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平沼騏一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【内閣時代や独ソ不可侵条約、子孫、家族についても紹介】

平沼騏一郎は司法省の官僚を経て、1939年に総理大臣になった人物です。後に外交問題に対応出来ず「欧州天地は複雑怪奇」と演説し総理大臣を辞職しています。

また国本社という右翼団体を創設した人物でもありました。軍部や財界、政界等の有力者を会員に引き入れる事で、戦前の日本において大きな影響力を与えました。

平沼騏一郎

騏一郎は日本を戦時体制に組み込んだ挙句、総理大臣を投げ出した無責任な人物と思われがちです。しかし彼の思想やその後の行動を見ると、無責任と言えない部分もあります。

また騏一郎が司法省に入省した頃は、日本の司法権、検察権はまだ未熟でした。騏一郎は様々な汚職事件を摘発し、司法権の独立、検察の立場を強める事に貢献する等、日本の法整備に重要な役割を果たしています。

戦前の日本史はあまり人気はないものの、実は戦国時代や幕末に匹敵する程に興味深い時代です。今回は戦前の日本史を語る上で欠かせない人物、平沼騏一郎について紹介していきます。

平沼騏一郎とはどんな人物か

名前平沼騏一郎
誕生日1867年10月25日
没日1952年8月22日
生地美作国津山城下南新座(岡山県津山市)
没地新宿区慶應病院
配偶者岡本竹子
埋葬場所多磨霊園、靖国神社、安国寺(津山市)

平沼騏一郎の生涯をハイライト

平沼騏一郎

平沼騏一郎は1867年10月25日に岡山県津山城下で誕生します。1888年に司法省に入省し、検事総長、大審院長等の役職を歴任。1923年には第二次山本権兵衛内閣の法相として入閣を果たします。

騏一郎は西洋化に伴い日本の道徳や精神が失われる事を危惧し、民主主義や共産主義等の対外思想を否定。騏一郎は天皇親政の復活や日本の道徳や精神を重んじる観念右翼と言う保守的な思想の持ち主でした。

1924年には右翼団体の国本社の会長に就任し、財界や軍部と関わりを深めます。本人や周囲が何度も総理大臣になる事を打診するものの、元老の西園寺公望に阻止され、総理大臣になったのは1939年の事でした。

平沼内閣は日中戦争の収束を図る為、国家総動員体制を整えます。外交面ではソ連に対抗する為、ドイツとの同盟を検討します。結果的にドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結した為、平沼内閣は総辞職しました。

総理大臣辞任後はナチス寄りの官僚の排除や、対米関係修復に努める等、開戦反対の立場をとります。しかし東京裁判ではA級戦犯として終身禁固を言い渡されます。1952年に病気で釈放されますが、86歳で死去しました。

平沼騏一郎の家族構成や子孫「平沼赳夫」とは?独身だった?

平沼赳夫

騏一郎は津山藩士平沼晋の次男として誕生。兄は早稲田大学の第三代学長に就任した平沼淑郎です。妹の芸は大審院判事の掛下重次郎の元に嫁ぎます。

騏一郎は日清戦争前後に岡本竹子と結婚しています。騏一郎が肺病になった為、竹子の父が騏一郎に離縁を言い渡しました。肺病は改善し、復縁の話があったものの「覆水盆に返らず」と伝え、独身を貫いたのです。

後に騏一郎は1937年に淑郎の娘一家(中川恭四郎 節子 赳夫)を丸ごと養子として受け入れます。平沼赳夫は次世代の党首になる等、与野党に影響を与える政治家になりました。現在は高齢を理由に現役を退いています。

平沼内閣の政治は?独ソ不可侵条約とは?

