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本田宗一郎の生涯・年表まとめ【功績や名言、エピソードやおすすめ書籍まで】

本田宗一郎は自動車会社「HONDA」の創業者です。15歳の頃から自動車の仕事に携わり、39歳にして「HONDA」の前身となる本田技術研究所を立ち上げます。初期はバイクの制作に力を入れていましたが、会社が大きくなるにつれて自動車産業にも乗り出していくようになるのでした。

宗一郎の創立した本田技研は名参謀・藤沢武夫のフォローも手伝って、凄まじい業績の伸びをみせます。大人気シリーズスーパーカブの発売、1969年には世界初の時速200km超のバイクを開発、1980年代後半にはマクラーレンがF1のタイトルをほぼ総ナメにするなど二輪車・自動車業界を席巻しました。

本田宗一郎

宗一郎の生きた時代は自動車産業の発展が目覚ましい期間であり、「HONDA」以外にも数多くの企業が台頭していました。しかし、このような長きに渡って「HONDA」が自動車業界の先頭を走っていけるのはなぜでしょうか。商品の性能の良さや人気が関わっているのは間違いありませんが、それだけではありません。

モータースポーツでのホンダの活躍を知り、本田宗一郎の功績に興味が湧いた筆者が様々な文献を読んで得た情報を元に、彼の生涯、名言、意外なエピソードなどをご紹介していきたいと思います。

本田宗一郎とはどんな人物か

名前本田宗一郎
誕生日1906年11月17日
没日1991年8月5日(享年84歳)
生地静岡県磐田郡光明村
(現在の静岡県浜松市天竜区)
没地東京都文京区
順天堂大学医学部附属順天堂医院
配偶者磯部さち
埋葬場所静岡県小山町 冨士霊園

本田宗一郎の生涯をハイライト

本田宗一郎とマクラーレン・ホンダ

本田宗一郎の人生をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で誕生。
  • 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」へ入社。
  • 30歳にして、東海精機重工業株式会社の社長に就任。
  • 豊田自動織機に経営の主導権を握られ、専務に退き、その3年後には退任。
  • 1946年、本田技術研究所を設立。
  • 1957年、東京証券取引所一部上場へ。翌年、人気シリーズ、スーパーカブの発売。
  • 世界で初めて、時速200kmを超えるバイクを開発。
  • 1980年代後半、F1でマクラーレン・ホンダの快進撃、1988年は16戦中15勝。
  • 1991年8月5日、肝不全にて帰らぬ人に。享年84歳。

本田宗一郎の家族構成は?息子はどんな人?

本田宗一郎と家族

本田宗一郎の家族は以下のような構成になっています。

  • 父:本田儀平(鍛冶屋)
  • 母:本田みか
  • 弟:本田弁二郎(宗一郎の6歳下、本田金属技術株式会社設立)

宗一郎自身の家族構成は、宗一郎夫妻と2男1女です。

  • 本田宗一郎(HONDA創業者)
  • 妻:本田さち(磯部さち)
  • 長男:本田博俊(株式会社・無限の創設者)
  • 次男:本田勝久
  • 長女:本田恵子(尾形恵子)

宗一郎は経営者を世襲制にしないという方針をとっていたため、息子たちが「HONDA」の後継者となることはありませんでした。

長男の博俊はモトクロス用マシンの開発や自動車のエンジン制作を手がける会社「無限」を創設しましたが、2003年に所得隠しで裁判沙汰になります。最終的に博俊は懲役2年、罰金2億4000万円に処されました。服役後の現在はエンジンの電動化に力を入れています。

本田宗一郎と名参謀「藤沢武夫」との関係性は?

本田宗一郎と藤沢武夫

本田宗一郎と藤沢武夫の出会いは1949年のことで、1946年に本田技術研究所が立ち上げられてから3年経ったあとでした。

藤沢武夫は宗一郎と出会うまで、筆耕屋(宛名書き)、鉄鋼材の販売員を経て日本機行研究所を立ち上げました。しかし、戦争の激化により会社を引き払わざるを得なくなります。その後は福島、池袋で材木店を経営しましたが、本田技研が設立された事を噂に聞き、入社を希望したのでした。

藤沢はすぐに頭角を現し、HONDAの経営を任されることになります。開発は主に宗一郎が担当し、経営は藤沢が担当するという強烈なチームが誕生し、その後の爆発的な成長を生み出すのでした。

そして1973年に同時に引退するまで数々の功績を打ち立てます。彼らが凄いのは、自分たちの業績を誇るだけでなく、部下の育成にも力を入れたことです。人望の厚い両者は優秀な部下を多く生み出し、長期的に成長できる大企業を作り上げたのでした。

本田宗一郎の愛車は?

