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最強は誰?幕末の四大人斬りを逸話や伝説と共に紹介

「幕末の四大人斬りってどんな人?」
「誰を斬ってきたの?」
「一番強かったのは誰..?」

江戸から明治へと時代が変わる幕末期、京都を中心に多くの暗殺事件が起こりました。その下手人として主に挙げられるのが、「幕末四大人斬り」と呼ばれる田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎、そして新撰組の沖田総司、大石鍬次郎です。

フィクションではよく目にする彼らですが、史実として本当に「人斬り」だったのでしょうか? そして「人斬り」と恐れられる由縁はどこにあったのでしょうか? この記事ではそんな彼らの実像に迫っていきます。

人斬りという残忍な行為をする人物でありながら、これだけ多くの作品に登場しファンに愛されているのは、彼らが暗殺者としての側面以外に別の人間的魅力があったからでしょう。史実かどうかは別として、そんな魅力に迫ることのできる面白い作品も合わせて紹介します。

幕末の人斬りといえば?伝説の「四大人斬り」を紹介

京都の街並み

1.「天誅の元祖」 田中新兵衛

田中新兵衛

田中新兵衛の生誕については謎に包まれており、1832年生まれという説もあれば、1841年という説もあります。一方、亡くなったのは1863年7月11日とはっきりしています。

薩摩藩出身で幼い頃より剣術に励み、薬丸自顕流という、中村半次郎や東郷平八郎など薩摩藩下級武士が多く習得した流派を会得したようです。土佐勤王党を組織した武市瑞山(半平太)と兄弟の契りを結び、田中新兵衛は武市のもとで人斬りとしての道を進むことになってしまいます。

1862年7月20日、田中新兵衛は多数の尊王攘夷派を捕縛して弾圧を続けていた島田正辰(左近)を暗殺しました。これが京都で続く天誅騒ぎの発端となります。以後、過激すぎる尊王攘夷派で疎まれていた本間精一郎を始め、安政の大獄で多くの志士を捕らえた渡辺金三郎、森孫六、大川原重蔵、上田助之丞を暗殺していますが、どれも単独犯ではなく集団で襲っています。

1863年7月5日、尊王攘夷派の公家である姉小路公知が覆面をした刺客に襲われて暗殺されます。朔平門外の変です。暗殺現場に残された刀が薩摩の拵えであったことから、田中新兵衛が容疑者として浮かび上がり、捕縛されました。

奉行所に連行された田中新兵衛は、隙を見て刀を奪い自刃してしまったため、現在も真相は明らかにされていません。自分の刀を誰かに奪われて使われたことへの恥から自刃したとも言われていますが、近年の研究では本当に田中新兵衛の仕業だったという説も出ています。享年22歳もしくは31歳でした。

2.「蝮蛇(ひらくち)の彦斎」河上彦斎

河上彦斎の写真として知られるが、別人という説もある

1834年11月25日、河上彦斎(かわかみ げんさい)は肥後に生まれました。藩校である時習館で学問に励むだけでなく、茶道に生花、和歌に漢詩と多くの教養を身につけています。後に人斬りと恐れられる河上彦斎ですが、剣術は学んだものの実戦では我流だったようで、小柄な体躯を生かした低姿勢からの逆袈裟斬りを得意としていました。

肥後熊本藩士で後に池田屋事件により自刃した宮部鼎蔵や、新撰組の元となった浪士組を結成した清河八郎との交流から熱烈な尊王攘夷論者となり、多くの人を斬ったとの話もありますが、史料としては残っていません。「蝮蛇の彦斎」という河上彦斎の呼び名は、一度睨まれたら逃れられないということからきているようです。

河上彦斎が手を下したことで有名なのは佐久間象山です。1864年7月11日、京都三条木屋町にて、白昼堂々と馬で闊歩する佐久間象山を暗殺しました。この時の刺客については数名の名前が挙がっていますが、河上彦斎はどの史料にも出ているために確実視されています。

佐久間象山を最後に、河上彦斎は人斬りを止めました。象山を斬った時に人を斬ることの重さを初めて感じたからであるとか、佐久間象山が実は欧米に対抗するための公武合体策を主張していた、つまり大きな意味で河上彦斎と同じ攘夷論を唱えていたことを後から知って愕然とし、以後人を斬ることから足を洗ったとも言われています。

その後河上彦斎は高杉晋作などと長州藩とともに戦った後、肥後へ戻ります。しかし過激な尊王攘夷派であったために投獄されました。明治の世になって解放されるも、攘夷論を変えずに長州藩脱退騒動の首謀者として嫌疑をかけられ、1871年12月に東京で処刑されました。享年38歳でした。

河上彦斎については、漫画『るろうに剣心』の主人公である緋村剣心のモデルとして注目されるようになります。河上自身は女性のような顔立ちをしていて優男だったとのことで、外見は漫画にかなり近いようです。

