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与謝野晶子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作品、名言、エピソード、死因についても紹介】

与謝野晶子は明治時代の終わりから大正時代にかけて活躍した歌人です。「君死にたまふことなかれ」という歌は教科書にも載っており、誰もが一度は聞いたことがあるかと思います。当時の政府への批判や女性のあり方を描いた作品が多く、それが庶民の共感を呼んで評価されていくのでした。

歌人としての業績のほかにも、女性の社会進出を訴え続けた社会活動家としての一面も持っています。当時の女性は参政権も持っていませんでしたが、平塚らいてうなどの女性活動家らとともに女性の社会的地位の向上を呼びかけます。

与謝野晶子

この時代は女性の権利を求める声が強かったため、与謝野晶子や平塚らいてう等のような女性活動家が多く世に出ていましたが、いまだに彼女らがスポットライトを浴びる理由はどこにあるのでしょうか。彼女の和歌の良さや人格が影響していることは確かですが、それだけではありません。

与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の訳の意味を考察して感銘を受け、彼女に関する文献を読み漁った筆者が与謝野晶子の生涯、名言、代表作品をご紹介していきます。

与謝野晶子とはどんな人物か

名前鳳 志やう(ほう しょう)
誕生日1878年12月7日
没日1942年5月29日
生地堺県和泉国第一大区(現在の大阪府)
没地東京府東京市杉並区荻窪(現在の東京都)
配偶者与謝野鉄幹
埋葬場所多磨霊園

与謝野晶子の生涯をダイジェスト

与謝野鉄幹と晶子

与謝野晶子の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 老舗和菓子屋の三女として生まれ、幼い頃から文学に親しむ。
  • 20歳前後から和菓子屋の手伝いのかたわら、和歌の製作を始める。
  • 与謝野鉄幹の和歌に感動し、鉄幹とコンタクトを取り、「明星」に和歌の投稿をし続ける。
  • 鉄幹との結婚。生涯で12人の子供に恵まれる。
  • 1904年に「君死にたまふことなかれ」発表。
  • 男女平等と芸術による人格の形成を信念とした学校「文化学院」創立。
  • 詩歌や評論により婦人参政権を訴える。
  • 1942年、尿毒症にて帰らぬ人となる。

与謝野晶子の家族構成や詩に登場した弟は?

与謝野一家

与謝野晶子自身は和菓子屋の父・鳳宗七と母・津袮との間に三女として生まれています。兄には電気工学者の鳳秀太郎がいました。

ちなみに「君死にたまふことなかれ」に登場した弟は「籌三郎」という名前で、日露戦争へと駆り出されましたが、無事に生還したそうです。晶子は1942年に亡くなっていますが、籌三郎はその2年後の1944年まで生を全うしました。

与謝野鉄幹と晶子夫妻には12人の子供がおり、以下の通りです。

  • 長男:光
  • 次男:秀
  • 長女:八峰(長女と次女は双子)
  • 次女:七瀬
  • 三男:麟
  • 三女:佐保子
  • 四女:宇智子
  • 四男:アウギュスト(後年「いく」と改名)
  • 五女:エレンヌ
  • 五男:健
  • 六男:寸(生後二日で死亡)
  • 六女:藤子

次男の与謝野秀は外交官として勤務し、1964年東京オリンピックの事務長を務めました。そしてその息子である与謝野馨は、第1次安倍改造内閣の時に第74代内閣官房長官の任務を果たしています。

与謝野晶子、生涯で三度「源氏物語」を訳す

源氏物語の世界

与謝野晶子は幼少期から「源氏物語」のファンで、晶子が文学の道へと進んだきっかけにもなる作品です。晶子が活躍していた当時、「源氏物語」の現代語訳は「湖月抄」くらいしかありませんでした。そのため、小説家の小林政治から「源氏物語」の現代語訳を依頼され、これに快諾します。

この作品は「源氏物語講義」として製作され、100ヶ月で訳すようにという厳しい時間制限の中執筆されました。しかし、1923年の関東大震災で多量の草稿を焼失してしまい、ほとんどの原稿は残っていません。

晶子はそれ以外に「新訳源氏物語」と「新新訳源氏物語」の2作品を発表しており、これらの原稿の元となったのが「源氏物語講義」だそうです。つまり晶子は生涯で3度の「源氏物語」訳を行ったということになります。

これらの作品は現在でも評価されており、現代版に修正された文庫本は170万部以上も売り上げています。

与謝野晶子の有名な短歌は?

