インカ帝国とはどんな国?成立から滅亡理由、皇帝、ミイラとの関係も紹介

インカ帝国に秘められた謎とは?

インカ帝国の遺跡マチュピチュの謎がついに解明

インカの民は消えてしまった?

インカ帝国に関して数多くある謎の一つが、インカの民についててです。インカ帝国を作ったケチュア族はどこから来た民族なのか分からず、伝説のみしか残っていません。

また、侵略を免れたインカ帝国の都市マチュピチュですが、ここで暮らしていた人々がどこに消えてしまったのかも分かっていません。

マチュピチュに人々が暮らしたのはわずか100年程と言われています。マチュピチュで暮らしていた人々はスペイン陣の侵略を逃れましたが、その脅威から逃れるために安全なところに移動した、16世紀に流行した天然痘によって大多数が亡くなった、などいくつかの説があるようですが、真相は分かっていません。

謎に包まれたキープの解読方法

また、文字を持たないインカ帝国では、数を記録するためにキープ(結縄)と呼ばれる、様々な色の紐に結び目をつけたものを使っていました。

近年、キープは数だけでなく、インカ帝国の歴史の記録や手紙としても使われていたことが分かりました。紐の色と結ぶ目の組み合わせは音節または単語にるものではないかと考えられていますが、解読方法はいまだ謎に包まれています。

インカ帝国は文字を持たなかったため、インカの民が残した記録がないく、どのような国だったのか、どのような生活をしていたのか多くは謎に包まれています。

スペインによる侵略の際に多くの民が亡くなり、インカ帝国の大部分が破壊されてしまったため、口伝えで残っていたものも消えてしまいました。

現在の「社会主義」に通じる経済

インカ帝国の農業風景
出典:Wikipedia

インカでは「土地・家畜・鉱山」など全ての生産手段が共同体の持ち物であり、貴族すら私有することが許されず現在の「社会主義」のような経済でした。

国の土地は皇帝・太陽神・人民と分割し、皇帝と太陽神のために労働させ生産物を徴収していました。そして生産物を再分配されており、老人や孤児を支援したり飢饉の時に放出する仕組みまで整えられていたといいます。

紙幣や市場が無いものの最大規模の国となった?

インカ帝国はお金を使用していなかった

インカ帝国は何故か紙幣や市場を用いていなかったといいます。そのため基本的に貿易は存在せず、商取引も行われていなかったと考えられています。理由は流通活動など経済は一切国が管理し、食料・道具・衣服などの生活必需品を全て国の倉庫から出され貨幣を使用する必要が無かったのです。

では貨幣がないのにどうやって税を徴収したのか?という疑問が出てきますが、税をお金で支払う代わりに国のために働くことを要求されたと考えられています。つまり国民は国の求める労働力を提供し、国は日常生活に必要なものを無償で提供という形式を取っていたのです。

過酷なアンデス山脈を生き抜くために独自の文化を発展させていた
出典:Wikipedia

そしてインカの土地はそもそも生活を営むのが困難な地であり、飢餓対策が最優先事項でした。そのため農業が突出して発達し、市場経済ではなく「食料生産と土地管理」を中央集権的に行い「人々を飢えさせないようにすることにより、生活を豊かにすること」を提供することで文化的にも経済的にも発達し、16世紀初頭頃にはアメリカ最大の帝国となっていたのです。

インカ帝国はどのように滅びたのか?

インカ帝国は、第11代皇帝ワイナ・カパックが亡くなって以降、皇位継承を巡って正妻の子ワスカルと側室の子アタワルパが争いました。兄ワスカルを破って皇帝に即位したアタワルパは、ペルーに侵攻してきたピサロ率いるスペインの一行と会談します。

スペインの属国となることを拒否したアタワルパは、征服者ピサロに捕らえられました。身代金として金銀を渡したアタワルパですが、インカ軍の反乱を恐れたピサロによって処刑されてしまいます。皇帝アタワルパの処刑をもって、インカ帝国は滅びました。

インカ帝国内で起きていた内乱

ワスカル
出典:Wikipedia

スペインがインカ帝国に侵略に来た時、第11代皇帝ワイナ・カパックが死去したことにより、皇帝の子供のワスカルとアタワルパの間で内戦が起こっていたといいます。内戦の理由は後継者争いだと推定されています。

ワスカルは正妻の息子でしたが、アタワルパは側室の子であったために、ワスカルはアタワルパに忠誠を要求。しかしアタワルパが拒否したために内戦へと発展しました。

天然痘により人口も減少していた

天然痘がインカ帝国で猛威をふるっていた
出典:Wikipedia

インカ帝国の領民はスペイン人が持ち込んだ伝染病(風疹・おたふく風邪など)が猛威を古い、特に天然痘の流行が何百万人という死者を出したといわれています。

天然痘の被害は甚大で、皇帝ワイナ・カパックと長男ニナン・クヨチが天然痘で急死しました。その後後継者争いの内乱が起こり、鎮圧されるもののインカ帝国は弱体化し極めつけにスペイン人が侵略に来たためにすぐに滅びてしまったのです。

インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロとは

フランシスコ・ピサロ

インカ帝国を滅ぼしたスペイン軍の指揮をとっていたのがフランシスコ・ピサロです。軍人であり冒険家であるピサロは、1531年に180人の兵と37頭の馬をつれてペルーに侵攻。

1532年にカハマルカでインカ帝国の皇帝アタワルパを生け捕りにし、アタワルパの身代金として莫大な貴金属を手にしますが、1533年7月26日アタワルパを処刑してしまいました。

1533年11月、ピサロは首都クスコに入城しましたが、クスコの領有権をめぐって仲間のディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、スペイン人同士の内戦が始まります。1538年にピサロが勝利したものの、1541年6月26日、リマでアルマグロの遺児一派に暗殺されました。

インカ帝国最後の皇帝「ワタアルパ」とはどんな人?

ワタアルパ

インカ帝国の実質上、最後の皇帝は第13代アタワルパです。父は11代皇帝ワイナ・カパック亡きあと、異母兄で12代皇帝のワスカルを破り即位しました。

アタワルパはスペインの駐留を拒否したため捕えれ、身代金として金銀を払ったにも関わらず、ピサロたちによって1533年に処刑されてしまいました。

インカ帝国にはもう一人、最後の皇帝と呼ばれるトゥパク・アマルがいます。トゥパク・アマルは、スペインに抵抗を続けていた亡命政権「ビルカバンバのインカ帝国」によって皇帝に擁立されました。トゥパク・アマルの父マンコ・インカは、最後の皇帝13代アタワルパの兄弟でした。

1572年、スペイン人がインカ帝国の残党の征服に乗り出したことでトゥパク・アマルは捕らえられ、激しい拷問の末処刑されました。

トゥパク・アマルが処刑台に登ると、先住民の群衆が悲しみの叫び声を挙げて泣き、群衆に対しケチュア語で話し始めたトゥパク・アマルは、死をも恐れない皇帝らしい毅然とした立派な姿であったと伝えれています。

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