レッチリのフリーはどんなベーシスト?プレイの凄さや魅力、名言まとめ【年表付】

1999年 – 36歳「『カリフォルニケイション』リリース」

『カリフォルニケイション』をリリースする

歴代最高売上を達成したアルバム「カリフォルニケイション」

1999年、薬物中毒とうつ病を克服したジョン・フルシアンテがバンドに復帰。その後リリースされた『カリフォルニケイション(Californication)』は現在までのアルバムの中で最高の売上を達成しています。

バンドにとってはまさに起死回生のアルバムとなりましたが、この頃には『ワン・ホット・ミニット』までのハードさが徐々になくなり、レッチリ後期に繋げるメロディアスな楽曲が多くなっていきます。

1曲目の「Around The World」は佐藤健主演の映画『BECK』の主題歌にも起用されましたが、イントロの激しく歪んだベースサウンドはフリーの新たな一面を象徴するといっても過言ではありません。また「Scar Tissue」は二度目のグラミー賞を受賞しました。

ちなみに「Californication」とは「California」と「fornicate」を組み合わせてた造語であり、映画産業の中心地であるハリウッドの裏側に潜む虚構や犯罪といったダークな部分を意味しています。

2002年 – 39歳「『バイ・ザ・ウェイ』リリース」

『バイ・ザ・ウェイ』をリリースする

21世紀に入って初めてリリースされた『バイ・ザ・ウェイ(By The Way)』もまた名盤ですが、この頃からいわゆるレッチリ後期に入ります。

『カリフォルニケイション』に続き、メロディアスで優しい雰囲気の楽曲が多数収録されていますが、特にジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましかった作品であり、チャド・スミスはこのアルバムのことを「very John」と表現するほど。

フリーのベースラインも切なくシンプルなものが多くなっていきますが、「Can’t Stop」に関しては以前のようなスラップが強調されたファンクな曲調。全世界のベーシストから支持される名曲となりました。

2006年 – 43歳「『ステイディアム・アーケイディアム』リリース」

『ステイディアム・アーケイディアム』をリリースする

2006年に開催されたワールドツアー

4年後の2006年にリリースされた『ステイディアム・アーケイディアム(Stadium Arcadium)』は2枚組で合わせて28曲も収録された大ボリュームのアルバム。全世界24カ国のアルバムチャートで1位を獲得しましたが、2枚組のアルバムでは史上初の快挙でした。

バンドにとって一つの集大成でもあり、転機にもなったアルバムですが、『カリフォルニケイション』、『バイ・ザ・ウェイ』といった名盤を経て、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのサウンドが一つの完成形を迎えたアルバムではないでしょうか。

そして木星がアートワークになっているディスク1の1曲目に収録されているのは藤原竜也主演の映画『デスノート』の主題歌になった「Dani California」。同じく収録曲の「Snow(Hey Oh)」は続編の『デスノート the Last name』の主題歌になりました。

バンドメンバーたちもこのアルバムは自身の最高傑作と語っており、フリー曰く、「このアルバムが嫌いだということはすなわち、レッチリが嫌いだということ」とのこと。

『ミュージックステーション』に出演

同年7月には日本の国民的音楽番組『ミュージックステーション』に出演しました。

それまで何度も来日してきた彼らでしたが、実は日本のテレビ番組で演奏、かつ生出演したのはこの時が初めて。やはり『デスノート』による国内の知名度アップが大きく影響したと言えます。

2007年 – 44歳「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ活動休止」

2年間の活動休止へ

人間関係の亀裂からレッチリ解散へ

最高傑作『ステイディアム・アーケイディアム』をリリースした彼らでしたが、実はその裏側ではお互いの人間関係に亀裂が入っていました。

ロック史に刻まれる名盤の制作、そして伝説的なライブを繰り返してきた彼らでしたが、活動休止を言い出したのはフリー。その理由を以下のように語っていました。

「いろんなものがもう機能しなくなってて、楽しくもなくなってたんだ。それでもすごいレコードを作ってるとは思ってたし、ライブもすごければ、バンドとしてはものすごくパワーに満ちて力強い存在になっているとは思ってたんだよ。自分たちのやってきたことに自負も感じてたし、ロック界における自分たちのポジションは誇れるものだとも思ってたんだ。いつだって俺たちは全身全霊をこれに捧げてきたと思うけど、それでも俺たち全員がしばらくこのバンドから離れる必要があると感じたんだよ」

活動休止を発表した時は最低1年という期間でしたが、結局活動を再開した時には約2年が経過していました。

サイドプロジェクトに積極的に参加

ロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンのレコーディングシーン

レッチリ休止中、フリーは数々のサイドプロジェクトに積極的に参加していました。

2008年にロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーン、2009年にアトムス・フォー・ピースといったバンドも結成。2008年にはメタリカのロサンゼルス公演にゲスト出演し「Fight Fire with Fire」をセッションするなど、他アーティストとの交流も盛んでした。

