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【年表付】天草四郎とはどんな人?功績や伝説、死因、生涯まとめ

天草四郎は、江戸時代初期に起こった大規模な一揆である「島原の乱」の総大将として知られる、キリシタンの少年です。

非常に強烈なカリスマ性と、一説では「奇跡」と称される不思議な能力を持っていた人物であるとされているほか、10代半ばの少年でありながら大規模な一揆の総大将に据えられ、志半ばで一揆衆と運命を共にした、悲劇の人としても知られています。

天草四郎を描いたとされる絵画

その悲劇的な生涯は、様々な創作物の題材としても知られており、『魔界転生』や『サムライスピリッツ』、あるいは『Fate』シリーズと言った様々な創作作品から、天草四郎という人物に興味を持った方も多いのではないでしょうか?

しかし実のところ、彼の生涯には非常に多くの謎が存在しており、彼の実像は日本史上においても、トップクラスに掴みにくいのが現状です。

というわけでこの記事では、そんな意外と難しい「天草四郎の生涯」に迫っていきたいと思います。

天草四郎とはどんな人物か

名前天草四郎、益田時貞
洗礼名ジェロニモ→フランシスコ
誕生日不明
没日1638年4月12日(享年不明)
生地不明
(天草諸島の大矢野島という説が有力)
没地長崎県南島原市南有馬町乙・原城
家族構成父、母、姉、姉、妹
配偶者有家監物の娘
埋葬場所不明
(現在は原城跡に史跡が残る)

天草四郎の生涯をハイライト

天草四郎の生地とされる天草諸島の現在

天草四郎は、関ヶ原の戦いで西軍につき処刑された武将・小西行長の家臣である益田好次とその妻・よねの三番目の子であり、その嫡男として誕生しました。一家は仕えていた小西家の滅亡後は天草諸島に移住したとされているため、四郎も天草諸島で生まれたという説が有力ですが、確たる証拠はありません。

四郎の幼少期の記録はほとんど残っていませんが、武士の家系であったことから高い教養を持ち、周囲から慕われるカリスマ性を持った人物だったことが数少ない記録二も残っています。また、学問を修めるために長崎を何度か訪れていたことも記録されているため、経済的に余裕のある家だったことも読み取れるでしょう。

更に天草四郎の生涯には「海面を歩いた」「盲目の少女に手をかざすだけで、少女の目を見えるようにした」などの”奇跡”のエピソードも数多く語られています。『新約聖書』に語られるものと似たエピソードが多く、創作の可能性が高いエピソードですが、天草四郎の生涯や人物像を語る上では、これも欠かせないエピソードの一つです。

そして、四郎の名前が表舞台の記録に上るのは、1637年の「島原の乱」。

十代半ばの少年だった四郎は、そのカリスマ性に目を付けた一揆衆の大人たちによって大将に祭り上げられ、半ば強制的に島原の乱に参加。前線で戦ったり指揮をしたりということは殆どなかったようですが、「一揆衆には天草四郎がついている」という事実だけで、一揆衆の戦意高揚に貢献。

これにより島原の一揆は、様々な幸運が手伝ったとは言え、江戸から派遣されてきた幕府の軍勢を一度は破るという活躍を見せました。

しかし、いよいよ一揆衆討伐に本腰を入れた幕府が、「知恵伊豆」として知られる松平信綱を島原に派遣したことで状況は一変。一揆衆は瞬く間に追い詰められ、四郎は追い詰められた一揆衆とともに、原城にて戦死することになってしまったのでした。

天草四郎の家族構成

四郎の父・益田好次が仕えた小西行長は、キリシタン大名としても有名

天草四郎は、キリシタン大名として知られる小西行長の遺臣・益田好次と、その妻である”よね”の三人目の子供であり嫡男として生まれました。一家は身分として浪人百姓でしたが、経済的にはそれなりに余裕があったようで、四郎は幼い頃から高い教養を持っていたとされています。

また、益田家はキリシタンの家系であり、四郎の父である好次は「ペイトロ」、よねは「マルタ」、姉二人は「レシイナ」「リオナ」、妹は「マルイナ」と、それぞれに洗礼名を持っていたようです。

四郎も当初は「ジェロニモ」という洗礼名をもらっていましたが、時はキリスト教弾圧が激化する江戸時代初期。一家も弾圧を避けるために一度は棄教をすることになったようです。しかし後の「島原の乱」では再びキリスト教に改宗を行っていたようで、島原の乱当時の四郎は、当初とは別の洗礼名である「フランシスコ」を名乗っていたと伝わっています。

また、『天草陣雑記』の中には、島原の乱で評定衆を務めた有家監物の娘と結婚していたという記述も存在しています。しかし四郎の結婚生活については殆ど記録が残っておらず、ここから彼の人物像を類推するのも、非常に難しいのが現状です。

天草四郎と「島原の乱」

「島原の乱」の総大将となった天草四郎だが、その裏には大人たちの思惑が渦巻いていた

天草四郎の短い生涯のうち、ハイライトとなるのはやはり「島原の乱」でしょう。キリシタンへの弾圧や藩主の暴政に耐えかねた農民たちによって起きたこの戦いは、日本史上でも最大規模の民衆反乱として知られています。