ロータス・エリート

自動車会社の創業者である宗一郎がどの車に乗っていたのかは興味の湧くところですが、情報が公開されていません。唯一、乗っていた可能性が高いと思われる車は「ロータス・エリート」です。全世界での生産台数は約1000台ですが、日本にも数台輸入され、そのオーナーの1人に本田宗一郎の名前があったようです。

1962年に四輪自動車の生産へ乗り出したHONDAはまずS500という小型スポーツカーを世に送り出します。そして1964年に次世代機S600が作られたのですが、そのダッシュボードのデザインに「ロータス・エリート」の影響が見られました。

本田宗一郎の功績

功績1「HONDA創業」

HONDA

HONDAは現在、オートバイの販売台数、売上高ともに世界第1位、自動車の販売台数は世界第7位の日本を代表する企業です。前身は1946年に本田宗一郎が立ち上げた本田技術研究所で、当時の資本金は100万円でした。現在では資本金900億円弱、売上高15兆8000億円、従業員22万人の会社にまで成長しています。

会社の規模だけでなく、その歴史は輝かしいもので、バイクの進化に関しては常に最先端を走り続けました。モータースポーツでも活躍を見せ、マクラーレン・ホンダとアイルトンセナ、アラン・プロストのタッグが記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

宗一郎は後進の育成にも長けていたため、ここまで大きな企業に成長したのでしょう。

功績2「社長退任後も成長する企業として部下の育成に尽力」

現・HONDA社長 八郷隆弘

HONDAを大企業へと押し上げた本田宗一郎と藤沢武夫の両者は部下の育成にも力を入れていました。

2人は部下に対し、「よくやった」と褒めることはほとんどなかったそうです。仕事が目標としていた領域に達したとしても、「限界までやったのか?」とよく聞き返しました。目標はあくまで目標であって、本当のゴールは自分たちの作ったものが、どれだけ消費者に快適に使ってもらえるかだと考えていたからです。

また、彼らは現場をよく訪れていました。「頭で考えただけで物事を判断するなんてとんでもない。現場を経験することによって初めて正しい判断ができる。」という信念のもとで会社を経営していたため、部下はたとえ厳しい事を言われたとしても、彼らについていきたいと思ったのでしょう。

功績3「F1参戦、数々の記録を残す 」

アイルトンセナとマクラーレン・ホンダ

HONDAはF1でも輝かしい成績を残してきました。

1964年のドイツGPでF1初挑戦を果たすと、翌年には初優勝を飾ることとなります。その後1968年に一度F1から撤退しますが、1983年にターボエンジンの登場により、自動車メーカーがこぞってF1に参加するようになります。その波に乗ってHONDAも再挑戦することとなりました。

1984年には17年ぶりの優勝を飾り、1986年以降は6年連続のコンストラクターズ・タイトル(車の製作者に与えられるタイトル)、1987年から5年連続のドライバーズ・タイトルを獲得することとなります。

アイルトンセナもホンダのマクラーレンを使用するようになり、1988年には16戦中の15戦でホンダのマクラーレンが優勝を飾るという偉業を成し遂げることとなりました。

本田宗一郎の名言

「自分の力の足りなさを自覚し、知恵や力を貸してくれる他人の存在を知るのもいい経験である。」

本田宗一郎と藤沢武夫はお互いを認め合う存在でした。片方がいなければHONDAはここまで成長していなかったと振り返っています。それぞれが自分1人でやっていけると思っていたらどうだったでしょう。エゴがぶつかり合ってどこかで破滅していたかもしれません。

「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。」

本田宗一郎は自身が社長になってからも現場に出向く事を絶対に怠りませんでした。そして、厳しく注意することなどはありましたが、偉ぶることはありませんでした。そうした姿勢が部下からの人望を集め、これだけの大企業をまとめられたのではないでしょうか。