ただ、使っていた刀は肥後国同田貫宗廣と呼ばれる、実戦用の斬れる刀です。剣心が愛用している、持ち替えないと人を斬ることができない逆刃刀(さかばとう)ではありません。

3.「天誅の名人」岡田以蔵

岡田以蔵の墓

1838年2月14日、岡田以蔵は土佐で生まれました。江戸の桃井春蔵道場で剣術を修めたといわれます。1861年、武市半平太が結成した土佐勤王党に参加し、1862年に上京して以降、武市の指示のもと田中新兵衛とともに多くの暗殺を実行しました。1862年10月13日に本間精一郎を襲ったのもその一つです。

本間精一郎遭難の地

「天誅の名人」と恐れられた岡田以蔵ですが、実際に暗殺に関わっていたのは1年程度のことです。八月十八日の政変で公武合体派が尊王攘夷派を追い詰めると、尊王攘夷思想を掲げていた土佐勤王党に対する風当たりが強くなり始め、岡田以蔵もその煽りを受けて捕らえられ、土佐に送られます。

この際、岡田以蔵が苛烈を極める拷問に耐えられず、数々の暗殺事件について口を割ったことで、土佐勤王党の逮捕者が増えたといわれています。一方、岡田以蔵が拷問に屈してしまうことを恐れた武市半平太が、以蔵を毒殺してしまおうと図ったという話を聞いた以蔵が、武市半平太の自分への信頼度の低さに怒って、わざと自白したという説もあります。

結果的には岡田以蔵の親族が毒殺計画に納得しなかったこともあり、毒殺は実行されずに斬首されます。1865年5月11日、享年28歳でした。

君がため 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき

辞世の句が残されています。武市半平太を詠んだとも考えられますが、真意ははっきりしません。

岡田以蔵については、2010年に大河ドラマで佐藤健が演じたことで話題になり、また近年は「Fate/Grand Order」(FGO)というRPGビデオゲームで人気に拍車がかかり、多くの関連本が出版されています。しかし歴史学の上ではほとんど一級史料が残っておらず、不明なことの多い人物です。

4.「ぼっけもん」中村半次郎

中村半次郎

中村半次郎(桐野利秋)は1838年に薩摩で生まれました。家が貧しく、幼い頃はかなり苦労をして育ちますが、剣術の稽古は欠かさず、田中新兵衛と同様に薬丸自顕流を身につけます。上京して西郷隆盛や小松帯刀に重用され、諸国の志士とも関わるようになります。

中村半次郎は新撰組の近藤勇も恐れた剣の腕前でしたが、他の三人と比べると暗殺者数は圧倒的に少ないと言われています。しかし、中村半次郎が自分で手を下したと日記で告白している事件が一件だけあります。赤松小三郎暗殺事件です。

赤松小三郎

赤松小三郎は上田藩士で、洋式兵法家として当時トップクラスの見識を持った人物でした。日露戦争で活躍した東郷平八郎や上村彦之丞は彼の教え子です。赤松小三郎は一時期、薩摩藩に招かれていましたが、故郷上田藩に戻ることになったため、薩摩藩が情報漏洩を防ぐために殺されたと考えられています。

手を下したのは確かに中村半次郎のようです。しかしその背後に指示者がいたのかどうか、真相はわかっていません。はっきりしているのは、事件当時は関係者に箝口令が敷かれていたことです。そして半次郎自身が後年、赤松小三郎に手を下したことを、どうやら悔いていたらしき話が残っています。

中村半次郎は、鹿児島弁でいうところの「ぼっけもん」の代表格とも言われるほど、情に厚い人物でした。「ぼっけもん」とは大胆な人、立場の違う人の考えを受け入れることのできる度量の広い人、といった意味です。中村半次郎は会津戦争で軍監を務めていましたが、降伏し開城を決めた会津藩に対し、声をあげて泣いたという話もまことしやかに伝わっているほどです。

この赤松小三郎暗殺が誰かに指示されたものであるなら、中村半次郎は剣の腕が立ち、尚且つ確実に実行できる人物という理由で利用されただけだったのかもしれません。実際、勝海舟や大隈重信は、中村半次郎のことを才能ある人物と評価する言葉を残しています。

中村半次郎の最期は西南戦争でした。最後まで付き従った西郷隆盛の自刃を見届けてのちも戦いを続け、額を撃ち抜かれたことで戦死しました。享年40歳でした。

「四大人斬り」以外の有名な幕末の人斬り

新撰組屯所があった八木邸

大石鍬次郎

1838年生まれの大石鍬次郎(おおいし くわじろう)は新撰組一番隊に所属していました。一番隊という新撰組の先鋒ともいうべきポジションにいたというだけでも剣の腕が立つことが証明されますが、実際に油小路事件や天満屋事件といった新撰組の大きな事件に関わっていたとされています。

