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アメンホテプ4世(イクナートン)とは?主導した宗教・美術改革を徹底解説

「アメンホテプ4世って聞いたことがあるけど、何をした人?」
「アメンホテプ4世はなぜたくさんの改革をしたの?」
「アメンホテプ4世がエジプトに与えた影響は?」

この記事にたどり着いた人はこのようにお考えでしょう。

アメンホテプ4世とは、古代エジプト18代王朝の王で、「アマルナ改革」と呼ばれる政治的・宗教的改革をを行ったことで知られています。エジプトの保守的で伝統的な文化に、急激な変革をもたらしたことから、「異端の王」とも呼ばれました。

では、どうしてアメンホテプ4世は、数々の改革を実行するに至ったのでしょうか。

王の改革の中でも「宗教改革」は一番注目すべきキーワードです。当時のエジプトではアメン=ラー信仰(エジプトの古くから信仰される神のひとつ)が力を増し続け、その神官たちが大きな権力を握るようになりました。そのため宗教改革によって、王に権威を集中させようとアメンホテプ4世は考えついたのです。

この記事ではエジプト史マニアの筆者が、

  • アメンホテプ4世の基本情報
  • アメンホテプ4世の行った改革とその背景
  • アメンホテプ4世の死後のエジプトの動き

などを解説していきます。

アメンホテプ4世とはどんな人物か

アメンホテプ4世の胸像

時代と文明

アメンホテプ4世は、古代エジプト18代王朝のファラオ(古代エジプトの君主の称号で、日本語では王の意)です。ファラオとしての在位期間は、紀元前1364年~紀元前1347年ころの20年弱と考えられています。

18代王朝の頃の古代エジプトは、侵略してくる他民族の追い出しに成功し、エジプトの再統一を達成しました。国力は増大し、古代オリエント世界(主に現在の中東地域)での覇権を握るなど、繁栄を極めました。大規模な建造物などがいくつも建設されるなど、エジプトにとって好調な時代でした。

アマルナ文書の発見

アメンホテプ4世時代のエジプトを知る手がかりとなったのが、「アマルナ文書」と呼ばれる、楔形文字で書かれた粘土板文書群です。1887年に、アメンホテプ4世の王政で都となったテル=エル=アマルナで発見されました。現在までに382点の文書が見つかっており、そのほとんどが周辺国との外交書簡(手紙)です。

これらの文書からは、アメンホテプ4世次代のエジプトが周辺国と良好な関係を保ち、比較的平和な時期だったことが読み取れます。ただしこの平和な時間については、アメンホテプ4世がエジプトの内政にかかりっきりになっていて、対外政策を積極的に行わなかった結果だという見方もあります。

関係する人物

アメンホテプ4世の妻・ネフェルティティ

父は先代のファラオであったアメンホテプ3世、母は正妃ティイとと言われています。

アメンホテプ4世の妻はネフェルティティで、クレオパトラと並んで古代エジプトの3大美女とされる女性です。エジプトの紙幣にその肖像が使用されるほど、エジプトでは有名な存在です。

アメンホテプ4世の次にファラオとなったのは、黄金のマスクで有名なツタンカーメンでした。ツタンカーメンは、アメンホテプ4世の娘婿でありながら、正妻ネフェルティティとは別の女性との間に生まれた子供でもあると言われています。

死因

アメンホテプ4世の死因については、未だ詳しいことが解明されていません。

彼本人のミイラと棺はすでに発見されていますが、発見当時すでに棺が破壊されていた影響で、ミイラの保存状態は悪いそうです。そういった事情もあり、具体的な死の原因特定には至っていないと考えられます。

アメンホテプ4世が行った改革の内容

アマルナのあった場所に残る王宮の遺構

テル=エル=アマルナへの遷都

権力を持ったテーベ(遷都前の都)の神官たちの力を遠ざける目的で、アメンホテプ4世は、都をテル=エル=アマルナに移動しました。脅威となるものから物理的に距離をとって、自分の王政を確固たるものにする作戦です。(古代エジプトで神官が力を持った経緯については、「アメンホテプ4世はなぜ宗教改革を行ったのか」の章で後述します。)

テル=エル=アマルナは、テーベとメンフィスのほぼ中間地点に位置します。アメンホテプ4世はこの場所を新天地に選ぶとすぐさま、新たな神、アトン神の神殿や王宮などを造らせ、そこに移りました。この時テーベにあったアメンの神殿を破壊し、神官たちの職は廃止するなどして、神官たちの逆襲にも備えました。