「失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う。」

宗一郎自身も沈んでいた時期があります。30代の後半までは中小企業の社長を務めるまでになり、順風満帆に人生を送っているように思われましたが、豊田自動織機に経営を奪われ、放蕩していた期間は地獄のような日々でした。しかし、そこから見事に立ち上がり、本田技術研究所を設立するのです。

本田宗一郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「従業員からは親しみを込めて『オヤジさん』と呼ばれていた」

本田宗一郎 社員食堂にて

本田宗一郎は部下の教育にも熱心であったことはよく知られています。現場を訪れる事は絶対に欠かさなかったため、従業員も次第に親しみが湧き、「オヤジさん」と呼んでいたそうです。宗一郎も決して無礼だと思うこともなく、快く受け入れていました。

宗一郎を紹介する書籍などでもこのエピソードから「オヤジ」、「F1おやじ」などと書かれている作品が多く出版されています。

都市伝説・武勇伝2「皇居での勲章親授式に作業着で参加しようとした」

本田宗一郎 作業着

1981年、本田宗一郎が74歳の時に今までの功績を讃え、勲一等瑞宝章を授与されることとなりました。親授式は皇居で行われることが決まっていましたが、「技術者の正装は作業着だ!」と頑なに主張し、式に作業着で出席しようとします。

結局は社員などに諭され、燕尾服で参加することになりましたが、止める人がいなければ作業着で天皇陛下と面会することになっていたかもしれません。

都市伝説・武勇伝3 「鮎の友釣りが大好き」

宗一郎は鮎の友釣りが趣味であり、年に一回、たくさんの人を自宅に招いて「鮎釣りパーティー」を開催したそうです。そこに参加する人々は財界の大物ばかりで、ソフトバンクの孫社長も招かれたことがありました。

ちなみに「鮎釣りパーティー」のやり方は、「静岡県にある天竜川で採れた生きた状態の鮎」を宗一郎の家の中にある庭園の小川に大量に流し込み、それを釣るという方法でした。

本田宗一郎の簡単年表

1906年 - 0歳
本田宗一郎誕生

1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で本田宗一郎が誕生します。両親は鍛冶屋の父・本田儀平と母・みかで、長男として生まれました。

1913年 - 6歳
光明村立山東尋常小学校に入学

尋常小学校へ入学し、順調に学生生活を送ります。当時は自動車が珍しかったのですが、宗一郎は小学生の時に初めて自動車を目の当たりにしました。

1919年 - 12歳
二俣町立二俣尋常高等小学校へ

小学校課程を無事に終了すると高等小学校へと進学しました。

1922年 - 15歳
自動車修理工場「アート商会」へ入社

高等小学校卒業後、自動車に興味のあった宗一郎は東京にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)へと入社します。

1928年 - 21歳
浜松市にアート商会の支店を作り、独立

宗一郎は社長から独立することを許可され、浜松市にアート商会の支店を設立します。ここから約10年後に後輩に譲渡するまで支店長を務めます。

1935年 - 28歳
磯部さちと結婚

小学校教員として働いていた磯部さちと知り合い、そのまま結婚することとなります。2人は生涯で2男1女の3人の子供に恵まれました。

1937年 - 30歳
東海精機重工業株式会社の社長に

自動車修理の事業を拡大していき、東海精機重工業株式会社の社長に就任します。しかし、自動車の改良を行う上で専門的な知識の習得が必要と感じ、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)にて機械科の授業を受けることを決意しました。

1942年 - 35歳
豊田自動織機に経営の主導権を握られ、専務に退く

東海精機重工業株式会社に対して豊田自動織機が出資を行い、事実上の経営権を握ったため、宗一郎は専務に降格します。その3年後には全ての株を豊田自動織機に明け渡し、宗一郎自身は退社してしまいました。

1946年 - 39歳
本田技術研究所を設立

のちの大会社「HONDA」の前身である本田技術研究所を浜松市に設立します。2年後には本田技研工業株式会社とし、資本金100万円、社員20人で事業を開始しました。

1949年 - 42歳
藤沢武夫との出会い

本田技術研究所の頃から「HONDA」として世界的な企業になるまで、ともに会社の成長を支えた藤沢武夫との出会いを果たします。藤沢武夫は会社の経営担当として活躍しました。

