本田宗一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や伝説、武勇伝も紹介】

本田宗一郎は、自動車会社「HONDA」の創業者で、日本の実業家でもあり技術者です。15歳の頃から自動車の仕事に携わり、39歳にして「HONDA」の前身となる本田技術研究所を立ち上げます。初期はバイクの制作に力を入れていましたが、会社が大きくなるにつれて自動車産業にも乗り出していくようになるのでした。

本田宗一郎

大人気シリーズスーパーカブの発売、1969年には世界初の時速200km超のバイクを開発、1980年代後半にはマクラーレンがF1のタイトルをほぼ総ナメにするなど二輪車・自動車業界を席巻しました。

本田宗一郎の功績に興味が湧いた筆者が様々な文献を読んで得た情報を元に、彼の生涯や名言、意外なエピソード、関連書籍や動画などをすべてご紹介していきます。ぜひ参考にしてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

本田宗一郎とはどんな人物か

名前本田宗一郎
誕生日1906年11月17日
没日1991年8月5日(享年84歳)
生地静岡県磐田郡光明村
(現在の静岡県浜松市天竜区)
没地東京都文京区
順天堂大学医学部附属順天堂医院
配偶者磯部さち
埋葬場所静岡県小山町 冨士霊園

本田宗一郎の生涯をハイライト

本田宗一郎とマクラーレン・ホンダ

本田宗一郎の人生をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で誕生。
  • 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」へ入社。
  • 30歳にして、東海精機重工業株式会社の社長に就任。
  • 豊田自動織機に経営の主導権を握られ、専務に退き、その3年後には退任。
  • 1946年、本田技術研究所を設立。
  • 1957年、東京証券取引所一部上場へ。翌年、人気シリーズ、スーパーカブの発売。
  • 世界で初めて、時速200kmを超えるバイクを開発。
  • 1980年代後半、F1でマクラーレン・ホンダの快進撃、1988年は16戦中15勝。
  • 1991年8月5日、肝不全にて帰らぬ人に。享年84歳。

本田宗一郎の家族構成は?息子はどんな人?

本田宗一郎と家族

本田宗一郎の家族は以下のような構成になっています。

  • 父:本田儀平(鍛冶屋)
  • 母:本田みか
  • 弟:本田弁二郎(宗一郎の6歳下、本田金属技術株式会社設立)

宗一郎自身の家族構成は、宗一郎夫妻と2男1女です。

  • 本田宗一郎(HONDA創業者)
  • 妻:本田さち(磯部さち)
  • 長男:本田博俊(株式会社・無限の創設者)
  • 次男:本田勝久
  • 長女:本田恵子(尾形恵子)

宗一郎は経営者を世襲制にしないという方針をとっていたため、息子たちが「HONDA」の後継者となることはありませんでした。

長男の博俊はモトクロス用マシンの開発や自動車のエンジン制作を手がける会社「無限」を創設しましたが、2003年に所得隠しで裁判沙汰になります。最終的に博俊は懲役2年、罰金2億4000万円に処されました。服役後の現在はエンジンの電動化に力を入れています。

本田宗一郎と名参謀「藤沢武夫」との関係性は?

本田宗一郎と藤沢武夫

本田宗一郎と藤沢武夫の出会いは1949年のことで、1946年に本田技術研究所が立ち上げられてから3年経ったあとでした。

藤沢武夫は宗一郎と出会うまで、筆耕屋(宛名書き)、鉄鋼材の販売員を経て日本機行研究所を立ち上げました。しかし、戦争の激化により会社を引き払わざるを得なくなります。その後は福島、池袋で材木店を経営しましたが、本田技研が設立された事を噂に聞き、入社を希望したのでした。

藤沢はすぐに頭角を現し、HONDAの経営を任されることになります。開発は主に宗一郎が担当し、経営は藤沢が担当するという強烈なチームが誕生し、その後の爆発的な成長を生み出すのでした。

そして1973年に同時に引退するまで数々の功績を打ち立てます。彼らが凄いのは、自分たちの業績を誇るだけでなく、部下の育成にも力を入れたことです。人望の厚い両者は優秀な部下を多く生み出し、長期的に成長できる大企業を作り上げたのでした。

本田宗一郎の愛車は?

