二宮尊徳(金次郎)は生涯で600もの農村・地域を復興させた人物です。金次郎の生きた時代は飢饉が流行しており、藩や村の財政が不安定な世の中でした。そのため、多くの場所で財政難に陥っている人達がいましたが、尊徳の編み出した「報徳思想(仕法)」のおかげで立て直すことのできた人々が数え切れないほど存在するのです。
二宮尊徳と言えば薪を背負いながら読書をするという銅像が有名ですが、そのイメージは幼い頃の境遇にありました。小さい頃から家計を支えるために薪を売り、勉強をするために夜に火を焚いて読書にふけっていたことから、あのような銅像が完成したのです。
二宮尊徳は全国の小学校にその銅像が作られ、日本のお札の肖像画になったこともあります。なぜここまで二宮尊徳が日本全国に知れ渡っているのでしょうか?彼の功績や人柄がそうさせているのは間違いありませんが、理由はそれだけではありません。
二宮尊徳の生き方に感銘を受け、様々な文献を読み漁った筆者が、彼の生涯、功績、名言、意外なエピソードに至るまでをご紹介していきます。
二宮尊徳とはどんな人物か
名前 | 二宮金次郎(のちに尊徳と呼ばれるように) |
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誕生日 | 1787年9月4日 |
没日 | 1856年11月17日 |
生地 | 相模国足柄上郡栢山村(現:神奈川県小田原市栢山) |
没地 | 下野国都賀郡今市村(現:栃木県日光市) |
配偶者 | 中島きの(1816-1819)、岡田なみ(1820-) |
埋葬場所 | 東京都文京区本駒込 吉祥寺 |
二宮尊徳の生涯をハイライト
二宮尊徳の人生をダイジェストにすると以下のようになります。
- 1797年、相模国で百姓の長男として二宮金次郎が誕生。
- 幼い頃から薪売りなどで稼ぎ、家計を支えていましたが、早くに両親を無くし、親戚の家へ。
- 20歳前後で生家に戻り、立て直しに成功する。
- 小田原藩家老の服部家の財政復興に尽力。
- 野国芳賀郡桜町の再興を依頼される。この時に武士の称号を与えられ、「尊徳」と改名。10年以上かけて再興を完了。この事業が「報徳仕法」として全国に広まる。
- 生涯に600もの村や地域の復興を行う。
- 栃木県日光市にて病に倒れ、帰らぬ人に。
二宮尊徳の家族構成は?子孫はいるの?
二宮尊徳の実家の家族構成は以下の通りです。
- 父:二宮利右衛門(百姓)
- 母:二宮好(よし) 結婚前は川久保好
- 養子(弟):二宮常五郎
- 養子(弟):二宮富治郎
父の利右衛門は放蕩者で、先祖から授かった財産を使い果たしてしまうような人でした。母の好(よし)は慈愛に満ちた人物で、尊徳や2人の弟を第一に考えて生活していました。また、弟の富治郎は尊徳が20歳の時に亡くなっています。
尊徳自身は1816年に中島きのと結婚し、3年後に離婚、1820年には岡田なみと再婚します。中島きのとの間には徳太郎をもうけましたが、幼くして亡くなります。岡田なみとの間には弥太郎(尊行)、ふみをもうけました。
二宮尊行は尊徳亡き後に日光神領約100村の仕法を行います。尊行の息子(尊徳の孫)の尊親は報徳農法を実践する会社の社長として活躍しました。
現在も活躍している子孫としては関西学院大学の講師中桐万里子氏がいます。
二宮尊徳の説いた思想「報徳思想」とは?
報徳思想とは簡単に言うと、「宗教の教えと農業の実践を組み合わせた、豊かに生きるための知恵」です。私利私欲に溺れずに社会へ貢献することを考えていれば、いずれ自らにその利益が帰ってくると言う考えを説いたのです。
報徳思想の内容は「至誠・勤労・分度・推譲」の4つの考え方で構成されています。
- 至誠:常に誠実な心を持って行動すること。
- 勤労:至誠の状態にありながら、日常生活を行っていくこと。単なる労働を表すものではない。
- 分度:至誠を保った状態で、自ずと贅沢を慎み、無駄のない消費をするということ。
- 推譲:分度した上でさらに余った財産や収益を他人へと譲ること。
以上の4つを行っていくことで、人間は物質的にも精神的にも満たされ、豊かな生活を送れるということを説いたのが報徳思想です。
二宮尊徳が影響を与えた人物は?
