最強は誰?幕末の四大人斬りを逸話や伝説と共に紹介

「幕末の四大人斬りってどんな人?」
「誰を斬ってきたの?」
「一番強かったのは誰..?」

江戸から明治へと時代が変わる幕末期、京都を中心に多くの暗殺事件が起こりました。その下手人として主に挙げられるのが、「幕末四大人斬り」と呼ばれる田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎、そして新撰組の沖田総司、大石鍬次郎です。

フィクションではよく目にする彼らですが、史実として本当に「人斬り」だったのでしょうか? そして「人斬り」と恐れられる由縁はどこにあったのでしょうか? この記事ではそんな彼らの実像に迫っていきます。

人斬りという残忍な行為をする人物でありながら、これだけ多くの作品に登場しファンに愛されているのは、彼らが暗殺者としての側面以外に別の人間的魅力があったからでしょう。史実かどうかは別として、そんな魅力に迫ることのできる面白い作品も合わせて紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

幕末の人斬りといえば?伝説の「四大人斬り」を紹介

京都の街並み

1.「天誅の元祖」 田中新兵衛

田中新兵衛

田中新兵衛の生誕については謎に包まれており、1832年生まれという説もあれば、1841年という説もあります。一方、亡くなったのは1863年7月11日とはっきりしています。

薩摩藩出身で幼い頃より剣術に励み、薬丸自顕流という、中村半次郎や東郷平八郎など薩摩藩下級武士が多く習得した流派を会得したようです。土佐勤王党を組織した武市瑞山(半平太)と兄弟の契りを結び、田中新兵衛は武市のもとで人斬りとしての道を進むことになってしまいます。

1862年7月20日、田中新兵衛は多数の尊王攘夷派を捕縛して弾圧を続けていた島田正辰(左近)を暗殺しました。これが京都で続く天誅騒ぎの発端となります。以後、過激すぎる尊王攘夷派で疎まれていた本間精一郎を始め、安政の大獄で多くの志士を捕らえた渡辺金三郎、森孫六、大川原重蔵、上田助之丞を暗殺していますが、どれも単独犯ではなく集団で襲っています。

1863年7月5日、尊王攘夷派の公家である姉小路公知が覆面をした刺客に襲われて暗殺されます。朔平門外の変です。暗殺現場に残された刀が薩摩の拵えであったことから、田中新兵衛が容疑者として浮かび上がり、捕縛されました。

奉行所に連行された田中新兵衛は、隙を見て刀を奪い自刃してしまったため、現在も真相は明らかにされていません。自分の刀を誰かに奪われて使われたことへの恥から自刃したとも言われていますが、近年の研究では本当に田中新兵衛の仕業だったという説も出ています。享年22歳もしくは31歳でした。

2.「蝮蛇(ひらくち)の彦斎」河上彦斎

河上彦斎の写真として知られるが、別人という説もある

1834年11月25日、河上彦斎(かわかみ げんさい)は肥後に生まれました。藩校である時習館で学問に励むだけでなく、茶道に生花、和歌に漢詩と多くの教養を身につけています。後に人斬りと恐れられる河上彦斎ですが、剣術は学んだものの実戦では我流だったようで、小柄な体躯を生かした低姿勢からの逆袈裟斬りを得意としていました。

肥後熊本藩士で後に池田屋事件により自刃した宮部鼎蔵や、新撰組の元となった浪士組を結成した清河八郎との交流から熱烈な尊王攘夷論者となり、多くの人を斬ったとの話もありますが、史料としては残っていません。「蝮蛇の彦斎」という河上彦斎の呼び名は、一度睨まれたら逃れられないということからきているようです。

河上彦斎が手を下したことで有名なのは佐久間象山です。1864年7月11日、京都三条木屋町にて、白昼堂々と馬で闊歩する佐久間象山を暗殺しました。この時の刺客については数名の名前が挙がっていますが、河上彦斎はどの史料にも出ているために確実視されています。

佐久間象山を最後に、河上彦斎は人斬りを止めました。象山を斬った時に人を斬ることの重さを初めて感じたからであるとか、佐久間象山が実は欧米に対抗するための公武合体策を主張していた、つまり大きな意味で河上彦斎と同じ攘夷論を唱えていたことを後から知って愕然とし、以後人を斬ることから足を洗ったとも言われています。

その後河上彦斎は高杉晋作などと長州藩とともに戦った後、肥後へ戻ります。しかし過激な尊王攘夷派であったために投獄されました。明治の世になって解放されるも、攘夷論を変えずに長州藩脱退騒動の首謀者として嫌疑をかけられ、1871年12月に東京で処刑されました。享年38歳でした。

