神ベーシスト!レッチリ・フリーの凄さや魅力、名言まとめ【歴史年表つき】

この記事では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーについて、歴史年表にまとめつつ、これまで残した功績や人物像についてとことん掘り下げて紹介していきます。

All Music Guideで「史上最も才能豊かなロックベーシストの一人」と称された彼に憧れるベーシストは数多いですが、私もその一人。そんな彼についてどこよりも詳しく紹介していくので、フリーのことをもっと知りたいという人はぜひご覧ください。 それではどうぞ。

レッチリ フリーの来歴は?

レッチリ フリーの生まれは?

Melbourne

フリーこと本名マイケル・ピーター・バルザリーはオーストラリア、メルボルン州の平凡な家庭に生まれます。姉が一人いました。

父親の仕事によりニューヨークに移住することになりましたが、1972年に母親がジャズミュージシャンと不倫。両親は離婚し、母親はそのジャズミュージシャンと再婚するのですが、それもあってフリーは幼い頃から音楽に囲まれた環境で育ちました。

レッチリ フリーの性格は?

派手なパフォーマンスからは考えにくいことですが、フリーはもともと暗い性格をしていました。オーストラリアで育ったことからその訛りが抜けず、高校時代は同級生からいじめられていたそうです。

しかしバンドメンバーとの出会いをきっかけとして徐々に明るくユーモアのある性格に。しかし紳士な一面も持ち合わせており、そのキャラクターも世界中のベーシストから愛される理由の一つだと言えます。

レッチリ フリーのプレイスタイルは?

All Music Guideにおいて「one of rock’s most talented bassists(史上最も才能豊かなロックベーシストの一人)」と称されるほど天才的なベーステクニックを有するレッチリのフリーですが、やはり彼の代名詞といえば目で追いきれないほどの高速スラップです。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ初期ではオーソドックスな2フィンガーとスラップを中心としたファンキーなベースラインが特徴で、この頃のバンドはフリーのベースラインを中心に構成されました。

存在感抜群のサウンドは世界中の音楽ファンを魅了しましたが、特に下向きの親指でサム、中指でプルする個性的なスラップ奏法は“フリースタイル”と呼ばれ、アルバム『母乳』ではそのテクニックをロック界に広く知らしめます。

一方、『バイ・ザ・ウェイ』がリリースされたあたりからはレッチリ後期と称されますが、その頃にはギターのジョン・フルシアンテが目覚ましい活躍を遂げ、フリーはそれまでとは違ったシンプルなベースラインに移行。

ピック弾きをする機会も多くなっていきますが、時折見せる彼らしい高等テクニックは健在で、常に進化していくスタイルは新しいアルバムをリリースするごとに新鮮な一面を見せてくれます。

ちなみにフリーという名前は“ノミ”を意味しており、低身長にも関わらずステージを跳ね回る彼のパフォーマンスが由来です。

レッチリ フリーが影響を受けた音楽は?

フリーはジャズミュージシャンである継父の影響もあり、幼い頃に関心を持っていたのはもっぱらジャズ。9歳からトランペットを始めて吹奏楽部などに所属していたのですが、高校時代にバンドメンバーと出会ったことでロックに興味を持ち始め、レッド・ツェッペリン、クイーン、ジミ・ヘンドリックスなどを聴くようになります。

最も好きなロックアルバムにはザ・クラッシュの「サンディニスタ!」を挙げていますが、そのようなパンクロックと幼い頃から聴いていたジャズがかけ合わさり、フリーのスタイルが確立されていきました。

2006年のローリング・ストーン誌では、世界史上最高のミュージシャンとしてボブ・マーリィとチャールズ・ミンガスを挙げています。またバンドの活動休止期間に当たる2008年にはカリフォルニア大学の音楽学部に入学し、音楽理論などを学んでいました。

レッチリ フリーの使用ベース・機材は?

レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーといえばまず思い浮かぶのは「スティングレイ」でしょう。

黒一色のボディの中央に卵型のピックガードが設置された見た目はあまりにクール。フリー=スティングレイ=スラップという方程式は全ベーシストの中で共通認識になっていますし、実際彼に憧れてスティングレイを購入した人は数え切れません。

バンド初期にはフェンダーのプレシジョンベースをメインに使用していましたが、ピークとも言える90年代にスティングレイを使っていたことから、そのイメージが強くなったのだと思われます。

21世紀に入る頃からはスティングレイをモチーフにした自身のシグネイチャーモデルであるモジュラスのファンク・アンリミテッドがメインベースに。レコーディングの際は1962年製のフェンダー・ジャズベースを使用することも多いですが、あまりの希少価値の高さからライブのために持ち運ぶということはあまりありませんでした。

他にもシグネイチャーモデルは複数販売されていますし、2009年には自身のプロデュースブランド「Flea Bass」を発表しています。

ちなみにアンプ直が多いフリーですが、使用エフェクターで代表的なものはBOSSのODB-3。「Around The World」のイントロ部分など、フリーらしい歪みサウンドはこのエフェクターによるものです。

レッチリ フリーの名言は?

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Yeeeeeeeeeeeeeeeeah

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「俺は自分の人生を愛してる。自分の失敗も、成功も、すべてを愛してるんだ」

「多くの人が望むのは、あらゆる美しい事柄を共有できる人と思いやりを持って気遣いし合える関係だ。でも、時には、ただ外へ出て、夢中になって、ワイルドなバンシー(妖精)のようにファックしてみたいと思わないか?」

「ファンクの本質は、ファンクに忠実であることだ。ファンクによって生き、四六時中ファンクを感じていること。真の世界共通言語だよ」

「(フリーというニックネームは)アンソニーが最初にそう呼び始めたんじゃないか? それに、俺はいつも痙攣してる動物みたいにそこらを跳ねまわってる小さい奴だったからさ。俺の性格がそんな感じだからニックネームが定着したんだろう。でも、血は吸わないよ。俺は血を与える人間だからな」
「ロサンゼルスで、最もクールで、ハンサムかつ知的な男を知りたいって? そいつは俺だろうな」

「人は音楽をコントロールしようとすると、抑圧してしまうことになるんだ。ヒッピー的な感じだけど、俺の場合はエナジーを放出して、あるがままにさせる。それが俺の才能だ」
「彼(ドナルド・トランプ)はリアリティー番組のマヌケな道化師だし、注目を浴びるのが好きな威張り屋としか思えないんだ」