二宮尊徳の考案した「報徳思想」は様々な人物に影響を与えています。特に経営者にその信奉者が多く、トヨタ自動車の創業者・豊田佐吉、パナソニック創業者の松下幸之助、京セラ・KDDIの創業者である稲盛和夫などにその思想は受け継がれました。
近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一も尊徳の教えに影響を受けた1人です。渋沢栄一は生涯で500以上の会社を設立した人物で、「右手に論語、左手に算盤」説を唱え、「財は徳によって光を発するものである」という考えを提唱し、実業界で活躍する上において二宮尊徳の精神を実践しました。
二宮尊徳の功績
功績1「報徳思想を全国へと普及させる」
二宮尊徳は両親を亡くした後、親戚の家へと引き取られましたが、そこで農業を手伝うかたわら、儒教や仏教などを勉強しました。そして、20歳になる頃に生家へと戻りますが、荒廃した生家を立て直すために編み出したのが「報徳思想」です。
「報徳思想」に基づいて地主・農園経営を行い、潰れかかっていた生家を再興しました。この評判が小田原藩にも伝わり、家老の所領も再興するように依頼され、見事に立て直して見せるのです。この小田原藩家老の再興を達成したことによって噂が広まり、「報徳思想」が全国へと普及して行くのでした。
功績2「600もの農村の復興と財政再建を行う」
二宮尊徳は生家の復興を皮切りに、下野国芳賀郡桜町の再興、日光神領の立て直しに至るまで、約600もの農村の復興と財政再建を行いました。初期の桜町の再建に関しては10年以上かかりましたが、尊徳の「報徳思想」が広まってからは多くの農村が考えに従い、次々と復興を成し遂げていくのでした。
代表的なところでは1832年には常陸国真壁郡青木村、1833年には下野烏山、1834年には常陸国谷田部藩の細川家の財政を立て直します。1836年には小田原藩の家臣らとともに飢饉に陥っている小田原の救済にあたりました。1838年には10000石以上の領地を持つ、下館藩の石川家の借金を完済しました。
功績3「一円札の肖像画に選ばれる 」
二宮尊徳は一円札の肖像画に選ばれていたことがあります。期間は1946年3月から1958年9月まででした。この時期は4種類の一円札が発行されており、武内宿禰(古代日本において5代の天皇に仕えたとされる伝説上の忠臣)が2種類、大黒天の絵柄が1種類、二宮尊徳が1種類です。
二宮尊徳が採用された背景には第二次世界大戦後のGHQによる支配が絡んでいます。武内宿禰は軍国主義のシンボルとして認識されているため、これからの日本の紙幣には不適切であるとの指摘があったため、二宮尊徳を代わりに肖像として用いることが決められたのでした。
ちなみに一円札の中で二宮尊徳のものだけ透かしが入っていません。
二宮尊徳の名言
「誠実にして、はじめて禍(わざわい)を福に変えることができる。術策は役に立たない。」
二宮尊徳は飢饉で財政難に陥っていた村を600以上も立て直しています。尊徳は桜町の再興を10年以上もかけて行っていますが、途中で投げ出さずに任務に当たった誠実な姿勢も人々の心に響いたのでしょう。
「人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として、劣っているところは友としてはいけない。」
依頼される任務が大きくなるにつれて仲間の協力が不可欠になっていきます。尊徳は小田原藩や日光神領などの大規模な復興を任されるようになり、人を適材適所で配置しました。長所は長所として活かせるように人材を評価するのも上に立つ者の使命だと思います。
「大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。それ小を積めば大となる。」
小さいことを積み重ねていけばやがて大きなものとなりますよ、ということです。野球選手のイチローも同じようなことを言っていますよね。尊徳自身も生家の復興から徐々に始めていき、日本全国へと再興の策を広めていったのです。
二宮尊徳にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ナスを食べて違和感を感じ、冷夏を予知した」
二宮尊徳の生きていた時代は冷夏になると農作物に多大な影響が出るために、夏に気温が上がらないことを恐れていました。尊徳はある年、ナスを一口食べた時に秋ナスの風味を感じたため、今年は冷夏になると予想します。そのため、冷夏でも育ちやすいヒエを多く収穫することに決めました。
