萩原朔太郎とはどんな人?代表作品は?【性格や子孫、死因まで解説】

萩原朔太郎の代表作品

萩原朔太郎の代表的な詩集をいくつかご紹介します。

  • 月に吠える
  • 蝶を夢む
  • 青猫
  • 虚妄の正義
  • 純情小曲集
  • 萩原朔太郎詩集
  • 氷島
  • 定本青猫
  • 宿命

中でも「月に吠える」や「青猫」は最も代表的な詩集となっています。「日本近代詩の父」と称されるまでの才能を是非堪能してください。

 萩原朔太郎の功績

功績1「口語自由詩を確立し「日本近代詩の父」に」

百人一首

それまで日本に定着していた「詩」の形式は、俳句や短歌といった五・七・五など決まったリズムで作る定型詩と、島崎藤村などが用いた文語体で書かれた文語詩などが一般的でした。そこへ、明治時代に詩人・川路柳虹の口語詩「塵溜」により、自由詩が誕生。その後、北原白秋や三木露風に受け継がれ、萩原が「月に吠える」で「口語自由詩」を確立しました。

自由詩について朔太郎は「自由詩のリズムに以て」という随筆内で「拍数本位ではなく、感情・旋律を優先したものが自由詩である」といった旨を述べております。これ以降、「口語自由詩」という表現が定着し、現在の「詩」は口語自由詩を差す言葉になり、朔太郎は「日本近代詩」の父と呼ばれるようになりました。

功績2「現代詩を象徴する賞『萩原朔太郎賞』」

萩原朔太郎賞

萩原朔太郎賞は1993年に、前橋市市制施行100周年を記念し、前橋出身である朔太郎の名前を冠した文学賞です。主に、現代詩を対象とした文学賞で、初年度である93年度には谷川俊太郎の「世間知ラズ」が受賞しております。

これまで、17名が受賞しており、昨年受賞した和合亮一の「QQQ」は東日本大震災で発生した原発事故後の福島に生きる人々の抱える問いを詩で綴った作品です。このような、現代詩を表彰する賞として、朔太郎の名前は現代の詩人達に受け継がれております。

萩原朔太郎の名言

どんな真面目な仕事も、遊戯に熱してゐる時ほどには、人を真面目にし得ない。

仕事に就いての警句です。仕事をしている時よりも趣味に熱中している方が人は真剣になる、という真理の言葉。朔太郎自身、定職に就かずに暮らしていたので、仕事に対するコンプレックス的な意味合いも込められていると思われます。

民衆の正義とは、富豪や、資産家や、貴族や、その他の幸福なものに対して、利己的な嫉妬を感ずることである。

民意についての名言です。富豪などの成功者へ嫉妬し、自分より幸せな者へ妬みなどをぶつけることが正義であると思い込んでる、という朔太郎なりの民意への解釈。SNSなどで、芸能人に対して必要以上に叩く心理は、既に朔太郎の時代に存在していたのですね。

幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である。

成功体験が多い人は物事をポジティブに考えられるので幸福で、その反対は不幸である、という意味の言葉です。朔太郎の生涯は果たしてどちらだったのでしょうか。

萩原朔太郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「マンドリン奏者としても有名だった」

マンドリン

朔太郎は慶應義塾大学予科了組に入学中に、音楽教育家であった比留間賢八にマンドリンを習っていたそうです。比留間は他にも、里見弴や徳川義親、藤田嗣治といった様々な人物にマンドリンやクラシックギターを教えた人物として有名です。

地元である前橋市では演奏会を開催したこともあり、この音楽的感性がのちに「口語自由詩」の源流になったのではないかと言われております。また、作曲もしていた形跡も残されていて、前橋文学館には直筆の楽譜が所蔵されております。

都市伝説・武勇伝2「実は多趣味だった」

朔太郎はマンドリンのほかに様々な趣味を持っており、そのうちの一つが写真です。16歳ごろからカメラを購入し、様々な写真を撮影しておりました。その写真は、1979年に出版された「萩原朔太郎写真集」に収録されております。

萩原朔太郎写真集

また、手品にも興味を持っていて長女・葉子のエッセイ「父・萩原朔太郎」には、書斎に子供の玩具のような手品道具が入っていたと回想されています。また、晩年の頃には「アマチュア・マジシャン・クラブ」へ入会し、入会できたことをかなり喜んでいたそうです。

都市伝説・武勇伝3「室生との中央亭騒動事件」

朔太郎の逸話の中でも欠かせないのが、親友・室生犀星との中央亭騒動事件です。ある時、「日本詩集」という雑誌の出版を記念したパーティーが「中央亭」という店で行われ、朔太郎が酒に酔い勝手に演説したところへ、岡本潤という詩人が朔太郎に近寄って来たそうです。これを、暴行されていると勘違いした犀星は椅子を振り回し、朔太郎を助け出しました。

