【童話作家】アンデルセンとはどんな人?生涯、作風、性格、功績まとめ

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの名言

すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。

作家らしい言葉であり、同時にアンデルセンの人生を知ることで大いに納得できる言葉です。アンデルセンが童話に込めた思いや嘆き、あるいは哲学がどのようなものだったのか、この言葉からも伺い知ることができます。

われわれが自分の心の中に持っているほかに悪魔はいない。

アンデルセンの考え方の一つであり、おそらくは父親から受け継いだ思想観だと思える言葉です。哲学者のような言葉であると同時に、彼の持つ観察眼と厭世観がよく表れた言葉と思います。

私が書いたものは、ほとんどが私自身の姿であり、登場人物はすべて私の人生から生まれたものです。

これもアンデルセンの人生哲学がよくわかる言葉です。貧しさや無知による悲劇を数多く描いたアンデルセンが、何を考えて作品を書いていたか。様々な言葉から想像してみるのも面白いかもしれません。

自分が醜いアヒルだと思っていたころは、こんなたくさんの幸せがあるなんて思ってもみなかった。

友人や名声を得た晩年の言葉です。自分の作品とひっかけたユーモラスな言葉は、アンデルセンという人物の人生がどのように変化していったのかを、最も端的にあらわしている言葉だと言えるでしょう。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「文字通りに「重すぎる」愛の告白」

恋多き生涯を送ったアンデルセンだったが…

挫折や嘲笑の中から、最終的には童話作家として大成したアンデルセンですが、実は生涯にわたって独身を貫き、女性との親交がほとんどない生涯を送った人物でもあります。

とはいえ、彼は同性愛者だったわけでもなければ、恋愛嫌いだったわけでもなく、むしろ彼は恋多き生涯を送り、人生の中で何度も女性に思いを伝えてはいます。つまりアンデルセンが生涯を独身で終えたのは、単純に「恋が成就しなかったから」なのです。

アンデルセンの恋が成就しなかった原因としては、まず一番にアンデルセンが自分の容姿にコンプレックスがあり、女性との関わり方が不器用過ぎたこと。そして第二に、アンデルセンのラブレターがあまりにも”変”だったことが挙げられます。

というのも、アンデルセンの書くラブレターは、自身のこれまでの人生が事細かにつづられた、愛の手紙と言うよりは自叙伝とも言うべきもの。この変な癖のせいで女性からの覚えは悪くなっていったのですが、アンデルセンは何を血迷っていたのか反省することはなく、生涯にこの形式の告白を三度もやらかしています。

様々な美しい童話を生み出したアンデルセンですが、その一方で自分の気持ちを素直に文章に表すのは苦手としていたのかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝2「童話の裏側に描かれる「社会への嘆き」」

『人魚姫』のように、一見すると美しい文章で「悲劇」を描くのが、アンデルセンの独自の魅力

泡になって消える『人魚姫』。幸せな夢の果てに死んでしまう『マッチ売りの少女』など、アンデルセンの作品は「死以外に幸せになる方法はない」というアンデルセンの人生哲学を色濃く表しています。

しかし彼の物語は同時に、彼自身が経験した「貧しさ」や「差別」「人の悪意や無関心」などへの嘆きが込められた、社会を皮肉る作品であるとも読み取ることができます。例えば『マッチ売りの少女』なんかは、「貧しい少女に無関心な人々」が招いた悲劇とも受け取れますし、『みにくいアヒルの子』なんかは、そのまま「差別」の物語と読むことも出来ます。

このように、形式上は「童話」でありながら、非常に深い社会批評と観察眼が光っているのもアンデルセンの作品群の魅力。下手な哲学者の言葉や社会学者の言葉よりも、分かりやすいかつ痛烈な物語になっていますので、このサイトを見ている皆様も是非一度、そういった観点でアンデルセン童話を読んでいただければと思います。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの年表

1805年 – 0歳「デンマーク=ノルウェー、オーデンセの貧民の家庭に生まれる」

アンデルセンの故郷であるオーデンセの現在

オーデンセの貧民の子として生を受ける

この年の4月2日、後の童話作家であるアンデルセンは、オーデンセに生まれました。貧しい家庭の生まれだったため、幼いアンデルセンは馬屋を改装した小さな家で、家族で肩を寄せ合って眠るような暮らしをしていたことが記録されています。

しかし、その生活は「清貧」と呼べるようなものでは決してなかったようで、学歴コンプレックスを抱えた内閉的な父親や、信心深いながらアンデルセンの事を「天才」だと妄信しすぎる母親、精神病を患った祖父や虚言壁のある祖母など、むしろ問題だらけの環境でアンデルセンは育てられていたようです。

そんな環境の影響からか、アンデルセンは勉強熱心な「天才児」として育っていくことになるのですが、その一方で彼は異常な功名心と英雄願望を抱くことになり、その人格形成は後の挫折にも大きく影響を与えることになりました。

「童話作家」の片鱗

問題ある家庭の中ではありますが、母の期待通りに「天才児」として育ったアンデルセンは、幼少期から童話作家としての片鱗を見せています。

靴職人で手先が器用だった父は、アンデルセンに対して様々な手作りの人形を与え、その人形で『アラビアン・ナイト』をはじめとする名作の人形劇をアンデルセンに見せてくれていました。そのように幼い頃から名作に触れて育ったアンデルセンは、次第に「物語を作る」ということに魅せられ、自分で人形劇の脚本を作って楽しむようになったのだといいます。

