1917年 – 31歳「処女作「月に吠える」を出版」
「月に吠える」の出版
1916年の秋ごろから「月に吠える」の出版計画が動いておりました。12月ごろから朔太郎は、神奈川県鎌倉市にあった旅館・海月楼に泊まり込み編集作業を行っておりました。現在は、この海月楼は取り壊されてしまい、現存しておりません。
編集には室生犀星と歌人の前田夕暮が手伝い、1917年の1月に出版される予定でした。しかし、朔太郎は上京した時に立ち寄ったビヤホールにて原稿などを紛失してしまいます。のちに、下書きノートが見つかり難を逃れますが、このことはゴシップとして当時の新聞などで記事にされたそうです。
世間の評判
自費出版のため500部、うち寄贈などが200部のため実数は300部の出版となりました。しかし、「世間を乱す内容である」として、内務省から詩の削除を求められます。このことについて、朔太郎は上毛新聞にて「ああ風俗壊乱の詩とは何ぞ。」と抗議文を掲載しております。
詩の2編を削除し、発売することが出来た「月に吠える」は瞬く間に売り切れてしまいます。その後、長く絶版が続いていたのですが、多数の再販を求める声が朔太郎の元に届き、1922年に白秋の弟が経営したアルス社から再版されました。ちなみに、再販にあたり削除された詩を内務省の許可なく再掲載しました。朔太郎の意地が伺えます。
1923年 – 37歳「詩集「青猫」の刊行」
父親との確執
この「月に吠える」の成功により、朔太郎は父親である密蔵に詩人として認めてもらおうと考えます。そこで、朔太郎は父親に「月に吠える」を読んでもらい、詩人として認めてもらうことで家から出て行こうと計画しました。
しかし、密蔵は読み進めるうちに大声を上げて怒鳴りつけました。暗く「病気」や「死」等の表現を表した文学などの芸術分野を理解することなく、密蔵は詩集を破り捨て、しまいには燃やしてしまったそうです。このことは、朔太郎にとって暗い影を落とし、苦悩と憂鬱を引きずることになります。
「青猫」
1923年の1月に、第2作目となる詩集「青猫」が出版されました。この青猫の序文に朔太郎は「詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。」と記述しており、孤独感や憂鬱感を晴らすための手段として詩を書いている旨を記しています。
この「青猫」は「月に吠える」と比べて、絶望感の強い詩が多く、この時期、私生活は未だに実家暮らしを続けていた孤独感などの苦悩が垣間見えます。また、付録には「自由詩のリズムに就て」が記載されており、朔太郎なりの「自由詩」の解説がされています。
1925年 – 39歳「妻子を伴って上京」
上田稲子との結婚
1918年に朔太郎は上田稲子と見合い結婚します。この稲子は旧・金沢藩の家来という家柄に生まれた人物で、気の強い人物であったと言われています。朔太郎は稲子との間に2人の子供を儲けますが、結婚生活はあまり順調ではありませんでした。
そのうちの一つに、家族の問題がありました。母親であるケイと、妹たちはこの稲子を嫁として認めず、徹底的に攻撃し続けたそうです。肝心の朔太郎はというと、家族の間をとりなすこともせず、全くの無関心を決め込んでいたそうです。
萩原朔太郎の上京
朔太郎は1925年に妻子を伴って、上京。芥川龍之介や室生犀星らが住んでいた北豊島郡滝野川町田端(現・北区)へと移住しました。この頃、芥川龍之介らと親交を深め、「芥川龍之介の追憶」などで芥川の作品を読んだことを記述しております。
しかし、田端という土地柄が合わなかったのか、翌年には馬込の方へと転居しております。ちなみに、犀星に田端の愚痴を漏らしたところ、犀星は機嫌が悪くなり、「君はどこに居たつて面白くない人間なのだ。」と小言を言われたと、随筆「田端に居た頃」で回想しております。
1929年 – 43歳「稲子との離婚」
