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【童話作家】アンデルセンとはどんな人?生涯、作風、性格、功績まとめ

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、19世紀のデンマークの童話作家です。『アンデルセン童話』という童話の中でも代表的な作品群に名前が残されていることもあり、「アンデルセン」の名前を目にしたことがある方は多いのではないでしょうか?

彼は『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』など、数々の童話文学史に遺る名作を、生涯で約170作も産み出した多作さで知られるほか、その作品のほぼすべてが完全オリジナルという、非常に想像力に優れた人物でもありました。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

しかし現在でこそ「文学史上に残る偉人」として語られるアンデルセンですが、彼自身の生涯は挫折の苦悩に満ちたものでもありました。問題だらけの貧しい家庭に生まれ、成長してからも夢や恋に破れ続けたアンデルセンの人生。童話作家というある種ファンシーな職業からすると意外なほどに、アンデルセンの生涯には多くの暗いエピソードが残っています。

ということでこの記事では、『アンデルセン童話』の作者であり、中々重い生涯を送った作家「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」についてを深掘りしつつ紹介していきたいと思います。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンとはどんな人物か

名前ハンス・クリスチャン・アンデルセン
誕生日1805年4月2日
没日1875年8月4日(享年70)
生地デンマーク=ノルウェー・オーデンセ
没地デンマーク・コペンハーゲン
配偶者なし
埋葬場所デンマーク・コペンハーゲン
アシステンス教会墓地
代表作『人魚姫』
『みにくいアヒルの子』
『マッチ売りの少女』など

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの生涯をハイライト

挫折多き生涯を送ったハンス・クリスチャン・アンデルセン

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年のデンマーク=ノルウェーの都市、オーデンセに生まれました。父は最下層の靴職人、母は洗濯婦という非常に貧しい家庭でしたが、合理的な考えの父と働き者の母からの愛を受け、アンデルセンは貧しい中でも天才児として成長していくことになります。

貧しさゆえの物資の欠乏や、虚言癖のある祖母からの影響を受けて、想像力の豊かな少年として育ったアンデルセンは、父の死と母の再婚に伴ってコペンハーゲンに上京。そこで彼はオペラ歌手や劇作家を目指すも挫折し、冷遇される時代を過ごしました。「天才児」として抱いていた自信は、ここで完全に折れてしまったと言えるでしょう。

夢破れた彼は、わずかな理解者の一人であったヨナス・コリンの援助で学校に通って学ぶことになりますが、そこでも学長に冷遇されてしまい、最終的には大学を辞めて旅に出ることに。そこで彼は旅の経験をもとにした紀行文学や多くの詩作を行い、1835年の『即興詩人』がようやく話題になったことで、文壇に名乗りを上げることになりました。そして『即興詩人』のヒットと同年には『童話集』も出版しますが、これについてはむしろ、出版当時は不評だったと言われています。

しかしアンデルセンはその後も、話題を得た詩ではなく、むしろ童話の方の執筆を続けました。晩年に至るまで執筆を続けた作品の総数は170にも及ぶとされており、現在も『人魚姫』や『マッチ売りの少女』、あるいは『アナと雪の女王』の原作となった『雪の女王』など、多くの作品が読み継がれています。

そして1875年、アンデルセンはコペンハーゲンにてこの世を去りました。死因は肝臓がんであり、晩年には大人気作家となっていた彼の葬儀には、当時のデンマーク王太子から浮浪者まで、あらゆる世代の人々が参列したと伝わっています。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの性格

悲観的な人生哲学をもっていた

アンデルセンの性格は、漫画やゲームのキャラクターと言われても納得できるほど非常に”濃い”ものでした。

「天才児」と持てはやされてところから挫折に次ぐ挫折を味わったことで、「貧困層は死ぬことでしか幸せになれない」という尖った哲学を持った悲観的な人物であり、その観察眼の鋭さからくる毒舌で、周囲からは遠巻きにされる人物。しかしその一方で、旅の中で得た友人は非常に多く、友人たちの事をむげにはしない義理堅い人物でもあったと言われています。

また、非常に心配性な人物だったということも知られており、就寝する際は、間違って埋葬されないように枕もとに「死んでいません」というメモ紙を残したり、非常時に脱出できるようにロープを常備していたりと、病的ともとれる心配性なエピソードも残っています。

