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萩原朔太郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作品、子孫、死因についても紹介】

萩原朔太郎とは「日本近代詩の父」と呼ばれる詩人です。主に 大正時代に活躍した文豪の一人で、同時期に活躍した詩人には石川啄木、中原中也、高村光太郎などがおります。その中でも、萩原の詩は「口語自由詩」を用いた、美しい情景を描きつつも、どこか暗い世界観を持っております。

萩原朔太郎

これには、朔太郎の波乱万丈な生涯が関係しており、その暗く憂鬱な世界観を描くことで、自己を表現しておりました。また、朔太郎の功績として、それまでの伝統的な定型詩をやめ、日常語を使用した口語自由詩を用いた代表作「月に吠える」を出版したことにより、日本に自由詩が定着しました。

また、批評家としての一面を持ち、アフォリズム集なども残しております。アフォリズムとは、「格言」という意味で、短文で時代や思想などについての自身の思考などを表したものです。萩原は近代の生き方などについても詩人らしく、ピリッとした一言で表しております。

この記事では、萩原朔太郎の生涯やその作品、エピソードについて、大学時代に萩原朔太郎の孤独な世界観に惹かれ、朔太郎の詩集を読破した筆者がご紹介いたします。

目次

萩原朔太郎とはどんな人物か

名前萩原朔太郎
誕生日1886年11月1日
没日1942年5月11日
生地日本・群馬県東群馬郡北曲輪町(現・前橋市千代田町一丁目)
没地日本・東京府東京市世田谷区代田
配偶者萩原稲子
埋葬場所前橋市榎町政淳寺

萩原朔太郎の生涯をハイライト

萩原朔太郎

萩原朔太郎は群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれました。父は開業医であり、いわゆるエリートの家庭の出身です。ですが、群馬県師範学校附属小学校の頃から、既に神経質な性格で、ハーモニカなどこの時期から孤独を好んでおりました。

あまり学業は好きはなかったらしく、ろくに授業を受けず、中学を落第。その後も落第を繰り返し、結局、学業を挫折。1913年に北原白秋の雑誌「朱欒(ざんぼあ)」に詩を5編発表し、詩人としてデビューします。この時期に、親友である詩人「室生犀星」と出会い、2人雑誌等を出版するようになります。

そして、1917年に処女作「月に吠える」を発表し、森鴎外から絶賛されるなど高い評価を得ました。その後、萩原稲子と見合い結婚し、2人の子供を授かるも、1929年に離婚。同時に家庭破綻を経験し、生活が荒んでしまいます。

1931年からは古典詩を解説するようになり、「氷島」では漢文調の口語体を用いた詩を発表するようになりました。1941年に風邪をこじらせ病床に就き、そのまま1942年5月11日に世田谷の自宅で肺炎のため逝去しました。

萩原朔太郎の家族構成

萩原朔太郎記念館

萩原朔太郎の父親である萩原密蔵は開業医であり、東京大学の医学部を首席で卒業したエリートです。下には妹が4人おり、朔太郎は4人を可愛がっておりました。この4人の妹は相当な美人として知られ、4番目の妹であるアイは、朔太郎の友人であった三好達治と結婚するも、すぐに離婚してしまいました。

萩原葉子

1920年に萩原朔太郎と稲子の間に誕生した長女・萩原葉子は、作家として活躍する傍ら、ダンサーとしての一面も持ち合わせております。中でも有名なのは、上記のトピックにあったアイと三好達治の関係性を綴った「天上の花」という作品で、三好の暴力的な一面などが描かれております。

萩原朔美

この葉子の息子である萩原朔美は、劇作家・寺山修司の演劇実験室「天井屋敷」に参加。丸山明宏(現・美輪明宏)主演の舞台「毛皮のマリー」で美少年役を演じ、話題となりました。その後は演出家として様々な舞台を演出し、現在は前橋文学館の館長を務めております。