レッチリ フリーの生涯年表

レッチリ フリーの早見年表

1962年
オーストラリア メルボルンにて生まれる
フリーことマイケル・ピーター・バルザリーは1962年10月16日にオーストラリアのメルボルン州に生まれました。両親と姉一人という家族構成でしたが、父親の仕事の都合でニューヨークに転居します。
1972年
カリフォルニア州ロサンゼルスに移住
その後、母親がジャズミュージシャンと不倫したことがきっかけで両親は離婚し、母親はそのジャズミュージシャンと再婚。カリフォルニア州ロサンゼルスに移住することになります。
フリーは幼い頃からドラムに触れていましたが、9歳でトランペットを始めます。みるみるうちに上達していきましたが、当時はロックに興味がなく、継父のようなジャズミュージシャンを目指していました。
1977年
レッチリのオリジナルメンバーと出会う
高校時代のフリーはオーストラリア訛りが原因でいじめを受けていましたが、後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成することになるアンソニー・キーディス、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズと出会い、親友に。
トランペットの技術を磨く一方、彼らの影響でロックにも興味を持ち始めたフリー。ヒレル・スロヴァクにベースを教えられるとすぐにその才能を開花させ、ヒレル・スロヴァクとジャック・アイアンズが所属するアンセムというバンドに加入します。
1983年
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成
やがてベーシストとして知名度を上げていたフリーですが、1983年にオリジナルメンバー4人でライブをすることに。もともとはそれきりの企画だったのですが、そのライブが大好評。レッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成します。
1988年
ヒレルが他界し、ジャックも脱退
活動を続け、複数のアルバムをリリースしたレッチリでしたが、1988年にヒレル・スロヴァクが薬物中毒により他界。それに伴いジャック・アイアンズもバンドを脱退してしまいます。
1989年
『母乳』でスラップを普及させる
新メンバーにジョン・フルシアンテとチャド・スミスが加入。その後、新アルバム『母乳』をリリースしてバンドは一気に知名度を上げます。
また同時にこのアルバムでのフリーの高速スラップは世界中の人々を魅了。スラップというテクニックをロック界に持ち込んだ第一人者となりました。
1991年
『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』が世界的に大ブレイク
『母乳』から約2年後にリリースした『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』はレッチリ史上初めての世界的大ブレイク。アンソニー・キーディスのラップとフリーのスラップの相性が抜群で、現在でもバンドを代表する名盤となっています。
1999年
ジョンが復帰し、『カリフォルニケイション』をリリース
1992年にはギターのジョン・フルシアンテが一度脱退してしまうのですが、1999年に復帰。その後リリースした『カリフォルニケイション』も大ヒットし、レッチリは完全に世界が認める大人気ロックバンドとなりました。
2002年
『バイ・ザ・ウェイ』がイギリスのアルバムチャートで1位
21世紀に入り最初にリリースしたアルバム『バイ・ザ・ウェイ』では初めてイギリスのアルバムチャートで1位を獲得。一般的にこの頃からレッチリ後期と称されるようになりますが、ジョン・フルシアンテのギターを前面に押し出した新しいサウンドに。
対してフリーはそれまでの激しいスラップを披露する機会が減る代わりに、他のパートを活かすシンプルなプレイが多くなっていきます。
2006年
『ステイディアム・アーケイディアム』が全世界24ヶ国のアルバムチャートで1位
2006年にリリースした『ステイディアム・アーケイディアム』はアメリカを含め、全世界24ヶ国のアルバムチャートで1位を獲得。
その中の先行シングル「Dani California」は藤原竜也主演の映画『デスノート』の主題歌に起用され、日本でもその名を一気に轟かせました。
2007年
2年間の活動休止に
『ステイディアム・アーケイディアム』の世界ツアー終了後、アルバム制作やツアーで人間関係に亀裂が入り、レッチリは活動休止に。解散寸前にまで追い込まれていました。
フリーはその間、大学で音楽理論を学んだり別のアーティストとバンドを組んだりしていましたが、アンソニー・キーディスとの絆でバンドが復活。しかし活動休止中に異なる道を見つけたジョン・フルシアンテだけは脱退することになりました。
2011年
ジョシュが加入し、『アイム・ウィズ・ユー』をリリース
ジョン・フルシアンテに代わり、以前からサポートミュージシャンとしてツアーなどにも参加していたジョシュ・クリングホッファーが正式なメンバーとして加入します。
そして前アルバムから実に5年ぶりにファン待望の新作『アイム・ウィズ・ユー』がリリース。新メンバーも加わり、また新たなレッチリのサウンドが生まれました。
2012年
ロックの殿堂入りを果たす
2012年、レッチリはついにロックの殿堂入りを果たします。1986年に創設された賞ですが、グラミー賞、ビルボード・ミュージック・アワード、アメリカン・ミュージック・アワードと並んで4大音楽賞の一つと呼ばれています。
2016年
新形態により『ザ・ゲッタウェイ』をリリース
2016年には『ザ・ゲッタウェイ』をリリースしたレッチリですが、これもまた新しい一面を見せた作品。『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』以来、ともに歩んできたプロデューサー、リック・ルービンの元を離れ、新形態で制作されたアルバムです。

レッチリ フリーの具体年表

1962年
オーストラリア メルボルンで生まれる

オーストラリア メルボルンに誕生

フリー(本名:マイケル・ピーター・バルザリー)はオーストラリアのメルボルン州に生まれました。家族構成は両親と姉が一人いたようです。
幼い頃からドラムに触れていたというフリーですが、9歳でトランペットを始めます。ベース以外にも楽器の才能はあったようで、幼いながら腕前はどんどん上達していったようです。

母親が再婚してロサンゼルスに移住

父親の仕事の都合でニューヨークに移り住んでいたフリーですが、母親があるジャズミュージシャンと恋をしてしまいます。両親は離婚し、父親はオーストラリアに戻ったのですが、母親はそのジャズミュージシャンと再婚。
フリーは母親、継父、姉の3人とロサンゼルスに転居することになりましたが、継父の影響で音楽に囲まれて育ち、将来は継父のようなジャズミュージシャンを目指すように。
11歳の頃には父親とジャムセッションができるほどの技術を身につけていたそうです。