さらに”恋愛下手”としても知られ、彼は恋多き生涯を送りましたが、結局どの恋も成就することはなく、彼は生涯を独身で過ごすことになっています。この”恋愛下手”な部分は、アンデルセンが自分の容姿にコンプレックスを抱いていたことや、ラブレター代わりに自叙伝を送るという悪癖があったことなどが影響していると目されているようです。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの作風

『マッチ売りの少女』に代表されるように、悲劇的な作風が特徴だが…

アンデルセンの作風は、一言で言って「嘆きと悲劇」。自身の生まれや挫折の経験を経て「貧民は死ぬことでしか幸せになれない」という哲学を得たアンデルセンは、童話という形式で自身の哲学を記し続けました。

そのため、アンデルセンの作品は『マッチ売りの少女』や『人魚姫』のように、”主人公が死を迎える”という童話らしからぬ作品が非常に多く、その点もまた彼の作品の独自性を引き立てています。しかしそれらの悲観的な色は、発表当時にはバッシングの的にもなったようで、彼の童話が発表当初は評価されなかったのは、そういう彼自身の作風の影響でもあったようです。

とはいえ、多くの友人や社会的な評価を得るごとに、アンデルセンの人生哲学は次第に軟化。そのことを示すように、彼の晩年の作品には「まさに童話」と呼べるようなハッピーエンドを迎える作品も散見されています。

一作を読むだけでも楽しめるアンデルセン童話ですが、出版順に読むことで彼の人生哲学の変化を見て取ることができるのも、創作童話である『アンデルセン童話』の特徴です。彼の人生の変化が知りたい方は、伝記を読むよりも先に『アンデルセン童話』を出版順に呼んでみることをお勧めいたします。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの功績

功績1「完全オリジナルの創作童話を数多く遺す」

完全に創作である作品を数多く遺したアンデルセン

一般的に”童話”と言えば、『アンデルセン童話』のみならず『イソップ童話』や『グリム童話』も有名です。しかしアンデルセン童話とイソップ、グリム童話には、一つの明確な違いが存在しています。

実はイソップ童話とグリム童話は、様々な地域の民間伝承などを童話としてリメイクして纏めた部分が非常に大きい、言ってしまえば「説話集」のような物語群になっています。

一方でアンデルセン童話は、そういった民間伝承のリテイクではなく、アンデルセンが自分の経験やアイディアを用いて描いた、正しい意味での「創作」です。つまりアンデルセンは自分の経験から成る創作の物語を、生涯にわたって産み出し続けたということになります。

文章だけでなく、なんらかの”作品”を創作した経験のある方からすると、創作に伴う「産みの苦しみ」も理解できようもの。生涯にわたってそんな苦しみと向き合い続けたアンデルセンは、やはり優れた作家であったと言えそうです。

功績2「児童文学のノーベル賞「国際アンデルセン賞」」

アンデルセンの名を冠する「国際アンデルセン賞」のメダルには、
アンデルセンの横顔が刻まれている

アンデルセンの「業績」を示すために最も手っ取り早いのは、やはり「国際アンデルセン賞」の存在でしょう。2年に一度、「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として開催されるこの賞は、「小さなノーベル賞」と評されるほど絶大な影響力を誇っています。

日本からは『やぎさんゆうびん』や『ぞうさん』で知られるまど・みちお氏や、『守り人シリーズ』の上橋菜穂子氏、『魔女の宅急便』の角野栄子氏が作家賞を受賞している他、赤羽末吉氏と安野光雅氏が画家賞を受賞しています。

アンデルセン自身が賞の設立に尽力したわけではありませんが、国際的に最も高名な児童文学賞に名を冠する辺り、アンデルセンが非常に大きな業績を残したことが読み取れるかと思います。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの名言

すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。

作家らしい言葉であり、同時にアンデルセンの人生を知ることで大いに納得できる言葉です。アンデルセンが童話に込めた思いや嘆き、あるいは哲学がどのようなものだったのか、この言葉からも伺い知ることができます。

われわれが自分の心の中に持っているほかに悪魔はいない。

アンデルセンの考え方の一つであり、おそらくは父親から受け継いだ思想観だと思える言葉です。哲学者のような言葉であると同時に、彼の持つ観察眼と厭世観がよく表れた言葉と思います。