文士村と離婚
1927年ごろ、朔太郎が転居した馬込周辺には文学関係者が集まり、「馬込文士村」と呼ばれておりました。この頃に朔太郎は、三好達治、堀辰雄、梶井基次郎といった文豪たちと知り合い、交流を深めていきました。また、白秋や犀星も馬込へと転居してきます。
この時期、ダンスパーティーが流行り出し、朔太郎もそこへ出席するようになりました。稲子も出席するのですが、次第に違う男性と交際を始め、最終的には18歳の画学生と駆け落ちし、2人の子供を残して朔太郎と離婚をします。稲子は後年、落合の方でカフェバー「ワゴン」を開き、そこには尾崎一雄や太宰治といった文豪たちが集ったそうです。
アフォリズム集「虚妄の正義」の刊行
1929年にはアフォリズム集「虚妄の正義」を出版します。この「虚妄と正義」では「結婚と女性」「芸術について」「孤独と社交」など7章に渡って、鋭い視点から警句を入れた言葉で近代について考察しております。
中でも有名なのは「死なない蛸」という散文詩で、この詩はのちに「猫町」という詩集にも掲載されます。水族館で飼われている蛸が自らの足を食べ、最終的には胴体すらも食べてしまい、空の水槽の中で見えない何かとして生きている、という作品です。生と死について綴った深い作品です。
1934年 – 48歳「詩集「氷島」刊行」
古典への回帰
1931年ごろから朔太郎は、万葉集から新古今和歌集と知った和歌の解説を綴った「恋愛名歌集」を出版。この頃から、古典へ回帰していく様子が見られます。1933年には世田谷に自宅を構え、晩年は自宅で過ごしておりました。
同年には個人雑誌「生理」を発刊。この雑誌内で朔太郎は、与謝蕪村や松尾芭蕉といった古典の俳人たちの俳句について解説しております。1936年にはそれらの解説をまとめた「郷愁の詩人 与謝蕪村」が出版されています。
詩集「氷島」を刊行
朔太郎の最期の詩集となった「氷島」はそれまで使用した「口語自由詩」ではなく、「文語定型詩」の作品となりました。この作品について、当時は多くの「後退」「退化」など様々な非難を浴びたそうです。
朔太郎は序文に「すべての藝術的意圖と藝術的野心を廢棄し、單に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。」と綴っております。この「氷島」に収録されている作品は、それまでの作品と比べてよりストレートかつ感情的な詩が多く、朔太郎の慟哭にも聞こえるような詩が収録されています。
1936年 – 50歳「「萩原朔太郎集」を刊行」
明治大学文芸科講師に就任
1934年から朔太郎は明治大学の文科部文芸科の講師として教壇に立つことになりました。担当したのは日本文韻研究という科目で、元々は室生犀星が担当しておりました。犀星の代打として引っ張り出された朔太郎は内心、とても緊張したそうです。
「學校教師の話」というエッセイでは「同じ大學の教壇で、室生犀星君がひつくり返つたといふ話をきいたので、よけいに怖いやうな気がして、足がぶるぶるした。」と、初授業の緊張を綴っております。その後、亡くなる直前まで明治大学にて講師を勤めました。
「萩原朔太郎集」を刊行
1936年ごろから朔太郎は各詩誌や新聞・雑誌などでエッセイを発表し、その数は120点ほどで朔太郎の人生の中で最も盛んに活動した時期でもありました。この年の4月に新潮文庫から朔太郎の作品をまとめた「萩原朔太郎集」が刊行されます。
1938年 – 52歳「エッセイ集「日本への回帰」を刊行」
「日本への回帰」を刊行
1938年3月に、朔太郎はエッセイ集「日本への回帰」を刊行しました。この中で朔太郎は、日本主義を強く主張し、「日本的なものへの回帰!」と強く謳っております。この時期、日本では国家総動員法が交付されるなど少しづつ戦争の道へと歩み始めておりました。