1977年 - 15歳
レッチリのオリジナルメンバーと親友に

レッチリのオリジナルメンバーに出会う

高校時代、オーストラリア訛りが原因で同級生にいじめられていたフリーですが、その傍らでトランペットの技術は上がっていき、吹奏楽部では首席トランペットを務めるほどの腕前に。
そしてそんな時、後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成するアンソニー・キーディス、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズの3人と出会います。
それまでロックには興味がなかったフリーですが、主にヒレルの影響で徐々に関心を持つようになっていきます。

ベースを始める

当時ヒレル・スロヴァクとジャック・アイアンズはアンセムというバンドを組んでいたのですが、そこに有能なベーシストを引き入れるためにフリーを勧誘。ヒレル・スロヴァクの指導によりベースを学び始めたフリーはみるみるうちにその才覚をあらわにしていきます。
そしてアンセムに加入したフリーはベーシストとして徐々に知名度を上げていくと、1981年にはパンクロックバンド・フィアのオーディションにも合格してメンバーとなります。

1983年 - 20歳
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成

レッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成する

1983年、アンソニー・キーディス、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズ、そしてフリーの4人でライブを行う企画が上がりました。もともとは一度きりのライブのはずだったのですが、彼ららしい派手なパフォーマンスが評判を獲得し、4人はレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成します。
またフリーはフィアを脱退し、レッチリ一本に専念。結成から半年後にはCapitol/EMIと契約するに至ります。

1984年 - 21歳
『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』リリース

『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリースする

結成の翌年にはデビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(The Red Hot Chili Peppers)』をリリースします。
しかし実はこのアルバムの制作にヒレル・スロヴァクとジャック・アイアンズは不参加でした。

1985年 - 22歳
『フリーキー・スタイリー』リリース

『フリーキー・スタイリー(Freaky Styley)』をリリースする

さらにその翌年にはヒレル・スロヴァクがバンドに戻り、『フリーキー・スタイリー』を発表。プロデューサーはファンク界の大御所であるジョージ・クリントンが務めました。
オリジナルのほか、黒人ファンクのカバー曲もいくつか収録されていたアルバムですが、この頃からフリーのベースはより強いファンク色を帯びるようになっていきます。

1987年 - 24歳
『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』リリース

『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリースする

ザ・ビートルズで有名なアビイ・ロードでのペニスソックスの写真が撮られたのがこの『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン(The Uplift Mofo Party Plan)』。日本版もこのアルバムから販売されだしました。
ヒレル・スロヴァクに続きジャック・アイアンズもバンドに戻り、オリジナルメンバーが揃って制作した最初のアルバムですが、同時に最後のアルバムでもあります。
というのも翌1987年にはヒレル・スロヴァクがヘロインの過剰摂取による薬物中毒により他界。それにより意欲を失ったジャック・アイアンズもバンドを去ってしまいます。

1989年 - 26歳
『母乳』リリース

ジョンとチャドが加入

1989年にはジョン・フルシアンテとチャド・スミスが新メンバーとして加わります。
ジョン・フルシアンテはもともとレッチリの熱狂的なファンだったのですが、弱冠18歳で加入。その後1990年〜2000年にかけてバンドの黄金期を担う偉大なギタリストに成長していきます。
チャド・スミスは現在もレッチリでドラムを叩いていますが、フリーとともにバンド全体を支える優秀なドラマー。他にも複数のサイドプロジェクトに関わるようになります。

『母乳』をリリースする

新体制となったレッチリは4枚目のアルバム『母乳(Mother’s Milk)』をリリースします。
アメリカでのアルバムチャートは52位でしたが、このアルバムでフリーのファンキーなスラップが炸裂。バンドの知名度を上げるとともに、スラップというテクニックがロック界に普及するきっかけとなった名盤と言えます。
スティーヴィー・ワンダーの「Higher Ground」、ジミ・ヘンドリックスの「Fire」のようなカバー曲のほか、後に名曲と謳われるようになるオリジナルも多数収録。「Stone Cold Bush」のベースソロはベーシストなら誰もが弾いてみたくなる伝説的なフレーズとなりました。
ちなみにこのアルバムのアートワークは亡くなったヒレル・スロヴァクが生前に描いた裸婦画が採用されています。