新たな美術様式「アマルナ美術」を生み出す

ツタンカーメンの黄金のマスク

アマルナ美術とは、写実的で叙情的なエジプト美術の新様式のことをいいます。アマルナ美術の前後は、エジプトは伝統的な美術様式を守り続けたので、歴史の中でも例外的な期間となりました。

新しい美術様式が生み出されたきっかけは、アメンホテプ4世による宗教改革です。信仰対象の変化は、美術のテーマや表現方法に大きな影響を与えました。

アマルナ美術の代表作品には、「ネフェルティティの胸像」や「ツタンカーメンの黄金のマスク」などがあり、現在でも美術館で鑑賞することができます。アマルナ美術は限られた期間に生み出されましたが、その中でも古代エジプトの傑作を生み出していて、エジプト美術にとって貴重な時間だったと言えるでしょう。

アマルナ芸術/美術とは?誕生の理由や特徴、代表作品について徹底解説

世界初の一神教信仰への改革

アトン神を信仰するアメンホテプ4世と家族

アメンホテプ4世が行った「アマルナ改革」の肝は何と言っても宗教改革です。王はそれまでの多神教を否定し、一神教(アトン神)へ宗教改革を断行しました。また宗教改革にあわせて、自らをイクナートン(アクエンアテン、またはアケナアテンとも表記。アトン神にとって有用な者、の意味)と改名しています。

ただしアトンの信仰方法は、私たちが想像する一神教とは少しイメージが異なると思います。どういうことかというと、アトンに祈りを捧げられるのは実はファラオとその親族だけで、そのほかの民衆は神の子であるファラオを信仰するよう求められたからです。その証拠に、アメンホテプ4世は絵師に自分の姿を神格化したような、人間ばなれした姿で描かせています。

王は神を信仰し、民は王を信仰したのですから、厳格な意味では一神教と呼べないかもしれません。

アメンホテプ4世が信仰したアトン神とは

アトン神は太陽の神のひとつであるとされています。その姿は太陽光線を伴っており、光線で世の中の事実をありのままに映し出すと考えられました。そのような性質をもつアトン神の信仰のため、芸術面でも物事をよりリアルに描きだすことが求められるようになったのです。

またアトン神の声を聞くことができるのは、神の子であるイクナートン(アメンホテプ4世)だけとされました。ファラオ自ら神の声を聞き、伝えることで、神官の役割も自らが担いました。そこには神官団を作らないことで、王に権力を一本化させる狙いがあったと考えられます。

宗教改革によって何が変わった?

アメンホテプ4世とネフェルティティ

前述した通り、宗教改革の影響から美術の様式は「アマルナ式」となり、それまでのエジプト美術とは大きな違いが見られるようになりました。

エジプト美術といえば、胴体は正面を向き、脚と頭は横を向いた平面的な絵を思い浮かべますよね。まさにそのような表現はエジプト美術の特徴です。また、絵画や像のテーマ設定にもエジプト美術の特徴があり、神話や宗教的儀式など、市民の実生活とは離れた主題がたいへん好まれました。

一方アマルナ美術ではエジプト美術とは対照的に、人間の姿や表情のリアルな表現を追求しました。典型的なエジプト美術の絵画よりも、人物は柔らかくふくよかに描かれ、それまでの女性を男性よりも明るい色で描くといった習慣は止められました。

宗教改革によって、美術面では変化がみられましたが、肝心の信仰については人民にそれほど浸透しなかったと言われています。エジプトのアメン=ラー信仰には長い歴史があり、それをアトン神に変えるというのは、なかなか受け入れられなかったのでしょう。したがって、信仰そのものが変化した効果よりも、宗教の副産物であった美術において影響があったといえます。

アメンホテプ4世はなぜ宗教改革を行ったのか

神官の権力増大を抑えるため

アメン神

宗教改革が行われたのは、アメンホテプ4世の王政初期に、力をどんどん増していくアメン=ラーの神官たちを恐れたことがきっかけとなりました。

アメンホテプ4世は「多神教から一神教に」宗教改革したのですが、多神教時代のなかでも、とりわけ信仰の中心として崇められていたのがアメン=ラーです。アメン=ラーへの信仰は、アメンホテプ4世の時代を除き、1,700年もの長きにわたってエジプトで維持されました。そして同時に、アメン=ラーに仕える神官たちも高い権力を持ちました。

神官たちが権力を持ったのには、歴代ファラオ(王)のアメン=ラー信仰に理由があります。古代エジプトのファラオは、西アジア征服のための遠征を積極的に行っていました。また王は出陣する前には必ず、戦いの勝利を祈願してアメン神殿に祀られるアメン=ラーに捧げ物をしました。更には戦いで勝利するたびに、戦利品や征服地の租税をアメン神殿に納めました。

