平沼騏一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【内閣時代や独ソ不可侵条約、子孫、家族についても紹介】

平沼騏一郎の名言

外交は建国の皇謨に則り、道義を基礎として世界の平和と文化に寄与するを第一義とし、この方針の下に対欧政策を考慮し、屡次これを闕下に奏聞し来ったのであります(昭和14年8月28日)

騏一郎は天皇が国家を統治する事が世界平和に繋がると考えていました。天皇親政は過去のものであり、時代錯誤とも言えます。観念右翼思想に囚われていた事が騏一郎の政治家としての限界だったのかもしれません。

平沼騏一郎の人物相関図

こちら平沼家の家系図です。注目すべきは養子となった平沼赳夫の妻真佐子は徳川家の直系の子孫であり、天皇家の遠い親戚という事でしょうか。

平沼騏一郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「でっち上げで内閣を潰した」

斎藤実

平沼騏一郎は様々な汚職事件を摘発しますが、冤罪もあったと言われており、代表的なのが帝人事件です。時の斎藤内閣の関係者が逮捕され、強引な取り調べ勾留が行われます。

これはいつまでも総理大臣に任命されない騏一郎が、内閣と政党を潰す為に検察に圧力をかけたものと言われています。結果的に全員が無罪となるものの、不信感の高まりから、内閣は総辞職しました。

証拠はないものの、検察が私欲で動くと内閣さえも倒れてしまう事が分かるエピソードですね。

都市伝説・武勇伝2「騏一郎が笑えばニュースになった?」

平沼騏一郎

騏一郎は刑罰が厳正である事で知られ、寡黙謹厳国士とあだ名されます。騏一郎が笑えばニュースになると言われる程でした。確かに笑っている写真は一枚もありません。

ただ厳しいだけでなく、海軍高官への贈賄事件であるジーメンス事件では、罪を摘発しつつも海軍にダメージを与えないよう配慮しています。法律だけでなく、道徳を大事にする姿勢も垣間見えるのです。

都市伝説・武勇伝3「総理大臣を辞職した本当理由」

独ソ不可侵条約

「騏一郎は無責任に内閣を投げ出した」と考える人は多いです。しかし平沼赳夫は騏一郎は責任感から政権を天皇に返上したのだと考えています。

騏一郎は、総理大臣は天皇から政権をお預かりしているものと考えていました。独ソ不可侵条約の締結は騏一郎の想像を越えており、政治家として判断を誤った責任から天皇に政権を返上したのですね。

観念右翼は現在では中々理解の難しい思想です。その思想の理解こそが、騏一郎の人となりや政策の意味を知る事に繋がるのでしょう。

平沼騏一郎の簡単年表

1867年 – 0歳
平沼騏一郎誕生

平沼騏一郎は岡山県津山城下南新座にて誕生。5歳の頃に父や兄と共に上京し、同郷だった箕作秋坪の開いた塾三叉学舎にて様々な学問を学びます。

1888年 – 21歳
司法省に入省

1883年に東京大学法学部に進学し、1888年には大学を首席で卒業します。頭脳明晰な事から、官僚として頭角を表しました。

1899年 – 32歳
書東京控訴院検事に就任

東京地方裁判所、東京控訴院等を経て検事に転身し、様々な汚職事件を摘発。これらの功績から検察権の独立が果たされるようになり、騏一郎は司法省内での地位を固めます。

1924年 – 57歳
国本社を創立

この年に騏一郎は国本社を創立。最後の元老西園寺公望は騏一郎を危険人物とみなします。

1939年 – 71歳
内閣総理大臣就任

この年にようやく総理大臣に就任。前任の近衛内閣が日中戦争を泥沼化させた為、平沼内閣はその対応に追われます。独ソ不可侵条約の締結により、わずか8ヶ月で内閣は総辞職しました。

1948年 – 81歳
A級戦犯に指定される

終戦時は和平工作に尽力するものの、東京裁判で起訴され終身刑を言い渡されます。
1952年 – 84歳
仮釈放後に死去

収容中は夜中に泣き叫ぶ等の行動がみられていたそうです。1952年に病気で仮釈放されまが、まもなく死去しました。

平沼騏一郎の年表

1867年 – 0歳「平沼騏一郎誕生」

平沼騏一郎の兄淑郎

教育熱心な家族

騏一郎は津山藩士の平沼晋の次男として誕生。晋が藩の教育係だった為、平沼家は教育熱心な家庭でした。

 祖母の千鶴は漢詩を子守唄とし、英語の読み聞かせもしています。平沼家の子どもは頭脳明晰で、兄淑郎も後に早稲田大学の学長となりました。

様々な学問を学ぶ

5歳の頃に父の仕事の影響で上京。同郷の教育者の箕作秋坪や、翻訳家の宇田川興斎等から漢詩や洋学、算術等を学びました。

後に晋が病に倒れ、兄弟は家計を助ける為に内職をしながら学業に励んでいます。

1888年 – 21歳「司法省に入省」

旧平沼邸別邸

不本意ながら司法省に入省

騏一郎は東京大学法学部を首席で卒業。司法省から給費を受けていた縁もあり、司法省に入省します。司法省は官僚の中で立場が低かった為、本心ではありませんでした。

騏一郎は東京地方裁判所判事や、千葉や横浜地裁部長等の役職を歴任し、1889年には検事となります。

社債信託法や指紋登録制度の構築

1905年、日露戦争の影響で実業界は資金不足となり、民間から資金を集める方法が議論されます。騏一郎は大蔵大臣に頼まれ、社債信託法を制定。

1908年には犯罪者の前科を記録する方法が議論され、騏一郎の報告書により、指紋による前科登録が採用されました。

1910年 – 43歳「大逆事件で死刑判決を求刑」

幸徳秋水

大逆事件による死刑判決

この年、社会主義者幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を企てたとして、騏一郎は死刑判決を求刑。判決は今でも批判があるものの、当時の社会主義思考は危険思想だった事は考慮が必要です。

大審院長に就任

その後もジーメンス事件で海軍高官や財閥の大物を容赦なく起訴する等の功績を残します。1921年には騏一郎は大審院(戦前の最高裁判所)の長になり、検事総長の地位を大幅に高めるよう法改正しました。

1924年 – 57歳「国本社の創立」

国本社の発行していた雑誌「国本」

虎ノ門事件の勃発

1923年9月2日に第二次山本権兵衛内閣が組閣し、騏一郎は司法大臣に任命されました。内閣自体は12月に発生した虎ノ門事件の責任を取り総辞職しています。

皇太子(後の昭和天皇)が銃撃された事は騏一郎に大きな影響を与え、天皇親政の正当性を唱える政治結社である国本社を創立。軍部や財界等から会員を集めます。更に騏一郎は貴族院議員になり、政治家に転身しました。

枢密院副議長となる

1926年には天皇の諮問機関である枢密院の副議長に就任。司法省や財界、軍部等の幅広い人脈を持つ騏一郎は大衆からも支持され、次期首相候補とみなされます。

1 2 3

2 COMMENTS

平沼男爵ファン

これくらい平沼騏一郎先生に関心を持って掘り下げてくれたブログは初めてです。有難う御座います。

返信する
レキシル編集部

> 平沼男爵ファンさま

こちらこそ、嬉しいコメントありがとうございます^^

返信する

コメントを残す