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インカ帝国とはどんな国だった?【成立から滅亡、皇帝や秘められた謎まで】

インカ帝国は、13世紀から16世紀にかけて栄えた南米一の巨大な帝国です。太陽神の化身と言われる皇帝がインカ帝国を治め、高度な農耕や金属文化がありながらも、16世紀にスペイン人の侵略によりあっという間に滅んでしまいました。

マチュピチュへの玄関口 インカ帝国の首都として栄えたクスコ

インカ帝国は、精巧なつくりの用水路、地震でも壊れない石造りの建物、天文観測所など高度な技術をもった文明でしたが、文字を持たなかったためインカ帝国の詳細な記録が残っておらず、どのような国であったのかは多くの謎に包まれたままとなっています。

この記事では、以下のようにインカ帝国の成立から滅びるまでの過程、そして現在の様子を紹介いたします。

  • インカ帝国は誰がつくりどのようにして成立させたのか
  • 経済や政治、宗教などどのような国だったのか
  • 人々の暮らしや、現在の末裔の様子
  • 秘められた謎や日本人との関係性

インカの魅力にはまり、インカ帝国に関するあらゆる本を読み漁った私がご紹介します。

インカ帝国とはどのような国だった?

インカ帝国の民の魂

インカ帝国とは?どんな国?

正式な国名タワチン・ユウス
成立年1200年ころ
滅びた年1533年
位置ペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部
面積100平方㎞
人口1600万人

インカ帝国の国名は「4つの地方からなる国土」という意味を持ち、インカとはクスコに住んでいた部族の名称で、公用語はケチュア語です。

13世紀にインカ帝国の前身となるクスコ王国が成立し、第9代皇帝パチャクティの時代に国としての形が成立しました。

第11代皇帝ワイナ=カパックはさらに領土を拡張し、インカ帝国は南米一の巨大国家となりましたが、16世紀、スペイン人の侵略によって滅びまました。

インカ帝国の遺跡マチュピチュや太陽神殿、緻密に積まれた石垣など高度な技術を持ち、繁栄していたことが分かります。

しかし文字を持たなかったためインカの人々が残した記録がなく、どのような国でどのような生活をしていたのか、大部分が謎に包まれたままとなっています。インカ帝国の首都クスコとマチュピチュは世界遺産に登録されています。

インカ帝国はどうやって成立した?日本人が作った?

インカ帝国の謎

インカ帝国は、クスコ周辺に住むケチュア族の中のインカ族が作った国と言われ、インカの神話では、初代皇帝マンコ・カパックは太陽神インティの息子と考えられています。

金の杖を与えられたカパックが「杖が沈む土地に国を築くように」と導きを受けた後、クスコ周辺に杖が沈んだため、インカ帝国の前身となるクスコ王国を作ったと言われてます。

ところが、「インカ帝国を作ったのは実は日本人だった」という説があるのです。インカの暮らしを守り続けるマティンガ村には「太平洋の彼方からやってきた神が王国を築いた後、『いつか私は必ず戻ってくる』と言い残し再び海へ旅立った。」という話が伝わっています。

さらに、元駐日ペルー大使フランシスコ・ロワイサ氏の著書には、「インカ帝国を作ったのは日本人で、チチカカ湖は「父」「母」の意味である。」という記述があります。

科学的には、日本などに多い遺伝子型ハプログループと同じ遺伝子を持つ人が南米の沿岸部にだけ存在するという論文が2013年に発表されました。

当時日本人が太平洋を航海し、南米に渡ることが可能だったのかというと、「黒潮の大暖流が南米へ向かっているため、船を漕がなくても黒潮に乗れば南米に到着することは可能」という意見があることから、当時の日本人が海を渡り南米に到達することは可能だったようです。

インカ帝国をつくったのは日本人だったという話は嘘みたいな話ではありますが、実際にペルーでも古くから言い伝えられている地域もあり、信じている人々もいるようです。

インカ帝国の政治や経済は?