萩原朔太郎の詩を始めたきっかけ

ソライロノハナ

朔太郎が詩を始めたきっかけとして、影響を受けたのが与謝野晶子の「みだれ髪」です。朔太郎は自筆歌集「ソライロノハナ」にて「鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった」と自叙伝にて記述しています。

その後、従兄である栄次から短歌の作法を習い、与謝野鉄幹が主宰する「明星」や石川啄木の「新詩社」の同人活動に参加します。本格的に詩の世界へと移行したのは、北原白秋が主宰する雑誌「朱欒」にて5編の詩を発表してからです。

萩原朔太郎の親友「室生犀星」との関係性は?

朔太郎と犀星の企画展

朔太郎の二魂一體の友である室生犀星。2人は、北原白秋主宰の雑誌「朱欒」をきっかけに、文通から友人となりました。次第に二人で遊ぶようになり、朔太郎は白秋へ「あなたに逢つてから二度同性の恋といふものを経験しました、」と、友人を超えた恋愛感情を抱いていたようです。

また、朔太郎の地元である前橋に犀星が訪れた際、当時金のなかった犀星の下宿代を朔太郎が支払ったという逸話があり、この他にも東京で飲みに行った際は必ず朔太郎がおごっていたそうです。また、結婚についての相談なども犀星に書簡で相談しており、朔太郎にとって、頼れる数少ない友人でした。

萩原朔太郎が影響を与えた人物

三好達治

口語自由詩を確立した朔太郎の影響を受けた人物は多く、代表的な人物として「宮沢賢治」や「西脇順三郎」などが挙げられます。中でも、「測量船」を執筆した詩人の「三好達治」は萩原の家に何度も訪れ、よく相談に乗るほどの間柄だったそうです。

江戸川乱歩

また、ミステリファンであった萩原は「探偵小説に就いて」というエッセイにて、江戸川乱歩の「人間椅子」を称賛し、のちに乱歩と直接の親交を結びました。2人は仲が良く、浅草で当時流行していた回転木馬(メリーゴーランド)に乗ったエピソードなどが乱歩のエッセイ「探偵小説四十年」内に記されております。

 萩原朔太郎の功績

功績1「口語自由詩を確立し「日本近代詩の父」に」

百人一首

それまで日本に定着していた「詩」の形式は、俳句や短歌といった五・七・五など決まったリズムで作る定型詩と、島崎藤村などが用いた文語体で書かれた文語詩などが一般的でした。そこへ、明治時代に詩人・川路柳虹の口語詩「塵溜」により、自由詩が誕生。その後、北原白秋や三木露風に受け継がれ、萩原が「月に吠える」で「口語自由詩」を確立しました。

自由詩について朔太郎は「自由詩のリズムに以て」という随筆内で「拍数本位ではなく、感情・旋律を優先したものが自由詩である」といった旨を述べております。これ以降、「口語自由詩」という表現が定着し、現在の「詩」は口語自由詩を差す言葉になり、朔太郎は「日本近代詩」の父と呼ばれるようになりました。

功績2「現代詩を象徴する賞『萩原朔太郎賞』」

萩原朔太郎賞

萩原朔太郎賞は1993年に、前橋市市制施行100周年を記念し、前橋出身である朔太郎の名前を冠した文学賞です。主に、現代詩を対象とした文学賞で、初年度である93年度には谷川俊太郎の「世間知ラズ」が受賞しております。

これまで、17名が受賞しており、昨年受賞した和合亮一の「QQQ」は東日本大震災で発生した原発事故後の福島に生きる人々の抱える問いを詩で綴った作品です。このような、現代詩を表彰する賞として、朔太郎の名前は現代の詩人達に受け継がれております。

萩原朔太郎の名言

どんな真面目な仕事も、遊戯に熱してゐる時ほどには、人を真面目にし得ない。

仕事に就いての警句です。仕事をしている時よりも趣味に熱中している方が人は真剣になる、という真理の言葉。朔太郎自身、定職に就かずに暮らしていたので、仕事に対するコンプレックス的な意味合いも込められていると思われます。

