本田宗一郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「従業員からは親しみを込めて『オヤジさん』と呼ばれていた」
本田宗一郎は部下の教育にも熱心であったことはよく知られています。現場を訪れる事は絶対に欠かさなかったため、従業員も次第に親しみが湧き、「オヤジさん」と呼んでいたそうです。宗一郎も決して無礼だと思うこともなく、快く受け入れていました。
宗一郎を紹介する書籍などでもこのエピソードから「オヤジ」、「F1おやじ」などと書かれている作品が多く出版されています。
都市伝説・武勇伝2「皇居での勲章親授式に作業着で参加しようとした」
1981年、本田宗一郎が74歳の時に今までの功績を讃え、勲一等瑞宝章を授与されることとなりました。親授式は皇居で行われることが決まっていましたが、「技術者の正装は作業着だ!」と頑なに主張し、式に作業着で出席しようとします。
結局は社員などに諭され、燕尾服で参加することになりましたが、止める人がいなければ作業着で天皇陛下と面会することになっていたかもしれません。
都市伝説・武勇伝3 「鮎の友釣りが大好き」
宗一郎は鮎の友釣りが趣味であり、年に一回、たくさんの人を自宅に招いて「鮎釣りパーティー」を開催したそうです。そこに参加する人々は財界の大物ばかりで、ソフトバンクの孫社長も招かれたことがありました。
ちなみに「鮎釣りパーティー」のやり方は、「静岡県にある天竜川で採れた生きた状態の鮎」を宗一郎の家の中にある庭園の小川に大量に流し込み、それを釣るという方法でした。
本田宗一郎の簡単年表
1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で本田宗一郎が誕生します。両親は鍛冶屋の父・本田儀平と母・みかで、長男として生まれました。
尋常小学校へ入学し、順調に学生生活を送ります。当時は自動車が珍しかったのですが、宗一郎は小学生の時に初めて自動車を目の当たりにしました。
小学校課程を無事に終了すると高等小学校へと進学しました。
高等小学校卒業後、自動車に興味のあった宗一郎は東京にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)へと入社します。
宗一郎は社長から独立することを許可され、浜松市にアート商会の支店を設立します。ここから約10年後に後輩に譲渡するまで支店長を務めます。
小学校教員として働いていた磯部さちと知り合い、そのまま結婚することとなります。2人は生涯で2男1女の3人の子供に恵まれました。
自動車修理の事業を拡大していき、東海精機重工業株式会社の社長に就任します。しかし、自動車の改良を行う上で専門的な知識の習得が必要と感じ、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)にて機械科の授業を受けることを決意しました。
東海精機重工業株式会社に対して豊田自動織機が出資を行い、事実上の経営権を握ったため、宗一郎は専務に降格します。その3年後には全ての株を豊田自動織機に明け渡し、宗一郎自身は退社してしまいました。
のちの大会社「HONDA」の前身である本田技術研究所を浜松市に設立します。2年後には本田技研工業株式会社とし、資本金100万円、社員20人で事業を開始しました。
本田技術研究所の頃から「HONDA」として世界的な企業になるまで、ともに会社の成長を支えた藤沢武夫との出会いを果たします。藤沢武夫は会社の経営担当として活躍しました。
本田技研はバイクを中心に販売していましたが、徐々に規模が大きくなり、1955年には二輪車の日本での生産台数第一位を獲得しました。前年の1954年には東京証券取引所に株式公開を果たしています。
本田技研設立から11年の月日を経て、東京証券取引所一部上場企業へと昇格しました。
当時絶大な人気を誇った二輪車、「スーパーカブC100」を発売します。高性能でありながら、庶民でも手を伸ばせば届くような価格帯を実現し、その後半世紀以上に渡ってファンが絶えない人気シリーズとなりました。
これまではバイクなどの二輪車で勝負をしてきましたが、事業を四輪車にも拡大することを発表します。翌年には初の四輪車である軽トラックのT360を発売しました。
1964年8月のドイツGPにF1初参戦を果たします。1965年には全GPに出場し、第10戦のメキシコGPにて初優勝を飾りました。