文字を持たなかったインカ帝国で記録用に使われた結び目つきの紐

インカ帝国は君主制で、一族による世襲制の形をとっていました。皇帝のことを「サパ・インカ」と言い、皇帝は太陽の化身で、インカ帝国は「太陽の子が統治する太陽の国」と考えられていました。皇帝を支える官僚たちは神官でもあり、インカ帝国では、政治と宗教が一体となっていました。

大部分の国民は農民ですが、同時に賦役や兵役を担っていました。農民は「アイユウ」という母系の氏族集団を形成してトウモロコシやジャガイモの栽培をし、リャマやアルパカなどの牧畜、道路の建設、灌漑、鉱山などの事業は公営となっていました。全ての土地はインカ帝国と太陽神の土地とみさなれ、土地の所有は認められていませんでした。

国民は、農作物や毛織物などの生産物を治める形で税をおさめ、集められた生産物は寡婦、老人、孤児などに分配されたり、飢饉や災害などの非常時に再分配されました。

文字を持たないインカ帝国では、人口や産業、税額や取引額はキープ(結縄)によって記録されました。キープには様々な種類の紐が使われていて、結び目は数を表し、十進法が使われていました。

インカ帝国のミイラと宗教

インカ帝国展 – マチュピチュ発見100年

1999年、ミイラが発見される

1999年、アルゼンチン北部のジュジャイジャコ火山の山頂でインカ帝国時代の3体のミイラが発見されました。そのうち1体は13歳~15歳くらいの少女のミイラで、凍った状態で発見されたため保存状態が良く、安らかに眠っているかのような表情が特徴です。

外傷はほとんど無く、肌もふっくらしていて、500年もの間放置されていたにもかかわらず心臓や肺には血液が残っていました。

発見されたいずれのミイラも子どものミイラで、古代インカの生贄の儀式「カパコチャ」で生き埋めにされと考えられています。

インカ帝国では「人間の子どもがもっとも純粋である」と考えられていたため、子供が生贄にされることが多かったようです。生贄となることは名誉であり、村を守る「神」のような存在になると信じられていました。

宗教は太陽信仰

インカ帝国の宗教では、神は太陽、水、雷など自然の力を有する存在で、これらの神々からの加護を得るための宗教儀式を頻繁におこない、食物、動物、コカの葉などを捧げており、特に自然災害や飢饉などの際には、生贄の儀式がおこなわれていました。

生贄となる子供は、装飾品や上等な衣服を身に着け、豪華な埋葬品とともに「神への供物」として大切に扱われていました。

発見されたミイラの毛髪からコカやアルコールの成分が検出されたことから、選ばれた子供達は生贄となる約1年前からコカの葉やチチャ酒を与えられていたと考えられます。

コカの葉とともにチチャ酒を飲みながら山を登り、死の恐怖を和らげるため、死の直前には意識を失うような配慮がされていたようです。

インカ帝国に秘められた謎とは?

インカ帝国の遺跡マチュピチュの謎がついに解明

インカの民は消えてしまった?

インカ帝国に関して数多くある謎の一つが、インカの民についててです。インカ帝国を作ったケチュア族はどこから来た民族なのか分からず、伝説のみしか残っていません。

また、侵略を免れたインカ帝国の都市マチュピチュですが、ここで暮らしていた人々がどこに消えてしまったのかも分かっていません。

マチュピチュに人々が暮らしたのはわずか100年程と言われています。マチュピチュで暮らしていた人々はスペイン陣の侵略を逃れましたが、その脅威から逃れるために安全なところに移動した、16世紀に流行した天然痘によって大多数が亡くなった、などいくつかの説があるようですが、真相は分かっていません。

謎に包まれたキープの解読方法

また、文字を持たないインカ帝国では、数を記録するためにキープ(結縄)と呼ばれる、様々な色の紐に結び目をつけたものを使っていました。

近年、キープは数だけでなく、インカ帝国の歴史の記録や手紙としても使われていたことが分かりました。紐の色と結ぶ目の組み合わせは音節または単語にるものではないかと考えられていますが、解読方法はいまだ謎に包まれています。

インカ帝国は文字を持たなかったため、インカの民が残した記録がないく、どのような国だったのか、どのような生活をしていたのか多くは謎に包まれています。

スペインによる侵略の際に多くの民が亡くなり、インカ帝国の大部分が破壊されてしまったため、口伝えで残っていたものも消えてしまいました。

インカ帝国はどのように滅びたのか?