与謝野晶子 短歌

与謝野晶子の詩歌で欠かせないのは「君死にたまふことなかれ」ですが、短歌で有名なものはあるのでしょうか。「みだれ髪」は女性の官能を赤裸々に描いた歌集で、短歌も多く収められています。

「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」
意味:血潮で熱く火照った柔らかい肌にふれもせずに、人生を語るだけでは寂しいのでは?

「みだれ髪を 京の島田にかへし 朝ふしていませの君ゆりおこす」
意味:起きたてで乱れた髪の毛を島田に結い直して、まだ寝ているあなたを揺り起こします。

みだれ髪に掲載されている以外でも、様々な地を訪れた時に詠んだ歌が残っています。その一例をご紹介します。

山形県の温海温泉にて
「さみだれの 出羽の谷間の 朝市に 傘して売るは おほむね女」
意味:五月雨が降りしきる中で朝市の商売をする人は大抵が女の人だ。

この歌は女性が社会の一役を担っているということを伝えるとともに、男の人との境遇の違いを批判しています。晶子は生涯を通じてこのような女性の社会的立場を詠んだ歌を多く残しました。

与謝野晶子の功績

功績1「『君死にたまふことなかれ』の発表」

君死にたまふことなかれ

与謝野晶子は1904年に日露戦争へと向かう弟を思って「君死にたまふことなかれ」を発表します。戦争に反対する気持ちを弟を想う言葉を用いて表現したのです。当時の日本は戦争することを是とする「主戦論」が主流でした。

そのため、「君死にたまふことなかれ」は教育勅語に反する、愛国心がなっていないなどの批判を大いに受けました。しかし、晶子は「自分は間違っていない、私は正しいことを言ったまでだ、戦争に反対して何が悪い。」という主張により反論します。

現在では戦争に対する庶民の気持ちを代弁した有名な作品として小中学校の教科書にも取り上げられています。

功績2「『みだれ髪』執筆」

みだれ髪

晶子は与謝野鉄幹との不倫の関係となった直後、1900年に歌集「みだれ髪」を発表します。当時は女性の性的な側面を作品に表すことはタブーとされていました。しかし、この「みだれ髪」では女性の官能について包み隠さずに描いたため話題となります。

この作品は保守的な人々からは反発を受け、若者たちからは絶大な支持を受けることとなりました。発表当初は評価が二分した「みだれ髪」ですが、これ以後の文学作品では女性の官能についてそれほどの制約を受けずに描けるようになったため、現在では表現の幅を広げたきっかけの作品として評価されています。

功績3「女性の地位向上に努める 」

平塚らいてう

与謝野晶子の生きた時代は女性の社会進出を訴える声が大きくなっていました。「青鞜」を出版した平塚らいてうをはじめ、女性活動家が多く生まれます。晶子はその中でも評論による政府へのバッシングと、女性の参政権取得を主に活動していました。

作品の中で政府や国会議員に対して不信感や不満をあらわにするような表現を用いたり、女性の参政権取得のために作曲家の山田耕筰と共同制作で歌を作ったりしています。残念ながら晶子の生きている間に女性の参政権獲得は叶いませんでしたが、後年に獲得できるようになったのは晶子の尽力のおかげとも言えるでしょう。

