天草四郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や伝説、死因について紹介】

天草四郎の功績

功績1「非常に優れたカリスマ性の持ち主」

天草四郎は非常に有名な人物ですが、実のところ彼の功績は「島原の乱の総大将となった」という所に集約されており、それ以外に”功績”と呼べるような部分はあまり見当たりません。

しかし島原の乱当時、まだ十代半ばであった彼が総大将に担ぎ上げられたという事実自体が、天草四郎という人物の異質さを示していることは説明するまでもないでしょう。いわゆる「神輿」のようなタイプの大将だった彼に惹かれて、3万以上の民衆が一揆に参加したことからもそれは読み取れます。

現代においても、優れたトップというのは実務の部分のみならず、人格や雰囲気などの説明しがたい部分において、他者を引っ張っていくオーラや凄みを持っているもの。歴史においては「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉坂本龍馬なんかは、実務だけではないトップの典型だと言えるでしょう。

もしかすると天草四郎も、秀吉や龍馬と似たような「トップの器」というものを持っていて、それを買われた結果、島原の乱のトップに据えられた人物なのかもしれませんね。

功績2「10代半ばにして3万7000人を指揮する」

10代半ばという年若さで、藩主の暴政に反発する一揆の総大将に押し上げられた天草四郎。普通ならその責任から逃げ出したくて仕方なくなりそうなものですが、そこから逃げずに最期まで一揆衆と運命を共にしたことも、天草四郎という人物の異質さを示す部分だと言えます。

実質的な指揮官役は、父である益田好次や浪人たちを中心とした評定衆が執っていたとはいえ、四郎の威光に惹かれて一揆に参加した者たちにとっては、四郎の存在や言葉も非常に大きいもの。

前線に出ていたという記録こそほとんどありませんが、一揆からの離脱を戒める法度書きの通称が『四郎法度書』となっているなど、一揆衆にとって彼が欠かせない存在だったのは、そのような部分からも読み取ることができるのです。

功績3「様々な”奇跡”を起こした「神の子」 」

イエス・キリストのものと似た逸話が数多く残っている

事実か創作かは不確かな部分が多いですが、天草四郎には「神の奇跡」とも言うべき不可思議な現象を起こした逸話が、数多く遺されています。

中でも有名なのは「海面を歩いた」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療した」というもの。これらはいずれも、天草四郎の少年期に起こったとされる出来事であり、記録が少ないことから事実かどうかは定かではありません。

また、四郎の起こした奇跡に似た記述は『新約聖書』の中にキリストの御業として記されているエピソードと酷似しているため、現在では「天草四郎のカリスマ性を補強するために、聖書から題材を取って創作されたエピソード」と見るのが妥当であると判断されています。

とはいえ、そのような普通ならあり得ないエピソードが「あり得るかもしれない」と語られていた辺り、これも天草四郎という人物の異質なカリスマ性を示すエピソードだと言えそうです。

天草四郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「生まれることが予言されていた」

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル

天草四郎は、宣教師ママコフに生まれることが予言されていたと言われています。

当時の日本ではキリシタン信者は、火あぶりの刑などの様々な迫害を受けていました。そのため民衆は、幕府に対して強い不満を持っていたのですが、この不満を抑えていたのが宣教師ママコフの予言です。

1613年に、宣教師ママコフは「25年後に天変地異が起こり、16歳の天童によってキリスト教徒は救われる」と予言します。キリシタン信者はこの予言を信じ、迫害を耐え抜きました。

そして予言から25年目となる1637年、長崎への留学から帰ってきた天草四郎が「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」などの奇跡を起こし、予言の子が現れたと人々が崇めるようになりました。

都市伝説・武勇伝2「実は豊臣秀吉の孫だった?」

天草四郎の父という説もある、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼

非常に強いカリスマ性を持って、日本史上最大規模の民衆反乱の旗印となった天草四郎。単なる百姓浪人の子としてはあまりに強すぎるそのエピソードの数々からか、四郎の出生には様々な異説が唱えられています。

中でも有名なのは、「天草四郎の父は、大阪の陣から落ち延びた豊臣秀頼である」という説。豊臣氏滅亡の際に、秀頼が薩摩の島津氏を頼って九州に落ち延びたという説があることや、秀頼と四郎に「若いながら強いカリスマ性を持っていた」という共通点があることから唱えられた説です。

また、この説を裏付ける論拠としては、「天草四郎の馬印が、豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であること」「一揆の参加者名簿の中に『豊臣秀綱』の名前があったこと」も上げられています。

とはいえ、現時点で信頼できる文献からすると、この説は「トンデモ説」の一つに過ぎないと判断されているのが現状です。

しかし、万が一本当に四郎が秀頼の子だったとしたら。そう言った観点から「島原の乱」を考えてみるのも、面白いかもしれません。

都市伝説・武勇伝3「実は『妖術師の弟子』だった?」

中国で学び妖術を会得したとされる森宗意軒は、実は天草四郎ともかかわりがあった?

