小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

インカ帝国とはどんな国?成立から滅亡理由、皇帝、ミイラとの関係も紹介

インカ帝国は、13世紀から16世紀にかけて栄えた南米一の巨大な帝国です。太陽神の化身と言われる皇帝がインカ帝国を治め、高度な農耕や金属文化がありながらも、16世紀にスペイン人の侵略によりあっという間に滅んでしまいました。

マチュピチュへの玄関口 インカ帝国の首都として栄えたクスコ

インカ帝国は、精巧なつくりの用水路、地震でも壊れない石造りの建物、天文観測所など高度な技術をもった文明でしたが、文字を持たなかったためインカ帝国の詳細な記録が残っておらず、どのような国であったのかは多くの謎に包まれたままとなっています。

この記事では、以下のようにインカ帝国の成立から滅びるまでの過程、そして現在の様子を紹介いたします。

  • インカ帝国は誰がつくりどのようにして成立させたのか
  • 経済や政治、宗教などどのような国だったのか
  • 人々の暮らしや、現在の末裔の様子
  • 秘められた謎や日本人との関係性

インカの魅力にはまり、インカ帝国に関するあらゆる本を読み漁った私がご紹介します。

インカ帝国とはどのような国だった?

インカ帝国の民の魂

インカ帝国とは?どんな国?

正式な国名タワチン・ユウス
成立年1200年ころ
滅びた年1533年
位置ペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部
面積100平方㎞
人口1600万人

インカ帝国の国名は「4つの地方からなる国土」という意味を持ち、インカとはクスコに住んでいた部族の名称で、公用語はケチュア語です。

13世紀にインカ帝国の前身となるクスコ王国が成立し、第9代皇帝パチャクティの時代に国としての形が成立しました。第11代皇帝ワイナ=カパックはさらに領土を拡張し、インカ帝国は南米一の巨大国家となりましたが、16世紀、スペイン人の侵略によって滅びまました。

インカ帝国の遺跡マチュピチュや太陽神殿、緻密に積まれた石垣など高度な技術を持ち、繁栄していたことが分かります。

しかし文字を持たなかったためインカの人々が残した記録がなく、どのような国でどのような生活をしていたのか、大部分が謎に包まれたままとなっています。インカ帝国の首都クスコとマチュピチュは世界遺産に登録されています。

最盛期のインカ帝国領地
出典:Wikipedia

インカ帝国の勢力は、最盛期にはペルー・ボリビア・エクアドルを中心に、チリやアルゼンチン・コロンビアまで及んでいました。そして約80の部族を支配し、人口は約2000万人いたといいます。地域は主に4つに分かれており、それぞれの属州が中央政府に従う連邦国家制でした。

そしてそれぞれの州に「インカ道」と呼ばれる道路網を整備し、行政・軍事・宗教などを伝達するために使用していました。インカに従属した部族も比較的自由に自治が認められていたといい、インカ帝国の勢力は拡大していったのです。

インカ帝国はどうやって成立した?日本人が作った?

インカ帝国の謎

インカ帝国は、クスコ周辺に住むケチュア族の中のインカ族が作った国と言われ、インカの神話では、初代皇帝マンコ・カパックは太陽神インティの息子と考えられています。

金の杖を与えられたカパックが「杖が沈む土地に国を築くように」と導きを受けた後、クスコ周辺に杖が沈んだため、インカ帝国の前身となるクスコ王国を作ったと言われてます。

ところが、「インカ帝国を作ったのは実は日本人だった」という説があるのです。インカの暮らしを守り続けるマティンガ村には「太平洋の彼方からやってきた神が王国を築いた後、『いつか私は必ず戻ってくる』と言い残し再び海へ旅立った。」という話が伝わっています。

さらに、元駐日ペルー大使フランシスコ・ロワイサ氏の著書には、「インカ帝国を作ったのは日本人で、チチカカ湖は「父」「母」の意味である。」という記述があります。

科学的には、日本などに多い遺伝子型ハプログループと同じ遺伝子を持つ人が南米の沿岸部にだけ存在するという論文が2013年に発表されました。

当時日本人が太平洋を航海し、南米に渡ることが可能だったのかというと、「黒潮の大暖流が南米へ向かっているため、船を漕がなくても黒潮に乗れば南米に到着することは可能」という意見があることから、当時の日本人が海を渡り南米に到達することは可能だったようです。

インカ帝国をつくったのは日本人だったという話は嘘みたいな話ではありますが、実際にペルーでも古くから言い伝えられている地域もあり、信じている人々もいるようです。

インカ帝国の政治や経済は?