この事件のパーティーに同席していた芥川龍之介からは後日、「よくやった」と称賛されたそうです。この二人は初対面の時から喧嘩など、そりが合わないことも多々あったのですが、お互いを思いやる気持ちは人一倍強かったと言われています。

萩原朔太郎の簡単年表

1886年 – 0歳
群馬県東群馬郡北曲輪町にて生まれる

萩原朔太郎は群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれました。父・密蔵は東京大学医学部を首席で卒業した開業医で、朔太郎も将来を期待されておりました。しかし、幼少期に父親に死体の解剖を見せつけられたトラウマから、医学の道へは進みませんでした。

1892年 – 6歳
従兄の萩原栄次が来住し、影響を受ける

萩原家に朔太郎より8歳上の従兄の栄次が来住してきました。朔太郎は栄次の事を兄として慕い、栄次から短歌など文学的な影響を受けました。

1893年 – 7歳
群馬県尋常師範学校附属小学校入学

群馬県尋常師範学校附属小学校(現・群馬大学教育学部付属小学校)に入学。しかし、ハーモニカや手風琴など、この頃から孤独を好んでおりました。

1901年 – 15歳
与謝野晶子「みだれ髪」に影響を受ける

与謝野晶子が出版した詩集「みだれ髪」を読み、その世界観に魅了されていきます。そして、この時期に栄次から短歌作法を学び、翌年から短歌を作り始めます。

1902年 – 16歳
「坂東太郎」にて短歌5首を発表

この年の12月に中学校校友会誌であった「坂東太郎」に短歌を5首発表します。この短歌には与謝野晶子の影響が見られ、その後、「文庫」「明星」「スバル」「朱欒」と数年に渡り文芸誌に手短歌を発表します。

1913年 – 27歳
北原白秋の雑誌「朱欒」に5編の詩を発表

国民的詩人こと北原白秋が刊行していた雑誌「朱欒」に「みちゆき」など、5編の詩を発表し、ココから本格的な詩人として活動を始めます。また、室生犀星と知り合ったのもこの時期からです。

1914年 – 28歳
室生犀星らと共に「人魚詩社」を設立

上記の「朱欒」をきっかけに犀星と知り合った萩原は、犀星と同郷の詩人である山村暮鳥を迎え詩、宗教、音楽の研究目的とした同人社「人魚詩社」を結成します。

1916年
朔太郎主宰「ゴンドラ洋楽会」第一回演奏会を開催

この年から1925年まで定期的に朔太郎が主宰の「ゴンドラ洋楽会」(のちに上毛マンドリン倶楽部へと改名)の演奏会が開かれておりました。演奏会の中には、朔太郎が作曲した楽曲もありました。

1917年 – 31歳
処女作「月に吠える」を刊行

それまで、白秋、犀星といった周辺詩人から影響を受けていた朔太郎ですが、この「月に吠える」を出版したことにより、自身の詩の形式を確立することとなりました。

1919年
上田稲子と結婚

稲子は金沢藩の家来という家柄に生まれた人物で、朔太郎と結婚し2人の子供を儲けました。

1923年 – 37歳
詩集「青猫」を刊行

「月に吠える」から6年後、第2作目となる詩集「青猫」を刊行しました。この作品について、朔太郎は序文にて「内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。」と記しており、古い作品を発表するのは恥ずかしさと苛立ちを感じているという旨を記しています。

1925年 – 39歳
「純情小曲集」を刊行

この年に妻子を伴って上京し、下田端へと転居しました。このことについて、朔太郎は「そこで偶然にもこの詩集が、私の出郷の記念として、意味深く出版されることになつた。」と、純情小曲集の序文に記しております。

1929年
稲子と離婚

2人の子供を儲けたものの、稲子は朔太郎の母であるケイや妹たちから攻撃され続けており、疎外されておりました。しかし、朔太郎はこれを止めることなく、ただ傍観するだけ。最終的には18歳の画学生と駆け落ちし、そのまま離婚となりました。

1934年 – 48歳
明治大学文芸科講師に就任

詩集「氷島」を出版し、同年に明治大学文芸科の講師として詩の講義を担当するようになりました。

1938年 – 52歳
エッセイ集「日本への回帰」を出版

1936年ごろから、講演会や文芸誌への詩の掲載などが100点を超えるほど、もっとも活動が盛んな時期となりました。その中で出版されたエッセイ集「日本への回帰」では、近代化が進む中で、未だに日本独自の伝統へ固執することへの孤独を書き表しております。

1942年 – 55歳
急性肺炎のため自宅にて逝去

1941年の9月ごろから風邪をこじらせ、病床に就き、1942年の4月末には明治大学の講師を辞任。そして、同年の5月11日に急性肺炎にて世田谷区内の自宅で逝去しました。