1955年 - 48歳
二輪車生産台数日本一に

本田技研はバイクを中心に販売していましたが、徐々に規模が大きくなり、1955年には二輪車の日本での生産台数第一位を獲得しました。前年の1954年には東京証券取引所に株式公開を果たしています。

1957年 - 50歳
東京証券取引所一部上場

本田技研設立から11年の月日を経て、東京証券取引所一部上場企業へと昇格しました。

1958年 - 51歳
スーパーカブの発売

当時絶大な人気を誇った二輪車、「スーパーカブC100」を発売します。高性能でありながら、庶民でも手を伸ばせば届くような価格帯を実現し、その後半世紀以上に渡ってファンが絶えない人気シリーズとなりました。

1962年 - 55歳
四輪車への進出を発表

これまではバイクなどの二輪車で勝負をしてきましたが、事業を四輪車にも拡大することを発表します。翌年には初の四輪車である軽トラックのT360を発売しました。

1964年 - 57歳
F1へ参戦

1964年8月のドイツGPにF1初参戦を果たします。1965年には全GPに出場し、第10戦のメキシコGPにて初優勝を飾りました。

1969年 - 62歳
世界で初めて時速200kmの壁を破る

4気筒エンジンを搭載したドリームCB750FOURを発表します。このバイクは世界で初めて最高時速200kmを突破したバイクとして知られ、その技術を世界へと轟かせる出来事となりました。

1973年 - 66歳
社長を退任し、最高顧問へ

本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が同時に退任となり、2代目の社長として河島喜好が就任します。

1980年 - 73歳
売り上げが1兆円を突破

創業以来事業拡大を重ねてきたHONDAは1980年に売り上げ1兆円を突破し、日本を代表する大会社となりました。

1989年 - 82歳
アジア人で初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす

自動車殿堂は1939年に設立されたもので、ヘンリー・フォードやトーマス・エジソン、フェルディナント・ポルシェなどが名前を連ねています。この殿堂にアジア人として初めて本田宗一郎が入ることとなりました。

1991年 - 84歳
本田宗一郎死去

1991年8月5日、肝不全により順天堂大学医学部附属順天堂医院にて帰らぬ人となります。享年84歳でした。

本田宗一郎の年表

1906年 – 0歳「静岡県にて本田宗一郎誕生」

本田宗一郎 幼少期

鍛冶屋の息子として静岡県に誕生

本田宗一郎は1906年11月17日に静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で生まれました。鍛冶屋を営んでいた本田儀平の長男として生を受けます。幼い頃から動く機械に興味を持っており、弟とともに飛行機の曲芸飛行を見に行くなどしていました。

6歳になると近所の光明村立山東尋常小学校に入学し、順風満帆な学校生活を送っていきます。小学校在学中のある日、近くを走る自動車に目を奪われました。それ以来、心のどこかで自動車に対する憧れを抱いていたようです。

高等小学校卒業後に自動車修理工場へ

尋常小学校を終えた後は二俣町立二俣尋常高等学校へと進みます。高等小学校を3年で卒業すると、そのまま自動車修理工場の「アート商会」へ入社しました。アート商会は東京市(現在の東京都)に位置していたため、丁稚奉公のような形での就職でした。

入社したての頃は雑用などが多かったのですが、徐々に仕事を任せられるようになり、社長にも気に入られることとなりました。

1928年 – 21歳「浜松市にアート商会の支店を設立」

アート商会

アート商会の支店長として独立

社長に気に入られていた宗一郎は浜松市にアート商会の支店を設立することとなります。そしてそのまま支店長として勤務することとなりました。アート商会社長の榊原郁三は厳しい人であったため、他の社員からの独立の打診は断っていましたが、宗一郎の相談だけは引き受け、晴れて独立することとなったのです。

その後、後輩にアート商会の経営を譲るまで約10年ほど、支店長として浜松店で勤務をしていました。

小学校教員の磯部さちと結婚

1935年、宗一郎が29歳の時に小学校教員であった磯部さちと結婚します。宗一郎は当時、仕事一辺倒だったため、結婚をして家庭を築く気は全くありませんでしたが、さちの見合い写真を見て一目惚れをし、結婚することを決めたのです。

