1936年 – 69歳「枢密院議長に就任」
西園寺公望との対立
そんな騏一郎を嫌ったのは、総理大臣を決めていた最後の元老、西園寺公望です。公望は憲法遵守、米英協調、政党政治を第一に考えており、観念右翼の騏一郎とは思想面で真っ向から対立しました。
騏一郎は10年もの間、枢密院副議長のまま留め置かれます。この期間に帝人事件や天皇機関説事件等、様々な手で内閣を妨害したと噂されますが、真相は不明です。
枢密院議長に就任
公望が一線を退くと、騏一郎は1936年にようやく枢密院議長に就任。同時に国本社を解散します。この年に2.26事件が起こり、国本社会員の軍人が失脚。騏一郎は親英米派とも関わりを深めていきました。
1939年 – 71歳「内閣総理大臣就任」
日中戦争の収束と日独伊三国同盟
ようやく騏一郎は総理大臣に就任するものの、既に日中戦争は泥沼化。平沼内閣は経済の圧迫に対応する為、国家総動員体制を推し進めます。
外交面では前述した日独伊三国同盟の締結を巡り内閣は対立。結果的には独ソ不可侵条約の締結で8ヶ月の短命内閣に終わります。
国内外での混乱
この時期、ドイツ大使の大島浩は独断でドイツの要求を受け入れる声明を出したり、関東軍の辻政信はロシアとノモンハン事件を起こす等、国内の統制は全くとれていませんでした。
騏一郎は共産主義のソ連に対抗するものの失敗。結果的には日本を統制経済、即ち共産主義国家の経済体制へと進めていくという皮肉な結果となったのです。
1940年 – 72歳「対米関係修復の実力者となる」
第二次近衛内閣の内務大臣となる
近衛文麿は国難を乗り切ろうと新体制運動を画策。騏一郎はこの流れをナチス的と批判しています。数カ月後には文麿はあっさり新体制運動から身を引き、騏一郎と手を組みます。
騏一郎は新体制運動推進派の官僚の逮捕を指令。更に大政翼賛会の政治活動を禁じます。騏一郎は和平派の重鎮とみなされ、右翼団体から弾丸6発を打ち込まれる重傷を負いました。
終戦工作
戦時下は東条内閣倒閣に協力する等、終戦工作に尽力。しかし騏一郎は天皇を守る事を重視しており、国体を放棄する降伏に反対を唱えます。真意を知らなかった為か、昭和天皇からは良い評価は得ていません。
ポツダム宣言の受諾決定
ポツダム宣言受諾の会議では、騏一郎が和平派か抗戦派のどちらにつくのか不安視されるものの、受諾に一票を投じます。
後に平沼邸は終戦反対を唱える国民神風滝によって焼き討ちされています。軍部からも敵視された騏一郎ですが、最後は身を呈して国を守ったのでした。
1952年 – 84歳「平沼騏一郎死去」
A級戦犯となる
終戦に尽力したにもかかわらず、騏一郎はA級戦犯として起訴され、終身刑の判決を受けます。これは平沼内閣の政策による影響が大きいです。
平沼騏一郎死去
1952年に病の悪化により騏一郎は仮釈放となります。死の間際にもかかわらず、見舞いにいた平沼赳夫に「危ないからこっちに来なさい」と心配する等、最後まで思いやりを忘れなかったそうです。
8月22日に84歳で死去。昭和天皇からお供えものが届き、勅使がお参りに来ています。天皇を敬愛した騏一郎にとっての救いだったのかもしれません。
平沼騏一郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
平沼騏一郎と近代日本
本書では騏一郎の生涯について詳しく述べられています。国本社や観念右翼等、当時の日本に存在した思想についても学ぶ事が出来る為、近代日本史を知る上でもおススメの一冊です。
池上彰と学ぶ日本の総理 第27号 平沼騏一郎/阿部信行/米内光政
歴代の総理大臣の足跡を池上彰が分かりやすく生涯する本です。平沼騏一郎、阿部信行、米内光政の政策や当時の世界情勢が分かりやすく書かれています。中高生が現代史を学ぶ上ではオススメの1冊です。
検証 検察庁の近現代史
現在まで続く検察の歴史を掘り下げた一冊。検察の立場を大きく高めた騏一郎について詳しく書かれています。見出しも多く、小説のような物語性もあり、タイトルとは裏腹に読みやすい本です。
おすすめの映画
日本のいちばん長い日
日本が降伏を決定し、玉音放送が流れる1日をノンフィクションで描いた小説であり、1967年と2015年に映画化されています。
騏一郎はコロコロと話が変わる人物として描かれていますが、史実でも国体保持の為に立場が変わった事を表現していると思われます。映画自体は非常に見応えのある名作です。
関連外部リンク
- 平沼騏一郎 Wikipedia
- 【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<37>
- 平沼騏一郎と近代日本政治-司法官僚の政治的台頭と太 平洋戦争への道-( Digest_要約 ) Author(s)
- 平沼赳夫氏が「平沼騏一郎」を語る 大切にしたのは「国体」
平沼騏一郎についてのまとめ
今回は平沼騏一郎について紹介しました。司法省官僚として才能は発揮しつつも、政治家として成果を残せなかったのは、観念右翼という思想が先行し、一貫した政策ビジョンがなかった為でした。
最終的には軍部から敵視され、和平に尽力したにもかかわらずA級戦犯になる等、壮絶な晩年を迎えました。今回の記事で平沼騏一郎に興味を持っていただけたら幸いです。
これくらい平沼騏一郎先生に関心を持って掘り下げてくれたブログは初めてです。有難う御座います。
> 平沼男爵ファンさま
こちらこそ、嬉しいコメントありがとうございます^^