二宮尊徳とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、思想の「報徳思想」や死因について紹介】

二宮尊徳の年表

1787年 – 0歳「神奈川県に二宮金次郎誕生」

現在でいう神奈川県にて生まれた

百姓の息子として神奈川県に誕生

1787年9月、相模国足柄上郡栢山村にて二宮金次郎が誕生します。父親は百姓をやっている二宮利右衛門、母親は曽我別所村出身の川久保好(よし)で、長男として生を授かります。そして、2人の弟、常五郎と富治郎がいました。

二宮家は豊かな家庭でしたが、父・利右衛門が財産を計画なく使っていたため、次第に貧しくなっていきます。1791年、金次郎が4歳の時に暴風雨によって近所を流れている酒匂川が氾濫し、二宮家の土地を壊滅状態にしました。その結果、多額の借金を抱えるようになります。

金次郎が家計を支える

1797年、金次郎が10歳の時に父・利右衛門が病気を患います。そこに酒匂川の堤防工事の依頼が来ました。通常は働きがしらである利右衛門が駆り出されるはずでしたが、病気のため役を果たせず、代わりに金次郎が出向くこととなります。

1800年には父・利右衛門が病気によって亡くなり、いよいよ家計が苦しくなりました。母の好(よし)も働きに出ますが、子育てのかたわら仕事をしなければならないため思うような稼ぎはできません。そのため、金次郎は薪の採取や草鞋製作によってお金を稼ぎ、家計を支えるのでした。

1806年 – 19歳「生家の再興を開始」

二宮尊徳 生家

母が亡くなり、両親ともに失う

1802年、父の後を追うように、母・好(よし)も亡くなります。幼い2人を残して両親が他界してしまったので、途方にくれますが、親戚の家に分散して面倒を見てもらうことになりました。金次郎を預かった伯父の萬兵衛は金次郎が来たことをあまりよく思っておらず、夜に読書をしていると、「灯油の無駄遣いだ」といって怒られることも多々ありました。

2年後の1804年には別の親族の家に移住し、そこで5俵の収穫を得ます。その翌年にはまた別の親戚に家に出向き、20俵の収穫を得ることとなりました。

生家の立て直しを計る

1806年、金次郎はそれまでに得た収穫を引っさげて生家へと戻って来ます。まず、家を修繕してから田畑を耕して農作物を作れるような環境を整えました。そして、少しずつ収穫によって収益をあげられるようになっていきます。

2年ほどして生家の再興を成し遂げた金次郎は地主や農園経営を行いながら、小田原藩士に奉公人としても使える身となりました。

1808年 – 21歳「小田原藩家老の服部家の再興を依頼される」

小田原城 天守閣

小田原藩家老の服部十郎兵衛から直々に服部家の立て直しを依頼される

1808年、小田原藩家老の服部家が財政的に苦しい状況にありました。代表の服部十郎兵衛は家臣から「二宮金次郎という男に服部家の立て直しを依頼したらどうか」という打診を受け、金次郎に財政の立て直しを頼みます。

金次郎はこれを引き受け、5年をかけて再興することを約束し、計画を立てます。そして、1814年、千両(現在のお金に換算すると1億円超)の負債を完済し、その上300両の収益を得ることになりました。

二度の結婚

1816年、堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きのと結婚します。3年間は共に暮らしていましたが、1819年に長男が生まれてすぐに亡くなると、2人の仲はすれ違うようになり、そこへ諸々の理由が重なり、離婚することとなりました。

翌年の1820年、飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみと再婚します。なみは当時16歳で金次郎とは18歳ほども差がありましたが、生来、頭の良い女性であり、後年「賢夫人」と呼ばれるようになりました。なみとの間には1男1女をもうけています。

1821年 – 34歳「下野国芳賀郡桜町の再興を依頼される」

桜町陣屋跡
出典:真岡市公式ホームページ

荒廃していた桜町の立て直しを頼まれる

下野国芳賀郡桜町を治めていた宇津家(小田原藩主大久保家の分家)が傾いているとの情報が入り、小田原藩主より直々に金次郎に宛てて再興の依頼が届きます。大きな事業なのですぐに承諾することは出来ず、一旦保留となりました。

1823年、金次郎は藩から資本金を与えられ、桜町へと居を移し、町の立て直しを始めるのでした。この時に武士の位を与えられ、「尊徳」と改名します。1826年には桜町の長となりましたが、再興に関しては住人たちの反抗が激しく、思うように進んではいませんでした。

