天草四郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や伝説、死因について紹介】

1620年代後期 – 幼年期「謎に満ちた幼年期の四郎」

現在の熊本県宇土市

謎に包まれた幼年期

益田家自体が浪人百姓として、歴史の表舞台から遠ざかった家系だったため、四郎の幼少期についても確たる記録はほとんど残っていません。

四郎の母の陳述によると、四郎は「宇土で成長した」ということですので、その言葉を信じるなら、四郎は一家で肥後国の宇土に移住し、そこで畑を耕しながら過ごしていたと考えられます。

1630年代前期 – 少年期「学問を修めるために長崎へ遊学する」

四郎が遊学していた長崎は、今も様々な教会建築が有名

学問を修めるべく長崎へ

強いカリスマ性と穏やかで落ち着いた人格を持つ少年として成長した四郎は、学問を修めるために度々長崎を訪れていたことが伝わっています。

当時の長崎はポルトガル商館が存在する、日本におけるキリスト教のおひざ元のような場所であったため、四郎はこの辺りで、より一層キリスト教の教えに触れる機会を得たとも言えるでしょう。

様々な”奇跡”を起こした記録が残る

また、天草四郎を語る上では欠かせない様々な”奇跡”のエピソードが残るのも、この辺りからになっています。

「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」などのエピソードがとくに有名ですが、これらのエピソードは『新約聖書』の中に類似のエピソードが存在しているため、「島原の乱に際して、天草四郎のカリスマ性を高めるために創作されたエピソードだ」とする考え方が、現在では有力視されているようです。

1637年12月 – 「島原の乱、勃発」

島原の乱において、一揆軍に破壊された仏像

島原の乱、勃発

島原の乱は、島原藩主である松倉勝家と、その父である松倉重政の長年の暴政を原因としています。

松倉父子は非常に見栄っ張りな性質で、城の改修のために領民から重税を巻き上げ、税を納められない者には、女や子供であっても残酷な拷問や処刑を行うという、まさに「暗君」を地で行く大名でした。

島原の民たちはその暴政にも何とか耐えてきましたが、決定的な事件が起きたのは1637年の10月。税を納められなかった庄屋の妻が、身重のまま水牢に入れられ、その中で出産させられることになったのです。村民たちは庄屋の妻を助けようと話し合いますが、庄屋の妻は6日間を水牢の中で苦しんだ末に、水中で産んだ子と共に死亡してしまいます。

これによって島原の民たちは決起を決意し、代官である林兵左衛門を殺害。この事件によって、日本史上有数の大規模な民衆反乱・島原の乱が勃発することになったのでした。

天草四郎、島原の乱の総大将に抜擢

こうして勃発した島原の乱には、四郎の父である益田好次も参加。そして四郎も、その圧倒的なカリスマ性と人気を買われて、旗印である総大将として、島原の乱に参加することになりました。

総大将となった四郎は、一説では「十字架を掲げて最前線で指揮をしていた」とも記録されていますが、実際はあくまで「旗印」として扱われ、一揆の実務面は浪人や庄屋などの大人たちが担っていたようです。

1638年2月 – 「勢いづく一揆衆~敵大将撃破~」

一揆衆討伐軍の大将だった板倉重昌を撃破したが…

原城の攻防

島原でキリシタンを中心とした一揆が勃発したことで、同じく暴政に苦しんでいた天草藩でもキリシタンによる一揆が勃発。これと合流して合従軍となった一揆衆は、原城に立てこもり、幕府軍相手に一歩も退かない激しい攻防を繰り広げました。

原城に立てこもった一揆衆は、総勢3万7000人ほど。原城の跡からは失火対策などが行なわれていた事が読み取れ、一揆衆が「一つの軍勢」として、厳しい規律でまとめあげられていたことが分かります。

そして、この一揆衆の勢いを重く見た幕府は、新たに「知恵伊豆」と名高い松平信綱を大将とした討伐軍第二陣の派遣を決定。そしてこの決定こそが、島原の乱の行く末を決定づける一手となるのです。

板倉重昌の失策

「松平信綱の派遣」の報せに誰よりも焦ったのは、一揆衆ではなく討伐軍の大将・板倉重昌でした。

元々同僚である柳生宗矩からも「人望や石高を見ても、討伐軍を率いることは難しい」と評されていた彼は、信綱に手柄を奪われまいと焦り、無謀な総攻撃を行ってしまいます。人望が薄く策もない重昌のこの指示は全く功を奏さず、幕府軍の死傷者はこの総攻撃だけで4000人以上。大将である重昌も狙撃を受けて落命し、討伐軍の第一陣は、ここに完全敗北を喫することになってしまいました。

これによって一揆衆は更に勢いづくことになるのですが、「重昌戦死」の報を受けた幕府は、九州諸侯に更なる増援を指示。時を同じくして松平信綱も討伐軍の大将として着陣し、戦いの風向きは、皮肉にもこの大金星によってひっくり返りつつありました。