当時のエジプト軍は連戦連勝の絶好調でしたので、アメン神殿に蓄えられる財はどんどん増えていくことになります。どの時代のどの国でも、お金が集まるところに権力が生まれるのは常です。高い経済力を後ろ盾に、アメン神殿の神官たちは王位継承をはじめ、政治への介入を強めていきました。

アメンホテプ4世は王位が脅かされることを恐れ、アメン神官団の権力を崩すべく、宗教改革を断行したのです。

アメンホテプ4世が生み出したアマルナ美術

アマルナの王女

アマルナ美術の特徴

アマルナ美術の一番の特徴はその「写実性」といえます。写実とは現実のものを、ありのままに再現する芸術のスタイルのことをいいます。

アマルナより前のエジプト美術では、宗教的に理想化された対象が描かれることが多く、特に死後の世界などのテーマが頻繁に扱われました。一方アマルナ美術では、現実の人間にフォーカスが当てられ、人の柔らかみ、細やかな表情などの人間らしさがよく表現されるようになります。このような特徴が見られるのは、エジプト王国の長い歴史の中でもアマルナ期の作品に限られるため、その特異性を注目されることになりました。

アマルナ美術誕生の理由

アマルナ美術はなぜ誕生したのか?

ひとことでいえば宗教改革によって、信仰する神が変わったからです。

古代エジプトで絵や像の主題となるものの多くは、宗教に関連するもの(神々や王)などでした。ですから信仰すべき神が変えられたことで、描く内容や表現方法も変わったのも自然な流れだったのです。

では改革後の神であるアトン神はどんな神かというと、太陽の神のひとつであるとされています。その姿は、太陽光線を伴っており、光線で世の中の事実をありのままに映し出すと考えられました。そのような性質をもつアトン神の信仰のため、芸術面でも物事をよりリアルに描きだすことが時代に求められたのです。

アメンホテプ4世、死後のエジプト

アケトアテンにあるアテンの小神殿

アメンホテプ4世死後のエジプトの変化(政治)

アマルナ改革を主導したアメンホテプ4世の没後は、アマルナの文化や考え方は急速に失われていきました。アメンホテプ4世の次にファラオに就任したのは、娘婿であり子でもあったツタンカーメンでした。ツタンカーメンは、ファラオの座に着いたばかりの頃は、都や一神教を引き継ごうと試みます。

しかし、アマルナ革命はあまりにも急進的すぎたのでしょう。ツタンカーメン王は、力を奪われて不満を持つテーベの神官たちの批判を無視することはできませんでした。またアトン神への信仰も民衆にはさほど根付いていなかったようです。

そこで再び元の都テーベに戻り、アメン=ラーを柱とした多神教信仰へと戻すことを決定します。そうしてテル=エル=アマルナに造られた宮殿や神殿は破壊され、人々もテーベに戻されました。その後テル=エル=アマルナの遺構は砂の中に忘れ去られ、現代になって偶然見つけられるまで、人の目に触れることはありませんでした。

アメンホテプ4世死後のエジプトの変化(文化)

アマルナ美術の様式は次第に忘れ去られていった

アマルナの美術様式に関しては後代の王にも支持され、しばらくの間は受け継がれました。次代の王ツタンカーメンの墓からも、アマルナ美術の様式で造られた装飾品が数々見つかっています。しかし宗教と密接な関係があるエジプト美術ですので、神が元に戻された後には、保守的なエジプト文化には馴染むことなく、徐々に忘れ去られていくことになります。

アメンホテプ4世に関するまとめ

アメンホテプ4世は宗教改革や遷都など、古代エジプトでは珍しいほど改革に乗り出したファラオでした。そしてその改革はアマルナ美術の素晴らしい作品を後世に残すきっかけを作りました。しかしながらこの王が行った改革は、その後のエジプトにはほとんど引き継がれることなく、残念ながら忘れ去られる結果となりました。

急進的な改革の裏には理由があったこと自体は理解できますが、自らの権力を守るための改革では、国を一つにまとめることはできなかったのでしょう。

アメンホテプ4世の一連の改革は、異国の、しかもかなり古い時代の王の話です。しかし現代のリーダーシップ論にも通ずるところがあるな、と思いながら私はこの記事を執筆しました。

そんな改革をするにも、全体の理解や幸福は無視できない、という点ではどの時代でも同じ気がします。みなさんはどう感じましたか?

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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