与謝野晶子の功績
功績1「『君死にたまふことなかれ』の発表」
与謝野晶子は1904年に日露戦争へと向かう弟を思って「君死にたまふことなかれ」を発表します。戦争に反対する気持ちを弟を想う言葉を用いて表現したのです。当時の日本は戦争することを是とする「主戦論」が主流でした。
そのため、「君死にたまふことなかれ」は教育勅語に反する、愛国心がなっていないなどの批判を大いに受けました。しかし、晶子は「自分は間違っていない、私は正しいことを言ったまでだ、戦争に反対して何が悪い。」という主張により反論します。
現在では戦争に対する庶民の気持ちを代弁した有名な作品として小中学校の教科書にも取り上げられています。
功績2「『みだれ髪』執筆」
晶子は与謝野鉄幹との不倫の関係となった直後、1900年に歌集「みだれ髪」を発表します。当時は女性の性的な側面を作品に表すことはタブーとされていました。しかし、この「みだれ髪」では女性の官能について包み隠さずに描いたため話題となります。
この作品は保守的な人々からは反発を受け、若者たちからは絶大な支持を受けることとなりました。発表当初は評価が二分した「みだれ髪」ですが、これ以後の文学作品では女性の官能についてそれほどの制約を受けずに描けるようになったため、現在では表現の幅を広げたきっかけの作品として評価されています。
功績3「女性の地位向上に努める 」
与謝野晶子の生きた時代は女性の社会進出を訴える声が大きくなっていました。「青鞜」を出版した平塚らいてうをはじめ、女性活動家が多く生まれます。晶子はその中でも評論による政府へのバッシングと、女性の参政権取得を主に活動していました。
作品の中で政府や国会議員に対して不信感や不満をあらわにするような表現を用いたり、女性の参政権取得のために作曲家の山田耕筰と共同制作で歌を作ったりしています。残念ながら晶子の生きている間に女性の参政権獲得は叶いませんでしたが、後年に獲得できるようになったのは晶子の尽力のおかげとも言えるでしょう。
与謝野晶子の名言
「政府はなぜいち早く、この危険を防止するために多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。」
100年以上前にスペイン風邪が流行っていた当時、与謝野の一家全員が感染し、対応の遅い政府に対して与謝野晶子が放った名言です。
「人は刹那に生きると共に永遠にも生きる。」
人の命は100年前後と短いものですが、その人が他人に与えた影響や記憶は永遠に残り続けます。「君死にたまふことなかれ」をはじめとする多くの作品を残してきた与謝野晶子は生きている瞬間もたくさんの人に影響をあたえながら、現代の私たちにも重大なメッセージを残してくれています。
「男子に偏る国の政治、久しき不正を洗ひ去らん。」
女性の活躍する社会を夢見ていた与謝野晶子らしい名言です。男の人を中心として繰り広げられる政治に不信感を抱いていた晶子はそれに対して反発し続けます。その甲斐もあって徐々に女性の立場も改善して行きました。
与謝野晶子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「双子を出産し、森鴎外に命名を託す」
与謝野鉄幹・晶子夫妻は子供が多かったことで有名ですが、長女と次女は双子でした。晶子はこの2人の命名を森鴎外に託したのです。
与謝野夫妻は森鴎外とは古くから仲が良く、鉄幹は師匠として尊敬するほどでした。鉄幹と晶子が発表した文芸作品が周囲からバッシングを受けた際も始終味方でいてくれ、その後の支援もしてくれたのです。
「明星」を発刊する際も、多くの書き手を集めてくれたのが森鴎外で、鴎外自身も毎回、「明星」へ作品を投稿してくれました。
都市伝説・武勇伝2「与謝野晶子は実は略奪婚?」
与謝野晶子は和歌や詩歌を発表するようになった初期の頃に、読売新聞に掲載された与謝野鉄幹の歌に心惹かれます。当時、鉄幹は雑誌「明星」の創立者として活躍していましたが、ある時の歌会で晶子と意気投合します。
鉄幹は妻子のある身でしたが、晶子との関係は徐々に親しいものとなっていき、前の妻との離婚話にまで発展します。最終的には鉄幹と晶子がくっつくことになるのですが、現代の日本では不倫や略奪婚という捉え方をされても文句は言えません。
与謝野晶子の簡単年表
与謝野晶子は本名を「鳳 志やう(ほう しょう)」といい、堺県和泉国第一大区甲斐町に生まれました。現在では大阪府堺市堺区甲斐町となっています。和菓子屋を営む両親の間にもうけられた三番目の女の子でした。