1638年4月 – 「島原の虐殺~天草四郎、戦場に没する~」

天草四郎の墓や慰霊碑は、現在も各所に残っている

ひっくり返る戦況

松平信綱の着陣によって持ち直した討伐軍は、豊富な兵力を用いて原城に対する包囲戦を展開。オランダ船に依頼しての大砲による威嚇射撃や、補給線を塞いでの兵糧責めを断続的に行い、これによって一揆衆は徐々に苦しい戦いを強いられることになっていきました。

原城総攻撃~島原の虐殺~

そして1638年4月、討伐軍による総攻撃が開始。この時の一揆軍には食料も弾薬もほぼ無く、戦いと言うよりは一方的な虐殺が展開されていったことが記録されています。

この総攻撃によって原城は落城。天草四郎も肥後細川藩士である陣佐左衛門によって討ち取られ、その生涯を終えました。この時の総攻撃は、文字通りに一揆衆を皆殺しにするまで続いたらしく、原城に立てこもっていた中で生き延びたのは、幕府に内通していた山田右衛門作だけだったと言われています。

1638年以降 – 「島原の乱の終結後…」

黒船の来航まで続いた鎖国体制は、島原の乱から始まった

島原の乱の戦後処理

島原の乱の戦後処理に当たった松平信綱は、まず島原藩主の松倉勝家と、天草藩主の寺沢堅高を処分。勝家は江戸時代の大名としては唯一の斬首刑を受け、堅高は領地を没収された末に発狂の末に自害するという最期を迎えました。

また、松平信綱はこの一揆鎮圧の件で更に幕府から信頼を受けることになり、3万石の加増を受けて河越藩に移封。徳川家を支える知将としての地位を築き上げました。

鎖国体制へ

島原の乱の平定から1年半後、幕府は松平信綱からの進言もあって、ポルトガルとの国交断絶を決定。これによって江戸時代の日本の鎖国体制が、本格的に始まることになりました。

天草四郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

江戸人物伝 天草四郎 (コミック版 日本の歴史)


歴史初学者にはお馴染みの『コミック日本の歴史』シリーズです。若干誇張された部分が目立つものの、天草四郎という人物の生涯に最初に触れるには、やはりこの一冊からがいいかと思います。

少し島原の民を「いい人」に書きすぎている部分は見受けられますが、この頃の江戸幕府の「キリシタン弾圧思想」の部分にも触れているため、「江戸初期のキリスト教史」が知りたい方にもオススメできる一冊です。

島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起


天草四郎が指揮を執った、島原の乱の「理由」について深掘りした学術書です。本書では「島原の乱は宗教的反乱だった」という説を採用し、それに基づいて論考が展開されています。

かなり知識があることが前提となっている一冊のため、初学者向けとは言えない本ですが、その分「島原の乱について深掘りしたい!」という方にはお勧めしたい一冊です。

上記以外に他にも天草四郎を知れるおすすめ書籍を以下の記事で紹介しているので、読んでみてください。

天草四郎をよく知れるおすすめ本・書籍6選【伝記から評論、漫画まで】

おすすめの映画

ミュージカル『MESSIAH ―異聞・天草四郎―』


宝塚の花組が演じた、天草四郎をテーマにしたミュージカル作品です。

史実に即しているとはいいがたい作品ですが、とにかく派手でかっこよく「これはこれでアリ」と思える凄みのあるミュージカルでした。

魔界転生


山田風太郎による小説作品の映画版です。天草四郎は魔界からよみがえり幕府転覆を目論む悪役として登場しています。

そんな天草四郎を演じるのは沢田研二さん。端正な顔立ちながら、そこから醸し出される不気味さと、インパクト抜群のラストシーンの熱演はそれだけでも見る価値ありの名演です。作品自体に興味がなくとも、そこに関してはぜひ見ていただきたいと思います。

関連外部リンク

天草四郎についてのまとめ

現在でも様々な創作のモチーフにされている天草四郎ですが、実のところ彼の実像を探るには、その周辺の歴史や人物を非常に深くまで掘り下げねばならず、生半可な知識だけで彼の実像を想像するのは、非常に困難を極めます。

天草四郎を知るにあたって、島原の民が蜂起に至った理由や、島原の乱の平定後の鎖国体制への移行などの前提知識が必要なことは、その最たるものでしょう。実のところ「天草四郎の生涯」というのは「江戸時代初期のキリスト教史」とほぼ同義であると言えるのかもしれません。

「島原の虐殺に散った悲劇のカリスマ」という印象が有名な天草四郎。その有名さの反面、彼自身の実像は非常につかみにくい人物ですが、この記事で少しでも天草四郎に興味を持っていただけたなら幸いです。

それでは、本記事におつきあいくださいまして、誠にありがとうございました。

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