与謝野晶子の名言

「政府はなぜいち早く、この危険を防止するために多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。」

100年以上前にスペイン風邪が流行っていた当時、与謝野の一家全員が感染し、対応の遅い政府に対して与謝野晶子が放った名言です。

「人は刹那に生きると共に永遠にも生きる。」

人の命は100年前後と短いものですが、その人が他人に与えた影響や記憶は永遠に残り続けます。「君死にたまふことなかれ」をはじめとする多くの作品を残してきた与謝野晶子は生きている瞬間もたくさんの人に影響をあたえながら、現代の私たちにも重大なメッセージを残してくれています。

「男子に偏る国の政治、久しき不正を洗ひ去らん。」

女性の活躍する社会を夢見ていた与謝野晶子らしい名言です。男の人を中心として繰り広げられる政治に不信感を抱いていた晶子はそれに対して反発し続けます。その甲斐もあって徐々に女性の立場も改善して行きました。

与謝野晶子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「双子を出産し、森鴎外に命名を託す」

与謝野鉄幹・晶子夫妻は子供が多かったことで有名ですが、長女と次女は双子でした。晶子はこの2人の命名を森鴎外に託したのです。

与謝野夫妻は森鴎外とは古くから仲が良く、鉄幹は師匠として尊敬するほどでした。鉄幹と晶子が発表した文芸作品が周囲からバッシングを受けた際も始終味方でいてくれ、その後の支援もしてくれたのです。

「明星」を発刊する際も、多くの書き手を集めてくれたのが森鴎外で、鴎外自身も毎回、「明星」へ作品を投稿してくれました。

都市伝説・武勇伝2「与謝野晶子は実は略奪婚?」

与謝野鉄幹

与謝野晶子は和歌や詩歌を発表するようになった初期の頃に、読売新聞に掲載された与謝野鉄幹の歌に心惹かれます。当時、鉄幹は雑誌「明星」の創立者として活躍していましたが、ある時の歌会で晶子と意気投合します。

鉄幹は妻子のある身でしたが、晶子との関係は徐々に親しいものとなっていき、前の妻との離婚話にまで発展します。最終的には鉄幹と晶子がくっつくことになるのですが、現代の日本では不倫や略奪婚という捉え方をされても文句は言えません。

与謝野晶子の簡単年表

1878年 - 0歳
与謝野晶子誕生

与謝野晶子は本名を「鳳 志やう(ほう しょう)」といい、堺県和泉国第一大区甲斐町に生まれました。現在では大阪府堺市堺区甲斐町となっています。和菓子屋を営む両親の間にもうけられた三番目の女の子でした。

1887年 - 9歳
漢学塾に入る

9歳の時には漢学の塾に入り、漢学を学ぶかたわら、琴や三味線などの楽器も習っていました。その後、堺女学校へ入学し、在学中に源氏物語を読んだり、幸田露伴、樋口一葉らの小説に没頭したりします。

1895年 - 17歳
実家の和菓子屋の店番をしつつ和歌を詠むように

堺女学校を卒業すると、和菓子屋の手伝いをしながら、和歌を詠むようになりました。1895年には「文芸倶楽部」に短歌が載せられます。その翌年にも「堺敷島会歌集」に短歌が掲載されるなど精力的に歌を詠んでいきました。

1897年 - 19歳
浪華青年文学会に入会

他の歌人が集まって創設された浪華青年文学会に入会し、これまでに発表していた短歌とは趣を変えた歌を披露していきます。この頃に与謝野鉄幹の短歌を新聞にて知ることとなりました。

1900年 - 22歳
与謝野鉄幹と密接な関係に

与謝野鉄幹は「明星」の創立者でしたが、かねてから鉄幹の歌に注目していた与謝野晶子は「明星」に和歌を投稿し続けます。その後、大阪の地で鉄幹と出会うことになり、妻がいる身である鉄幹と晶子は親しくなっていくのでした。

1901年 - 23歳
「みだれ髪」発表

晶子は活動拠点を東京へと移し、そこで「みだれ髪」の執筆を開始します。当時としては物議を醸すような女性の官能について描いた作品でありましたが、徐々に受け入れられるようになり、のちの文学界に大きな影響を与えます。この年には鉄幹と結婚することにもなりました。