この「日本への回帰」を書いた背景には、社会主義、民主的な発想は危険思想とみなされ、弾圧される傾向にあったからこそ、古典へ回帰したのではないかという考察がされております。ちなみに、同時期に犀星も平安朝を題材にした古典作品を発表しております。
日本主義者へ
その後、朔太郎は「南京陥落の日に」という詩を発表し、その中で「わが戰勝を決定してよろしく萬歳を祝ふべし。よろしく萬歳を叫ぶべし。」と、戦勝を祝う内容を綴っております。このことから、朔太郎は日本主義者として一部から非難されることになります。
1942年 – 56歳「肺炎のため自宅にて逝去」
肺炎にて逝去
1941年ごろから風邪をこじらせ、病床に就くことになりました。この時期のエッセイ「病床生活からの一発見」では、自然派文学について理解を深めることが出来たと記されています。その後、1942年4月末で明治大学の講師を退任。5月11日に急性肺炎のため世田谷の自宅で逝去しました。
病床の間は友人に会うことも拒んでいたため、犀星とも会うことはかないませんでした。犀星は、朔太郎へ「供物」という詩を捧げ、その死を追悼しました。この後、犀星は朔太郎など親交のあった詩人たちのエピソードをまとめた「我が愛する詩人の伝記」を出版し、毎日出版文化賞という賞を受賞しました。
萩原朔太郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
月に吠える
萩原朔太郎の処女作であり代表作。自分の内面にある孤独や不安などを詩的世界観に落とし込んだ作品で、幻想的な世界観は口語自由詩ならではの美しさが描かれています。
青猫
第2作目の詩集。もっとも陰鬱な時期に書き記された詩集で、より自分の絶望感などをさらけ出した作品が多く、強烈な作品が多いです。しかし、そこに朔太郎の悲しくも美しい哀愁が漂っている作品でもあります。
月に吠えらんねえ
清塚雪子原作の青年漫画。朔太郎など詩人たちの作品の世界観を擬人化したキャラが登場する作品で、朔太郎の著作物ではありません。ですが、フィクションでありながら、その詩人たちの作品の世界観を知るきっかけとしておススメの作品です。
おすすめの動画
萩原朔太郎 自作朗読
朔太郎が、自作の詩を朗読している音源です。読み方は若干の群馬弁が入っているのですが、詩人の肉声が残っているのは貴重ではないでしょうか。
文豪とアルケミスト 朗読CD 第4弾 萩原朔太郎 試聴
こちらはDMMで提供されてるブラウザゲーム「文豪とアルケミスト」の朗読CDの視聴版です。CDには朔太郎の詩の朗読のほかにも、犀星、白秋と共に朔太郎の詩について語る座談会など、実際の文豪に即した内容を話している作品となっております。
関連外部リンク
萩原朔太郎についてのまとめ
萩原朔太郎は、芥川龍之介や太宰治と違い、国語の授業で習ったことのある人は少ない文豪だったのではないでしょうか。しかし、近年では「文豪とアルケミスト」のような、文豪を取り扱ったメディア作品で、知名度が上がった文豪の1人だと思います。
その暗い作品は、初めての人にとっては読みづらいかもしれません。ですが、読み進めていくうちに現代に生きる自分たちと似たような孤独感などを抱えていたのだなと気付かされます。
詩の一つ一つが生きてるかのように、読んでいるとその情景が浮かび上がり、より幻想的な世界へと引き込んでくれる、そういった不思議な魅力を持った詩人だと思います。上記で紹介した逸話以外にも、まだまだ多くの逸話を持っております。
この記事をきっかけに、萩原朔太郎という詩人を知っていただければ嬉しいです。
“萩原朔太郎”一気に拝読……大変素晴らしく興味深く感無量です……ありがとうございます! 他にも山本五十六ほか興味深い記事多々……山岸外史^_^!
よろしければご参照……
前橋文学館リーディングシアターvol.13
『わたしはまだ踊らない』
https://youtu.be/jTbvpwRyhqY