平沼内閣

平沼内閣は前任の近衛文麿内閣の七閣僚が在留。更には文麿も在籍していた為、平沼内閣は近衛内閣の政策を引き継いだものが多いです。

中国政府の親日派、汪兆銘による親日政権を樹立させますが、中国政府から親日派がいなくなり、状況は悪化します。国内では国民総動員体制を強化し、米穀配給統制法や国民徴用令等で挙国一致体制を推し進めました。

国内では日独伊防共協定を日独伊三国同盟まで進める構想が持ち上がります。騏一郎は共産国家ソ連を敵視しており、妥協した形で同盟に賛成。しかし米内光政等の海相らが反対に回り、内閣は対立しました。

議論が続く中、ドイツは敵国のソ連と独ソ不可侵条約を締結。敵対する国同士が条約を結んだ事は世界に衝撃が走りました。条約は互いの国家侵略を黙認する意味があり、9日後にドイツはポーランドを侵攻します。

平沼騏一郎が総理大臣辞職の時に言った「複雑怪奇」の意味は?

平沼内閣総辞職を伝える記事

1939年8月28日に平沼内閣は総辞職します。大阪朝日新聞には以下のように演説した事が掲載されました。

今回締結せられたる独ソ不侵略条約により欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたのでわが方はこれにかんがみ従来準備し来った政策はこれを打切り、更に別途の政策樹立を必要とするにいたりました。

現在の言葉に要約すると、「独ソ不可侵条約により、欧州天地は複雑怪奇な情勢となった。ドイツとの同盟も打ち切るので、別の政策を考える必要があります。内閣は総辞職します。」という事ですね。

日独伊防共協定はソ連を仮想敵国とするものでした。協定国の日本を無視し、ソ連と手を組むドイツの裏切りは、騏一郎にとって衝撃的だった為、複雑怪奇と表現したのです。

ちなみに複雑怪奇発言はインパクトがあった為か、その年の流行語にもなりました。

平沼騏一郎の功績

功績1「日本の法整備、検察の地位向上に尽力した」

司法省

騏一郎は司法省の官僚時代に社債信託法や犯罪者の指紋登録等の法整備を整えました。明治期は名前を変える事も容易で、犯罪者の消息を掴む事が難しかった為、指紋登録は非常に有用でした。

更には検事として日糖疑獄事件、ジーメンス事件、大浦事件等の汚職事件を容赦なく摘発し、騏一郎の代から検察の立場や独立性は大きく向上しています。

様々な法律の整備を行った事、検察の地位を高めた事からも、司法官僚時代の騏一郎の評価はとても高いです。

功績2「和平工作に尽力した」

御前会議の様子

観念右翼の騏一郎にとって、ソ連やドイツは敵対相手でした。総理大臣退陣後は対米関係修復に努め、日米開戦に反対し、戦時中は東条内閣倒閣の為に動きます。

後にポツダム宣言を受諾するか会議が開かれ、騏一郎は賛成に一票を投じました。検察や右翼団体と繋がりを持つ騏一郎が和平派だったのは、日本にとって大きな力だったのです。

平沼騏一郎の名言

外交は建国の皇謨に則り、道義を基礎として世界の平和と文化に寄与するを第一義とし、この方針の下に対欧政策を考慮し、屡次これを闕下に奏聞し来ったのであります(昭和14年8月28日)

騏一郎は天皇が国家を統治する事が世界平和に繋がると考えていました。天皇親政は過去のものであり、時代錯誤とも言えます。観念右翼思想に囚われていた事が騏一郎の政治家としての限界だったのかもしれません。

平沼騏一郎の人物相関図

こちら平沼家の家系図です。注目すべきは養子となった平沼赳夫の妻真佐子は徳川家の直系の子孫であり、天皇家の遠い親戚という事でしょうか。

平沼騏一郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「でっち上げで内閣を潰した」

斎藤実

平沼騏一郎は様々な汚職事件を摘発しますが、冤罪もあったと言われており、代表的なのが帝人事件です。時の斎藤内閣の関係者が逮捕され、強引な取り調べ勾留が行われます。

これはいつまでも総理大臣に任命されない騏一郎が、内閣と政党を潰す為に検察に圧力をかけたものと言われています。結果的に全員が無罪となるものの、不信感の高まりから、内閣は総辞職しました。