9歳の時には漢学の塾に入り、漢学を学ぶかたわら、琴や三味線などの楽器も習っていました。その後、堺女学校へ入学し、在学中に源氏物語を読んだり、幸田露伴、樋口一葉らの小説に没頭したりします。
堺女学校を卒業すると、和菓子屋の手伝いをしながら、和歌を詠むようになりました。1895年には「文芸倶楽部」に短歌が載せられます。その翌年にも「堺敷島会歌集」に短歌が掲載されるなど精力的に歌を詠んでいきました。
他の歌人が集まって創設された浪華青年文学会に入会し、これまでに発表していた短歌とは趣を変えた歌を披露していきます。この頃に与謝野鉄幹の短歌を新聞にて知ることとなりました。
与謝野鉄幹は「明星」の創立者でしたが、かねてから鉄幹の歌に注目していた与謝野晶子は「明星」に和歌を投稿し続けます。その後、大阪の地で鉄幹と出会うことになり、妻がいる身である鉄幹と晶子は親しくなっていくのでした。
晶子は活動拠点を東京へと移し、そこで「みだれ髪」の執筆を開始します。当時としては物議を醸すような女性の官能について描いた作品でありましたが、徐々に受け入れられるようになり、のちの文学界に大きな影響を与えます。この年には鉄幹と結婚することにもなりました。
戦時中の弟について書いた有名な長詩「君死にたまふことなかれ」を発表します。当時は愛国心に反するとして非難されましたが、現在では歴史の教科書に載るほど重要な作品として取り上げられています。
自然主義の台頭と有力作家の「明星」からの脱退が相次ぎ、1899年から約9年間続いた「明星」が1908年に廃刊となってしまいます。
「明星」が廃刊した後も精力的に歌集や評論などを文壇へと上げていましたが、仲間のすすめにより、「源氏物語」の口語訳を行うことを決めます。
平塚らいてうを中心として刊行された「青鞜」にて「そぞろごと」という作品を発表し、巻頭を飾りました。
この頃の晶子は社会に対して、特に政治に対しての評論を多く書くようになりました。1911年に晶子が「そぞろごと」を文壇に発表した際に、文部省が文芸作品に対する取締りの意味も込めて、文芸委員会を発足したことが晶子の反感を買うきっかけとなったのです。
建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、夫の与謝野鉄幹とともに御茶ノ水の地に文化学院を創設します。この学校の理念は自由主義を土台とし、芸術による人格の形成を目標とする教育を掲げていました。
婦人参政権獲得期成同盟会は、平塚らいてうが中心となって結成された新婦人協会の後身の組織です。かねてから婦人の参政権獲得に意欲を燃やしていた晶子は同盟会のキーマンとして創立に関わることとなりました。
晶子は文壇への歌集や文芸作品の投稿を続けていましたが、1934年に狭心症の発作を起こし、健康面に不安を抱えるようになります。その翌年、鉄幹が急性肺炎にて帰らぬ人となってしまうのです。享年62歳でした。この頃から晶子の方も徐々に体調の悪化が始まります。
1940年に脳溢血を起こし、右半身不随となります。その後も体調が優れない状態が続き、夫の周忌法要などにも参加できなくなっていきます。そして1942年尿毒症を引き起こし、状態が悪化、5月29日に息を引き取ったのでした。
与謝野晶子の年表
1878年 – 0歳「与謝野晶子誕生」
老舗和菓子屋の娘として大阪府に誕生
与謝野晶子は本名を「鳳 志やう(ほう しょう)」と言い、老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生を受けます。この頃は店の経営が上手く回っておらず、厳しい生活を強いられていました。
それでも小学校、高等小学校と順調に進みます。9歳の頃には漢学塾へ入り、漢学を学ぶかたわら、琴や三味線の教室にも通うようになりました。高等小学校の次には堺女学校へと通うことになり、この頃から「源氏物語」などの古典や、幸田露伴、樋口一葉らの小説を読み漁るようになります。
和歌を文壇に投稿し始める
学校を卒業すると、家業の和菓子屋を手伝う合間に和歌を詠むようになります。17歳の時には「文芸倶楽部」に「鳳晶子」の名前で短歌が掲載されます。翌年には「堺敷島会歌集」にも短歌が載せられ、同誌に歌を継続的に発表するようになりました。
20歳の時に読売新聞に掲載されていた与謝野鉄幹の歌に感銘を受け、鉄幹の創設した「明星」へ短歌の投稿を行うようになります。浜寺公園の旅館で行われた歌会に晶子と鉄幹の両名が居合わせ、そこで不倫のような関係が生じるのでした。
与謝野晶子の短歌に対する情熱はすごく大事なものだったことが
分かりました。
京藤さんは、ひとつのことに対して、
深く追求するタイプ?なので、
すごい。