河上彦斎については、漫画『るろうに剣心』の主人公である緋村剣心のモデルとして注目されるようになります。河上自身は女性のような顔立ちをしていて優男だったとのことで、外見は漫画にかなり近いようです。

ただ、使っていた刀は肥後国同田貫宗廣と呼ばれる、実戦用の斬れる刀です。剣心が愛用している、持ち替えないと人を斬ることができない逆刃刀(さかばとう)ではありません。

3.「天誅の名人」岡田以蔵

岡田以蔵の墓
出典:桂浜まるごとガイド

1838年2月14日、岡田以蔵は土佐で生まれました。江戸の桃井春蔵道場で剣術を修めたといわれます。1861年、武市半平太が結成した土佐勤王党に参加し、1862年に上京して以降、武市の指示のもと田中新兵衛とともに多くの暗殺を実行しました。1862年10月13日に本間精一郎を襲ったのもその一つです。

本間精一郎遭難の地

「天誅の名人」と恐れられた岡田以蔵ですが、実際に暗殺に関わっていたのは1年程度のことです。八月十八日の政変で公武合体派が尊王攘夷派を追い詰めると、尊王攘夷思想を掲げていた土佐勤王党に対する風当たりが強くなり始め、岡田以蔵もその煽りを受けて捕らえられ、土佐に送られます。

この際、岡田以蔵が苛烈を極める拷問に耐えられず、数々の暗殺事件について口を割ったことで、土佐勤王党の逮捕者が増えたといわれています。一方、岡田以蔵が拷問に屈してしまうことを恐れた武市半平太が、以蔵を毒殺してしまおうと図ったという話を聞いた以蔵が、武市半平太の自分への信頼度の低さに怒って、わざと自白したという説もあります。

結果的には岡田以蔵の親族が毒殺計画に納得しなかったこともあり、毒殺は実行されずに斬首されます。1865年5月11日、享年28歳でした。

君がため 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき

辞世の句が残されています。武市半平太を詠んだとも考えられますが、真意ははっきりしません。

岡田以蔵については、2010年に大河ドラマで佐藤健が演じたことで話題になり、また近年は「Fate/Grand Order」(FGO)というRPGビデオゲームで人気に拍車がかかり、多くの関連本が出版されています。しかし歴史学の上ではほとんど一級史料が残っておらず、不明なことの多い人物です。

4.「ぼっけもん」中村半次郎

中村半次郎

中村半次郎(桐野利秋)は1838年に薩摩で生まれました。家が貧しく、幼い頃はかなり苦労をして育ちますが、剣術の稽古は欠かさず、田中新兵衛と同様に薬丸自顕流を身につけます。上京して西郷隆盛や小松帯刀に重用され、諸国の志士とも関わるようになります。

中村半次郎は新撰組の近藤勇も恐れた剣の腕前でしたが、他の三人と比べると暗殺者数は圧倒的に少ないと言われています。しかし、中村半次郎が自分で手を下したと日記で告白している事件が一件だけあります。赤松小三郎暗殺事件です。

赤松小三郎

赤松小三郎は上田藩士で、洋式兵法家として当時トップクラスの見識を持った人物でした。日露戦争で活躍した東郷平八郎や上村彦之丞は彼の教え子です。赤松小三郎は一時期、薩摩藩に招かれていましたが、故郷上田藩に戻ることになったため、薩摩藩が情報漏洩を防ぐために殺されたと考えられています。

手を下したのは確かに中村半次郎のようです。しかしその背後に指示者がいたのかどうか、真相はわかっていません。はっきりしているのは、事件当時は関係者に箝口令が敷かれていたことです。そして半次郎自身が後年、赤松小三郎に手を下したことを、どうやら悔いていたらしき話が残っています。

中村半次郎は、鹿児島弁でいうところの「ぼっけもん」の代表格とも言われるほど、情に厚い人物でした。「ぼっけもん」とは大胆な人、立場の違う人の考えを受け入れることのできる度量の広い人、といった意味です。中村半次郎は会津戦争で軍監を務めていましたが、降伏し開城を決めた会津藩に対し、声をあげて泣いたという話もまことしやかに伝わっているほどです。

この赤松小三郎暗殺が誰かに指示されたものであるなら、中村半次郎は剣の腕が立ち、尚且つ確実に実行できる人物という理由で利用されただけだったのかもしれません。実際、勝海舟や大隈重信は、中村半次郎のことを才能ある人物と評価する言葉を残しています。

中村半次郎の最期は西南戦争でした。最後まで付き従った西郷隆盛の自刃を見届けてのちも戦いを続け、額を撃ち抜かれたことで戦死しました。享年40歳でした。

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