1991年 - 28歳
『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』リリース

Warner Brothers Recordsに移籍する

1991年、レッチリは所属レコードをCapitol/EMIから現在のWarner Brothers Recordsに移籍します。『母乳』を制作した際、プロデューサーのマイケル・バインホーンと意見の食い違いが発生したためですが、当時のことをアンソニー・キーディスは自伝『スカー・ティッシュ』で以下のように語っています。

それまでの作品のギターは普通とは違うアシッド・ロック的で、なまめかしくてセクシーなファンクのトーンをたっぷりと加えるのが基本だったのだが、マイケルはジョンにザクザクとしたメタル風のプレイを要求した。ジョンはそういう感じにまるで興味がなかったから、トーンの重ね方を巡って、ふたりは相当激しくやり合った。ジョンにはつらい時期だったと思う。

メンバー内でも口論は絶えず、特に初参加でレコーディングの経験がなかったジョン・フルシアンテとは何度も衝突。
「Higher Ground」のカバーに関してもに関しても勧めたのはマイケル・バインホーンだったのですが、アンソニー・キーディス曰く、「この楽曲は自分の得意分野ではない」とのこと。この件に関してもアンソニー・キーディスはこのように振り返っていました。

やつはこっちの気持ちを無視して、おれの中から無理やり何かを絞り出そうとした。それで衝突し、おれはこいつとはもう終わりだな、と思ったのだ。

結局このレコーディングがきっかけで二人は絶交。レコードのプロモーション戦略に対する不満が爆発し、移籍に至ります。

『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリースする

Warner Brothers Recordsに移籍したレッチリは早々に『ブラッド・シュガー・セックス・マジック(Blood Sugar Sex Magik)』をリリース。このアルバムからプロデューサーには今後長く連れ添っていくことになるリック・ルービンを起用します。
カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのチャートで1位を獲得し、バンド初となる世界的大ヒットを記録。当アルバムをバンドの最高傑作に挙げるファンも数多く、数々の著名人や音楽雑誌からも賞賛されました。
このアルバムでフリーのベースラインはさらにファンキーさが増し、アンソニー・キーディスのラップとの相性はもちろん、ジョン・フルシアンテの個性も上手く押し出された至高の作品だと言えます。
レッチリを代表する名曲も多数収録されていて、シングルカットされた「Under The Bridge」は全米のシングルチャートで2位、「Give It Away」はグラミー賞を獲得しました。

1995年 - 32歳
『ワン・ホット・ミニット』リリース

ジョン・フルシアンテが脱退

1992年の世界ツアーで来日した際、ジョン・フルシアンテが突然帰国し、そのままバンドを脱退してしまいます。薬物中毒とうつ病に苦しみ、一時期は隠遁生活を送っていたそうです。

『ワン・ホット・ミニット』をリリースする

ジョン・フルシアンテの後を引き継ぐギタリストを求めてオーディションを繰り返した結果、1994年にデイヴ・ナヴァロが加入。
翌1995年には『ワン・ホット・ミニット(One Hot Minute)』がリリースされましたが、これまでのファンクさは薄れた反面、ハードロックさが前に出されたアルバムに。これはデイヴ・ナヴァロの影響によるものとされています。
ファンも賛否両論の作品となりましたが、方向性の違いを感じたデイヴ・ナヴァロはこのアルバムをリリースした後にあっさりと脱退してしまいます。

1999年 - 36歳
『カリフォルニケイション』リリース

『カリフォルニケイション』をリリースする

1999年、薬物中毒とうつ病を克服したジョン・フルシアンテがバンドに復帰。その後リリースされた『カリフォルニケイション(Californication)』は現在までのアルバムの中で最高の売上を達成しています。
バンドにとってはまさに起死回生のアルバムとなりましたが、この頃には『ワン・ホット・ミニット』までのハードさが徐々になくなり、レッチリ後期に繋げるメロディアスな楽曲が多くなっていきます。
1曲目の「Around The World」は佐藤健主演の映画『BECK』の主題歌にも起用されましたが、イントロの激しく歪んだベースサウンドはフリーの新たな一面を象徴するといっても過言ではありません。また「Scar Tissue」は二度目のグラミー賞を受賞しました。
ちなみに「Californication」とは「California」と「fornicate」を組み合わせてた造語であり、映画産業の中心地であるハリウッドの裏側に潜む虚構や犯罪といったダークな部分を意味しています。