私が書いたものは、ほとんどが私自身の姿であり、登場人物はすべて私の人生から生まれたものです。

これもアンデルセンの人生哲学がよくわかる言葉です。貧しさや無知による悲劇を数多く描いたアンデルセンが、何を考えて作品を書いていたか。様々な言葉から想像してみるのも面白いかもしれません。

自分が醜いアヒルだと思っていたころは、こんなたくさんの幸せがあるなんて思ってもみなかった。

友人や名声を得た晩年の言葉です。自分の作品とひっかけたユーモラスな言葉は、アンデルセンという人物の人生がどのように変化していったのかを、最も端的にあらわしている言葉だと言えるでしょう。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「文字通りに「重すぎる」愛の告白」

恋多き生涯を送ったアンデルセンだったが…

挫折や嘲笑の中から、最終的には童話作家として大成したアンデルセンですが、実は生涯にわたって独身を貫き、女性との親交がほとんどない生涯を送った人物でもあります。

とはいえ、彼は同性愛者だったわけでもなければ、恋愛嫌いだったわけでもなく、むしろ彼は恋多き生涯を送り、人生の中で何度も女性に思いを伝えてはいます。つまりアンデルセンが生涯を独身で終えたのは、単純に「恋が成就しなかったから」なのです。

アンデルセンの恋が成就しなかった原因としては、まず一番にアンデルセンが自分の容姿にコンプレックスがあり、女性との関わり方が不器用過ぎたこと。そして第二に、アンデルセンのラブレターがあまりにも”変”だったことが挙げられます。

というのも、アンデルセンの書くラブレターは、自身のこれまでの人生が事細かにつづられた、愛の手紙と言うよりは自叙伝とも言うべきもの。この変な癖のせいで女性からの覚えは悪くなっていったのですが、アンデルセンは何を血迷っていたのか反省することはなく、生涯にこの形式の告白を三度もやらかしています。

様々な美しい童話を生み出したアンデルセンですが、その一方で自分の気持ちを素直に文章に表すのは苦手としていたのかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝2「童話の裏側に描かれる「社会への嘆き」」

『人魚姫』のように、一見すると美しい文章で「悲劇」を描くのが、アンデルセンの独自の魅力

泡になって消える『人魚姫』。幸せな夢の果てに死んでしまう『マッチ売りの少女』など、アンデルセンの作品は「死以外に幸せになる方法はない」というアンデルセンの人生哲学を色濃く表しています。

しかし彼の物語は同時に、彼自身が経験した「貧しさ」や「差別」「人の悪意や無関心」などへの嘆きが込められた、社会を皮肉る作品であるとも読み取ることができます。例えば『マッチ売りの少女』なんかは、「貧しい少女に無関心な人々」が招いた悲劇とも受け取れますし、『みにくいアヒルの子』なんかは、そのまま「差別」の物語と読むことも出来ます。

このように、形式上は「童話」でありながら、非常に深い社会批評と観察眼が光っているのもアンデルセンの作品群の魅力。下手な哲学者の言葉や社会学者の言葉よりも、分かりやすいかつ痛烈な物語になっていますので、このサイトを見ている皆様も是非一度、そういった観点でアンデルセン童話を読んでいただければと思います。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの年表

1805年 – 0歳「デンマーク=ノルウェー、オーデンセの貧民の家庭に生まれる」

アンデルセンの故郷であるオーデンセの現在

オーデンセの貧民の子として生を受ける

この年の4月2日、後の童話作家であるアンデルセンは、オーデンセに生まれました。貧しい家庭の生まれだったため、幼いアンデルセンは馬屋を改装した小さな家で、家族で肩を寄せ合って眠るような暮らしをしていたことが記録されています。

しかし、その生活は「清貧」と呼べるようなものでは決してなかったようで、学歴コンプレックスを抱えた内閉的な父親や、信心深いながらアンデルセンの事を「天才」だと妄信しすぎる母親、精神病を患った祖父や虚言壁のある祖母など、むしろ問題だらけの環境でアンデルセンは育てられていたようです。

そんな環境の影響からか、アンデルセンは勉強熱心な「天才児」として育っていくことになるのですが、その一方で彼は異常な功名心と英雄願望を抱くことになり、その人格形成は後の挫折にも大きく影響を与えることになりました。