また南カリフォルニア大学の音楽学部に入学し、音楽理論や作曲、そして幼い頃からプレイしてきたジャズ・トランペットを学び直していましたが、そのようなサイドプロジェクトに参加しているうちに、フリーの中でまたレッド・ホット・チリ・ペッパーズとして活動したいという思いが再燃します。

一時期は解散寸前にまで陥ったレッチリですが、それを復活させたのはフリーと学生時代から共に歩んできたアンソニー・キーディスとの絆でした。

「やっぱり、休んでいた間の俺にとって一番重要だったことで、やっぱりバンドを続けたいっていう気持ちにさせてくれたものは、特にあいつ(ジョン)がもうバンドに居続けたくないって決心してからというもの、俺があらためてわかったのは、結局、アンソニーは俺の兄弟だってことで、俺はアンソニーをたまらなく愛しているし、このバンドはそもそもアンソニーと俺とがまだガキだった頃に俺たちで始めたってことだったんだよ。俺はそれをまだ続けたかったし、それを手放したくはなかったんだ」

ジョン・フルシアンテが脱退

脱退を決めたジョン・フルシアンテ(中央右)

2年間の休止期間を超え、活動を再開させようとしたレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。しかしジョン・フルシアンテだけはソロでのキャリアを突き詰めるため、バンド脱退を決意します。

きっかけはやはりレッチリの活動休止。

その際フリーは各メンバーを説得してアンソニー・キーディスとチャド・スミスも同様の考えだったのですが、ジョン・フルシアンテだけは異なる感情を抱いていたようで、当時のことを以下のようにコメントしていました。

「フリーがそれを言い出した時には僕としてはショックを受けたんだよ。僕としてはあのままずっと転がっていくもんだと思ってたんだよ。このままこの勢いでずっといきたいのにっていうね。だけど、いったんフリーからそう言われたら、いろいろ考えだしちゃったんだよね。『何をやってもいいっていう猶予を2年も貰ったら、その2年の間に何をやろうかな?』ってね。そのまま4か月経っちゃったら、もうバンドにいない状態が楽しくてしょうがなくなってきちゃって、2年とか、そんな期限付きなしでもいいやってことになっちゃったんだ」

オリジナルメンバーではないものの、レッチリのギタリストといえば黄金期を含めて目覚しい活躍を見せたジョン・フルシアンテというイメージが強く、多くのファンが肩を落としました。

2011年 – 48歳「『アイム・ウィズ・ユー』リリース」

ジョシュ・クリングホッファーが加入

20歳の若さで加入したジョシュ・クリングホッファー

ジョン・フルシアンテに代わり、ギタリストとして正式に加入することになったのは当時まだ20歳のジョシュ・クリングホッファー。

それ以前からレコーディングやライブの際にサポートミュージシャンとしてレッチリに関わっていたのですが、2010年2月にチャド・スミスがインタビューで正式加入を発表しました。

ちなみにジョン・フルシアンテと共同して音楽制作をすることも多いミュージシャンです。

『アイム・ウィズ・ユー』をリリースする

活動再開から初めてリリースされたアルバム「アイム・ウィズ・ユー」

ジョシュ・クリングホッファーが加入し、2011年には活動再開から初となるアルバム『アイム・ウィズ・ユー(I’m With You)』を発表。前アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』から5年ぶりとなる新作でした。

収録曲は「Monarchy of Roses」や「Look Around」のようにポジティブな曲調のものが多く、ジョシュ・クリングホッファーのフレッシュさが感じられます。アルバムのタイトルも彼が決定しましたが、フリーは以下のようにコメントしました。

「ジョンがかつてこのバンドにもたらしてくれたものにはすごく感謝しているし、ジョンがその才能をソングライティングやいろんな形を通してこのバンドに注いでくれたおかげで生まれた恩恵に対して俺は感謝しているよ。それと同じように、俺たちと関係を今築きつつあるジョシュに対してもまた、俺は感謝してるんだ」

ちなみにカプセルにハエがとまったアートワークはイギリスの現代アーティストであるダミアン・ハートが制作しました。

2012年 – 49歳「ロックの殿堂入りを果たす」

ロックの殿堂入りをする

『アイム・ウィズ・ユー』発表からおよそ8ヶ月後の2012年4月、レッド・ホット・チリ・ペッパーズはついにロックの殿堂入りを果たします。

この賞は1986年に創設されましたが、現在ではグラミー賞、ビルボード・ミュージック・アワード、アメリカン・ミュージック・アワードとひとまとめに4大音楽賞と称される名誉ある賞。レッチリ以外にはガンズ・アンド・ローゼズやビースティ・ボーイズなど、全15組がノミネートされました。

