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萩原朔太郎とはどんな人?代表作品は?【性格や子孫、死因まで解説】

萩原朔太郎とは「日本近代詩の父」と呼ばれる詩人です。主に 大正時代に活躍した文豪の一人で、同時期に活躍した詩人には石川啄木、中原中也、高村光太郎などがおります。その中でも、萩原の詩は「口語自由詩」を用いた、美しい情景を描きつつも、どこか暗い世界観を持っております。

萩原朔太郎

これには、朔太郎の波乱万丈な生涯が関係しており、その暗く憂鬱な世界観を描くことで、自己を表現しておりました。また、朔太郎の功績として、それまでの伝統的な定型詩をやめ、日常語を使用した口語自由詩を用いた代表作「月に吠える」を出版したことにより、日本に自由詩が定着しました。

また、批評家としての一面を持ち、アフォリズム集なども残しております。アフォリズムとは、「格言」という意味で、短文で時代や思想などについての自身の思考などを表したものです。萩原は近代の生き方などについても詩人らしく、ピリッとした一言で表しております。

この記事では、萩原朔太郎の生涯やその作品、エピソードについて、大学時代に萩原朔太郎の孤独な世界観に惹かれ、朔太郎の詩集を読破した筆者がご紹介いたします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

萩原朔太郎とは?生涯ダイジェスト

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名前萩原朔太郎
誕生日1886年11月1日
没日1942年5月11日
生地日本・群馬県東群馬郡北曲輪町(現・前橋市千代田町一丁目)
没地日本・東京府東京市世田谷区代田
配偶者萩原稲子
埋葬場所前橋市榎町政淳寺

萩原朔太郎は群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれました。父は開業医であり、いわゆるエリートの家庭の出身です。ですが、群馬県師範学校附属小学校の頃から、既に神経質な性格で、ハーモニカなどこの時期から孤独を好んでおりました。

萩原朔太郎

あまり学業は好きはなかったらしく、ろくに授業を受けず、中学を落第。その後も落第を繰り返し、結局、学業を挫折。1913年に北原白秋の雑誌「朱欒(ざんぼあ)」に詩を5編発表し、詩人としてデビューします。この時期に、親友である詩人「室生犀星」と出会い、2人雑誌等を出版するようになります。

そして、1917年に処女作「月に吠える」を発表し、森鴎外から絶賛されるなど高い評価を得ました。その後、萩原稲子と見合い結婚し、2人の子供を授かるも、1929年に離婚。同時に家庭破綻を経験し、生活が荒んでしまいます。

1931年からは古典詩を解説するようになり、「氷島」では漢文調の口語体を用いた詩を発表するようになりました。1941年に風邪をこじらせ病床に就き、そのまま1942年5月11日に世田谷の自宅で肺炎のため逝去しました。

萩原朔太郎が詩を始めた理由や死因

萩原朔太郎の家族構成

萩原朔太郎記念館
出典:前橋文学館

萩原朔太郎の父親である萩原密蔵は開業医であり、東京大学の医学部を首席で卒業したエリートです。下には妹が4人おり、朔太郎は4人を可愛がっておりました。この4人の妹は相当な美人として知られ、4番目の妹であるアイは、朔太郎の友人であった三好達治と結婚するも、すぐに離婚してしまいました。

萩原葉子

1920年に萩原朔太郎と稲子の間に誕生した長女・萩原葉子は、作家として活躍する傍ら、ダンサーとしての一面も持ち合わせております。中でも有名なのは、上記のトピックにあったアイと三好達治の関係性を綴った「天上の花」という作品で、三好の暴力的な一面などが描かれております。

萩原朔美

この葉子の息子である萩原朔美は、劇作家・寺山修司の演劇実験室「天井屋敷」に参加。丸山明宏(現・美輪明宏)主演の舞台「毛皮のマリー」で美少年役を演じ、話題となりました。その後は演出家として様々な舞台を演出し、現在は前橋文学館の館長を務めております。

萩原朔太郎の詩を始めたきっかけ

ソライロノハナ

朔太郎が詩を始めたきっかけとして、影響を受けたのが与謝野晶子の「みだれ髪」です。朔太郎は自筆歌集「ソライロノハナ」にて「鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった」と自叙伝にて記述しています。

その後、従兄である栄次から短歌の作法を習い、与謝野鉄幹が主宰する「明星」や石川啄木の「新詩社」の同人活動に参加します。本格的に詩の世界へと移行したのは、北原白秋が主宰する雑誌「朱欒」にて5編の詩を発表してからです。

萩原朔太郎の親友「室生犀星」との関係性は?

朔太郎と犀星の企画展

朔太郎の二魂一體の友である室生犀星。2人は、北原白秋主宰の雑誌「朱欒」をきっかけに、文通から友人となりました。次第に二人で遊ぶようになり、朔太郎は白秋へ「あなたに逢つてから二度同性の恋といふものを経験しました、」と、友人を超えた恋愛感情を抱いていたようです。

また、朔太郎の地元である前橋に犀星が訪れた際、当時金のなかった犀星の下宿代を朔太郎が支払ったという逸話があり、この他にも東京で飲みに行った際は必ず朔太郎がおごっていたそうです。また、結婚についての相談なども犀星に書簡で相談しており、朔太郎にとって、頼れる数少ない友人でした。

萩原朔太郎が影響を与えた人物

三好達治

口語自由詩を確立した朔太郎の影響を受けた人物は多く、代表的な人物として「宮沢賢治」や「西脇順三郎」などが挙げられます。中でも、「測量船」を執筆した詩人の「三好達治」は萩原の家に何度も訪れ、よく相談に乗るほどの間柄だったそうです。

江戸川乱歩

また、ミステリファンであった萩原は「探偵小説に就いて」というエッセイにて、江戸川乱歩の「人間椅子」を称賛し、のちに乱歩と直接の親交を結びました。2人は仲が良く、浅草で当時流行していた回転木馬(メリーゴーランド)に乗ったエピソードなどが乱歩のエッセイ「探偵小説四十年」内に記されております。

萩原朔太郎の死因は?

萩原朔太郎は肺炎によって死去しました。

1941年頃から風邪をこじらせ、病床についていましたが、その後の同年の5月11日に急性肺炎急性肺炎で亡くなりました。

病床の間は友人に会うことも拒んでため、友人である犀星とも会わなかったそうです。犀星は、朔太郎へ「供物」という詩を捧げ、その死を追悼しました。

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1 COMMENT

林 健樹 as 山岸外史^_^

“萩原朔太郎”一気に拝読……大変素晴らしく興味深く感無量です……ありがとうございます! 他にも山本五十六ほか興味深い記事多々……山岸外史^_^!
よろしければご参照……
前橋文学館リーディングシアターvol.13
『わたしはまだ踊らない』
https://youtu.be/jTbvpwRyhqY

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