民衆の正義とは、富豪や、資産家や、貴族や、その他の幸福なものに対して、利己的な嫉妬を感ずることである。

民意についての名言です。富豪などの成功者へ嫉妬し、自分より幸せな者へ妬みなどをぶつけることが正義であると思い込んでる、という朔太郎なりの民意への解釈。SNSなどで、芸能人に対して必要以上に叩く心理は、既に朔太郎の時代に存在していたのですね。

幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である。

成功体験が多い人は物事をポジティブに考えられるので幸福で、その反対は不幸である、という意味の言葉です。朔太郎の生涯は果たしてどちらだったのでしょうか。

萩原朔太郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「マンドリン奏者としても有名だった」

マンドリン

朔太郎は慶應義塾大学予科了組に入学中に、音楽教育家であった比留間賢八にマンドリンを習っていたそうです。比留間は他にも、里見弴や徳川義親、藤田嗣治といった様々な人物にマンドリンやクラシックギターを教えた人物として有名です。

地元である前橋市では演奏会を開催したこともあり、この音楽的感性がのちに「口語自由詩」の源流になったのではないかと言われております。また、作曲もしていた形跡も残されていて、前橋文学館には直筆の楽譜が所蔵されております。

都市伝説・武勇伝2「実は多趣味だった」

朔太郎はマンドリンのほかに様々な趣味を持っており、そのうちの一つが写真です。16歳ごろからカメラを購入し、様々な写真を撮影しておりました。その写真は、1979年に出版された「萩原朔太郎写真集」に収録されております。

萩原朔太郎写真集

また、手品にも興味を持っていて長女・葉子のエッセイ「父・萩原朔太郎」には、書斎に子供の玩具のような手品道具が入っていたと回想されています。また、晩年の頃には「アマチュア・マジシャン・クラブ」へ入会し、入会できたことをかなり喜んでいたそうです。

都市伝説・武勇伝3「室生との中央亭騒動事件」

室生犀星

朔太郎の逸話の中でも欠かせないのが、親友・室生犀星との中央亭騒動事件です。ある時、「日本詩集」という雑誌の出版を記念したパーティーが「中央亭」という店で行われ、朔太郎が酒に酔い勝手に演説したところへ、岡本潤という詩人が朔太郎に近寄って来たそうです。これを、暴行されていると勘違いした犀星は椅子を振り回し、朔太郎を助け出しました。

この事件のパーティーに同席していた芥川龍之介からは後日、「よくやった」と称賛されたそうです。この二人は初対面の時から喧嘩など、そりが合わないことも多々あったのですが、お互いを思いやる気持ちは人一倍強かったと言われています。

萩原朔太郎の簡単年表

1886年 - 0歳
群馬県東群馬郡北曲輪町にて生まれる

萩原朔太郎は群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれました。父・密蔵は東京大学医学部を首席で卒業した開業医で、朔太郎も将来を期待されておりました。しかし、幼少期に父親に死体の解剖を見せつけられたトラウマから、医学の道へは進みませんでした。

1892年 - 6歳
従兄の萩原栄次が来住し、影響を受ける

萩原家に朔太郎より8歳上の従兄の栄次が来住してきました。朔太郎は栄次の事を兄として慕い、栄次から短歌など文学的な影響を受けました。

1893年 - 7歳
群馬県尋常師範学校附属小学校入学

群馬県尋常師範学校附属小学校(現・群馬大学教育学部付属小学校)に入学。しかし、ハーモニカや手風琴など、この頃から孤独を好んでおりました。

1901年 - 15歳
与謝野晶子「みだれ髪」に影響を受ける

与謝野晶子が出版した詩集「みだれ髪」を読み、その世界観に魅了されていきます。そして、この時期に栄次から短歌作法を学び、翌年から短歌を作り始めます。

1902年 - 16歳
「坂東太郎」にて短歌5首を発表
この年の12月に中学校校友会誌であった「坂東太郎」に短歌を5首発表します。この短歌には与謝野晶子の影響が見られ、その後、「文庫」「明星」「スバル」「朱欒」と数年に渡り文芸誌に手短歌を発表します。

