二宮尊徳の功績
功績1「報徳思想を全国へと普及させる」
二宮尊徳は両親を亡くした後、親戚の家へと引き取られましたが、そこで農業を手伝うかたわら、儒教や仏教などを勉強しました。そして、20歳になる頃に生家へと戻りますが、荒廃した生家を立て直すために編み出したのが「報徳思想」です。
「報徳思想」に基づいて地主・農園経営を行い、潰れかかっていた生家を再興しました。この評判が小田原藩にも伝わり、家老の所領も再興するように依頼され、見事に立て直して見せるのです。この小田原藩家老の再興を達成したことによって噂が広まり、「報徳思想」が全国へと普及して行くのでした。
功績2「600もの農村の復興と財政再建を行う」
二宮尊徳は生家の復興を皮切りに、下野国芳賀郡桜町の再興、日光神領の立て直しに至るまで、約600もの農村の復興と財政再建を行いました。初期の桜町の再建に関しては10年以上かかりましたが、尊徳の「報徳思想」が広まってからは多くの農村が考えに従い、次々と復興を成し遂げていくのでした。
代表的なところでは1832年には常陸国真壁郡青木村、1833年には下野烏山、1834年には常陸国谷田部藩の細川家の財政を立て直します。1836年には小田原藩の家臣らとともに飢饉に陥っている小田原の救済にあたりました。1838年には10000石以上の領地を持つ、下館藩の石川家の借金を完済しました。
功績3「一円札の肖像画に選ばれる 」
二宮尊徳は一円札の肖像画に選ばれていたことがあります。期間は1946年3月から1958年9月まででした。この時期は4種類の一円札が発行されており、武内宿禰(古代日本において5代の天皇に仕えたとされる伝説上の忠臣)が2種類、大黒天の絵柄が1種類、二宮尊徳が1種類です。
二宮尊徳が採用された背景には第二次世界大戦後のGHQによる支配が絡んでいます。武内宿禰は軍国主義のシンボルとして認識されているため、これからの日本の紙幣には不適切であるとの指摘があったため、二宮尊徳を代わりに肖像として用いることが決められたのでした。
ちなみに一円札の中で二宮尊徳のものだけ透かしが入っていません。
二宮尊徳の名言
「誠実にして、はじめて禍(わざわい)を福に変えることができる。術策は役に立たない。」
二宮尊徳は飢饉で財政難に陥っていた村を600以上も立て直しています。尊徳は桜町の再興を10年以上もかけて行っていますが、途中で投げ出さずに任務に当たった誠実な姿勢も人々の心に響いたのでしょう。
「人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として、劣っているところは友としてはいけない。」
依頼される任務が大きくなるにつれて仲間の協力が不可欠になっていきます。尊徳は小田原藩や日光神領などの大規模な復興を任されるようになり、人を適材適所で配置しました。長所は長所として活かせるように人材を評価するのも上に立つ者の使命だと思います。
「大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。それ小を積めば大となる。」
小さいことを積み重ねていけばやがて大きなものとなりますよ、ということです。野球選手のイチローも同じようなことを言っていますよね。尊徳自身も生家の復興から徐々に始めていき、日本全国へと再興の策を広めていったのです。
二宮尊徳にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ナスを食べて違和感を感じ、冷夏を予知した」
二宮尊徳の生きていた時代は冷夏になると農作物に多大な影響が出るために、夏に気温が上がらないことを恐れていました。尊徳はある年、ナスを一口食べた時に秋ナスの風味を感じたため、今年は冷夏になると予想します。そのため、冷夏でも育ちやすいヒエを多く収穫することに決めました。
予想通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉と呼ばれる大災害が発生しますが、尊徳の住んでいた地域はヒエの蓄えがあったために飢饉を免れることができたそうです。そして、この大飢饉の際には余ったヒエを周辺の農村にも分けてあげたのでした。これが「分度」です。
都市伝説・武勇伝2「『二宮金次郎』という小学唱歌がある」
二宮尊徳は小学唱歌にも登場しています。1911年に刊行された「尋常小学唱歌 第二学年用」に初めて載せられました。第二次世界大戦ごろまでは全国で歌われていましたが、戦後は二宮尊徳の教えが必ずしも生活の方式と合致しないと判断され、次第に歌われなくなっていきました。
1番の歌詞は「柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行尽くす 手本は二宮金次郎」となっています。尊徳の幼少期の生活の様子をそのまま歌に仕上げてあります。歌は3番まであり、全て「手本は二宮金次郎」で締めくくられているのでした。