ロータス・エリート

自動車会社の創業者である宗一郎がどの車に乗っていたのかは興味の湧くところですが、情報が公開されていません。唯一、乗っていた可能性が高いと思われる車は「ロータス・エリート」です。全世界での生産台数は約1000台ですが、日本にも数台輸入され、そのオーナーの1人に本田宗一郎の名前があったようです。

1962年に四輪自動車の生産へ乗り出したHONDAはまずS500という小型スポーツカーを世に送り出します。そして1964年に次世代機S600が作られたのですが、そのダッシュボードのデザインに「ロータス・エリート」の影響が見られました。

本田宗一郎の功績

功績1「HONDA創業」

HONDA

HONDAは現在、オートバイの販売台数、売上高ともに世界第1位、自動車の販売台数は世界第7位の日本を代表する企業です。前身は1946年に本田宗一郎が立ち上げた本田技術研究所で、当時の資本金は100万円でした。現在では資本金900億円弱、売上高15兆8000億円、従業員22万人の会社にまで成長しています。

会社の規模だけでなく、その歴史は輝かしいもので、バイクの進化に関しては常に最先端を走り続けました。モータースポーツでも活躍を見せ、マクラーレン・ホンダとアイルトンセナ、アラン・プロストのタッグが記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

宗一郎は後進の育成にも長けていたため、ここまで大きな企業に成長したのでしょう。

功績2「社長退任後も成長する企業として部下の育成に尽力」

現・HONDA社長 八郷隆弘

HONDAを大企業へと押し上げた本田宗一郎と藤沢武夫の両者は部下の育成にも力を入れていました。

2人は部下に対し、「よくやった」と褒めることはほとんどなかったそうです。仕事が目標としていた領域に達したとしても、「限界までやったのか?」とよく聞き返しました。目標はあくまで目標であって、本当のゴールは自分たちの作ったものが、どれだけ消費者に快適に使ってもらえるかだと考えていたからです。

また、彼らは現場をよく訪れていました。「頭で考えただけで物事を判断するなんてとんでもない。現場を経験することによって初めて正しい判断ができる。」という信念のもとで会社を経営していたため、部下はたとえ厳しい事を言われたとしても、彼らについていきたいと思ったのでしょう。

功績3「F1参戦、数々の記録を残す 」

アイルトンセナとマクラーレン・ホンダ

HONDAはF1でも輝かしい成績を残してきました。

1964年のドイツGPでF1初挑戦を果たすと、翌年には初優勝を飾ることとなります。その後1968年に一度F1から撤退しますが、1983年にターボエンジンの登場により、自動車メーカーがこぞってF1に参加するようになります。その波に乗ってHONDAも再挑戦することとなりました。

1984年には17年ぶりの優勝を飾り、1986年以降は6年連続のコンストラクターズ・タイトル(車の製作者に与えられるタイトル)、1987年から5年連続のドライバーズ・タイトルを獲得することとなります。

アイルトンセナもホンダのマクラーレンを使用するようになり、1988年には16戦中の15戦でホンダのマクラーレンが優勝を飾るという偉業を成し遂げることとなりました。

本田宗一郎の名言

「自分の力の足りなさを自覚し、知恵や力を貸してくれる他人の存在を知るのもいい経験である。」

本田宗一郎と藤沢武夫はお互いを認め合う存在でした。片方がいなければHONDAはここまで成長していなかったと振り返っています。それぞれが自分1人でやっていけると思っていたらどうだったでしょう。エゴがぶつかり合ってどこかで破滅していたかもしれません。

「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。」

本田宗一郎は自身が社長になってからも現場に出向く事を絶対に怠りませんでした。そして、厳しく注意することなどはありましたが、偉ぶることはありませんでした。そうした姿勢が部下からの人望を集め、これだけの大企業をまとめられたのではないでしょうか。

「失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う。」

宗一郎自身も沈んでいた時期があります。30代の後半までは中小企業の社長を務めるまでになり、順風満帆に人生を送っているように思われましたが、豊田自動織機に経営を奪われ、放蕩していた期間は地獄のような日々でした。しかし、そこから見事に立ち上がり、本田技術研究所を設立するのです。

その他、本田宗一郎にまつわる名言集をまとめましたので、気になる方は下記の記事から御覧ください。

本田宗一郎の名言を10選紹介!名言が生まれた意図や背景とは

1 2 3

コメントを残す