1913年 - 27歳
北原白秋の雑誌「朱欒」に5編の詩を発表

国民的詩人こと北原白秋が刊行していた雑誌「朱欒」に「みちゆき」など、5編の詩を発表し、ココから本格的な詩人として活動を始めます。また、室生犀星と知り合ったのもこの時期からです。

1914年 - 28歳
室生犀星らと共に「人魚詩社」を設立

上記の「朱欒」をきっかけに犀星と知り合った萩原は、犀星と同郷の詩人である山村暮鳥を迎え詩、宗教、音楽の研究目的とした同人社「人魚詩社」を結成します。

1916年
朔太郎主宰「ゴンドラ洋楽会」第一回演奏会を開催

この年から1925年まで定期的に朔太郎が主宰の「ゴンドラ洋楽会」(のちに上毛マンドリン倶楽部へと改名)の演奏会が開かれておりました。演奏会の中には、朔太郎が作曲した楽曲もありました。

1917年 - 31歳
処女作「月に吠える」を刊行
それまで、白秋、犀星といった周辺詩人から影響を受けていた朔太郎ですが、この「月に吠える」を出版したことにより、自身の詩の形式を確立することとなりました。

1919年
上田稲子と結婚
稲子は金沢藩の家来という家柄に生まれた人物で、朔太郎と結婚し2人の子供を儲けました。

1923年 - 37歳
詩集「青猫」を刊行
「月に吠える」から6年後、第2作目となる詩集「青猫」を刊行しました。この作品について、朔太郎は序文にて「内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。」と記しており、古い作品を発表するのは恥ずかしさと苛立ちを感じているという旨を記しています。

1925年 - 39歳
「純情小曲集」を刊行
この年に妻子を伴って上京し、下田端へと転居しました。このことについて、朔太郎は「そこで偶然にもこの詩集が、私の出郷の記念として、意味深く出版されることになつた。」と、純情小曲集の序文に記しております。

1929年
稲子と離婚
2人の子供を儲けたものの、稲子は朔太郎の母であるケイや妹たちから攻撃され続けており、疎外されておりました。しかし、朔太郎はこれを止めることなく、ただ傍観するだけ。最終的には18歳の画学生と駆け落ちし、そのまま離婚となりました。

1934年 - 48歳
明治大学文芸科講師に就任

詩集「氷島」を出版し、同年に明治大学文芸科の講師として詩の講義を担当するようになりました。

1938年 - 52歳
エッセイ集「日本への回帰」を出版

1936年ごろから、講演会や文芸誌への詩の掲載などが100点を超えるほど、もっとも活動が盛んな時期となりました。その中で出版されたエッセイ集「日本への回帰」では、近代化が進む中で、未だに日本独自の伝統へ固執することへの孤独を書き表しております。

1942年 - 55歳
急性肺炎のため自宅にて逝去
1941年の9月ごろから風邪をこじらせ、病床に就き、1942年の4月末には明治大学の講師を辞任。そして、同年の5月11日に急性肺炎にて世田谷区内の自宅で逝去しました。

萩原朔太郎の年表

1886年 – 0歳「群馬県東群馬郡北曲輪町にて生まれる」

前橋文学館と萩原朔太郎の銅像

開業医の息子として生まれる

萩原朔太郎は1886年11月1日に群馬県東群馬郡北曲輪町(現・前橋市千代田町一丁目)にて生まれました。父親である密蔵は東京大学医学部を首席で卒業したエリートで、朔太郎もその後を継ぐことを期待されておりました。