4気筒エンジンを搭載したドリームCB750FOURを発表します。このバイクは世界で初めて最高時速200kmを突破したバイクとして知られ、その技術を世界へと轟かせる出来事となりました。
本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が同時に退任となり、2代目の社長として河島喜好が就任します。
創業以来事業拡大を重ねてきたHONDAは1980年に売り上げ1兆円を突破し、日本を代表する大会社となりました。
自動車殿堂は1939年に設立されたもので、ヘンリー・フォードやトーマス・エジソン、フェルディナント・ポルシェなどが名前を連ねています。この殿堂にアジア人として初めて本田宗一郎が入ることとなりました。
1991年8月5日、肝不全により順天堂大学医学部附属順天堂医院にて帰らぬ人となります。享年84歳でした。
本田宗一郎の年表
1906年 – 0歳「静岡県にて本田宗一郎誕生」
鍛冶屋の息子として静岡県に誕生
本田宗一郎は1906年11月17日に静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で生まれました。鍛冶屋を営んでいた本田儀平の長男として生を受けます。幼い頃から動く機械に興味を持っており、弟とともに飛行機の曲芸飛行を見に行くなどしていました。
6歳になると近所の光明村立山東尋常小学校に入学し、順風満帆な学校生活を送っていきます。小学校在学中のある日、近くを走る自動車に目を奪われました。それ以来、心のどこかで自動車に対する憧れを抱いていたようです。
高等小学校卒業後に自動車修理工場へ
尋常小学校を終えた後は二俣町立二俣尋常高等学校へと進みます。高等小学校を3年で卒業すると、そのまま自動車修理工場の「アート商会」へ入社しました。アート商会は東京市(現在の東京都)に位置していたため、丁稚奉公のような形での就職でした。
入社したての頃は雑用などが多かったのですが、徐々に仕事を任せられるようになり、社長にも気に入られることとなりました。
1928年 – 21歳「浜松市にアート商会の支店を設立」
アート商会の支店長として独立
社長に気に入られていた宗一郎は浜松市にアート商会の支店を設立することとなります。そしてそのまま支店長として勤務することとなりました。アート商会社長の榊原郁三は厳しい人であったため、他の社員からの独立の打診は断っていましたが、宗一郎の相談だけは引き受け、晴れて独立することとなったのです。
その後、後輩にアート商会の経営を譲るまで約10年ほど、支店長として浜松店で勤務をしていました。
小学校教員の磯部さちと結婚
1935年、宗一郎が29歳の時に小学校教員であった磯部さちと結婚します。宗一郎は当時、仕事一辺倒だったため、結婚をして家庭を築く気は全くありませんでしたが、さちの見合い写真を見て一目惚れをし、結婚することを決めたのです。
妻のさちは宗一郎が会社をやめて堕落した生活をしていた時も、「必ずこの人は何かを成し遂げる」と信じて寄り添っていたそうです。2人は2男1女の子宝に恵まれ、生涯を通じて仲睦まじく暮らして行くのでした。
1937年 – 30歳「東海精機重工業株式会社の社長に就任、のちに本田技術研究所設立」
東海精機重工業株式会社の社長に
自動車修理の事業が次第に拡大していき、東海精機重工業株式会社の社長に任命されることとなります。そして、これからの自動車の発展に必要となる部品の製作には専門的な知識が必要ということが分かったため、自ら浜松高等工業学校へ通い、機械学を専攻しました。
その後も順調に事業を広げていきますが、1942年に豊田自動織機に経営権を奪われ、宗一郎は専務に降格します。そして、その3年後には株式を全て豊田が保有するようになり、宗一郎は事業から撤退することになりました。
本田技術研究所設立
東海精機重工業を辞めた後は一年ほど放蕩の期間を過ごしました。そして、一年の休養期間ののち、1946年10月、本田技術研究所を設立します。その2年後には株式会社化し、資本金100万円で事業を開始しました。
1949年には会社のキーパーソンとなる藤沢武夫と出会い、本田技研の経営を任せることとなります。1950年代には会社が目覚ましい成長を見せ、1954年には東京証券取引所にてジャスダック上場、1955年には二輪車の生産台数日本一、1957年には東京証券取引所一部上場を果たすのでした。
1958年 – 41歳「スーパーカブC100発売、四輪車への進出」
圧倒的な人気を誇るスーパーカブシリーズの発表