フランシスコ・ピサロ

インカ帝国は、第11代皇帝ワイナ・カパックが亡くなって以降、皇位継承を巡って正妻の子ワスカルと側室の子アタワルパが争いました。兄ワスカルを破って皇帝に即位したアタワルパは、ペルーに侵攻してきたピサロ率いるスペインの一行と会談します。

スペインの属国となることを拒否したアタワルパは、征服者ピサロに捕らえられました。身代金として金銀を渡したアタワルパですが、インカ軍の反乱を恐れたピサロによって処刑されてしまいます。皇帝アタワルパの処刑をもって、インカ帝国は滅びました。

征服者ピサロとはどんな人?

インカ帝国を滅ぼしたスペイン軍の指揮をとっていたのがフランシスコ・ピサロです。軍人であり冒険家であるピサロは、1531年に180人の兵と37頭の馬をつれてペルーに侵攻。

1532年にカハマルカでインカ帝国の皇帝アタワルパを生け捕りにし、アタワルパの身代金として莫大な貴金属を手にしますが、1533年7月26日アタワルパを処刑してしまいました。

1533年11月、ピサロは首都クスコに入城しましたが、クスコの領有権をめぐって仲間のディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、スペイン人同士の内戦が始まります。1538年にピサロが勝利したものの、1541年6月26日、リマでアルマグロの遺児一派に暗殺されました。

インカ帝国最後の皇帝「ワタアルパ」とはどんな人?

ワタアルパ

インカ帝国の実質上、最後の皇帝は第13代アタワルパです。父は11代皇帝ワイナ・カパック亡きあと、異母兄で12代皇帝のワスカルを破り即位しました。

アタワルパはスペインの駐留を拒否したため捕えれ、身代金として金銀を払ったにも関わらず、ピサロたちによって1533年に処刑されてしまいました。

インカ帝国にはもう一人、最後の皇帝と呼ばれるトゥパク・アマルがいます。トゥパク・アマルは、スペインに抵抗を続けていた亡命政権「ビルカバンバのインカ帝国」によって皇帝に擁立されました。トゥパク・アマルの父マンコ・インカは、最後の皇帝13代アタワルパの兄弟でした。

1572年、スペイン人がインカ帝国の残党の征服に乗り出したことでトゥパク・アマルは捕らえられ、激しい拷問の末処刑されました。

トゥパク・アマルが処刑台に登ると、先住民の群衆が悲しみの叫び声を挙げて泣き、群衆に対しケチュア語で話し始めたトゥパク・アマルは、死をも恐れない皇帝らしい毅然とした立派な姿であったと伝えれています。

インカ帝国の遺跡

マチュピチュ

マチュピチュ

インカ帝国の都市の一つマチュピチュは、クスコの北西80㎞のところにあり、1911年に探検家のハイラム・ビンガム3世が発見しました。

スペインの征服によってクスコをはじめ、インカ帝国の都市はことごとく破壊されてしまいましたが、マチュピチュはほぼ無傷の状態で残っていました。

マチュピチュは15世紀頃、第9代皇帝パチャクテクによって造られたと言われ、インカ皇帝や貴族の避暑地と考えられています。

しかし、石造りの家々や広場の他、神殿や天文観測所があり、石には蛇やコンドルが彫られ、大きな巨石群もあることから、宗教的な用途に使われた都市なのではないかという説もみられます。

マチュピチュは、精巧な灌漑システム、モルタルを使わない石組など正確な都市計画のもとに作られていますが、アンデスの山の上にどのようにしてこれほどの都市を作ったのか、その技術は謎に包まれています。遺跡からは100体の人骨が発見され、男女の比は同じであったとのことです。

実際にマチュピチュに人が暮らしていた期間は100年ほどと考えられ、人々がどこに行って(消えて)しまったのかは謎に包まれています。マチュピチュは、1983年に世界遺産に登録されました。

クスコ

クスコ

クスコはペルーの南東、標高3,400mにあるインカ帝国の首都で、ケチュア語で「へそ」の意味があります。900年から1200年代まではキルケ人の都市でしたが、1200年代にケチュア族が移住して1533年までインカ帝国の都市となりました。

クスコはインカ皇帝パチャクテクによって建設され、最後は第13代皇帝アタワルパの支配領域となりました。1533年、スペイン人征服者に侵略されると、クスコにある数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿が破壊されました。スペインは、破壊された壁を新都市建設の土台として使用し、教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区を建設しました。

その結果、インカ帝国古来の建築方法とスペインの影響が混ざりあう、重厚な建造物や街並みができあがりました。インカ帝国時代の巨大な石の壁は、石と石の間に「カミソリの刃一枚通さない」と言われ、数多くの遺跡が点在するクスコは1983年、世界遺産に登録されました。

インカ帝国の末裔の現在は?