しかし、幼少期の頃に、密蔵が死体を解剖しているところに遭遇してしまいます。密蔵は朔太郎に解剖した臓器などを見せつけ、逐一説明をしたそうです。このことが朔太郎にとって強烈な印象を与え、長年にわたり、孤独や憂鬱などを抱えるきっかけとなりました。

従兄・栄次の影響

若き日の朔太郎

6歳ごろに大阪から従兄である萩原栄次が前橋の萩原家へと来住します。栄次は朔太郎より7歳上の兄のような存在で、栄次の事をよく慕っておりました。栄次も後年、息子たちに朔太郎や妹の若子のことは「大事なお友達」と語っていたそうです。

栄次からは様々な影響を受け、中でも短歌の作法は栄次の影響が深くかかわっていると言われております。「月に吠える」が出版されたときも、「従兄・萩原栄次に捧ぐ」と記されたぐらい深いかかわりを持った従兄でした。この栄次と朔太郎の書簡でのやり取りが記載された「若き日の朔太郎」という書籍があり、この中に少年時代の朔太郎について記されております。

1902年 – 16歳「「坂東太郎」に短歌5首を発表」

落第続きの学生時代

群馬県師範学校附属小学校卒業後、旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)へ入学します。しかし、この頃についてエッセイ集「わが人生観」には、学校へ行くと言いながら郊外の野原で寝転んだり、授業中は窓から空を見上げたりと、あまり学業に興味がなかったようです。

その結果、中学を落第。その後も熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校など入退学を繰り返し、第六高の教授からは父・密蔵へ「朔太郎の学業に将来の望みなし」と書簡で書かれたほどでした。ちなみに、慶応大学へも入退学したのですが、この時に音楽教育家であった比留間賢八からマンドリンを習いました。

影響を受けた「みだれ髪」

みだれ髪

「みだれ髪」は1901年に与謝野晶子が出版した処女作の詩集です。主に晶子の想い人である、与謝野鉄幹への強い恋愛感情の詩が多く掲載されております。朔太郎は14歳の時にこの作品を読み、「鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった」と自筆歌集「ソライロノハナ」の「自叙伝」に記しております。

自叙伝では「芸術が私の生活を支配していくようになってしまった」と書いてる通りに心酔したようで、この頃の短歌は女性の心を詠ったものが多く存在しております。これがきっかけで、与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」などへ短歌を掲載されるようになります。また、石川啄木らと共に「新詩社」の同人になったのもこの時期です。

1913年 – 27歳「北原白秋の雑誌「朱欒」に5編の詩を発表」

北原白秋

師匠・北原白秋

北原白秋が主宰する雑誌「朱欒」へ「みちゆき」など5編の詩を発表した朔太郎は、詩人として本格的な道を歩み始めます。この「朱欒」に掲載されたとき、白秋から賞賛の言葉をもらいとても嬉しかったと回想しております。

その後、東京へ上京し白秋を訪問するようになると、朔太郎と白秋は一緒に銭湯へ行くような間柄となります。そして、白秋への想いは増していき、白秋へあてた書簡の中に「まって居ます、まって居ます、僕はひとりぼっちだ、」と、乙女のような内容があります。朔太郎にとって、白秋は憧れ以上の存在だったのでしょうね。

親友・室生犀星

雑誌「朱欒」がきっかけで、朔太郎は室生犀星とも知り合うことになります。ですが、お互いの第一印象は最悪で、朔太郎は犀星を「田舎の典型的な文學青年といふ感じがあつた。」と評し、犀星は朔太郎を「何て気障な虫酸の走る男だろう」と評しております。

しかし、交流するにつれ二人の仲は急速に深まっていきます。特に、犀星が金沢へ帰り、朔太郎が犀星の地元である金沢を訪れたときは、上記のこともあり(室生犀星との関係性は?)朔太郎を大事にもてなしたそうです。これに感激した朔太郎は白秋に「室生のことを考へると涙が出ます、」と報告しております。

