作るべく伝染病研究所をともに立ち上げたことの恩に報いるために考えたのです。北里はそのまま初代医学部長となり、教授陣は北里研究所の研究員を招きました。
赤痢菌を発見したことで有名な志賀潔もそのメンバーに入っていました。
日本医師会の初代会長に抜擢
明治の時代に入ると各地域に医師会が設立されていきますが、数がどんどん増え、まとまりがなくなってしまったので、日本医師会という総本山を作ることになります。その初代会長として北里は迎えられることとなったのです。
翌年の1924年2月には北里に男爵の位が与えられました。この男爵には、時の内閣総理大臣や陸軍軍医総督、陸軍・海軍大将などそうそうたるメンツが名を連ねています。
1931年 – 78歳「脳溢血にて死去」
脳溢血のため自宅で亡くなる
北里は晩年、様々な組織の長としての活動をしていました。その最中、1926年に妻の乕が北里よりも先に天国へと旅立ちます。生涯で6人子供を育て上げ、59歳で亡くなるという充実した人生でした。
その後を追うように、1931年6月13日、北里自身も帰らぬ人となります。麻布に居を構えていた自宅内で脳溢血を引き起こし、そのまま息を引き取ったのでした。葬儀は青山斎場で営まれ、多くの参列者が訪れたそうです。
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北里柴三郎についてのまとめ
北里柴三郎は幼い頃から勉強熱心で、様々な学問の道に通じていましたが、恩師との出会いをきっかけに医学を極めることを決心します。後年には世界の医学の歴史を変えるような発見を次々にしていき、ノーベル賞候補にも挙がりました。
彼が編み出した血清療法はいまだに予防接種として現代の医療にも生きています。
今回の記事で北里柴三郎に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。