天草四郎は、この「島原の乱」の総大将として知られる人物であり、描かれ方によっては「藩主の暴政に苦しめられる天草諸島の民衆を見かねた四郎が武装蜂起を呼びかけ、その呼びかけに応じた民衆によって「島原の乱」が始まった」とされることもありますが、実はこの描かれ方は間違い。

四郎が総大将として選出されたのは、端的に言えば「人気目的」であり、彼が一揆衆の中で担ったのは、あくまでも戦意高揚のための「お飾りの大将」「神輿」という側面が殆どです。記録からも、実質的な武力蜂起や戦術立案などは、四郎の父である益田好次などの一揆衆の大人たちが担っていた事が読み取れ、四郎自身が一揆衆の指揮を執ったという記録は、実はほとんど残っていません。

とはいえ、あくまでも「一地方の民衆による反乱」でしかない島原の乱が、「日本史上最大規模の民衆反乱」とまで言われる激戦になったことに、天草四郎のカリスマ性が影響を与えていることは間違いない事実だと言えるでしょう。

天草四郎の最期

天草四郎ら、多くの島原の民が命を散らした「原城」の跡地

「島原の乱」の結末をご存知の方であれば、天草四郎がどのような最期を迎えたのかも想像がつくでしょう。天草四郎は多くの一揆衆がそうであったのと同じように、島原の乱の終焉の地である原城で戦死し、そのあまりにも短い生涯を終えることになりました。

原城の戦いは、幕府軍も一揆衆も双方ともに一歩も退かない激戦だったようで、実は一揆軍は、一度は幕府軍を撤退させ、幕府軍の大将だった板倉重昌を戦死させるという奮戦を見せてもいます。

しかし、「敵大将を討ち死にさせる」という大金星を挙げてしまったことで、むしろ幕府から島原一揆衆への警戒度が跳ね上がることに。幕府は「知恵伊豆」と名高い松平信綱を総大将とした第二陣を派遣し、これによって島原の乱は鎮圧。一揆衆はわずかな内通者や運よく逃げ延びたものを残して皆殺しにされ、四郎も戦いの中で討たれることになりました。

そしてこの戦いこそが、江戸幕府の対外政策を決定づけることに。

「島原の乱」が鎮圧されてから、幕府はキリスト教に対する弾圧を強化し、乱から一年後にはポルトガル船の来航を禁止。これによって江戸幕府の鎖国体制が決定づけられ、四郎たちの掲げたキリスト教は、長らく日本の歴史の表舞台から遠ざけられることになっていくのでした。

天草四郎の功績

功績1「非常に優れたカリスマ性の持ち主」

天草四郎の像は、長崎各地に存在して今も親しまれている

天草四郎は非常に有名な人物ですが、実のところ彼の功績は「島原の乱の総大将となった」という所に集約されており、それ以外に”功績”と呼べるような部分はあまり見当たりません。

しかし島原の乱当時、まだ十代半ばであった彼が総大将に担ぎ上げられたという事実自体が、天草四郎という人物の異質さを示していることは説明するまでもないでしょう。いわゆる「神輿」のようなタイプの大将だった彼に惹かれて、3万以上の民衆が一揆に参加したことからもそれは読み取れます。

現代においても、優れたトップというのは実務の部分のみならず、人格や雰囲気などの説明しがたい部分において、他者を引っ張っていくオーラや凄みを持っているもの。歴史においては「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉や坂本龍馬なんかは、実務だけではないトップの典型だと言えるでしょう。

もしかすると天草四郎も、秀吉や龍馬と似たような「トップの器」というものを持っていて、それを買われた結果、島原の乱のトップに据えられた人物なのかもしれませんね。

功績2「10代半ばにして3万7000人を指揮する」

10代半ばという年若さで、藩主の暴政に反発する一揆の総大将に押し上げられた天草四郎。普通ならその責任から逃げ出したくて仕方なくなりそうなものですが、そこから逃げずに最期まで一揆衆と運命を共にしたことも、天草四郎という人物の異質さを示す部分だと言えます。

実質的な指揮官役は、父である益田好次や浪人たちを中心とした評定衆が執っていたとはいえ、四郎の威光に惹かれて一揆に参加した者たちにとっては、四郎の存在や言葉も非常に大きいもの。

前線に出ていたという記録こそほとんどありませんが、一揆からの離脱を戒める法度書きの通称が『四郎法度書』となっているなど、一揆衆にとって彼が欠かせない存在だったのは、そのような部分からも読み取ることができるのです。

功績3「様々な”奇跡”を起こした「神の子」 」

イエス・キリストのものと似た逸話が数多く残っている

事実か創作かは不確かな部分が多いですが、天草四郎には「神の奇跡」とも言うべき不可思議な現象を起こした逸話が、数多く遺されています。

中でも有名なのは「海面を歩いた」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療した」というもの。これらはいずれも、天草四郎の少年期に起こったとされる出来事であり、記録が少ないことから事実かどうかは定かではありません。