証拠はないものの、検察が私欲で動くと内閣さえも倒れてしまう事が分かるエピソードですね。

都市伝説・武勇伝2「騏一郎が笑えばニュースになった?」

平沼騏一郎

騏一郎は刑罰が厳正である事で知られ、寡黙謹厳国士とあだ名されます。騏一郎が笑えばニュースになると言われる程でした。確かに笑っている写真は一枚もありません。

ただ厳しいだけでなく、海軍高官への贈賄事件であるジーメンス事件では、罪を摘発しつつも海軍にダメージを与えないよう配慮しています。法律だけでなく、道徳を大事にする姿勢も垣間見えるのです。

都市伝説・武勇伝3「総理大臣を辞職した本当理由」

独ソ不可侵条約

「騏一郎は無責任に内閣を投げ出した」と考える人は多いです。しかし平沼赳夫は騏一郎は責任感から政権を天皇に返上したのだと考えています。

騏一郎は、総理大臣は天皇から政権をお預かりしているものと考えていました。独ソ不可侵条約の締結は騏一郎の想像を越えており、政治家として判断を誤った責任から天皇に政権を返上したのですね。

観念右翼は現在では中々理解の難しい思想です。その思想の理解こそが、騏一郎の人となりや政策の意味を知る事に繋がるのでしょう。

平沼騏一郎の簡単年表

1867年 - 0歳
平沼騏一郎誕生

平沼騏一郎は岡山県津山城下南新座にて誕生。5歳の頃に父や兄と共に上京し、同郷だった箕作秋坪の開いた塾三叉学舎にて様々な学問を学びます。

1888年 - 21歳
司法省に入省

1883年に東京大学法学部に進学し、1888年には大学を首席で卒業します。頭脳明晰な事から、官僚として頭角を表しました。

1899年 - 32歳
書東京控訴院検事に就任

東京地方裁判所、東京控訴院等を経て検事に転身し、様々な汚職事件を摘発。これらの功績から検察権の独立が果たされるようになり、騏一郎は司法省内での地位を固めます。

1924年 - 57歳
国本社を創立
この年に騏一郎は国本社を創立。最後の元老西園寺公望は騏一郎を危険人物とみなします。

1939年 - 71歳
内閣総理大臣就任
この年にようやく総理大臣に就任。前任の近衛内閣が日中戦争を泥沼化させた為、平沼内閣はその対応に追われます。独ソ不可侵条約の締結により、わずか8ヶ月で内閣は総辞職しました。

1948年 - 81歳
A級戦犯に指定される
終戦時は和平工作に尽力するものの、東京裁判で起訴され終身刑を言い渡されます。
1952年 - 84歳
仮釈放後に死去
収容中は夜中に泣き叫ぶ等の行動がみられていたそうです。1952年に病気で仮釈放されまが、まもなく死去しました。

