レッチリのフリーはどんなベーシスト?プレイの凄さや魅力、名言まとめ【年表付】

レッチリ フリーの名言

「俺は自分の人生を愛してる。自分の失敗も、成功も、すべてを愛してるんだ」

「多くの人が望むのは、あらゆる美しい事柄を共有できる人と思いやりを持って気遣いし合える関係だ。でも、時には、ただ外へ出て、夢中になって、ワイルドなバンシー(妖精)のようにファックしてみたいと思わないか?」

「ファンクの本質は、ファンクに忠実であることだ。ファンクによって生き、四六時中ファンクを感じていること。真の世界共通言語だよ」

「(フリーというニックネームは)アンソニーが最初にそう呼び始めたんじゃないか? それに、俺はいつも痙攣してる動物みたいにそこらを跳ねまわってる小さい奴だったからさ。俺の性格がそんな感じだからニックネームが定着したんだろう。でも、血は吸わないよ。俺は血を与える人間だからな」
「ロサンゼルスで、最もクールで、ハンサムかつ知的な男を知りたいって? そいつは俺だろうな」

「人は音楽をコントロールしようとすると、抑圧してしまうことになるんだ。ヒッピー的な感じだけど、俺の場合はエナジーを放出して、あるがままにさせる。それが俺の才能だ」
「彼(ドナルド・トランプ)はリアリティー番組のマヌケな道化師だし、注目を浴びるのが好きな威張り屋としか思えないんだ」

レッチリ フリーの創作年表

1962年「オーストラリア メルボルンで生まれる」

オーストラリア メルボルンに誕生

フリーの故郷メルボルン

フリー(本名:マイケル・ピーター・バルザリー)はオーストラリアのメルボルン州に生まれました。家族構成は両親と姉が一人いたようです。
幼い頃からドラムに触れていたというフリーですが、9歳でトランペットを始めます。ベース以外にも楽器の才能はあったようで、幼いながら腕前はどんどん上達していったようです。

母親が再婚してロサンゼルスに移住

トランペットにのめり込んだ少年時代

父親の仕事の都合でニューヨークに移り住んでいたフリーですが、母親があるジャズミュージシャンと恋をしてしまいます。両親は離婚し、父親はオーストラリアに戻ったのですが、母親はそのジャズミュージシャンと再婚。
フリーは母親、継父、姉の3人とロサンゼルスに転居することになりましたが、継父の影響で音楽に囲まれて育ち、将来は継父のようなジャズミュージシャンを目指すように。
11歳の頃には父親とジャムセッションができるほどの技術を身につけていたそうです。

1977年 – 15歳「レッチリのオリジナルメンバーと親友に」

レッチリのオリジナルメンバーに出会う

高校時代、オーストラリア訛りが原因で同級生にいじめられていたフリーですが、その傍らでトランペットの技術は上がっていき、吹奏楽部では首席トランペットを務めるほどの腕前に。
そしてそんな時、後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成するアンソニー・キーディス、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズの3人と出会います。
それまでロックには興味がなかったフリーですが、主にヒレルの影響で徐々に関心を持つようになっていきます。

ベースを始める

フリーはバンドへ誘われたのをきっかけにベースを始めた

当時ヒレル・スロヴァクとジャック・アイアンズはアンセムというバンドを組んでいたのですが、そこに有能なベーシストを引き入れるためにフリーを勧誘。ヒレル・スロヴァクの指導によりベースを学び始めたフリーはみるみるうちにその才覚をあらわにしていきます。
そしてアンセムに加入したフリーはベーシストとして徐々に知名度を上げていくと、1981年にはパンクロックバンド・フィアのオーディションにも合格してメンバーとなります。

1983年 – 20歳「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成」

レッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成する

レット・ホット・チリ・ペッパーズの誕生

1983年、アンソニー・キーディス、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズ、そしてフリーの4人でライブを行う企画が上がりました。もともとは一度きりのライブのはずだったのですが、彼ららしい派手なパフォーマンスが評判を獲得し、4人はレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成します。
またフリーはフィアを脱退し、レッチリ一本に専念。結成から半年後にはCapitol/EMIと契約するに至ります。

1984年 – 21歳「『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』リリース」

『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリースする

結成の翌年にはデビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(The Red Hot Chili Peppers)』をリリースします。
しかし実はこのアルバムの制作にヒレル・スロヴァクとジャック・アイアンズは不参加でした。

1985年 – 22歳「『フリーキー・スタイリー』リリース」

『フリーキー・スタイリー(Freaky Styley)』をリリースする

復帰したヒレル・スロヴァク

さらにその翌年にはヒレル・スロヴァクがバンドに戻り、『フリーキー・スタイリー』を発表。プロデューサーはファンク界の大御所であるジョージ・クリントンが務めました。
オリジナルのほか、黒人ファンクのカバー曲もいくつか収録されていたアルバムですが、この頃からフリーのベースはより強いファンク色を帯びるようになっていきます。

1987年 – 24歳「『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』リリース」

『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリースする

オリジナルメンバーを相次いで失う

ザ・ビートルズで有名なアビイ・ロードでのペニスソックスの写真が撮られたのがこの『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン(The Uplift Mofo Party Plan)』。日本版もこのアルバムから販売されだしました。
ヒレル・スロヴァクに続きジャック・アイアンズもバンドに戻り、オリジナルメンバーが揃って制作した最初のアルバムですが、同時に最後のアルバムでもあります。
というのも翌1987年にはヒレル・スロヴァクがヘロインの過剰摂取による薬物中毒により他界。それにより意欲を失ったジャック・アイアンズもバンドを去ってしまいます。