都市伝説・武勇伝3「夜になると『二宮金次郎像』が走り出すという怪談がある」
学校の怪談シリーズで「二宮金次郎」の像にまつわるものがいくつかあります。二宮金次郎が背負っている薪の数が減る、図書室へ本を借りに行く、校庭を走り回る、トイレに行って個室に入るが薪が邪魔で閉まらないなどです。
そして運動神経はとても良く、台に戻る際に1m以上の高さをジャンプして戻るそうです。また、最近では、ながら歩きをするのは危険だということで座った状態の「二宮金次郎像」が登場しており、通常の立った状態の「二宮金次郎像」は自ら姿をくらましているなどの怪談も出てきています。
二宮尊徳の簡単年表
二宮尊徳は誕生時の名前を二宮金次郎と言い、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に生まれました。両親は父・二宮利右衛門、母・好(よし)でその長男として誕生しています。
1791年8月、暴風雨により酒匂川が決壊し、金次郎の住む地域一帯が被害を受けます。その際に、金次郎の家と土地も流され、借金を背負うこととなりました。
金次郎が10歳の時に父・利右衛門が病気を患い、働けなくなります。同時期に酒匂川の堤防工事への労働力を募集されたため、父の代わりに金次郎が勤めることとなりました。
1800年に父・利右衛門が病気で亡くなり、働き手がいなくなってしまいます。家計を支えるために働き出した母の手助けをするため、金次郎も薪の採取と草鞋作りによって稼ぐようになりました。
金次郎が15歳の時に母・好(よし)が亡くなり、両親ともに失うこととなりました。2人の弟がいましたが、面倒を見ることができないため、弟たちは母方の実家に預け、金次郎自身は伯父の家で暮らすこととなります。
伯父の家で暮らし始めて2年後には別の親族の家へ移住し、そこで米俵5俵を稼ぎます。その翌年には親戚の名主の家へ寄宿するようになり、さらに20俵の米を稼ぎました。そして1806年に荒廃していた生家へと戻り、家の立て直しを計るのでした。
生家の再興に成功した金次郎は地主と農園経営を行いながら、奉公人としても仕えるなど精力的に働きました。そんな中、小田原藩の家老服部十郎兵衛から服部家の家政を任せたいとの依頼を受けます。そして1814年には千両に及ぶ負債を返却してしまうのでした。
金次郎が29歳の時に堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きのと結婚します。しかし、1819年に、生まれたばかりの長男を亡くした上に、妻・きのが金次郎の家風に合わないなどの理由が重なり、離婚することとなりました。
離婚から一年後、飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみと再婚します。なみは当時16歳でしたが、頭の良い奥さんで、のちに「賢夫人」と呼ばれるようになります。金次郎はなみとの間に弥太郎、ふみの1男1女をもうけました。
小田原藩主大久保家の分家である宇津家の管轄であった下野国芳賀郡桜町が傾いていたため、金次郎はその再興を命じられます。この時に武士の称号を与えられ、「尊徳」と改名しました。
尊徳は再興のために桜町へ移住し、資本金を与えられて町の再建に乗り出しました。
宇津家の家臣であった人物が江戸に赴くこととなったため、代わりに尊徳が桜町の長となることになりました。しかし、再興に関しては村人たちの反抗が激しく、なかなかうまく事が運んでいきません。
桜町の再興は難航していましたが、1831年には米400俵を納められるようになり、3年後には1300俵の収益をあげられるまでになりました。そしてついに1836年、桜町の再建に成功するのです。尊徳が行った再興政策は報徳思想(仕法)として他の地域でも見本として利用されました。
飢饉に陥っていた小田原の藩主である忠真公が病気に倒れたため、代役として尊徳が飢饉収束の任務を任されます。尊徳は家臣と協議をし、多くの村の救済にあたりました。
石川氏が長年治めていた下館藩の石数が3分の1にまで落ち込んでいたため、尊徳が復興役に駆り出されます。最終的に借金を完済し、下館藩の財政を立て直しました。
55歳の尊徳は幕府に普請役として迎えられます。そして、印旛沼の開拓と利根川の利水を幕府へ打診しますが、当時の老中・水野忠邦主導で行われた政策は、水野の失脚により頓挫し、中止となりました。
1843年には幕府の直轄領の再興を命じられるなど、徐々に重要な仕事を任されるようになっていた尊徳でしたが、1844年に日光神領の復興を任されます。
もともと狭心症を患っていた尊徳は復興のかたわら、何度か病床に伏すことがありました。そして、1856年、下野国の報徳役所にて帰らぬ人となります。死因に関しては詳しいことはわかっていませんが、狭心症を患っていたことから心筋梗塞なのではないかと言われています。