予想通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉と呼ばれる大災害が発生しますが、尊徳の住んでいた地域はヒエの蓄えがあったために飢饉を免れることができたそうです。そして、この大飢饉の際には余ったヒエを周辺の農村にも分けてあげたのでした。これが「分度」です。
都市伝説・武勇伝2「『二宮金次郎』という小学唱歌がある」
二宮尊徳は小学唱歌にも登場しています。1911年に刊行された「尋常小学唱歌 第二学年用」に初めて載せられました。第二次世界大戦ごろまでは全国で歌われていましたが、戦後は二宮尊徳の教えが必ずしも生活の方式と合致しないと判断され、次第に歌われなくなっていきました。
1番の歌詞は「柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行尽くす 手本は二宮金次郎」となっています。尊徳の幼少期の生活の様子をそのまま歌に仕上げてあります。歌は3番まであり、全て「手本は二宮金次郎」で締めくくられているのでした。
都市伝説・武勇伝3「夜になると『二宮金次郎像』が走り出すという怪談がある」
学校の怪談シリーズで「二宮金次郎」の像にまつわるものがいくつかあります。二宮金次郎が背負っている薪の数が減る、図書室へ本を借りに行く、校庭を走り回る、トイレに行って個室に入るが薪が邪魔で閉まらないなどです。
そして運動神経はとても良く、台に戻る際に1m以上の高さをジャンプして戻るそうです。また、最近では、ながら歩きをするのは危険だということで座った状態の「二宮金次郎像」が登場しており、通常の立った状態の「二宮金次郎像」は自ら姿をくらましているなどの怪談も出てきています。
二宮尊徳の簡単年表
二宮尊徳は誕生時の名前を二宮金次郎と言い、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に生まれました。両親は父・二宮利右衛門、母・好(よし)でその長男として誕生しています。
1791年8月、暴風雨により酒匂川が決壊し、金次郎の住む地域一帯が被害を受けます。その際に、金次郎の家と土地も流され、借金を背負うこととなりました。
金次郎が10歳の時に父・利右衛門が病気を患い、働けなくなります。同時期に酒匂川の堤防工事への労働力を募集されたため、父の代わりに金次郎が勤めることとなりました。
1800年に父・利右衛門が病気で亡くなり、働き手がいなくなってしまいます。家計を支えるために働き出した母の手助けをするため、金次郎も薪の採取と草鞋作りによって稼ぐようになりました。
金次郎が15歳の時に母・好(よし)が亡くなり、両親ともに失うこととなりました。2人の弟がいましたが、面倒を見ることができないため、弟たちは母方の実家に預け、金次郎自身は伯父の家で暮らすこととなります。
伯父の家で暮らし始めて2年後には別の親族の家へ移住し、そこで米俵5俵を稼ぎます。その翌年には親戚の名主の家へ寄宿するようになり、さらに20俵の米を稼ぎました。そして1806年に荒廃していた生家へと戻り、家の立て直しを計るのでした。
生家の再興に成功した金次郎は地主と農園経営を行いながら、奉公人としても仕えるなど精力的に働きました。そんな中、小田原藩の家老服部十郎兵衛から服部家の家政を任せたいとの依頼を受けます。そして1814年には千両に及ぶ負債を返却してしまうのでした。
金次郎が29歳の時に堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きのと結婚します。しかし、1819年に、生まれたばかりの長男を亡くした上に、妻・きのが金次郎の家風に合わないなどの理由が重なり、離婚することとなりました。
離婚から一年後、飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみと再婚します。なみは当時16歳でしたが、頭の良い奥さんで、のちに「賢夫人」と呼ばれるようになります。金次郎はなみとの間に弥太郎、ふみの1男1女をもうけました。
小田原藩主大久保家の分家である宇津家の管轄であった下野国芳賀郡桜町が傾いていたため、金次郎はその再興を命じられます。この時に武士の称号を与えられ、「尊徳」と改名しました。
尊徳は再興のために桜町へ移住し、資本金を与えられて町の再建に乗り出しました。