1904年 - 26歳
「君死にたまふことなかれ」を「明星」に掲載

戦時中の弟について書いた有名な長詩「君死にたまふことなかれ」を発表します。当時は愛国心に反するとして非難されましたが、現在では歴史の教科書に載るほど重要な作品として取り上げられています。

1908年 - 30歳
「明星」廃刊

自然主義の台頭と有力作家の「明星」からの脱退が相次ぎ、1899年から約9年間続いた「明星」が1908年に廃刊となってしまいます。

1909年 - 31歳
「源氏物語」の口語訳を開始

「明星」が廃刊した後も精力的に歌集や評論などを文壇へと上げていましたが、仲間のすすめにより、「源氏物語」の口語訳を行うことを決めます。

1911年 - 33歳
「青鞜」に「そぞろごと」を発表

平塚らいてうを中心として刊行された「青鞜」にて「そぞろごと」という作品を発表し、巻頭を飾りました。

1915年 - 37歳
女性の参政権を訴えるなど、社会評論を行うようになる

この頃の晶子は社会に対して、特に政治に対しての評論を多く書くようになりました。1911年に晶子が「そぞろごと」を文壇に発表した際に、文部省が文芸作品に対する取締りの意味も込めて、文芸委員会を発足したことが晶子の反感を買うきっかけとなったのです。

1921年 - 43歳
御茶ノ水に文化学院を創設

建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、夫の与謝野鉄幹とともに御茶ノ水の地に文化学院を創設します。この学校の理念は自由主義を土台とし、芸術による人格の形成を目標とする教育を掲げていました。

1924年 - 46歳
婦人参政権獲得期成同盟会の創立に寄与

婦人参政権獲得期成同盟会は、平塚らいてうが中心となって結成された新婦人協会の後身の組織です。かねてから婦人の参政権獲得に意欲を燃やしていた晶子は同盟会のキーマンとして創立に関わることとなりました。

1935年 - 57歳
夫・与謝野鉄幹が急性肺炎にて亡くなる

晶子は文壇への歌集や文芸作品の投稿を続けていましたが、1934年に狭心症の発作を起こし、健康面に不安を抱えるようになります。その翌年、鉄幹が急性肺炎にて帰らぬ人となってしまうのです。享年62歳でした。この頃から晶子の方も徐々に体調の悪化が始まります。

1942年 - 63歳
尿毒症にて帰らぬ人に

1940年に脳溢血を起こし、右半身不随となります。その後も体調が優れない状態が続き、夫の周忌法要などにも参加できなくなっていきます。そして1942年尿毒症を引き起こし、状態が悪化、5月29日に息を引き取ったのでした。

与謝野晶子の年表

1878年 – 0歳「与謝野晶子誕生」

与謝野晶子記念館にある老舗和菓子屋 駿河屋の複製

老舗和菓子屋の娘として大阪府に誕生

与謝野晶子は本名を「鳳 志やう(ほう しょう)」と言い、老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生を受けます。この頃は店の経営が上手く回っておらず、厳しい生活を強いられていました。

それでも小学校、高等小学校と順調に進みます。9歳の頃には漢学塾へ入り、漢学を学ぶかたわら、琴や三味線の教室にも通うようになりました。高等小学校の次には堺女学校へと通うことになり、この頃から「源氏物語」などの古典や、幸田露伴、樋口一葉らの小説を読み漁るようになります。

和歌を文壇に投稿し始める

学校を卒業すると、家業の和菓子屋を手伝う合間に和歌を詠むようになります。17歳の時には「文芸倶楽部」に「鳳晶子」の名前で短歌が掲載されます。翌年には「堺敷島会歌集」にも短歌が載せられ、同誌に歌を継続的に発表するようになりました。