また、この頃から小説の執筆を行っていたことも最近になって明らかになっており、2012年にデンマーク国立公文書館から、アンデルセンの少年期の作品である『獣脂ろうそく』という作品が発見されています。

問題だらけの家庭環境ではありましたが、作家・アンデルセンの片鱗は、この頃から確かに存在していたと言えるでしょう。

1812~1816年 – 7~11歳「父の死」

アンデルセンの父の死の原因・ナポレオン戦争(イメージ)

失意と貧困が招いた父の死

1812年、アンデルセンの父親は知り合いの代わりとして2年間従軍。お礼金だけでなく、軍からの給料を期待しての従軍でしたが、間の悪いことに1813年にデンマークは財政破綻してしまいます。

この財政破綻によって軍からの給料は支払われなくなり、アンデルセンの父親は絶望。精神を病んでしまった彼は、1816年に帰らぬ人となってしまいました。

更に同時期には、かねてより精神病を患っていた祖父も発狂の末に死亡しており、アンデルセンは「自分も将来、このように精神を病むのではないか」と不安に思っていたようです。

祖母からの影響

父の死はアンデルセンに不安を植え付けたのみならず、アンデルセンの母の精神を病ませる結果ともなりました。アンデルセンの母は夫を失ったことで酒浸りになってしまい、アンデルセンは祖母に養育を受けることになります。

そしてこの祖母というのも問題のある人物。彼女はアンデルセンを深く愛していましたが、同時に病的な虚言癖の持ち主で、彼女に養育されることになったアンデルセンも、そんな虚言癖を受け継ぐことになり、小学校では遠巻きにされる存在となってしまいました。

とはいえ、そんな祖母からの影響は”想像力”となって、後の童話執筆の力になっています。決して褒められた人物ではない祖母ですが、後のアンデルセンの偉業を支えたのは、祖母に養育されたこの期間の存在が大きかったのかもしれません。

1819~1821年 – 14~16歳「コペンハーゲンに上京。しかし…」

夢を抱いたアンデルセンが訪れた、コペンハーゲンの現在

夢を抱いてコペンハーゲンへ

この年、アンデルセンは「オペラ歌手になる」という夢を抱いて学校を中退。母からの制止を振り切って、コペンハーゲンに上京しました。

ツテもなければ元手もない上京でしたが、この頃のアンデルセンは”ナルシスト”と言えるほどに自分に自信を持っていたらしく、「必ず自分のソプラノボイスを認める楽団があるはずだ!」と信じて疑っていなかったようです。

しかしこの上京こそが、アンデルセンの後の人生哲学を決定づける出来事となり、それは同時に、アンデルセンがこれまで培ったプライドを粉々に粉砕することになるのでした。

困窮と挫折に満ちた3年間

「楽団に認められて華々しくデビューする」というアンデルセンの期待は外れ、彼を認める楽団は現れませんでした。それどころか、自慢だったソプラノボイスは変声期を迎えて変わり果て、そもそもの身長の低さや優れているとは言えない容姿も手伝って、彼はオペラ歌手の夢を諦めることを余儀なくされてしまいます。

「それならば」と彼は劇の台本や歌の制作にも手を出しますが、これも失敗。ジュゼッペ・シボーニ、などからは一定の理解を得ることには成功しますが、彼は社会的な成功を掴むことはできず、貧困と挫折に満ちた3年間を過ごすことになりました。

1822年 – 17歳「ヨナス・コリンの援助を受けて大学に通うことに」

アンデルセンとヨナスの出会いの場となった、デンマーク王立劇場

ヨナス・コリンに才能を見初められる

この年、酷評されていたアンデルセンの作品に興味を示す人物が現れます。デンマーク王の侍従であり、王立劇場の支配人だったヨナス・コリンはアンデルセンの才能を認め、「もっときちんと文法やラテン語を学ぶべきだ」と、アンデルセンを援助して学校に通わせてくれたのです。

アンデルセンはヨナスの事を「第一の父」と呼ぶほどに慕い、コリン家の人々とアンデルセンの交流は、終生にわたって続けられました。しかし、貧民生まれのアンデルセンと貴族のコリン家の間にある価値観の違いは拭い去ることができず、彼らの関係は友好的な親子のようでありながら、どこか噛み合わない関係性でもあったようです。

大学にて才能を酷評されるが、ヨナスによって救われる

こうして学校に通い始めたアンデルセンでしたが、ここでも文才を酷評されることになり、「天才児」と持ち上げられていたアンデルセンのプライドは粉々に打ち砕かれることになりました。

しかしここで立ち上がったのは、アンデルセン本人ではなくその支援者のヨナスでした。ヨナスはアンデルセンの教育を個人授業に切り替えて、彼の文才を伸ばすことに終始。そんなヨナスの尽力もあって、アンデルセンは1828年には大学に入学。文献学と哲学を修める事に成功したのでした。

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1 COMMENT

匿名

面白く読ませていただきました。是非アンデルセンの詳しいエピソード読んでみたいです!

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