2002年 - 39歳
『バイ・ザ・ウェイ』リリース

『バイ・ザ・ウェイ』をリリースする

21世紀に入って初めてリリースされた『バイ・ザ・ウェイ(By The Way)』もまた名盤ですが、この頃からいわゆるレッチリ後期に入ります。
『カリフォルニケイション』に続き、メロディアスで優しい雰囲気の楽曲が多数収録されていますが、特にジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましかった作品であり、チャド・スミスはこのアルバムのことを「very John」と表現するほど。
フリーのベースラインも切なくシンプルなものが多くなっていきますが、「Can’t Stop」に関しては以前のようなスラップが強調されたファンクな曲調。全世界のベーシストから支持される名曲となりました。

2006年 - 43歳
『ステイディアム・アーケイディアム』リリース

『ステイディアム・アーケイディアム』をリリースする

4年後の2006年にリリースされた『ステイディアム・アーケイディアム(Stadium Arcadium)』は2枚組で合わせて28曲も収録された大ボリュームのアルバム。全世界24カ国のアルバムチャートで1位を獲得しましたが、2枚組のアルバムでは史上初の快挙でした。
バンドにとって一つの集大成でもあり、転機にもなったアルバムですが、『カリフォルニケイション』、『バイ・ザ・ウェイ』といった名盤を経て、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのサウンドが一つの完成形を迎えたアルバムではないでしょうか。
そして木星がアートワークになっているディスク1の1曲目に収録されているのは藤原竜也主演の映画『デスノート』の主題歌になった「Dani California」。同じく収録曲の「Snow(Hey Oh)」は続編の『デスノート the Last name』の主題歌になりました。
バンドメンバーたちもこのアルバムは自身の最高傑作と語っており、フリー曰く、「このアルバムが嫌いだということはすなわち、レッチリが嫌いだということ」とのこと。

『ミュージックステーション』に出演

同年7月には日本の国民的音楽番組『ミュージックステーション』に出演しました。
それまで何度も来日してきた彼らでしたが、実は日本のテレビ番組で演奏、かつ生出演したのはこの時が初めて。やはり『デスノート』による国内の知名度アップが大きく影響したと言えます。

2007年 - 44歳
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ活動休止

2年間の活動休止へ

最高傑作『ステイディアム・アーケイディアム』をリリースした彼らでしたが、実はその裏側ではお互いの人間関係に亀裂が入っていました。
ロック史に刻まれる名盤の制作、そして伝説的なライブを繰り返してきた彼らでしたが、活動休止を言い出したのはフリー。その理由を以下のように語っていました。

「いろんなものがもう機能しなくなってて、楽しくもなくなってたんだ。それでもすごいレコードを作ってるとは思ってたし、ライブもすごければ、バンドとしてはものすごくパワーに満ちて力強い存在になっているとは思ってたんだよ。自分たちのやってきたことに自負も感じてたし、ロック界における自分たちのポジションは誇れるものだとも思ってたんだ。いつだって俺たちは全身全霊をこれに捧げてきたと思うけど、それでも俺たち全員がしばらくこのバンドから離れる必要があると感じたんだよ」

活動休止を発表した時は最低1年という期間でしたが、結局活動を再開した時には約2年が経過していました。

サイドプロジェクトに積極的に参加

レッチリ休止中、フリーは数々のサイドプロジェクトに積極的に参加していました。
2008年にロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーン、2009年にアトムス・フォー・ピースといったバンドも結成。2008年にはメタリカのロサンゼルス公演にゲスト出演し「Fight Fire with Fire」をセッションするなど、他アーティストとの交流も盛んでした。
また南カリフォルニア大学の音楽学部に入学し、音楽理論や作曲、そして幼い頃からプレイしてきたジャズ・トランペットを学び直していましたが、そのようなサイドプロジェクトに参加しているうちに、フリーの中でまたレッド・ホット・チリ・ペッパーズとして活動したいという思いが再燃します。
一時期は解散寸前にまで陥ったレッチリですが、それを復活させたのはフリーと学生時代から共に歩んできたアンソニー・キーディスとの絆でした。