平沼騏一郎の年表

1867年 – 0歳「平沼騏一郎誕生」

平沼騏一郎の兄淑郎

教育熱心な家族

騏一郎は津山藩士の平沼晋の次男として誕生。晋が藩の教育係だった為、平沼家は教育熱心な家庭でした。

 祖母の千鶴は漢詩を子守唄とし、英語の読み聞かせもしています。平沼家の子どもは頭脳明晰で、兄淑郎も後に早稲田大学の学長となりました。

様々な学問を学ぶ

5歳の頃に父の仕事の影響で上京。同郷の教育者の箕作秋坪や、翻訳家の宇田川興斎等から漢詩や洋学、算術等を学びました。

後に晋が病に倒れ、兄弟は家計を助ける為に内職をしながら学業に励んでいます。

1888年 – 21歳「司法省に入省」

旧平沼邸別邸

不本意ながら司法省に入省

騏一郎は東京大学法学部を首席で卒業。司法省から給費を受けていた縁もあり、司法省に入省します。司法省は官僚の中で立場が低かった為、本心ではありませんでした。

騏一郎は東京地方裁判所判事や、千葉や横浜地裁部長等の役職を歴任し、1889年には検事となります。

社債信託法や指紋登録制度の構築

1905年、日露戦争の影響で実業界は資金不足となり、民間から資金を集める方法が議論されます。騏一郎は大蔵大臣に頼まれ、社債信託法を制定。

1908年には犯罪者の前科を記録する方法が議論され、騏一郎の報告書により、指紋による前科登録が採用されました。

1910年 – 43歳「大逆事件で死刑判決を求刑」

幸徳秋水

大逆事件による死刑判決

この年、社会主義者幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を企てたとして、騏一郎は死刑判決を求刑。判決は今でも批判があるものの、当時の社会主義思考は危険思想だった事は考慮が必要です。

大審院長に就任

その後もジーメンス事件で海軍高官や財閥の大物を容赦なく起訴する等の功績を残します。1921年には騏一郎は大審院(戦前の最高裁判所)の長になり、検事総長の地位を大幅に高めるよう法改正しました。

1924年 – 57歳「国本社の創立」

国本社の発行していた雑誌「国本」

虎ノ門事件の勃発

1923年9月2日に第二次山本権兵衛内閣が組閣し、騏一郎は司法大臣に任命されました。内閣自体は12月に発生した虎ノ門事件の責任を取り総辞職しています。

皇太子(後の昭和天皇)が銃撃された事は騏一郎に大きな影響を与え、天皇親政の正当性を唱える政治結社である国本社を創立。軍部や財界等から会員を集めます。更に騏一郎は貴族院議員になり、政治家に転身しました。

枢密院副議長となる

1926年には天皇の諮問機関である枢密院の副議長に就任。司法省や財界、軍部等の幅広い人脈を持つ騏一郎は大衆からも支持され、次期首相候補とみなされます。

1936年 – 69歳「枢密院議長に就任」

西園寺公望

西園寺公望との対立

そんな騏一郎を嫌ったのは、総理大臣を決めていた最後の元老、西園寺公望です。公望は憲法遵守、米英協調、政党政治を第一に考えており、観念右翼の騏一郎とは思想面で真っ向から対立しました。

騏一郎は10年もの間、枢密院副議長のまま留め置かれます。この期間に帝人事件や天皇機関説事件等、様々な手で内閣を妨害したと噂されますが、真相は不明です。

枢密院議長に就任

公望が一線を退くと、騏一郎は1936年にようやく枢密院議長に就任。同時に国本社を解散します。この年に2.26事件が起こり、国本社会員の軍人が失脚。騏一郎は親英米派とも関わりを深めていきました。

1939年 – 71歳「内閣総理大臣就任」

平沼内閣

日中戦争の収束と日独伊三国同盟

ようやく騏一郎は総理大臣に就任するものの、既に日中戦争は泥沼化。平沼内閣は経済の圧迫に対応する為、国家総動員体制を推し進めます。

外交面では前述した日独伊三国同盟の締結を巡り内閣は対立。結果的には独ソ不可侵条約の締結で8ヶ月の短命内閣に終わります。

国内外での混乱

この時期、ドイツ大使の大島浩は独断でドイツの要求を受け入れる声明を出したり、関東軍の辻政信はロシアとノモンハン事件を起こす等、国内の統制は全くとれていませんでした。