文字を持たなかったインカ帝国で記録用に使われた結び目つきの紐

インカ帝国は君主制で、一族による世襲制の形をとっていました。皇帝のことを「サパ・インカ」と言い、皇帝は太陽の化身で、インカ帝国は「太陽の子が統治する太陽の国」と考えられていました。皇帝を支える官僚たちは神官でもあり、インカ帝国では、政治と宗教が一体となっていました。

大部分の国民は農民ですが、同時に賦役や兵役を担っていました。農民は「アイユウ」という母系の氏族集団を形成してトウモロコシやジャガイモの栽培をし、リャマやアルパカなどの牧畜、道路の建設、灌漑、鉱山などの事業は公営となっていました。全ての土地はインカ帝国と太陽神の土地とみさなれ、土地の所有は認められていませんでした。

国民は、農作物や毛織物などの生産物を治める形で税をおさめ、集められた生産物は寡婦、老人、孤児などに分配されたり、飢饉や災害などの非常時に再分配されました。

文字を持たないインカ帝国では、人口や産業、税額や取引額はキープ(結縄)によって記録されました。キープには様々な種類の紐が使われていて、結び目は数を表し、十進法が使われていました。

インカ帝国のミイラと宗教

1999年、ミイラが発見される

1999年、アルゼンチン北部のジュジャイジャコ火山の山頂でインカ帝国時代の3体のミイラが発見されました。そのうち1体は13歳~15歳くらいの少女のミイラで、凍った状態で発見されたため保存状態が良く、安らかに眠っているかのような表情が特徴です。

外傷はほとんど無く、肌もふっくらしていて、500年もの間放置されていたにもかかわらず心臓や肺には血液が残っていました。

発見されたいずれのミイラも子どものミイラで、古代インカの生贄の儀式「カパコチャ」で生き埋めにされと考えられています。

インカ帝国では「人間の子どもがもっとも純粋である」と考えられていたため、子供が生贄にされることが多かったようです。生贄となることは名誉であり、村を守る「神」のような存在になると信じられていました。

宗教は太陽信仰

インカ帝国の宗教では、神は太陽、水、雷など自然の力を有する存在で、これらの神々からの加護を得るための宗教儀式を頻繁におこない、食物、動物、コカの葉などを捧げており、特に自然災害や飢饉などの際には、生贄の儀式がおこなわれていました。

生贄となる子供は、装飾品や上等な衣服を身に着け、豪華な埋葬品とともに「神への供物」として大切に扱われていました。

発見されたミイラの毛髪からコカやアルコールの成分が検出されたことから、選ばれた子供達は生贄となる約1年前からコカの葉やチチャ酒を与えられていたと考えられます。

コカの葉とともにチチャ酒を飲みながら山を登り、死の恐怖を和らげるため、死の直前には意識を失うような配慮がされていたようです。

皇帝はミイラになっても支配していた?

インカの典型的なミイラ
出典:ARTNE

インカ帝国の皇帝は死後ミイラとなり、皇帝に仕えていた人たちも生前と同じように仕えていたといいます。そのため新しい皇帝は先代皇帝の財産を引き継げず、領土拡大する必要があったのです。

代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝よりも権威を持つようになったといわれ、それぞれのミイラに仕える人で溢れることとなります。そのため12代目の皇帝がそれまでの皇帝のミイラを埋葬し、ミイラに仕えていた人たちの土地や財産を没収しようとします。そのことがきっかけで内乱に発展、その上スペインの侵攻と重なってしまったのです。

インカ帝国に秘められた謎とは?

インカ帝国の遺跡マチュピチュの謎がついに解明

インカの民は消えてしまった?

インカ帝国に関して数多くある謎の一つが、インカの民についててです。インカ帝国を作ったケチュア族はどこから来た民族なのか分からず、伝説のみしか残っていません。

また、侵略を免れたインカ帝国の都市マチュピチュですが、ここで暮らしていた人々がどこに消えてしまったのかも分かっていません。

マチュピチュに人々が暮らしたのはわずか100年程と言われています。マチュピチュで暮らしていた人々はスペイン陣の侵略を逃れましたが、その脅威から逃れるために安全なところに移動した、16世紀に流行した天然痘によって大多数が亡くなった、などいくつかの説があるようですが、真相は分かっていません。

謎に包まれたキープの解読方法

また、文字を持たないインカ帝国では、数を記録するためにキープ(結縄)と呼ばれる、様々な色の紐に結び目をつけたものを使っていました。

近年、キープは数だけでなく、インカ帝国の歴史の記録や手紙としても使われていたことが分かりました。紐の色と結ぶ目の組み合わせは音節または単語にるものではないかと考えられていますが、解読方法はいまだ謎に包まれています。

インカ帝国は文字を持たなかったため、インカの民が残した記録がないく、どのような国だったのか、どのような生活をしていたのか多くは謎に包まれています。

スペインによる侵略の際に多くの民が亡くなり、インカ帝国の大部分が破壊されてしまったため、口伝えで残っていたものも消えてしまいました。

現在の「社会主義」に通じる経済

インカ帝国の農業風景
出典:Wikipedia

インカでは「土地・家畜・鉱山」など全ての生産手段が共同体の持ち物であり、貴族すら私有することが許されず現在の「社会主義」のような経済でした。

国の土地は皇帝・太陽神・人民と分割し、皇帝と太陽神のために労働させ生産物を徴収していました。そして生産物を再分配されており、老人や孤児を支援したり飢饉の時に放出する仕組みまで整えられていたといいます。

紙幣や市場が無いものの最大規模の国となった?