1867年12月13日に起きた油小路事件は、元新撰組幹部で御陵衛士となっていた伊東甲子太郎を暗殺した事件です。暗殺された日は酒に酔っていたといわれる伊東ですが、北辰一刀流を修めた優れた剣客でした。

油小路事件

天満屋事件は、新撰組が関わった京都における最後の事件と言われます。陸奥宗光は、坂本龍馬暗殺事件の黒幕が、いろは丸沈没事件で龍馬により多額の賠償金を払わされた紀州藩であると考え、紀州藩の三浦休太郎を襲うことを計画します。それを知った紀州藩は新撰組に警護を願い出たのです。

1868年1月1日、陸奥宗光は天満屋にいた三浦を襲撃します。護衛についていた大石鍬次郎も奮戦し、三浦に怪我は負わせてしまったものの、命を守ることができました。明治時代に入って大石鍬次郎は捕縛され、1870年11月3日、伊東甲子太郎殺害の科により斬首となりました。享年33歳でした。

大石鍬次郎はこれまで、「幕末四大人斬り」に挙げられる四人ほどの知名度はありませんでしたが、「幕末恋華・花柳剣士伝」という恋愛アドベンチャーゲームでブームに火がつき、熱狂的なファンが増え始めています。

また、前述の四人の人斬りに大石鍬次郎を加えて「幕末五大人斬り」と呼ばれることもあります。

沖田総司

天然理心流奉納額 沖田総司の名前も見える

沖田総司は1842年もしくは1844年生まれと言われます。近藤勇土方歳三と共に剣を学び、上京して新撰組の名を轟かせることになった立役者の一人です。近藤勇が師範代を務めていた天然理心流の道場では若いながらも塾頭を務め、一時期は近藤が後継にと考えていたほど優れた腕前でした。

新撰組では一番隊隊長として、1863年の局長芹沢鴨暗殺事件や、新撰組による尊王攘夷派襲撃事件として知られる1864年の池田屋事件にも関わっています。1865年に起こった、新撰組総長であった山南敬助の脱走事件では、切腹する山南の介錯を担当しました。

沖田総司の剣の技として「三段突き」をよく挙げられますが、天然理心流にある五月雨剣を変形させたもので、相手につけ入る隙を与えなかったものが「三段突き」と呼ばれたのではないか、との説があります。

肺結核の症状が出始めてからは少しずつ前線を離れるようになります。それが史料で確認できるのは1867年頃のことです。戊辰戦争の頃には病状が進んで完全に寝たきりの状態となり、徳川幕府の軍医であった松本良順の元で療養を続けるも、前線に復帰することなく1868年5月30日に息を引き取りました。20台半ばでの臨終でした。

剣の腕がありながら若くして病で亡くなった沖田総司は、歴史好きの間では昔から人気のある人物でした。ドラマや映画でも人気のある役者が演じて注目されますが、近年はRPG「Fate/Grand Order」で沖田総司に関心を持つ人も出てきています。

また、1991年に週刊少年ジャンプ第36・37合併号に掲載された、野口賢の「幕末人斬り伝 壬生の狼」という作品は、古い漫画でありながらも沖田総司を描いた作品としていまだにファンが多くいます。この漫画では容赦無く剣を振るう沖田総司の「人斬り」としてのイメージが強く出ています。

最強なのは誰?

薬丸自顕流

誰もが恐ろしい剣豪であることはわかりますが、では一番誰が強いのでしょうか? これは難しい問いです。なぜなら、何をもって最強とするかという定義が明確にならないからです。

四大人斬りの中で、一番「暗殺」人数が多い人物を最強とするなら、岡田以蔵でしょう。記録に残る暗殺人数として9人という話もあります。暗殺というのは表立ってやっているわけではないので、どうしても明確な数はわかりにくいです。

ただ、単に「人を殺めた数」で比較するのであれば、実戦数が半端ない新撰組が一番多いと考えられます。特に沖田総司は一番隊隊長という立場から、殺害人数はかなりの数にのぼると予想されます。

一方で、「暗殺」という括りに囚われずに強い剣士とするなら、河上彦斎も候補に上がります。よく言われているように、平気で人を斬っていたかどうかは別として、睨まれただけで立ちすくんでしまうというあだ名まで付けられているのですから、相当殺気をまとった人物だったと考えられるからです。

中村半次郎や田中新兵衛が体得した薬丸自顕流は、防御の技が一切ない剣術として知られています。自分の命を捨てる覚悟で立ち向かっていくこの剣術には、新撰組も大いに恐れたと言われています。人を斬ることへの覚悟という意味では、中村半次郎や田中新兵衛は突出した強さを持っていたのかもしれません。