騏一郎は共産主義のソ連に対抗するものの失敗。結果的には日本を統制経済、即ち共産主義国家の経済体制へと進めていくという皮肉な結果となったのです。

1940年 – 72歳「対米関係修復の実力者となる」

大政翼賛会の会合に参加する近衛文麿

第二次近衛内閣の内務大臣となる

近衛文麿は国難を乗り切ろうと新体制運動を画策。騏一郎はこの流れをナチス的と批判しています。数カ月後には文麿はあっさり新体制運動から身を引き、騏一郎と手を組みます。

騏一郎は新体制運動推進派の官僚の逮捕を指令。更に大政翼賛会の政治活動を禁じます。騏一郎は和平派の重鎮とみなされ、右翼団体から弾丸6発を打ち込まれる重傷を負いました。

終戦工作

戦時下は東条内閣倒閣に協力する等、終戦工作に尽力。しかし騏一郎は天皇を守る事を重視しており、国体を放棄する降伏に反対を唱えます。真意を知らなかった為か、昭和天皇からは良い評価は得ていません。

ポツダム宣言の受諾決定

ポツダム宣言受諾の会議では、騏一郎が和平派か抗戦派のどちらにつくのか不安視されるものの、受諾に一票を投じます。

後に平沼邸は終戦反対を唱える国民神風滝によって焼き討ちされています。軍部からも敵視された騏一郎ですが、最後は身を呈して国を守ったのでした。

1952年 – 84歳「平沼騏一郎死去」

東京裁判の様子

A級戦犯となる

終戦に尽力したにもかかわらず、騏一郎はA級戦犯として起訴され、終身刑の判決を受けます。これは平沼内閣の政策による影響が大きいです。

平沼騏一郎死去

1952年に病の悪化により騏一郎は仮釈放となります。死の間際にもかかわらず、見舞いにいた平沼赳夫に「危ないからこっちに来なさい」と心配する等、最後まで思いやりを忘れなかったそうです。

8月22日に84歳で死去。昭和天皇からお供えものが届き、勅使がお参りに来ています。天皇を敬愛した騏一郎にとっての救いだったのかもしれません。

平沼騏一郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

平沼騏一郎と近代日本

本書では騏一郎の生涯について詳しく述べられています。国本社や観念右翼等、当時の日本に存在した思想についても学ぶ事が出来る為、近代日本史を知る上でもおススメの一冊です。

池上彰と学ぶ日本の総理 第27号 平沼騏一郎/阿部信行/米内光政

歴代の総理大臣の足跡を池上彰が分かりやすく生涯する本です。平沼騏一郎、阿部信行、米内光政の政策や当時の世界情勢が分かりやすく書かれています。中高生が現代史を学ぶ上ではオススメの1冊です。

検証 検察庁の近現代史

現在まで続く検察の歴史を掘り下げた一冊。検察の立場を大きく高めた騏一郎について詳しく書かれています。見出しも多く、小説のような物語性もあり、タイトルとは裏腹に読みやすい本です。

おすすめの映画

日本のいちばん長い日

日本が降伏を決定し、玉音放送が流れる1日をノンフィクションで描いた小説であり、1967年と2015年に映画化されています。

騏一郎はコロコロと話が変わる人物として描かれていますが、史実でも国体保持の為に立場が変わった事を表現していると思われます。映画自体は非常に見応えのある名作です。

関連外部リンク

平沼騏一郎についてのまとめ

今回は平沼騏一郎について紹介しました。司法省官僚として才能は発揮しつつも、政治家として成果を残せなかったのは、観念右翼という思想が先行し、一貫した政策ビジョンがなかった為でした。

最終的には軍部から敵視され、和平に尽力したにもかかわらずA級戦犯になる等、壮絶な晩年を迎えました。今回の記事で平沼騏一郎に興味を持っていただけたら幸いです。

2 COMMENTS

アバター 平沼男爵ファン

これくらい平沼騏一郎先生に関心を持って掘り下げてくれたブログは初めてです。有難う御座います。

レキシル編集部 レキシル編集部

> 平沼男爵ファンさま

こちらこそ、嬉しいコメントありがとうございます^^

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