宇津家の家臣であった人物が江戸に赴くこととなったため、代わりに尊徳が桜町の長となることになりました。しかし、再興に関しては村人たちの反抗が激しく、なかなかうまく事が運んでいきません。
桜町の再興は難航していましたが、1831年には米400俵を納められるようになり、3年後には1300俵の収益をあげられるまでになりました。そしてついに1836年、桜町の再建に成功するのです。尊徳が行った再興政策は報徳思想(仕法)として他の地域でも見本として利用されました。
飢饉に陥っていた小田原の藩主である忠真公が病気に倒れたため、代役として尊徳が飢饉収束の任務を任されます。尊徳は家臣と協議をし、多くの村の救済にあたりました。
石川氏が長年治めていた下館藩の石数が3分の1にまで落ち込んでいたため、尊徳が復興役に駆り出されます。最終的に借金を完済し、下館藩の財政を立て直しました。
55歳の尊徳は幕府に普請役として迎えられます。そして、印旛沼の開拓と利根川の利水を幕府へ打診しますが、当時の老中・水野忠邦主導で行われた政策は、水野の失脚により頓挫し、中止となりました。
1843年には幕府の直轄領の再興を命じられるなど、徐々に重要な仕事を任されるようになっていた尊徳でしたが、1844年に日光神領の復興を任されます。
もともと狭心症を患っていた尊徳は復興のかたわら、何度か病床に伏すことがありました。そして、1856年、下野国の報徳役所にて帰らぬ人となります。死因に関しては詳しいことはわかっていませんが、狭心症を患っていたことから心筋梗塞なのではないかと言われています。
二宮尊徳の年表
1787年 – 0歳「神奈川県に二宮金次郎誕生」
百姓の息子として神奈川県に誕生
1787年9月、相模国足柄上郡栢山村にて二宮金次郎が誕生します。父親は百姓をやっている二宮利右衛門、母親は曽我別所村出身の川久保好(よし)で、長男として生を授かります。そして、2人の弟、常五郎と富治郎がいました。
二宮家は豊かな家庭でしたが、父・利右衛門が財産を計画なく使っていたため、次第に貧しくなっていきます。1791年、金次郎が4歳の時に暴風雨によって近所を流れている酒匂川が氾濫し、二宮家の土地を壊滅状態にしました。その結果、多額の借金を抱えるようになります。
金次郎が家計を支える
1797年、金次郎が10歳の時に父・利右衛門が病気を患います。そこに酒匂川の堤防工事の依頼が来ました。通常は働きがしらである利右衛門が駆り出されるはずでしたが、病気のため役を果たせず、代わりに金次郎が出向くこととなります。
1800年には父・利右衛門が病気によって亡くなり、いよいよ家計が苦しくなりました。母の好(よし)も働きに出ますが、子育てのかたわら仕事をしなければならないため思うような稼ぎはできません。そのため、金次郎は薪の採取や草鞋製作によってお金を稼ぎ、家計を支えるのでした。
1806年 – 19歳「生家の再興を開始」
母が亡くなり、両親ともに失う
1802年、父の後を追うように、母・好(よし)も亡くなります。幼い2人を残して両親が他界してしまったので、途方にくれますが、親戚の家に分散して面倒を見てもらうことになりました。金次郎を預かった伯父の萬兵衛は金次郎が来たことをあまりよく思っておらず、夜に読書をしていると、「灯油の無駄遣いだ」といって怒られることも多々ありました。
2年後の1804年には別の親族の家に移住し、そこで5俵の収穫を得ます。その翌年にはまた別の親戚に家に出向き、20俵の収穫を得ることとなりました。
生家の立て直しを計る
1806年、金次郎はそれまでに得た収穫を引っさげて生家へと戻って来ます。まず、家を修繕してから田畑を耕して農作物を作れるような環境を整えました。そして、少しずつ収穫によって収益をあげられるようになっていきます。
2年ほどして生家の再興を成し遂げた金次郎は地主や農園経営を行いながら、小田原藩士に奉公人としても使える身となりました。
1808年 – 21歳「小田原藩家老の服部家の再興を依頼される」
小田原藩家老の服部十郎兵衛から直々に服部家の立て直しを依頼される
1808年、小田原藩家老の服部家が財政的に苦しい状況にありました。代表の服部十郎兵衛は家臣から「二宮金次郎という男に服部家の立て直しを依頼したらどうか」という打診を受け、金次郎に財政の立て直しを頼みます。