幕末の四大人斬りが出てくるおすすめ作品

漫画編

「るろうに剣心 – 明治剣客浪漫譚 – 」

和月伸宏が原作の、河上彦斎をモデルにした緋村剣心が主人公の漫画です。岡田以蔵をモチーフにした鵜堂刃衛という人斬りも出てきます。基本的にフィクションですが、斎藤一など実在の人物も登場しているため、歴史が好きな人にはその人物の背景もわかるが故に話に奥行きが出ることから、興味深い物語となっています。

原作の漫画から、アニメ、ミュージカル、実写映画とメディアミックスが行われています。

「銀魂」

空知英秋による漫画作品で、攘夷志士である坂田銀時を主人公にしています。フィクションですが、坂田銀時が昔、吉田松陽(吉田松陰がモデル)に桂小太郎(桂小五郎、後の木戸孝允がモデル)と共に師事していたりと、所々で史実とリンクしているあたりは、『るろうに剣心』と似ています。沖田総司は「沖田総悟」として登場しています。

原作の漫画から、アニメ、実写映画とメディアミックスが行われ、どれも人気を博しました。

歴史映画編

「人斬り」

969年公開の五社英雄監督作の時代劇映画です。「人斬り以蔵」という司馬遼太郎の原作を元に作られていて、岡田以蔵を勝新太郎、田中新兵衛を三島由紀夫が演じるという豪華な作品で、とにかく登場人物の迫力が半端ないのに圧倒されます。DVD化されていないのが残念でなりません。

ちなみに、三島由紀夫はこの一年後に割腹自殺しています。

「るろうに剣心」

河上彦斎をモチーフにした主人公緋村剣心を、佐藤健が演じた大人気シリーズの一作目です。2012年公開のこの作品では、岡田以蔵をイメージした鵜堂刃衛を吉川晃司が演じていました。大友啓史監督が今までにないワイヤーアクションを使った大胆な演出で作り上げた時代劇作品で、漫画原作の実写化として興行的にも大成功を修めました。

シリーズ最終章2部作が2021年に公開待機しています。

歴史ドラマ編

新撰組血風録

司馬遼太郎の同名小説を原作にした、1965年放送の時代劇ドラマです。かなり古い作品ですが、新撰組を描いたドラマとしては今でも最高傑作との呼び声が高いもので、沖田総司を演じた島田順司は、土方歳三役の栗塚旭と共に当たり役と言われ、大きなブームを牽引する存在になりました。

三谷幸喜がこのドラマの熱狂的なファンで、自身の大河ドラマ「新選組!」に二人が出演したことも話題になりました。

大河ドラマ「龍馬伝」

2010年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」には、岡田以蔵役に佐藤健が抜擢されました。大森南朋演じる武市半平太に心酔し、心ならずも暗殺に明け暮れる複雑な表情や、福山雅治演じる坂本龍馬を慕って目を輝かせながら共に過ごす様子など、岡田以蔵の人間としての姿を魅力的に演じ、佐藤健の名前が幅広い世代に知れ渡るきっかけになりました。

小説・歴史書編

「幕末動乱の男たち(下)」

史伝小説という、フィクションをできるだけ排した物語を描くことに注力した作家、海音寺潮五郎の作品です。田中新兵衛と岡田以蔵、河上彦斎が「三刺客伝」の中で取り上げられています。

人斬りとしてフィクションで描かれる機会が多い彼らについて、冷静な視点でなぜ暗殺者になってしまったのかを語っている珍しい作品です。

「幕末」

司馬遼太郎が幕末に起こった暗殺事件を取り上げている短編小説です。「花山町の襲撃」で天満屋事件が、「猿が辻の血闘」で朔平門外の変が取り上げられています。こうした細かい事件を単独で扱う小説はあまりなく、フィクションもありつつも暗殺事件を客観的に比較できる点で面白い作品です。

幕末人斬りに関するまとめ

いかがでしたか?

歴史資料から読み取れる、幕末の人斬りと呼ばれた男たちの実像は、人を斬ることに快感を覚えていたような異常者ではありません。どの人物についても史料が少なく、推測でしかありませんが、胸の内で様々な葛藤があり、覚悟を決めて人斬りとなっていったように思います。

暗殺者であることはさておき、自分の行動に責任を持つ、つまり、そこから生じる全ては自分が引き受けると腹を括れる人は、人間的に強いですし魅力的です。フィクションの世界でこれだけ彼らに人気が集まるのは、それゆえと考えられます。

幕末に流星の如く現れ、利用され、消されてしまった「人斬り」と呼ばれた男たちは、ほとんどが20代から30代のうちに人生の幕を閉じましたが、それが彼らの覚悟の結末だったのだろうと感じました。

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