1989年 – 26歳「『母乳』リリース」

ジョンとチャドが加入

ドラムのチャド・スミス

1989年にはジョン・フルシアンテとチャド・スミスが新メンバーとして加わります。
ジョン・フルシアンテはもともとレッチリの熱狂的なファンだったのですが、弱冠18歳で加入。その後1990年〜2000年にかけてバンドの黄金期を担う偉大なギタリストに成長していきます。
チャド・スミスは現在もレッチリでドラムを叩いていますが、フリーとともにバンド全体を支える優秀なドラマー。他にも複数のサイドプロジェクトに関わるようになります。

『母乳』をリリースする

スラップがロック界へ普及するきっかけとなった「母乳」

新体制となったレッチリは4枚目のアルバム『母乳(Mother’s Milk)』をリリースします。

アメリカでのアルバムチャートは52位でしたが、このアルバムでフリーのファンキーなスラップが炸裂。バンドの知名度を上げるとともに、スラップというテクニックがロック界に普及するきっかけとなった名盤と言えます。

スティーヴィー・ワンダーの「Higher Ground」、ジミ・ヘンドリックスの「Fire」のようなカバー曲のほか、後に名曲と謳われるようになるオリジナルも多数収録。「Stone Cold Bush」のベースソロはベーシストなら誰もが弾いてみたくなる伝説的なフレーズとなりました。

ちなみにこのアルバムのアートワークは亡くなったヒレル・スロヴァクが生前に描いた裸婦画が採用されています。

1991年 – 28歳「『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』リリース」

Warner Brothers Recordsに移籍する

1991年、レッチリは所属レコードをCapitol/EMIから現在のWarner Brothers Recordsに移籍します。『母乳』を制作した際、プロデューサーのマイケル・バインホーンと意見の食い違いが発生したためですが、当時のことをアンソニー・キーディスは自伝『スカー・ティッシュ』で以下のように語っています。

それまでの作品のギターは普通とは違うアシッド・ロック的で、なまめかしくてセクシーなファンクのトーンをたっぷりと加えるのが基本だったのだが、マイケルはジョンにザクザクとしたメタル風のプレイを要求した。ジョンはそういう感じにまるで興味がなかったから、トーンの重ね方を巡って、ふたりは相当激しくやり合った。ジョンにはつらい時期だったと思う。

メンバー間での衝突が絶えなかった

メンバー内でも口論は絶えず、特に初参加でレコーディングの経験がなかったジョン・フルシアンテとは何度も衝突。

「Higher Ground」のカバーに関してもに関しても勧めたのはマイケル・バインホーンだったのですが、アンソニー・キーディス曰く、「この楽曲は自分の得意分野ではない」とのこと。この件に関してもアンソニー・キーディスはこのように振り返っていました。

やつはこっちの気持ちを無視して、おれの中から無理やり何かを絞り出そうとした。それで衝突し、おれはこいつとはもう終わりだな、と思ったのだ。

結局このレコーディングがきっかけで二人は絶交。レコードのプロモーション戦略に対する不満が爆発し、移籍に至ります。

『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリースする

移籍後すぐにリリースされた「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」

Warner Brothers Recordsに移籍したレッチリは早々に『ブラッド・シュガー・セックス・マジック(Blood Sugar Sex Magik)』をリリース。このアルバムからプロデューサーには今後長く連れ添っていくことになるリック・ルービンを起用します。

カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのチャートで1位を獲得し、バンド初となる世界的大ヒットを記録。当アルバムをバンドの最高傑作に挙げるファンも数多く、数々の著名人や音楽雑誌からも賞賛されました。

このアルバムでフリーのベースラインはさらにファンキーさが増し、アンソニー・キーディスのラップとの相性はもちろん、ジョン・フルシアンテの個性も上手く押し出された至高の作品だと言えます。

レッチリを代表する名曲も多数収録されていて、シングルカットされた「Under The Bridge」は全米のシングルチャートで2位、「Give It Away」はグラミー賞を獲得しました。

1995年 – 32歳「『ワン・ホット・ミニット』リリース」

ジョン・フルシアンテが脱退

ジョン・フルシアンテが突然の脱退

1992年の世界ツアーで来日した際、ジョン・フルシアンテが突然帰国し、そのままバンドを脱退してしまいます。薬物中毒とうつ病に苦しみ、一時期は隠遁生活を送っていたそうです。

『ワン・ホット・ミニット』をリリースする

ジョン・フルシアンテの後を引き継ぐギタリストを求めてオーディションを繰り返した結果、1994年にデイヴ・ナヴァロが加入。

翌1995年には『ワン・ホット・ミニット(One Hot Minute)』がリリースされましたが、これまでのファンクさは薄れた反面、ハードロックさが前に出されたアルバムに。これはデイヴ・ナヴァロの影響によるものとされています。

ファンも賛否両論の作品となりましたが、方向性の違いを感じたデイヴ・ナヴァロはこのアルバムをリリースした後にあっさりと脱退してしまいます。

1 2 3

コメントを残す