妻のさちは宗一郎が会社をやめて堕落した生活をしていた時も、「必ずこの人は何かを成し遂げる」と信じて寄り添っていたそうです。2人は2男1女の子宝に恵まれ、生涯を通じて仲睦まじく暮らして行くのでした。

1937年 – 30歳「東海精機重工業株式会社の社長に就任、のちに本田技術研究所設立」

本田技術研究所 初期

東海精機重工業株式会社の社長に

自動車修理の事業が次第に拡大していき、東海精機重工業株式会社の社長に任命されることとなります。そして、これからの自動車の発展に必要となる部品の製作には専門的な知識が必要ということが分かったため、自ら浜松高等工業学校へ通い、機械学を専攻しました。

その後も順調に事業を広げていきますが、1942年に豊田自動織機に経営権を奪われ、宗一郎は専務に降格します。そして、その3年後には株式を全て豊田が保有するようになり、宗一郎は事業から撤退することになりました。

本田技術研究所設立

東海精機重工業を辞めた後は一年ほど放蕩の期間を過ごしました。そして、一年の休養期間ののち、1946年10月、本田技術研究所を設立します。その2年後には株式会社化し、資本金100万円で事業を開始しました。

1949年には会社のキーパーソンとなる藤沢武夫と出会い、本田技研の経営を任せることとなります。1950年代には会社が目覚ましい成長を見せ、1954年には東京証券取引所にてジャスダック上場、1955年には二輪車の生産台数日本一、1957年には東京証券取引所一部上場を果たすのでした。

1958年 – 41歳「スーパーカブC100発売、四輪車への進出」

スーパーカブC100

圧倒的な人気を誇るスーパーカブシリーズの発表

発表以来半世紀以上に渡って愛され続けるスーパーカブシリーズの初代、スーパーカブC100を発売します。高性能でありながら、一般市民にも手の出せる価格に押さえ込み、大々的に売り出しを開始しました。

増産に次ぐ増産を記録し、発売後一年にして月産3万台という驚きの数字を叩きだすようになったのです。現在でもシリーズの人気は衰えず、2017年には生産累計1億台を突破しました。

四輪車への事業拡大とF1への挑戦

1962年には四輪車の生産に乗り出すことを発表し、翌年には初の四輪車である軽トラックのT360が発売されました。翌月には小型スポーツカーも発表し、四輪車でもHONDAの名前を轟かせるようになったのです。

1964年には8月のドイツGPでF1初挑戦を果たし、1965年にはメキシコGPで初優勝を飾ることとなりました。1968年で一度撤退するまでF1、F2で安定した成績を残すこととなります。

1969年 – 62歳「世界で初めて時速200kmを超えるバイクを発明」

ドリームCB750FOUR

時速200kmを超えるバイク

ホンダは1969年、4気筒エンジンを搭載したドリームCB750FOURを発表します。このバイクは時速200kmを出すことができ、当時としては初の時速200km突破のマシンとして注目を集めました。このバイクを機にHONDAの社名を世界へと轟かせることとなるのです。

1972年には環境問題に配慮した低公害エンジン「CVCC」の開発をし、こちらも世界中の自動車メーカーに先駆けての発売となりました。

社長を退き、後進の育成にあたるように

1973年にはこれまでホンダを引っ張ってきた本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が揃って退任となりました。2代目には河島喜好が就任し、宗一郎と藤沢は取締役最高顧問として経営に携わるようになります。

宗一郎と藤沢武夫の両者は部下の育成にも力を入れ、これが功を奏したのか、1980年には売り上げ1兆円を超える大企業へと成長を遂げるのでした。

1983年 – 76歳「F1への復帰とマクラーレンの快進撃」

マクラーレン ホンダ MP4/4

エンジン供給という形でのF1復帰

1983年にターボエンジンの台頭から自動車メーカーが続々とF1への参戦を果たします。ホンダも例外ではなく、エンジンの供給という形でF1への復帰を果たしました。1984年にはアメリカGPでホンダ車の17年ぶりとなる優勝を飾ることになります。