萩原朔太郎の年表

1886年 – 0歳「群馬県東群馬郡北曲輪町にて生まれる」

前橋文学館と萩原朔太郎の銅像

開業医の息子として生まれる

萩原朔太郎は1886年11月1日に群馬県東群馬郡北曲輪町(現・前橋市千代田町一丁目)にて生まれました。父親である密蔵は東京大学医学部を首席で卒業したエリートで、朔太郎もその後を継ぐことを期待されておりました。

しかし、幼少期の頃に、密蔵が死体を解剖しているところに遭遇してしまいます。密蔵は朔太郎に解剖した臓器などを見せつけ、逐一説明をしたそうです。このことが朔太郎にとって強烈な印象を与え、長年にわたり、孤独や憂鬱などを抱えるきっかけとなりました。

従兄・栄次の影響

若き日の朔太郎

6歳ごろに大阪から従兄である萩原栄次が前橋の萩原家へと来住します。栄次は朔太郎より7歳上の兄のような存在で、栄次の事をよく慕っておりました。栄次も後年、息子たちに朔太郎や妹の若子のことは「大事なお友達」と語っていたそうです。

栄次からは様々な影響を受け、中でも短歌の作法は栄次の影響が深くかかわっていると言われております。「月に吠える」が出版されたときも、「従兄・萩原栄次に捧ぐ」と記されたぐらい深いかかわりを持った従兄でした。この栄次と朔太郎の書簡でのやり取りが記載された「若き日の朔太郎」という書籍があり、この中に少年時代の朔太郎について記されております。

1902年 – 16歳「「坂東太郎」に短歌5首を発表」

落第続きの学生時代

群馬県師範学校附属小学校卒業後、旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)へ入学します。しかし、この頃についてエッセイ集「わが人生観」には、学校へ行くと言いながら郊外の野原で寝転んだり、授業中は窓から空を見上げたりと、あまり学業に興味がなかったようです。

その結果、中学を落第。その後も熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校など入退学を繰り返し、第六高の教授からは父・密蔵へ「朔太郎の学業に将来の望みなし」と書簡で書かれたほどでした。ちなみに、慶応大学へも入退学したのですが、この時に音楽教育家であった比留間賢八からマンドリンを習いました。

影響を受けた「みだれ髪」

みだれ髪

「みだれ髪」は1901年に与謝野晶子が出版した処女作の詩集です。主に晶子の想い人である、与謝野鉄幹への強い恋愛感情の詩が多く掲載されております。朔太郎は14歳の時にこの作品を読み、「鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった」と自筆歌集「ソライロノハナ」の「自叙伝」に記しております。

自叙伝では「芸術が私の生活を支配していくようになってしまった」と書いてる通りに心酔したようで、この頃の短歌は女性の心を詠ったものが多く存在しております。これがきっかけで、与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」などへ短歌を掲載されるようになります。また、石川啄木らと共に「新詩社」の同人になったのもこの時期です。

1913年 – 27歳「北原白秋の雑誌「朱欒」に5編の詩を発表」

北原白秋

師匠・北原白秋

北原白秋が主宰する雑誌「朱欒」へ「みちゆき」など5編の詩を発表した朔太郎は、詩人として本格的な道を歩み始めます。この「朱欒」に掲載されたとき、白秋から賞賛の言葉をもらいとても嬉しかったと回想しております。

その後、東京へ上京し白秋を訪問するようになると、朔太郎と白秋は一緒に銭湯へ行くような間柄となります。そして、白秋への想いは増していき、白秋へあてた書簡の中に「まって居ます、まって居ます、僕はひとりぼっちだ、」と、乙女のような内容があります。朔太郎にとって、白秋は憧れ以上の存在だったのでしょうね。

親友・室生犀星

雑誌「朱欒」がきっかけで、朔太郎は室生犀星とも知り合うことになります。ですが、お互いの第一印象は最悪で、朔太郎は犀星を「田舎の典型的な文學青年といふ感じがあつた。」と評し、犀星は朔太郎を「何て気障な虫酸の走る男だろう」と評しております。

しかし、交流するにつれ二人の仲は急速に深まっていきます。特に、犀星が金沢へ帰り、朔太郎が犀星の地元である金沢を訪れたときは、上記のこともあり(室生犀星との関係性は?)朔太郎を大事にもてなしたそうです。これに感激した朔太郎は白秋に「室生のことを考へると涙が出ます、」と報告しております。

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1 COMMENT

林 健樹 as 山岸外史^_^

“萩原朔太郎”一気に拝読……大変素晴らしく興味深く感無量です……ありがとうございます! 他にも山本五十六ほか興味深い記事多々……山岸外史^_^!
よろしければご参照……
前橋文学館リーディングシアターvol.13
『わたしはまだ踊らない』
https://youtu.be/jTbvpwRyhqY

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