この年のノミネートアーティストは以下、全15組です。

  • レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
  • ザ・キュアー
  • ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ
  • ハート
  • フレディ・キング
  • スモール・フェイセス/ザ・フェイセス
  • ザ・スピナーズ
  • ビースティ・ボーイズ
  • ドノヴァン
  • ローラ・ニーロ
  • ウォー
  • エリックB&ラキム
  • ガンズ・アンド・ローゼズ
  • ルーファスwithチャカ・カーン
  • ドナ・サマー
ロックの殿堂入りを果たしたレッチリ

また記者会見ではアンソニー・キーディスは亡くなったオリジナルメンバーのヒレル・スロヴァクについて以下のようにコメントしました。

「もちろん俺が彼を代弁をすることなんてできないけど、でも、彼は音楽を心の底から大切に思っていたし、バンドという兄弟愛や、クリエイティブであることも大事に思っていたから、(今回の受賞は)彼にとっても絶対に意味のあることだったと思うよ。それに、彼の存在は今までも、これからもずっと俺たちのバンドの一部ではあり続けることは変わらないからね。」

そしてフリーはロックの殿堂についてこのように語っています。

「俺たちは、”クソッ!”と思ったときははっきりとそういうタイプだからね。でも、ロックの殿堂についてはクールだと思うよ。つまるところ俺たちにとって一番大事なのは、自分たちが心から愛する音楽を、自分たちの心が思う通りに作るってこと、それだけなんだ。」

2016年 – 53歳「『ザ・ゲッタウェイ』リリース」

スノーボードで腕を骨折

アーティスト生命を脅かす怪我

ロックの殿堂入りから約3年後の2015年2月、あまり知られていませんが、実はフリーはスノーボードをしている際に腕を骨折し、ミュージシャンとして寿命を脅かすほどの事故に見舞われました。

新アルバム発表の際のインタビューによると、アンソニー・キーディスと共に3日間のスノーボード旅行を楽しんでいたフリー。

そこではメタリカのラーズ・ウルリッヒとも遭遇して楽しい時間を過ごしていたそうなのですが、転倒して腕を含めた数カ所を骨折。大きな手術を受けるも、半年間もベースを弾くことが不可能な状態になってしまいました。

今でこそ完全に回復しましたが、再びベースを弾き始めることができるようになったばかりの頃は全く思うようにいかず、ベーシストとしての活動が続けられるか不安で恐怖を感じていたようです。

『ザ・ゲッタウェイ』をリリースする

怪我から祈願の復活を果たしたフリー

腕がある程度回復してからバンドに合流したフリーでしたが、そこからレコーディングができるようになるまではさらに3ヶ月を要したそうです。当時はまだ100%回復したとは言えない状態だったものの、2016年6月にはなんとか新作『ザ・ゲッタウェイ』をリリースします。

この前作よりジョシュ・クリングホッファーのギターが際立った作品になりましたが、メンバー自身もこのアルバムを通してより良い関係になれたと語っています。

またバンドにとって転機になったのは『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の制作時からずっと協力してきたプロデューサーのリック・ルービンの手を離れたこと。新たにデンジャー・マウスを迎えた体制でのアルバム制作になりました。

当初はこれまでとは異なる制作過程にギャップを覚えたメンバーたちでしたが、試しにデンジャー・マウスのやり方を受け入れたところ、思いの外に手応えを感じたよう。フリーはインタビューでその時の心情を語っていました。

「『まあ、いいか。とりあえず始めてみて、最初の1週間で上手くいかなかったら、やめにしよう』って考えた。彼の望むやり方をやってみて、受け入れてみて、どうなるのか確認してみることにしたんだ。俺たちが自分たちらしく、できる限り力強くいられること、そして彼も自分らしさを最大限発揮できることが、俺の一番の望みだった。どっちにとっても新しいことだったはずだからね。でも、これからどうなるのか、初日ではっきり分かったよ。いつもと違う感じで曲を書き始めることができたから、このやり方はすごく良いと思った。とても楽しかったし、そのやり方でレコーディングや作曲をした時、別の方法では得られなかったような奥深さがあることに気づき始めたんだ」

フリーについてのまとめ

世界最高のベーシスト フリー

いかがでしたでしょうか?今回は世界中のベーシストに影響を与え続けてきたレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーについて紹介しました。

私は学生の頃からベースを始め、現在も趣味でバンド活動をしていますが、初めて彼のベースを聞いた時の衝撃は今でも忘れられません。唯一無二のプレイスタイルを持ち、スラップを世に広め、歴史に名を残すモンスターバンドを引っ張ってきた彼は間違いなく世界最高のベーシストの一人だと言えるでしょう。

この記事をきっかけに、一人でも多くの人がフリーのことを好きになってくれれば幸いです!

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