1917年 – 31歳「処女作「月に吠える」を出版」

月に吠える

「月に吠える」の出版

1916年の秋ごろから「月に吠える」の出版計画が動いておりました。12月ごろから朔太郎は、神奈川県鎌倉市にあった旅館・海月楼に泊まり込み編集作業を行っておりました。現在は、この海月楼は取り壊されてしまい、現存しておりません。

編集には室生犀星と歌人の前田夕暮が手伝い、1917年の1月に出版される予定でした。しかし、朔太郎は上京した時に立ち寄ったビヤホールにて原稿などを紛失してしまいます。のちに、下書きノートが見つかり難を逃れますが、このことはゴシップとして当時の新聞などで記事にされたそうです。

 世間の評判

自費出版のため500部、うち寄贈などが200部のため実数は300部の出版となりました。しかし、「世間を乱す内容である」として、内務省から詩の削除を求められます。このことについて、朔太郎は上毛新聞にて「ああ風俗壊乱の詩とは何ぞ。」と抗議文を掲載しております。

詩の2編を削除し、発売することが出来た「月に吠える」は瞬く間に売り切れてしまいます。その後、長く絶版が続いていたのですが、多数の再販を求める声が朔太郎の元に届き、1922年に白秋の弟が経営したアルス社から再版されました。ちなみに、再販にあたり削除された詩を内務省の許可なく再掲載しました。朔太郎の意地が伺えます。

1923年 – 37歳「詩集「青猫」の刊行」

父親との確執

この「月に吠える」の成功により、朔太郎は父親である密蔵に詩人として認めてもらおうと考えます。そこで、朔太郎は父親に「月に吠える」を読んでもらい、詩人として認めてもらうことで家から出て行こうと計画しました。

しかし、密蔵は読み進めるうちに大声を上げて怒鳴りつけました。暗く「病気」や「死」等の表現を表した文学などの芸術分野を理解することなく、密蔵は詩集を破り捨て、しまいには燃やしてしまったそうです。このことは、朔太郎にとって暗い影を落とし、苦悩と憂鬱を引きずることになります。

「青猫」

青猫

1923年の1月に、第2作目となる詩集「青猫」が出版されました。この青猫の序文に朔太郎は「詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。」と記述しており、孤独感や憂鬱感を晴らすための手段として詩を書いている旨を記しています。

この「青猫」は「月に吠える」と比べて、絶望感の強い詩が多く、この時期、私生活は未だに実家暮らしを続けていた孤独感などの苦悩が垣間見えます。また、付録には「自由詩のリズムに就て」が記載されており、朔太郎なりの「自由詩」の解説がされています。

1925年 – 39歳「妻子を伴って上京」

上田稲子

上田稲子との結婚

1918年に朔太郎は上田稲子と見合い結婚します。この稲子は旧・金沢藩の家来という家柄に生まれた人物で、気の強い人物であったと言われています。朔太郎は稲子との間に2人の子供を儲けますが、結婚生活はあまり順調ではありませんでした。

そのうちの一つに、家族の問題がありました。母親であるケイと、妹たちはこの稲子を嫁として認めず、徹底的に攻撃し続けたそうです。肝心の朔太郎はというと、家族の間をとりなすこともせず、全くの無関心を決め込んでいたそうです。

萩原朔太郎の上京

朔太郎は1925年に妻子を伴って、上京。芥川龍之介や室生犀星らが住んでいた北豊島郡滝野川町田端(現・北区)へと移住しました。この頃、芥川龍之介らと親交を深め、「芥川龍之介の追憶」などで芥川の作品を読んだことを記述しております。

しかし、田端という土地柄が合わなかったのか、翌年には馬込の方へと転居しております。ちなみに、犀星に田端の愚痴を漏らしたところ、犀星は機嫌が悪くなり、「君はどこに居たつて面白くない人間なのだ。」と小言を言われたと、随筆「田端に居た頃」で回想しております。