「やっぱり、休んでいた間の俺にとって一番重要だったことで、やっぱりバンドを続けたいっていう気持ちにさせてくれたものは、特にあいつ(ジョン)がもうバンドに居続けたくないって決心してからというもの、俺があらためてわかったのは、結局、アンソニーは俺の兄弟だってことで、俺はアンソニーをたまらなく愛しているし、このバンドはそもそもアンソニーと俺とがまだガキだった頃に俺たちで始めたってことだったんだよ。俺はそれをまだ続けたかったし、それを手放したくはなかったんだ」

ジョン・フルシアンテが脱退

2年間の休止期間を超え、活動を再開させようとしたレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。しかしジョン・フルシアンテだけはソロでのキャリアを突き詰めるため、バンド脱退を決意します。
きっかけはやはりレッチリの活動休止。
その際フリーは各メンバーを説得してアンソニー・キーディスとチャド・スミスも同様の考えだったのですが、ジョン・フルシアンテだけは異なる感情を抱いていたようで、当時のことを以下のようにコメントしていました。

「フリーがそれを言い出した時には僕としてはショックを受けたんだよ。僕としてはあのままずっと転がっていくもんだと思ってたんだよ。このままこの勢いでずっといきたいのにっていうね。だけど、いったんフリーからそう言われたら、いろいろ考えだしちゃったんだよね。『何をやってもいいっていう猶予を2年も貰ったら、その2年の間に何をやろうかな?』ってね。そのまま4か月経っちゃったら、もうバンドにいない状態が楽しくてしょうがなくなってきちゃって、2年とか、そんな期限付きなしでもいいやってことになっちゃったんだ」

オリジナルメンバーではないものの、レッチリのギタリストといえば黄金期を含めて目覚しい活躍を見せたジョン・フルシアンテというイメージが強く、多くのファンが肩を落としました。

2011年 - 48歳
『アイム・ウィズ・ユー』リリース

ジョシュ・クリングホッファーが加入

ジョン・フルシアンテに代わり、ギタリストとして正式に加入することになったのは当時まだ20歳のジョシュ・クリングホッファー。
それ以前からレコーディングやライブの際にサポートミュージシャンとしてレッチリに関わっていたのですが、2010年2月にチャド・スミスがインタビューで正式加入を発表しました。
ちなみにジョン・フルシアンテと共同して音楽制作をすることも多いミュージシャンです。

『アイム・ウィズ・ユー』をリリースする

ジョシュ・クリングホッファーが加入し、2011年には活動再開から初となるアルバム『アイム・ウィズ・ユー(I’m With You)』を発表。前アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』から5年ぶりとなる新作でした。
収録曲は「Monarchy of Roses」や「Look Around」のようにポジティブな曲調のものが多く、ジョシュ・クリングホッファーのフレッシュさが感じられます。アルバムのタイトルも彼が決定しましたが、フリーは以下のようにコメントしました。

「ジョンがかつてこのバンドにもたらしてくれたものにはすごく感謝しているし、ジョンがその才能をソングライティングやいろんな形を通してこのバンドに注いでくれたおかげで生まれた恩恵に対して俺は感謝しているよ。それと同じように、俺たちと関係を今築きつつあるジョシュに対してもまた、俺は感謝してるんだ」

ちなみにカプセルにハエがとまったアートワークはイギリスの現代アーティストであるダミアン・ハートが制作しました。

2012年 - 49歳
ロックの殿堂入りを果たす

ロックの殿堂入りをする

『アイム・ウィズ・ユー』発表からおよそ8ヶ月後の2012年4月、レッド・ホット・チリ・ペッパーズはついにロックの殿堂入りを果たします。
この賞は1986年に創設されましたが、現在ではグラミー賞、ビルボード・ミュージック・アワード、アメリカン・ミュージック・アワードとひとまとめに4大音楽賞と称される名誉ある賞。レッチリ以外にはガンズ・アンド・ローゼズやビースティ・ボーイズなど、全15組がノミネートされました。
この年のノミネートアーティストは以下、全15組です。

  • レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
  • ザ・キュアー
  • ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ
  • ハート
  • フレディ・キング
  • スモール・フェイセス/ザ・フェイセス
  • ザ・スピナーズ
  • ビースティ・ボーイズ
  • ドノヴァン
  • ローラ・ニーロ
  • ウォー
  • エリックB&ラキム
  • ガンズ・アンド・ローゼズ
  • ルーファスwithチャカ・カーン
  • ドナ・サマー