「童話作家」の片鱗

問題ある家庭の中ではありますが、母の期待通りに「天才児」として育ったアンデルセンは、幼少期から童話作家としての片鱗を見せています。

靴職人で手先が器用だった父は、アンデルセンに対して様々な手作りの人形を与え、その人形で『アラビアン・ナイト』をはじめとする名作の人形劇をアンデルセンに見せてくれていました。そのように幼い頃から名作に触れて育ったアンデルセンは、次第に「物語を作る」ということに魅せられ、自分で人形劇の脚本を作って楽しむようになったのだといいます。

また、この頃から小説の執筆を行っていたことも最近になって明らかになっており、2012年にデンマーク国立公文書館から、アンデルセンの少年期の作品である『獣脂ろうそく』という作品が発見されています。

問題だらけの家庭環境ではありましたが、作家・アンデルセンの片鱗は、この頃から確かに存在していたと言えるでしょう。

1812~1816年 – 7~11歳「父の死」

アンデルセンの父の死の原因・ナポレオン戦争

失意と貧困が招いた父の死

1812年、アンデルセンの父親は知り合いの代わりとして2年間従軍。お礼金だけでなく、軍からの給料を期待しての従軍でしたが、間の悪いことに1813年にデンマークは財政破綻してしまいます。

この財政破綻によって軍からの給料は支払われなくなり、アンデルセンの父親は絶望。精神を病んでしまった彼は、1816年に帰らぬ人となってしまいました。

更に同時期には、かねてより精神病を患っていた祖父も発狂の末に死亡しており、アンデルセンは「自分も将来、このように精神を病むのではないか」と不安に思っていたようです。

祖母からの影響

父の死はアンデルセンに不安を植え付けたのみならず、アンデルセンの母の精神を病ませる結果ともなりました。アンデルセンの母は夫を失ったことで酒浸りになってしまい、アンデルセンは祖母に養育を受けることになります。

そしてこの祖母というのも問題のある人物。彼女はアンデルセンを深く愛していましたが、同時に病的な虚言癖の持ち主で、彼女に養育されることになったアンデルセンも、そんな虚言癖を受け継ぐことになり、小学校では遠巻きにされる存在となってしまいました。

とはいえ、そんな祖母からの影響は”想像力”となって、後の童話執筆の力になっています。決して褒められた人物ではない祖母ですが、後のアンデルセンの偉業を支えたのは、祖母に養育されたこの期間の存在が大きかったのかもしれません。

1819~1821年 – 14~16歳「コペンハーゲンに上京。しかし…」

夢を抱いたアンデルセンが訪れた、コペンハーゲンの現在

夢を抱いてコペンハーゲンへ

この年、アンデルセンは「オペラ歌手になる」という夢を抱いて学校を中退。母からの制止を振り切って、コペンハーゲンに上京しました。

ツテもなければ元手もない上京でしたが、この頃のアンデルセンは”ナルシスト”と言えるほどに自分に自信を持っていたらしく、「必ず自分のソプラノボイスを認める楽団があるはずだ!」と信じて疑っていなかったようです。

しかしこの上京こそが、アンデルセンの後の人生哲学を決定づける出来事となり、それは同時に、アンデルセンがこれまで培ったプライドを粉々に粉砕することになるのでした。

困窮と挫折に満ちた3年間

「楽団に認められて華々しくデビューする」というアンデルセンの期待は外れ、彼を認める楽団は現れませんでした。それどころか、自慢だったソプラノボイスは変声期を迎えて変わり果て、そもそもの身長の低さや優れているとは言えない容姿も手伝って、彼はオペラ歌手の夢を諦めることを余儀なくされてしまいます。

「それならば」と彼は劇の台本や歌の制作にも手を出しますが、これも失敗。ジュゼッペ・シボーニ、などからは一定の理解を得ることには成功しますが、彼は社会的な成功を掴むことはできず、貧困と挫折に満ちた3年間を過ごすことになりました。

1822年 – 17歳「ヨナス・コリンの援助を受けて大学に通うことに」

アンデルセンとヨナスの出会いの場となった、デンマーク王立劇場

ヨナス・コリンに才能を見初められる

この年、酷評されていたアンデルセンの作品に興味を示す人物が現れます。デンマーク王の侍従であり、王立劇場の支配人だったヨナス・コリンはアンデルセンの才能を認め、「もっときちんと文法やラテン語を学ぶべきだ」と、アンデルセンを援助して学校に通わせてくれたのです。