1986年と1987年にはコンストラクターズ・タイトル(車の製作者に与えられるタイトル)、1987年にはネルソン・ピケがホンダ車に乗ってドライバーズ・タイトルを手にしました。

1988年以降、マクラーレン・ホンダの快進撃

当時のF1を牛耳っていたアイルトンセナがホンダのマクラーレンを使用するようになりました。1988年には16戦中の15戦でホンダのマクラーレンが優勝を飾り、アイルトンセナもドライバーズタイトルを奪取します。

続く1989年には同じくマクラーレンを使用していたアラン・プロストがシーズンチャンピオンに、翌年の1990年にはアイルトンセナが再びチャンピオンに輝くなど、マクラーレン・ホンダのレーサーが快進撃を続けました。

最終的に1986年から6年連続のコンストラクターズ・タイトル、1987年から5年連続のドライバーズ・タイトルを獲得することとなります。

1991年 – 84歳「本田宗一郎死去・死因は肝不全」

本田宗一郎の墓

アメリカ合衆国の自動車殿堂入り

本田宗一郎は1989年にアジア人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂に入ることとなりました。自動車殿堂は1939年に設立されたもので、それまでにもヘンリー・フォードやトーマス・エジソン、フェルディナント・ポルシェなどの自動車の発展に貢献した人物が名前を連ねています。

現在ではトヨタ自動車の豊田喜一郎、豊田英二、豊田章一郎、ブリヂストンの石橋正二郎が入っていますが、本田宗一郎が最も早く選出されたのでした。

84年という生涯に終止符を打つ・死因は肝不全

晩年は高齢により体調を崩しやすく、入退院を繰り返すようになっていた宗一郎でしたが、1989年には脳溢血により倒れてしまいます。その時は治療の甲斐もあり、回復しますが、1991年に入ると、もともと持病として持っていた肝不全が悪化し始めます。

7月の半ばには順天堂大学医学部付属順天堂医院に入院し治療に専念することになりますが、徐々に体力も衰えていき、8月5日、息を引き取ってしまうのです。葬儀は宗一郎の希望通り、家族のみで静かに営まれました。

本田宗一郎の関連作品

おすすめ書籍・本・伝記・漫画

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎない。」一代で世界的な自動車メーカーを育て上げた人物が語る言葉の重みは私たちの心に非常に響きます。自身が自動車修理工として働き始めた頃からHONDAを成長させるまでの経緯を自らの言葉で語っています。

やりたいことをやれ

本田宗一郎が人生の中で語った名言を一冊にまとめています。経営者ならではの物事の本質を見抜く洞察力と人を惹きつける人間的魅力を兼ね備えた宗一郎から発せられる言葉は読む人全てに感動や勇気を与えてくれます。

小学館版 学習まんが人物館 本田宗一郎

歴史上の政治家、武将、科学者など世界に影響を与えた人物を漫画形式で紹介する書籍です。本田宗一郎の生い立ちからHONDA創業・発展までをイラストを用いて丁寧に解説しています。子供でも大人でも楽しみながら読める一冊です。

おすすめの動画

本田宗一郎 講演 ノーカット『行政改革』

本田宗一郎の1時間近くに及ぶ講演の動画です。1982年6月19日に本庄市民文化会館で開かれた講演で、「蘇れ日本、生きがいのある故郷をー行政と地域住民とのかかわりあい」をテーマとして話をします。宗一郎の生身の声を聞けるので、内容にのめり込みやすいです。

本田宗一郎の挑戦

本田宗一郎の生涯とHONDA創業から発展までの経緯を過去の映像を元に製作した動画です。テレビ番組の一部として放映されており、要所を抑えて編集されているのでわかりやすい内容となっています。

本田宗一郎についてのまとめ

本田宗一郎は高等小学校卒業後すぐに自動車に関わる仕事に就き、30歳にして中小企業の社長となり、40歳を手前にして本田技術研究所を立ち上げました。大きな挫折をすることなく進んでいるように見えますが、宗一郎自身、自らの仕事の中で成功したものはたった1%であると言います。

相棒の藤沢武夫とともにHONDAを大企業へと押し上げていく活躍ぶりは圧巻でした。そして何よりも人々に愛され、部下からも慕われる経営者だったのです。

この記事でさらに本田宗一郎に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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