20歳の時に読売新聞に掲載されていた与謝野鉄幹の歌に感銘を受け、鉄幹の創設した「明星」へ短歌の投稿を行うようになります。浜寺公園の旅館で行われた歌会に晶子と鉄幹の両名が居合わせ、そこで不倫のような関係が生じるのでした。

1904年 – 26歳「『君死にたまふことなかれ』発表」

「君死にたまふことなかれ」

与謝野鉄幹との結婚

「明星」の創立者である与謝野鉄幹と1901年に結婚することとなります。鉄幹は妻子ある身でしたが、歌会などで親密になっていった晶子との関係をぬぐいきれずに前の妻・林滝野と離婚、そのまま晶子と結婚するのです。

ちなみに鉄幹は徳山女学校で教師をしていた際に、生徒である浅田信子と男女の関係に発展し、結婚します。しかし、浅田信子は早くに亡くなったため、林滝野と再婚することとなるのです。林滝野も女学校の生徒で、鉄幹との間には与謝野萃という子供をもうけました。

「君死にたまふことなかれ」発表

「君死にたまふことなかれ」は1904年日露戦争の始まりを機に発表された歌です。「ああ、おとうとよ、君を泣く」から始まる歌は小中学校で習った方も多いのではないでしょうか。

大事に育てられた弟が戦争に駆り出されることを嘆いたこの歌は当時の日本では教育勅語や宣戦詔勅に反するとして各界からバッシングを受けましたが、晶子は当然のことを述べたまでとして譲りませんでした。

現在では、当時の日本や世界の情勢と庶民の気持ちのすれ違いを表す名作として語り継がれています。

1911年 – 33歳「社会への批判、女性の社会進出の推進を行う」

青鞜

「青鞜」の発刊に携わり、「そぞろごと」で巻頭を飾る

1911年、平塚らいてうを中心とした女性による月刊誌「青鞜」の発刊に晶子も参加し、「そぞろごと」という作品で巻頭を飾ります。そしてこの年、文部省や内務省が文芸作品の諮問機関として文芸委員会を設立し、多くの作家の反感を買うこととなりました。

与謝野晶子は「大臣というものは文学を知らない」と述べ、夏目漱石は「政府は自分達に都合の良い作品しか評価しない」と語っています。これを機に晶子は政府への不信感を募らせ、国会議員に対する批判を行うとともに女性の社会進出を促進するための活動に精を出していくようになります。

婦人参政権獲得期成同盟会の創立に関わる

この頃の日本では社会における女性の活躍を望む活動家がおく、与謝野晶子、平塚らいてうを代表として数多くの女性が声をあげていました。晶子はその中でも婦人参政権に尽力し、1924年には婦人参政権獲得期成同盟会の創立者の1人として名を連ねます。

晶子の政府に対する不満は加速しており、1915年には「駄獣の群」という作品で国政に関する不信感を歌い、1930年には「婦選の歌」を山田耕筰とともに製作し、婦人参政権を訴えています。

1921年 – 43歳「男女共学の学校『文化学院』設立」

文化学院

建築家や画家らとともに「文化学院」の設立

1921年、女性の社会進出を訴える晶子は男女平等教育を唱え、日本初となる男女共学校「文化学院」を御茶ノ水に創設します。ともに創立に携わった建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに、自由主義を基礎として芸術による人格の形成を目指す教育を理念に掲げました。

講師には小説家の有馬武郎や作曲家の山田耕筰などを招聘し、数多くの生徒を輩出しました。文化学院は2018年に閉校となり、97年の歴史に幕を閉じています。

夫・与謝野鉄幹の死去

1935年急性肺炎により鉄幹が亡くなります。

読売新聞で鉄幹の歌を読んで以来憧れの感情を寄せ、結婚してからはともに「明星」の刊行を支えてきた晶子は悲嘆にくれました。2人は生涯で12人もの子供に恵まれ、鉄幹自身も文壇で活躍し、晩年は晶子とともに社会運動をしてきましたが、62年という生涯に幕を閉じたのでした。