アンデルセンはヨナスの事を「第一の父」と呼ぶほどに慕い、コリン家の人々とアンデルセンの交流は、終生にわたって続けられました。しかし、貧民生まれのアンデルセンと貴族のコリン家の間にある価値観の違いは拭い去ることができず、彼らの関係は友好的な親子のようでありながら、どこか噛み合わない関係性でもあったようです。

大学にて才能を酷評されるが、ヨナスによって救われる

こうして学校に通い始めたアンデルセンでしたが、ここでも文才を酷評されることになり、「天才児」と持ち上げられていたアンデルセンのプライドは粉々に打ち砕かれることになりました。

しかしここで立ち上がったのは、アンデルセン本人ではなくその支援者のヨナスでした。ヨナスはアンデルセンの教育を個人授業に切り替えて、彼の文才を伸ばすことに終始。そんなヨナスの尽力もあって、アンデルセンは1828年には大学に入学。文献学と哲学を修める事に成功したのでした。

1833年 – 28歳「大学を辞め、ヨーロッパを巡る旅に出る」

アンデルセンが旅の終盤に訪れたローマの街は、彼の創作に大きな影響を与えた

ヨーロッパ漫遊の旅

大学に入学するも、結局そこに馴染めなかったアンデルセンは大学を自主退学し、ヨーロッパを巡る旅に出ることを決意。ヨハンとの交流によって友人関係になっていたデンマーク国王から遊学助成金を受け取り、ヨーロッパを巡りながら作品の執筆を行いました。

そんな諸国漫遊の旅の中で、アンデルセンは様々な芸術家や文学者と親交を結んだほか、『アグネーテと人魚』という詩も執筆。これは大衆には不評でしたが、詩人たちの間では話題になる一作であり、この頃のアンデルセンは「知る人ぞ知る名作家」と言った形の評判を得ていました。

そして漫遊の旅が終わりに近づいた頃。ローマ滞在中にアンデルセンは『即興詩人』という作品の執筆を開始。そしてこの作品が、アンデルセンの運命を大きく変える一作となるのです。

1835年 – 30歳「『即興詩人』によって一躍話題の作家に」

『即興詩人』の日本語訳を行ったのは森鴎外

『即興詩人』

ヨーロッパ漫遊から着想を得た作品『即興詩人』を上梓し、これが大ヒット。ヨーロッパ各国で翻訳と出版が成され、アンデルセンは作家として一躍出世することになりました。

『即興詩人』は日本においては森鴎外によって和訳されて読み継がれています。しかしその一方で、海外では既に忘れ去られかけ、アンデルセンの作品の中ではマイナーな扱いを受けているのが現状のようです。

『童話集』

『即興詩人』の出版と同年に、アンデルセンは『童話集』を出版。正確な発表年は不明ですが、『親指姫』『人魚姫』『裸の王様』などの作品は、この近辺で発表されたものとされています。

現在でこそ「童話作家」というイメージの強いアンデルセンですので、これらの童話も好評を得たように思われますが、実は当時の評価はその真逆。アンデルセンの悲観的で仄暗い作風と、当時は一般的でなかった口語体の文章、何より分かりやすい教訓のない物語はあまり評価されなかったらしく、アンデルセンの最初の『童話集』は、発表当初はむしろ評価が低かったようです。

しかし最終的には、その美しい文章や易しい語り口が子供たちに評価され始めたことで、次第に社会的評価は一変。アンデルセンは徐々に、童話作家として頭角を現すことになっていきました。

1843年 – 38歳「パリ訪問」

アンデルセンと交流を持った
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)

パリにて有名人たちと交流を持つ

『即興詩人』の発表と、その後の数々の童話の評価の高まりによって、一躍文学界のスター作家にのし上がったアンデルセンは、この年の1月に再びパリを訪問。

バルザック、ヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ父子などの名だたる文学者や芸術家と交流を深めることになりました。

この頃のアンデルセンも、未だに友人から「偏屈な難物」と評される偏屈者だったようですが、この頃の成功や友人の増加を境にその傾向は軟化していき、そのような変化は後の作品にも大きく影響を与えています。

ジェニー・リンドへの恋

パリ訪問の最中、アンデルセンはスウェーデンの歌姫、ジェニー・リンドと再会することになります。

アンデルセンは以前のヨーロッパ漫遊でジェニーと知り合っており、彼はもともとジェニーの事を憎からず思っていたようですが、再会から交友を深めることでその感情は恋へ発展。彼はジェニーのデンマーク公演を援助する形で気を引き、それから先述の「死ぬほど重い告白」をやらかしました。