ケチュア

インカ帝国をつくったケチュア族の末裔たちは南米の各地で暮らしていますが、大多数はペルーに暮らしています。ケチュア族の多くが交通の便が悪い中央アンデス地帯の高地を中心に暮らしていてるので、一般の観光客が訪れることはめったにありません。

現在南米に暮らすケチュア族の人々は、スペインによる植民地支配などの影響を受けて土地を失ったり、人が住みにくい高知へと追いやられてしまった人々です。多くが、農民や労働者、または観光客向けの土産屋などで働いています。

南米3大祭りの一つ「インティライミ祭り」はインカの名残を残したお祭りで、インカ帝国の皇帝が守護神である太陽神インティに捧げる収穫祭を再現しています。

祭りは太陽の神殿の跡であるサントドミンゴ教会からカテドラル前を通り、サクサイワマンまでの道を、当時の衣装を着た優雅で華やかなインカ皇帝の隊列が進んでいきます。

まるで時代絵巻のように美しいお祭りは、西日が差すクスコの街で皇帝がリャマの心臓を太陽にかざすところでクライマックスを迎えます。

祭りの日はインカ時代の農民の休息の日にあたり、街中が大騒ぎをします。前日のパレードから夜遅くまで飲み、歌い、踊る、クスコの街が盛り上げる重要なお祭りなのです。

インカ帝国の関連作品

インカ帝国に関する書籍

インカ帝国:太陽と黄金の民族 (「知の再発見」双書)

インカ帝国の入門書としておすすめです。写真や図、イラストが多く、巻末には、当時の人々の残した文章も紹介されていてわかりやすく紹介されています。ペルーに旅行に行く前に読まれると旅行が楽しくなりそうです。

インカ帝国探検記―ある文化の滅亡の歴史 (中公文庫 M 16)

学者の書いた歴史書というより、物語を読んでいるような一冊です。インカ帝国の歴史がよりリアルに伝わり、感情移入してしまうかもしてません。スペイン人征服者ピサロを残酷な征服者として描いていないところも一つの特徴です。

インカの末裔たち (NHKブックス)

インカ帝国の末裔たちの現在の様子やその暮らしをドキュメンタリーとしてまとめた一冊です。アンデスの伝統的な農法や高地での暮らしが紹介されています。今も村で語り伝えられるインカの神話など、とても興味深く、貴重な資料となる一冊です。

インカ帝国に関する動画

巨大帝国インカの遺跡を巡る=魅力あふれる世界遺産に絶景の数々

インカ帝国の遺跡や末裔、文化などを次々とダイジェストのように紹介しています。解説もついているのでとてもわかりやすく、インカ帝国と現在のペルーについて知ることができます。

【衝撃】500年間凍っていた少女を解剖!インカ帝国の驚きの実態が明らかに!

1999年に発見された子供のミイラの一つ、最年長の少女のミイラについての解説動画です。生贄となったとされる少女のミイラから分かった様々事実を解説しています。

コンドルは飛んでゆく

コンドルはとんでいくは、アンデスのフォルクローレの代表的な曲です。ケーナ、チャランゴ、サンポーニャなどの美しい音色とともに、インカ帝国の遺跡とペルーの街並みが紹介されています。インカ帝国の皇帝の末裔と名乗るコンドル・カンキの話も紹介されています。

インカ帝国に関するまとめ

インカ帝国について、インカ帝国の成立からスペインに滅ぼされるまで、そして、インカ帝国の末裔について、ご紹介しました。

インカ帝国は、建築や天文学など高度な知識と技術をもった文明でしたが、スペイン人の侵略によってその多くが破壊され、当時の様子がわかるものがほとんど残っていません。

これからさらなる研究が進み、謎に包まれているインカ帝国の詳細が分かる日が来るのをを楽しみしたいと思います。この記事がきっかけで、より多くの人がインカ帝国に興味を持って頂けると嬉しいです。

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