インカ帝国はお金を使用していなかった

インカ帝国は何故か紙幣や市場を用いていなかったといいます。そのため基本的に貿易は存在せず、商取引も行われていなかったと考えられています。理由は流通活動など経済は一切国が管理し、食料・道具・衣服などの生活必需品を全て国の倉庫から出され貨幣を使用する必要が無かったのです。

では貨幣がないのにどうやって税を徴収したのか?という疑問が出てきますが、税をお金で支払う代わりに国のために働くことを要求されたと考えられています。つまり国民は国の求める労働力を提供し、国は日常生活に必要なものを無償で提供という形式を取っていたのです。

過酷なアンデス山脈を生き抜くために独自の文化を発展させていた
出典:Wikipedia

そしてインカの土地はそもそも生活を営むのが困難な地であり、飢餓対策が最優先事項でした。そのため農業が突出して発達し、市場経済ではなく「食料生産と土地管理」を中央集権的に行い「人々を飢えさせないようにすることにより、生活を豊かにすること」を提供することで文化的にも経済的にも発達し、16世紀初頭頃にはアメリカ最大の帝国となっていたのです。

インカ帝国はどのように滅びたのか?

インカ帝国は、第11代皇帝ワイナ・カパックが亡くなって以降、皇位継承を巡って正妻の子ワスカルと側室の子アタワルパが争いました。兄ワスカルを破って皇帝に即位したアタワルパは、ペルーに侵攻してきたピサロ率いるスペインの一行と会談します。

スペインの属国となることを拒否したアタワルパは、征服者ピサロに捕らえられました。身代金として金銀を渡したアタワルパですが、インカ軍の反乱を恐れたピサロによって処刑されてしまいます。皇帝アタワルパの処刑をもって、インカ帝国は滅びました。

インカ帝国内で起きていた内乱

ワスカル
出典:Wikipedia

スペインがインカ帝国に侵略に来た時、第11代皇帝ワイナ・カパックが死去したことにより、皇帝の子供のワスカルとアタワルパの間で内戦が起こっていたといいます。内戦の理由は後継者争いだと推定されています。

ワスカルは正妻の息子でしたが、アタワルパは側室の子であったために、ワスカルはアタワルパに忠誠を要求。しかしアタワルパが拒否したために内戦へと発展しました。

天然痘により人口も減少していた

天然痘がインカ帝国で猛威をふるっていた
出典:Wikipedia

インカ帝国の領民はスペイン人が持ち込んだ伝染病(風疹・おたふく風邪など)が猛威を古い、特に天然痘の流行が何百万人という死者を出したといわれています。

天然痘の被害は甚大で、皇帝ワイナ・カパックと長男ニナン・クヨチが天然痘で急死しました。その後後継者争いの内乱が起こり、鎮圧されるもののインカ帝国は弱体化し極めつけにスペイン人が侵略に来たためにすぐに滅びてしまったのです。

インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロとは

フランシスコ・ピサロ

インカ帝国を滅ぼしたスペイン軍の指揮をとっていたのがフランシスコ・ピサロです。軍人であり冒険家であるピサロは、1531年に180人の兵と37頭の馬をつれてペルーに侵攻。

1532年にカハマルカでインカ帝国の皇帝アタワルパを生け捕りにし、アタワルパの身代金として莫大な貴金属を手にしますが、1533年7月26日アタワルパを処刑してしまいました。

1533年11月、ピサロは首都クスコに入城しましたが、クスコの領有権をめぐって仲間のディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、スペイン人同士の内戦が始まります。1538年にピサロが勝利したものの、1541年6月26日、リマでアルマグロの遺児一派に暗殺されました。

インカ帝国最後の皇帝「ワタアルパ」とはどんな人?

ワタアルパ

インカ帝国の実質上、最後の皇帝は第13代アタワルパです。父は11代皇帝ワイナ・カパック亡きあと、異母兄で12代皇帝のワスカルを破り即位しました。

アタワルパはスペインの駐留を拒否したため捕えれ、身代金として金銀を払ったにも関わらず、ピサロたちによって1533年に処刑されてしまいました。

インカ帝国にはもう一人、最後の皇帝と呼ばれるトゥパク・アマルがいます。トゥパク・アマルは、スペインに抵抗を続けていた亡命政権「ビルカバンバのインカ帝国」によって皇帝に擁立されました。トゥパク・アマルの父マンコ・インカは、最後の皇帝13代アタワルパの兄弟でした。

1572年、スペイン人がインカ帝国の残党の征服に乗り出したことでトゥパク・アマルは捕らえられ、激しい拷問の末処刑されました。

トゥパク・アマルが処刑台に登ると、先住民の群衆が悲しみの叫び声を挙げて泣き、群衆に対しケチュア語で話し始めたトゥパク・アマルは、死をも恐れない皇帝らしい毅然とした立派な姿であったと伝えれています。

1 2

コメントを残す