1942年 – 63歳「与謝野晶子の死去・死因は尿毒症」

死後に切手になっている与謝野晶子

63歳で帰らぬ人に・死因は尿毒症

鉄幹の亡くなる前年の1934年に狭心症の発作を起こすなど、体調があまり優れていなかった晶子でしたが、それでも歌や文芸作品の製作には精力的に取り組んでいきます。しかし1940年、脳溢血により倒れ、一命はとりとめたものの右半身不随という後遺症が残ってしまいました。

その後は自由に動くこともままならないため、重要な会合などにしか参加できなくなっていきます。そして1942年に体調が悪化し、5月の初めには尿毒症を発症します。そこから病状は悪化の一途を辿り、5月29日に帰らぬ人となったのでした。

与謝野晶子の関連作品

おすすめ代表作

みだれ髪

当時タブーとされていた女性の秘めた部分を赤裸々に表現した歌が399首、収められている一冊です。周囲の有識者からは反感を買いますが、若者たちからは絶大な支持を受けます。話題を呼んだ本作品を現代語訳し、評伝も記載されています。

私の生い立ち

与謝野晶子の自伝です。自身が誕生した老舗和菓子屋の話から、家族、街の風景に至るまで事細かく描写されています。挿絵には竹久夢二の絵が使用されており、要所の情景が思い浮かぶような構成となっています。与謝野晶子について詳しく知りたい方にはおすすめの一冊です。

源氏物語

与謝野晶子が訳した「源氏物語」です。与謝野晶子自身がファンである「源氏物語」を自ら研究し尽くして、当時の言葉に書き換えたものをさらに現代の言葉に修正しています。晶子が生涯をかけて読み解いた「源氏物語」をわかりやすく編集しており、知識がなくてもすらすら読める本です。

おすすめの歌集、評論集

与謝野晶子歌集

与謝野晶子の和歌を約3000首収録しています。明治・大正を生きた女性の生き様、社会への批判、風景への感動など与謝野晶子が見たこと感じたことを和歌から読み取ることができます。彼女が生涯に詠んだ歌を一つ残らず味わいたいという方にはおすすめの一冊です。

与謝野晶子評論集

与謝野晶子は社会活動家としても活躍し、婦人問題を中心として政治や教育問題にまで論評を行っています。歌人としての観察力や洞察力を存分に発揮し、時の政府に対して鋭い意見を述べています。「君死にたまふことなかれ」も収録されているのでぜひ読んでみてください。

その他おすすめ書籍・本・漫画

小学館版 学習まんが人物館 与謝野晶子

歴史上の有名な政治家や武将、科学者を取り扱った伝記漫画シリーズです。与謝野晶子の生涯をイラストを用いて描いているため、理解しやすく、すらすらと読みことができます。小学生から大人まで全ての人におすすめできる一冊です。

与謝野晶子

与謝野晶子は短歌を読んだ人として広く知られていますが、それだけではなく社会評論を行ったり、「母性保護論争」を繰り広げたりと様々な業績を持っています。その多岐にわたる活動を含めた晶子の生涯を詳しく描いている一冊です。

おすすめ映画

華の乱

仁義なき戦いシリーズでおなじみの深作欣二監督作品です。与謝野晶子や有島武郎ら、大正時代に活躍した芸術家にスポットライトを当て、当時の社会情勢を描いた内容となっています。キャストには吉永小百合、松田優作、緒形拳などそうそうたるメンバーを揃えており、見ごたえ抜群の映画です。

与謝野晶子についてのまとめ

与謝野晶子は小さい頃から文学少女で「源氏物語」などを読み漁っていましたが、女学校卒業後は和歌の道へと進みます。「君死にたまふことなかれ」など世間の注目を集めるような歌を次々に発表し、自身の知名度を利用して社会活動家としても活躍しました。与謝野晶子のおかげで、女性の地位向上が進み、女性の社会進出も促されたのです。

今回の記事で与謝野晶子に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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