島原の乱に参加した者の中には「森宗意軒(もり そういけん)」という人物が存在していました。宗意軒は四郎の父と同じ小西行長の遺臣の一人であり、中国で火術や外科治療などを学び、一説では妖術を会得した「妖術師」だったとも語られています。

この事から、ごくたまに「天草四郎は森宗意軒の弟子であり、妖術を会得していた」などと語られることもありますが、これに関してはあくまでも「眉唾」「創作」と考えるのが一般的です。

この説の広まりについては、山田風太郎の小説『魔界転生』によるイメージが非常に大きく影響を与えており、『魔界転生』後の島原の乱を描いた作品の中では、度々そうしたイメージで、宗意軒・四郎の二人が描かれています。当たり前ですが史実において「二人が妖術を用いた」という記録はなく、それらのイメージはあくまでも、小説やゲームなどの中だけと考えるべき部分です。

とはいえ、そうした説がまことしやかに語られる程度には、四郎も宗意軒も謎の多い人物だったことは事実。特に四郎については、有名でありながら真偽が定かならざるエピソードを数多く遺しているだけに、「実は妖術師だった」と言われても、少し納得できるところかもしれません。

天草四郎の簡単年表

1620年代前期~中期
『神の子』の誕生
1620年代の前期から中期の間に、天草四郎は生まれました。生年や生地については諸説が入り乱れており、現在も正確なところは分かっていません。

また、父母についても益田好次とその妻の”よね”という説が通説ですが、これにも「秀頼説」などの異説が呈されることがあり、四郎の正確な幼年期の記録は、ほとんどわかっていないと言えます。

1620年代後期
穏やかながら謎に満ちた幼年期
浪人百姓の子として生を受けた四郎は、武士身分ではありながら農業もこなし、農民たちとも近い距離で接する穏やかな子として成長します。

1630年代前期 – 少年期
学問を修めるために長崎へ遊学
穏やかな少年だった四郎は、学問を修めるために度々長崎へと遊学。ここで深い思慮や教養を身に着けたことで、生来のものだったらしい彼のカリスマ性は、ますます高まりを見せることになりました。

また、この頃には「海面を歩いた」「盲目の少女を手をかざすだけで治療した」という奇跡のエピソードが記録されており、この事がより一層、天草四郎という人物の実像を掴ませにくくしています。

島原の乱が勃発
島原藩の藩主・松倉勝家の暴政やキリシタン迫害に反発した農民たちの怒りが爆発し、島原の乱が勃発。四郎はその強いカリスマ性から、一揆の総大将に祭り上げられ、3万人を超える軍勢の旗印として戦うことになりました。

討伐軍の総大将を討ち取る
原城に立てこもった一揆軍の勢いは止まらず、幕府は討伐軍の第二陣として「知恵伊豆」と名高い松平信綱率いる軍勢の派遣を決定。この報せに焦った討伐軍第一陣の大将・板倉重昌は、功を焦って討ち死にすることになってしまいます。

しかし、この板倉重昌を討ち取る大金星こそが、一揆衆を襲う虐殺の引き金となってしまうのです。

島原の乱の終焉
松平信綱の指揮によって持ち直し、一揆軍の討伐に本腰を入れ始めた幕府軍は、兵糧攻めや投降の呼びかけで一揆軍の戦力を削いでいき、1638年4月には原城への総攻撃を開始。

これによって原城に立てこもっていた一揆軍は、一部の内通者や運よく逃げ延びた者たちを除いて皆殺しにされ、天草四郎も肥後藩士陣佐左衛門に討ち取られてその生涯を終えました。

島原の乱、その後
島原の乱が終結したことで、まず農民たちが一揆をおこす原因を作った藩主・松倉勝家は斬首。天草藩を治めていた寺沢堅高もその責任を問われ、天草藩の領地を没収されることになりました。

そしてこの島原の乱から1年半後、江戸幕府は島原で布教を行っていたポルトガルとの国交を断絶。これにより、江戸幕府は鎖国体制を築いていくことになるのです。

天草四郎の年表

1620年代前期~中期 – 0歳「『神の子』の誕生」

『神の子』として生を受けた天草四郎

『神の子』天草四郎の誕生

天草四郎は、小西行長の遺臣である益田好次と、その妻”よね”の長男として生まれました。家族構成は、両親と姉が二人に、後に妹が一人。益田家は、小西氏の滅亡によって肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)に移り住んだ浪人百姓の家系でしたが、経済的には裕福な方で、武士でありながら畑を耕すなど、農民たちとも近い距離間で接する家系だったようです。

また、四郎は生まれたときから「神の子」として強いカリスマ性を発していたようで、家系の裕福さも相まって高い教養と、子供らしからぬ落ち着きを身に着けた少年だったことが伝わっています。

何故、天草四郎は「生まれながらのカリスマ」だった?

天草四郎の「生まれながらのカリスマ性」の理由には諸説がありますが、その中でも有力なのは「宣教師ママコフの予言」によるという説です。

1614年、宣教師ママコフは「25年後に天変地異が起こり、16歳の天童によってキリスト教徒は救われる」という予言を残しました。この「25年後の天変地異」というのが何なのかは定かではありませんが、もしかするとこれは「島原の乱」の事を指していたのかもしれません。

そして島原の乱当時、天草四郎は十代半ばだったと言われています。つまりママコフの予言における「天童」の部分に、天草四郎の出生はぴったり当てはまっているのです。

正直なところ、大分「こじつけ」の感じもする説ではありますが、当時のキリスト教徒たちが、他の子供とは違う落ち着きを持ち、かつ「天童」の条件を満たす四郎をカリスマとして崇めたと考えても、筋は通るだろうとも思えます。

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