依頼から10年以上の年月を経て桜町の再興を成功させる

1831年には徐々に桜町での収益をあげられるようになりました。1831年には米400俵、1834年には米1300俵を返納し、1836年には桜町の財政の資本金を倍以上にすることに成功し、町の再興へと役立てました。

この桜町の復興事業は多くの町や村のお手本となり、「報徳思想(仕法)」として語り継がれるようになったのです。

1842年 – 55歳「幕府に勤めるようになり、印旛沼の開拓を打診」

印旛沼

さまざまな村や地域で再興を行う

尊徳は桜町の復興を行うかたわら、「報徳思想(仕法)」に乗っ取って多くの村の立て直しを行います。1832年には常陸国真壁郡青木村、1833年には下野烏山、1834年には常陸国谷田部藩の細川家の財政を改善させました。

1836年には飢饉に陥っている小田原の救済、特に伊豆や相模は緊急で復興にあたるようにとの命令を受けます。尊徳は小田原家臣達と協力して救済にあたりました。1838年には10000石以上の領地を持つ、下館藩の石川家の財政立て直しをはかり、借金を完済しました。

印旛沼の開拓を打診するも頓挫

尊徳は1842年には幕府へ招聘され、普請役となります。そして、幕府に向けて印旛沼の開拓と利根川の利水を打診します。当時の老中・水野忠邦主導で計画が進みますが、事業を開始してから一年も経たないうちに水野が失脚したため、計画は頓挫してしまいました。

1844年からは日光神領の仕法を命じられ、様々な地の神領や農村を立て直します。1845年には下野国真岡に移住し、本格的に仕法を行なっていくのでした。

1856年 – 70歳「下野国の報徳役所にて帰らぬ人に。死因は心筋梗塞?」

二宮尊徳の墓

現・栃木県日光市にて帰らぬ人に

尊徳は日光神領の再興に精力的に取り組んでいましたが、持病であった狭心症の悪化から、何度か病に倒れることとなります。回復しては事業を進めるということを繰り返していましたが、1856年、大病を発症し亡くなってしまうのでした。

死因については諸説ありますが、もともと狭心症を患っていたこともあり、心筋梗塞で亡くなった可能性が高いのではないかと言われています。

二宮尊徳の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

学習漫画 世界の伝記 二宮金次郎 農業の発展につくした偉人

歴史上の世界を変えて来た人物の活躍を描く伝記漫画シリーズです。幼い頃に両親を亡くし、苦労しながら農業の勉強を重ね、成人してからは多くの村の復興にあたった二宮金次郎の生涯を漫画形式で紹介しています。子供はもちろん大人にもおすすめの一冊です。

教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か

百姓の子供として誕生し、生涯で600を超える農村の立て直しを行った二宮尊徳から成功の哲学を学ぶ本です。渋沢栄一や松下幸之助など名だたる人物が信奉していた尊徳の生き方を解説し、現代にも活かせる哲学を紹介しています。

二宮翁夜話

二宮尊徳の思想を簡潔に表現した書籍となっています。「報徳4綱領」である至誠、勤労、分度、推譲について説明し、実際にどのような行動を示すのかをわかりやすく解説しています。価値観が多様化している現代にも活かせる考え方が詰まっています。

おすすめの映画

二宮金次郎

2019年に公開された映画「二宮金次郎」の予告動画です。二宮金次郎の生涯を描いています。農村復興のために金次郎が編み出した「仕法」は斬新な方法であったため当時の農民からは反発を受けます。しかし、最終的には受け入れられ、その方法が全国へと広まっていくのでした。

おすすめドラマ

池波正太郎時代劇 光と影

池波正太郎の短編小説を1話完結型でドラマ化しています。第4話に「二宮尊徳 秘話」が採用されており、筧利夫が尊徳役で主演を務めました。二宮尊徳が全国的に有名になっていく前の裏話が描かれているため、興味深く見ることができます。

二宮尊徳についてのまとめ

二宮尊徳は幼い頃に両親を亡くし、引き取られた先でも良く扱われないなど苦労を重ねて来ましたが、生家を立て直したことをきっかけに「報徳思想」を編み出し、多くの農村を再興していきます。生涯で救った農村の数は600にも上るのでした。晩年は日光神領の復興にあたりますが、病気によって70年の生涯を閉じます。

尊徳の考え方は現代でも重宝されており、これからも語り継がれることでしょう。

今回の記事を読んで、さらに二宮尊徳に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

1 2 3

コメントを残す