金次郎はこれを引き受け、5年をかけて再興することを約束し、計画を立てます。そして、1814年、千両(現在のお金に換算すると1億円超)の負債を完済し、その上300両の収益を得ることになりました。
二度の結婚
1816年、堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きのと結婚します。3年間は共に暮らしていましたが、1819年に長男が生まれてすぐに亡くなると、2人の仲はすれ違うようになり、そこへ諸々の理由が重なり、離婚することとなりました。
翌年の1820年、飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみと再婚します。なみは当時16歳で金次郎とは18歳ほども差がありましたが、生来、頭の良い女性であり、後年「賢夫人」と呼ばれるようになりました。なみとの間には1男1女をもうけています。
1821年 – 34歳「下野国芳賀郡桜町の再興を依頼される」
荒廃していた桜町の立て直しを頼まれる
下野国芳賀郡桜町を治めていた宇津家(小田原藩主大久保家の分家)が傾いているとの情報が入り、小田原藩主より直々に金次郎に宛てて再興の依頼が届きます。大きな事業なのですぐに承諾することは出来ず、一旦保留となりました。
1823年、金次郎は藩から資本金を与えられ、桜町へと居を移し、町の立て直しを始めるのでした。この時に武士の位を与えられ、「尊徳」と改名します。1826年には桜町の長となりましたが、再興に関しては住人たちの反抗が激しく、思うように進んではいませんでした。
依頼から10年以上の年月を経て桜町の再興を成功させる
1831年には徐々に桜町での収益をあげられるようになりました。1831年には米400俵、1834年には米1300俵を返納し、1836年には桜町の財政の資本金を倍以上にすることに成功し、町の再興へと役立てました。
この桜町の復興事業は多くの町や村のお手本となり、「報徳思想(仕法)」として語り継がれるようになったのです。
1842年 – 55歳「幕府に勤めるようになり、印旛沼の開拓を打診」
さまざまな村や地域で再興を行う
尊徳は桜町の復興を行うかたわら、「報徳思想(仕法)」に乗っ取って多くの村の立て直しを行います。1832年には常陸国真壁郡青木村、1833年には下野烏山、1834年には常陸国谷田部藩の細川家の財政を改善させました。
1836年には飢饉に陥っている小田原の救済、特に伊豆や相模は緊急で復興にあたるようにとの命令を受けます。尊徳は小田原家臣達と協力して救済にあたりました。1838年には10000石以上の領地を持つ、下館藩の石川家の財政立て直しをはかり、借金を完済しました。
印旛沼の開拓を打診するも頓挫
尊徳は1842年には幕府へ招聘され、普請役となります。そして、幕府に向けて印旛沼の開拓と利根川の利水を打診します。当時の老中・水野忠邦主導で計画が進みますが、事業を開始してから一年も経たないうちに水野が失脚したため、計画は頓挫してしまいました。
1844年からは日光神領の仕法を命じられ、様々な地の神領や農村を立て直します。1845年には下野国真岡に移住し、本格的に仕法を行なっていくのでした。
1856年 – 70歳「下野国の報徳役所にて帰らぬ人に。死因は心筋梗塞?」
現・栃木県日光市にて帰らぬ人に
尊徳は日光神領の再興に精力的に取り組んでいましたが、持病であった狭心症の悪化から、何度か病に倒れることとなります。回復しては事業を進めるということを繰り返していましたが、1856年、大病を発症し亡くなってしまうのでした。
死因については諸説ありますが、もともと狭心症を患っていたこともあり、心筋梗塞で亡くなった可能性が高いのではないかと言われています。
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二宮尊徳についてのまとめ
二宮尊徳は幼い頃に両親を亡くし、引き取られた先でも良く扱われないなど苦労を重ねて来ましたが、生家を立て直したことをきっかけに「報徳思想」を編み出し、多くの農村を再興していきます。生涯で救った農村の数は600にも上るのでした。晩年は日光神領の復興にあたりますが、病気によって70年の生涯を閉じます。
尊徳の考え方は現代でも重宝されており、これからも語り継がれることでしょう。
今回の記事を読んで、さらに二宮尊徳に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。