1929年 – 43歳「稲子との離婚」

文士村と離婚

1927年ごろ、朔太郎が転居した馬込周辺には文学関係者が集まり、「馬込文士村」と呼ばれておりました。この頃に朔太郎は、三好達治、堀辰雄、梶井基次郎といった文豪たちと知り合い、交流を深めていきました。また、白秋や犀星も馬込へと転居してきます。

この時期、ダンスパーティーが流行り出し、朔太郎もそこへ出席するようになりました。稲子も出席するのですが、次第に違う男性と交際を始め、最終的には18歳の画学生と駆け落ちし、2人の子供を残して朔太郎と離婚をします。稲子は後年、落合の方でカフェバー「ワゴン」を開き、そこには尾崎一雄や太宰治といった文豪たちが集ったそうです。

アフォリズム集「虚妄の正義」の刊行

虚妄の正義

1929年にはアフォリズム集「虚妄の正義」を出版します。この「虚妄と正義」では「結婚と女性」「芸術について」「孤独と社交」など7章に渡って、鋭い視点から警句を入れた言葉で近代について考察しております。

中でも有名なのは「死なない蛸」という散文詩で、この詩はのちに「猫町」という詩集にも掲載されます。水族館で飼われている蛸が自らの足を食べ、最終的には胴体すらも食べてしまい、空の水槽の中で見えない何かとして生きている、という作品です。生と死について綴った深い作品です。

1934年 – 48歳「詩集「氷島」刊行」

古典への回帰

1931年ごろから朔太郎は、万葉集から新古今和歌集と知った和歌の解説を綴った「恋愛名歌集」を出版。この頃から、古典へ回帰していく様子が見られます。1933年には世田谷に自宅を構え、晩年は自宅で過ごしておりました。

同年には個人雑誌「生理」を発刊。この雑誌内で朔太郎は、与謝蕪村松尾芭蕉といった古典の俳人たちの俳句について解説しております。1936年にはそれらの解説をまとめた「郷愁の詩人 与謝蕪村」が出版されています。

詩集「氷島」を刊行

氷島

朔太郎の最期の詩集となった「氷島」はそれまで使用した「口語自由詩」ではなく、「文語定型詩」の作品となりました。この作品について、当時は多くの「後退」「退化」など様々な非難を浴びたそうです。

朔太郎は序文に「すべての藝術的意圖と藝術的野心を廢棄し、單に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。」と綴っております。この「氷島」に収録されている作品は、それまでの作品と比べてよりストレートかつ感情的な詩が多く、朔太郎の慟哭にも聞こえるような詩が収録されています。

1936年 – 50歳「「萩原朔太郎集」を刊行」

明治大学文芸科講師に就任

1934年から朔太郎は明治大学の文科部文芸科の講師として教壇に立つことになりました。担当したのは日本文韻研究という科目で、元々は室生犀星が担当しておりました。犀星の代打として引っ張り出された朔太郎は内心、とても緊張したそうです。

「學校教師の話」というエッセイでは「同じ大學の教壇で、室生犀星君がひつくり返つたといふ話をきいたので、よけいに怖いやうな気がして、足がぶるぶるした。」と、初授業の緊張を綴っております。その後、亡くなる直前まで明治大学にて講師を勤めました。

「萩原朔太郎集」を刊行

1936年ごろから朔太郎は各詩誌や新聞・雑誌などでエッセイを発表し、その数は120点ほどで朔太郎の人生の中で最も盛んに活動した時期でもありました。この年の4月に新潮文庫から朔太郎の作品をまとめた「萩原朔太郎集」が刊行されます。