発表以来半世紀以上に渡って愛され続けるスーパーカブシリーズの初代、スーパーカブC100を発売します。高性能でありながら、一般市民にも手の出せる価格に押さえ込み、大々的に売り出しを開始しました。
増産に次ぐ増産を記録し、発売後一年にして月産3万台という驚きの数字を叩きだすようになったのです。現在でもシリーズの人気は衰えず、2017年には生産累計1億台を突破しました。
四輪車への事業拡大とF1への挑戦
1962年には四輪車の生産に乗り出すことを発表し、翌年には初の四輪車である軽トラックのT360が発売されました。翌月には小型スポーツカーも発表し、四輪車でもHONDAの名前を轟かせるようになったのです。
1964年には8月のドイツGPでF1初挑戦を果たし、1965年にはメキシコGPで初優勝を飾ることとなりました。1968年で一度撤退するまでF1、F2で安定した成績を残すこととなります。
1969年 – 62歳「世界で初めて時速200kmを超えるバイクを発明」
時速200kmを超えるバイク
ホンダは1969年、4気筒エンジンを搭載したドリームCB750FOURを発表します。このバイクは時速200kmを出すことができ、当時としては初の時速200km突破のマシンとして注目を集めました。このバイクを機にHONDAの社名を世界へと轟かせることとなるのです。
1972年には環境問題に配慮した低公害エンジン「CVCC」の開発をし、こちらも世界中の自動車メーカーに先駆けての発売となりました。
社長を退き、後進の育成にあたるように
1973年にはこれまでホンダを引っ張ってきた本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が揃って退任となりました。2代目には河島喜好が就任し、宗一郎と藤沢は取締役最高顧問として経営に携わるようになります。
宗一郎と藤沢武夫の両者は部下の育成にも力を入れ、これが功を奏したのか、1980年には売り上げ1兆円を超える大企業へと成長を遂げるのでした。
1983年 – 76歳「F1への復帰とマクラーレンの快進撃」
エンジン供給という形でのF1復帰
1983年にターボエンジンの台頭から自動車メーカーが続々とF1への参戦を果たします。ホンダも例外ではなく、エンジンの供給という形でF1への復帰を果たしました。1984年にはアメリカGPでホンダ車の17年ぶりとなる優勝を飾ることになります。
1986年と1987年にはコンストラクターズ・タイトル(車の製作者に与えられるタイトル)、1987年にはネルソン・ピケがホンダ車に乗ってドライバーズ・タイトルを手にしました。
1988年以降、マクラーレン・ホンダの快進撃
当時のF1を牛耳っていたアイルトンセナがホンダのマクラーレンを使用するようになりました。1988年には16戦中の15戦でホンダのマクラーレンが優勝を飾り、アイルトンセナもドライバーズタイトルを奪取します。
続く1989年には同じくマクラーレンを使用していたアラン・プロストがシーズンチャンピオンに、翌年の1990年にはアイルトンセナが再びチャンピオンに輝くなど、マクラーレン・ホンダのレーサーが快進撃を続けました。
最終的に1986年から6年連続のコンストラクターズ・タイトル、1987年から5年連続のドライバーズ・タイトルを獲得することとなります。
1991年 – 84歳「本田宗一郎死去・死因は肝不全」
アメリカ合衆国の自動車殿堂入り
本田宗一郎は1989年にアジア人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂に入ることとなりました。自動車殿堂は1939年に設立されたもので、それまでにもヘンリー・フォードやトーマス・エジソン、フェルディナント・ポルシェなどの自動車の発展に貢献した人物が名前を連ねています。
現在ではトヨタ自動車の豊田喜一郎、豊田英二、豊田章一郎、ブリヂストンの石橋正二郎が入っていますが、本田宗一郎が最も早く選出されたのでした。
84年という生涯に終止符を打つ・死因は肝不全
晩年は高齢により体調を崩しやすく、入退院を繰り返すようになっていた宗一郎でしたが、1989年には脳溢血により倒れてしまいます。その時は治療の甲斐もあり、回復しますが、1991年に入ると、もともと持病として持っていた肝不全が悪化し始めます。
7月の半ばには順天堂大学医学部付属順天堂医院に入院し治療に専念することになりますが、徐々に体力も衰えていき、8月5日、息を引き取ってしまうのです。葬儀は宗一郎の希望通り、家族のみで静かに営まれました。