そして案の定、ジェニーからは「NO」の返事を突きつけられ、アンデルセンの恋はあえなく玉砕。しかしジェニーはアンデルセンの事を「親愛なるお兄様」と慕っていたようで、二人の関係性は決して悪いものではなかったようです。

『新童話集』

また、アンデルセンはこの年に『新童話集』を発表。

この中には『みにくいアヒルの子』や『小夜啼鳥(ナイチンゲール)』『マッチ売りの少女』などが収められており、アンデルセンの厭世観に満ちた作風も残ってはいますが、少しずつハッピーエンドを迎える作品が増え始めていることも見て取ることができます。

1850年 – 45歳「名声ではなく、友人たちへの貢献活動が増え始める」

アンデルセンが自作し、友人の子に送ったとされる絵本

「名声」ではなく「友人への貢献」を求めて

この頃のアンデルセンは、依然として童話作家として活発に活動を続ける反面、自身の名声ではなく友人たちに向けた活動をすることが増え始めます。

特に、自分の得意としていた切り絵を用いた絵本を作ることが多く、それらは友人の子や孫に対して贈られ、その小さな子供たちの目を楽しませていたようです。

また、この頃になってくると作風に見られていた人生への悲観もほとんど見られなくなっており、彼の精神は晩年に至ってようやく大成したと言えそうです。

1875年 – 70歳「肝臓ガンで死去。盛大な葬列で送られる」

コペンハーゲンにある人魚姫の像は、アンデルセンの作品をもとにした名所として知られる

肝臓ガンで死去

この年、アンデルセンは肝臓がんによって死去。恋多き生涯を送りながら、結局恋を実らせることはできなかった彼は、初恋の相手からの手紙を握りしめて事切れていたとも伝わっています。

そして、デンマークの誇る大作家となっていたアンデルセンの死は一大ニュースとしてデンマーク中を駆け巡りました。彼の葬儀にはデンマーク王太子や、世代や身分を問わないファンが詰めかけ、凄まじい大騒ぎになったことが記録されています。

多くの挫折と厭世観に苛まれながら作品を書き続けた大作家は、最後の最後に多くの人から惜しまれて死ぬという、幼い頃に望んだ成功の一端を掴んでこの世を去ることになったのです。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

人魚姫

誰もが知っている名作ですが、作者であるアンデルセンの生涯を知ってから読むことで、少し印象が変わる作品です。

子供には美しくも悲しい話として。大人にはアンデルセンという作家が抱いていた厭世観や哲学に思いを馳せながら読んでほしい珠玉の名作の一つだと言えます。

みにくいアヒルの子

『人魚姫』がアンデルセンの厭世観を示す作品なら、こちらはアンデルセンの成長や変化を描いた作品であるとも言えます。

誰もが知っている作品ではありますが、アンデルセンの生涯を知ってから読むとまた印象が違ってくる、伝記のようにも楽しめる作品です。

マッチ売りの少女・雪の女王

ディズニーの大ヒット映画『アナと雪の女王』の原作と、誰もが知る名作『マッチ売りの少女』です。

どちらもアンデルセンらしい悲劇的な世界観の中に、美しさすら感じるエッセンスが多数詰め込まれた、紛れもない名作になっています。

関連外部リンク

ハンス・クリスチャン・アンデルセンについてのまとめ

苦難と挫折に満ちた生涯の中で、自身の人生哲学を盛り込んだ美しい童話を数多く遺したアンデルセン。彼は若いころ、自身の生涯を「神の手によって書かれた童話」と皮肉交じりに表現していましたが、彼の生涯全てを辿ってみると、彼の生涯は確かに「童話」のようなハッピーエンドを迎えたように思えます。

とはいえ、この記事では網羅しきれていなかった部分も実はチラホラ。アンデルセンの重すぎる恋愛観を示すエピソードだとか、生涯の親友となった人物とのエピソードだとか、泣く泣く切らざるを得なかったエピソードも結構な数存在しています。

皆様の「もっと知りたい!」という声次第ではその部分を掘り下げた記事の執筆も可能ですので、そう感じた方はコメントなどで反応をお願い致します…!

それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!

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