1938年 – 52歳「エッセイ集「日本への回帰」を刊行」

「日本への回帰」を刊行

1938年3月に、朔太郎はエッセイ集「日本への回帰」を刊行しました。この中で朔太郎は、日本主義を強く主張し、「日本的なものへの回帰!」と強く謳っております。この時期、日本では国家総動員法が交付されるなど少しづつ戦争の道へと歩み始めておりました。

この「日本への回帰」を書いた背景には、社会主義、民主的な発想は危険思想とみなされ、弾圧される傾向にあったからこそ、古典へ回帰したのではないかという考察がされております。ちなみに、同時期に犀星も平安朝を題材にした古典作品を発表しております。

日本主義者へ

その後、朔太郎は「南京陥落の日に」という詩を発表し、その中で「わが戰勝を決定してよろしく萬歳を祝ふべし。よろしく萬歳を叫ぶべし。」と、戦勝を祝う内容を綴っております。このことから、朔太郎は日本主義者として一部から非難されることになります。

1942年 – 56歳「肺炎のため自宅にて逝去」

肺炎にて逝去

1941年ごろから風邪をこじらせ、病床に就くことになりました。この時期のエッセイ「病床生活からの一発見」では、自然派文学について理解を深めることが出来たと記されています。その後、1942年4月末で明治大学の講師を退任。5月11日に急性肺炎のため世田谷の自宅で逝去しました。

病床の間は友人に会うことも拒んでいたため、犀星とも会うことはかないませんでした。犀星は、朔太郎へ「供物」という詩を捧げ、その死を追悼しました。この後、犀星は朔太郎など親交のあった詩人たちのエピソードをまとめた「我が愛する詩人の伝記」を出版し、毎日出版文化賞という賞を受賞しました。

萩原朔太郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

月に吠える

萩原朔太郎の処女作であり代表作。自分の内面にある孤独や不安などを詩的世界観に落とし込んだ作品で、幻想的な世界観は口語自由詩ならではの美しさが描かれています。

青猫

第2作目の詩集。もっとも陰鬱な時期に書き記された詩集で、より自分の絶望感などをさらけ出した作品が多く、強烈な作品が多いです。しかし、そこに朔太郎の悲しくも美しい哀愁が漂っている作品でもあります。

月に吠えらんねえ

清塚雪子原作の青年漫画。朔太郎など詩人たちの作品の世界観を擬人化したキャラが登場する作品で、朔太郎の著作物ではありません。ですが、フィクションでありながら、その詩人たちの作品の世界観を知るきっかけとしておススメの作品です。

おすすめの動画

萩原朔太郎 自作朗読

朔太郎が、自作の詩を朗読している音源です。読み方は若干の群馬弁が入っているのですが、詩人の肉声が残っているのは貴重ではないでしょうか。

文豪とアルケミスト 朗読CD 第4弾 萩原朔太郎 試聴

こちらはDMMで提供されてるブラウザゲーム「文豪とアルケミスト」の朗読CDの視聴版です。CDには朔太郎の詩の朗読のほかにも、犀星、白秋と共に朔太郎の詩について語る座談会など、実際の文豪に即した内容を話している作品となっております。

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萩原朔太郎についてのまとめ

萩原朔太郎は、芥川龍之介や太宰治と違い、国語の授業で習ったことのある人は少ない文豪だったのではないでしょうか。しかし、近年では「文豪とアルケミスト」のような、文豪を取り扱ったメディア作品で、知名度が上がった文豪の1人だと思います。

その暗い作品は、初めての人にとっては読みづらいかもしれません。ですが、読み進めていくうちに現代に生きる自分たちと似たような孤独感などを抱えていたのだなと気付かされます。

詩の一つ一つが生きてるかのように、読んでいるとその情景が浮かび上がり、より幻想的な世界へと引き込んでくれる、そういった不思議な魅力を持った詩人だと思います。上記で紹介した逸話以外にも、まだまだ多くの逸話を持っております。

この記事をきっかけに、萩原朔太郎という詩人を知っていただければ嬉しいです。

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