また記者会見ではアンソニー・キーディスは亡くなったオリジナルメンバーのヒレル・スロヴァクについて以下のようにコメントしました。

「もちろん俺が彼を代弁をすることなんてできないけど、でも、彼は音楽を心の底から大切に思っていたし、バンドという兄弟愛や、クリエイティブであることも大事に思っていたから、(今回の受賞は)彼にとっても絶対に意味のあることだったと思うよ。それに、彼の存在は今までも、これからもずっと俺たちのバンドの一部ではあり続けることは変わらないからね。」

そしてフリーはロックの殿堂についてこのように語っています。

「俺たちは、”クソッ!”と思ったときははっきりとそういうタイプだからね。でも、ロックの殿堂についてはクールだと思うよ。つまるところ俺たちにとって一番大事なのは、自分たちが心から愛する音楽を、自分たちの心が思う通りに作るってこと、それだけなんだ。」

2016年 - 53歳
『ザ・ゲッタウェイ』リリース

スノーボードで腕を骨折

ロックの殿堂入りから約3年後の2015年2月、あまり知られていませんが、実はフリーはスノーボードをしている際に腕を骨折し、ミュージシャンとして寿命を脅かすほどの事故に見舞われました。
新アルバム発表の際のインタビューによると、アンソニー・キーディスと共に3日間のスノーボード旅行を楽しんでいたフリー。
そこではメタリカのラーズ・ウルリッヒとも遭遇して楽しい時間を過ごしていたそうなのですが、転倒して腕を含めた数カ所を骨折。大きな手術を受けるも、半年間もベースを弾くことが不可能な状態になってしまいました。
今でこそ完全に回復しましたが、再びベースを弾き始めることができるようになったばかりの頃は全く思うようにいかず、ベーシストとしての活動が続けられるか不安で恐怖を感じていたようです。

『ザ・ゲッタウェイ』をリリースする

腕がある程度回復してからバンドに合流したフリーでしたが、そこからレコーディングができるようになるまではさらに3ヶ月を要したそうです。当時はまだ100%回復したとは言えない状態だったものの、2016年6月にはなんとか新作『ザ・ゲッタウェイ』をリリースします。
この前作よりジョシュ・クリングホッファーのギターが際立った作品になりましたが、メンバー自身もこのアルバムを通してより良い関係になれたと語っています。
またバンドにとって転機になったのは『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の制作時からずっと協力してきたプロデューサーのリック・ルービンの手を離れたこと。新たにデンジャー・マウスを迎えた体制でのアルバム制作になりました。
当初はこれまでとは異なる制作過程にギャップを覚えたメンバーたちでしたが、試しにデンジャー・マウスのやり方を受け入れたところ、思いの外に手応えを感じたよう。フリーはインタビューでその時の心情を語っていました。

「『まあ、いいか。とりあえず始めてみて、最初の1週間で上手くいかなかったら、やめにしよう』って考えた。彼の望むやり方をやってみて、受け入れてみて、どうなるのか確認してみることにしたんだ。俺たちが自分たちらしく、できる限り力強くいられること、そして彼も自分らしさを最大限発揮できることが、俺の一番の望みだった。どっちにとっても新しいことだったはずだからね。でも、これからどうなるのか、初日ではっきり分かったよ。いつもと違う感じで曲を書き始めることができたから、このやり方はすごく良いと思った。とても楽しかったし、そのやり方でレコーディングや作曲をした時、別の方法では得られなかったような奥深さがあることに気づき始めたんだ」

まとめ

いかがでしたでしょうか?今回は世界中のベーシストに影響を与え続けきたフリーとレッド・ホット・チリ・ペッパーズについて紹介しました。

私は学生の頃からベースを始め、現在も趣味でバンド活動をしていますが、初めて彼のベースを聞いた時の衝撃は今でも忘れられません。唯一無二のプレイスタイルを持ち、スラップを世に広め、歴史に名を残すモンスターバンドを引っ張ってきた彼は間違いなく世界最高のベーシストの一人だと言えるでしょう。

この記事をきっかけに、一人でも多くの人がフリーのことを好きになってくれれば幸いです!

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