また、四郎の起こした奇跡に似た記述は『新約聖書』の中にキリストの御業として記されているエピソードと酷似しているため、現在では「天草四郎のカリスマ性を補強するために、聖書から題材を取って創作されたエピソード」と見るのが妥当であると判断されています。

とはいえ、そのような普通ならあり得ないエピソードが「あり得るかもしれない」と語られていた辺り、これも天草四郎という人物の異質なカリスマ性を示すエピソードだと言えそうです。

天草四郎は本当にイケメンだった?様々な説から結論を考察

天草四郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は豊臣秀吉の孫だった?」

天草四郎の父という説もある、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼

非常に強いカリスマ性を持って、日本史上最大規模の民衆反乱の旗印となった天草四郎。単なる百姓浪人の子としてはあまりに強すぎるそのエピソードの数々からか、四郎の出生には様々な異説が唱えられています。

中でも有名なのは、「天草四郎の父は、大阪の陣から落ち延びた豊臣秀頼である」という説。豊臣氏滅亡の際に、秀頼が薩摩の島津氏を頼って九州に落ち延びたという説があることや、秀頼と四郎に「若いながら強いカリスマ性を持っていた」という共通点があることから唱えられた説です。

また、この説を裏付ける論拠としては、「天草四郎の馬印が、豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であること」「一揆の参加者名簿の中に『豊臣秀綱』の名前があったこと」も上げられています。

とはいえ、現時点で信頼できる文献からすると、この説は「トンデモ説」の一つに過ぎないと判断されているのが現状です。

しかし、万が一本当に四郎が秀頼の子だったとしたら。そう言った観点から「島原の乱」を考えてみるのも、面白いかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「実は「妖術師の弟子」だった?」

「妖術師」としても知られる森宗意軒は、実は天草四郎ともかかわりがあった?

島原の乱に参加した者の中には「森宗意軒(もり そういけん)」という人物が存在していました。宗意軒は四郎の父と同じ小西行長の遺臣の一人であり、中国で火術や外科治療などを学び、一説では妖術を会得した「妖術師」だったとも語られています。

この事から、ごくたまに「天草四郎は森宗意軒の弟子であり、妖術を会得していた」などと語られることもありますが、これに関してはあくまでも「眉唾」「創作」と考えるのが一般的です。

この説の広まりについては、山田風太郎の小説『魔界転生』によるイメージが非常に大きく影響を与えており、『魔界転生』後の島原の乱を描いた作品の中では、度々そうしたイメージで、宗意軒・四郎の二人が描かれています。当たり前ですが史実において「二人が妖術を用いた」という記録はなく、それらのイメージはあくまでも、小説やゲームなどの中だけと考えるべき部分です。

とはいえ、そうした説がまことしやかに語られる程度には、四郎も宗意軒も謎の多い人物だったことは事実。特に四郎については、有名でありながら真偽が定かならざるエピソードを数多く遺しているだけに、「実は妖術師だった」と言われても、少し納得できるところかもしれません。

天草四郎の簡単年表

1620年代前期~中期
『神の子』の誕生
1620年代の前期から中期の間に、天草四郎は生まれました。生年や生地については諸説が入り乱れており、現在も正確なところは分かっていません。

また、父母についても益田好次とその妻の”よね”という説が通説ですが、これにも「秀頼説」などの異説が呈されることがあり、四郎の正確な幼年期の記録は、ほとんどわかっていないと言えます。

1620年代後期
穏やかながら謎に満ちた幼年期
浪人百姓の子として生を受けた四郎は、武士身分ではありながら農業もこなし、農民たちとも近い距離で接する穏やかな子として成長します。

1630年代前期 - 少年期
学問を修めるために長崎へ遊学
穏やかな少年だった四郎は、学問を修めるために度々長崎へと遊学。ここで深い思慮や教養を身に着けたことで、生来のものだったらしい彼のカリスマ性は、ますます高まりを見せることになりました。

また、この頃には「海面を歩いた」「盲目の少女を手をかざすだけで治療した」という奇跡のエピソードが記録されており、この事がより一層、天草四郎という人物の実像を掴ませにくくしています。

島原の乱が勃発
島原藩の藩主・松倉勝家の暴政やキリシタン迫害に反発した農民たちの怒りが爆発し、島原の乱が勃発。四郎はその強いカリスマ性から、一揆の総大将に祭り上げられ、3万人を超える軍勢の旗印として戦うことになりました。

討伐軍の総大将を討ち取る
原城に立てこもった一揆軍の勢いは止まらず、幕府は討伐軍の第二陣として「知恵伊豆」と名高い松平信綱率いる軍勢の派遣を決定。この報せに焦った討伐軍第一陣の大将・板倉重昌は、功を焦って討ち死にすることになってしまいます。

しかし、この板倉重昌を討ち取る大金星こそが、一揆衆を襲う虐殺の引き金となってしまうのです。

島原の乱の終焉
松平信綱の指揮によって持ち直し、一揆軍の討伐に本腰を入れ始めた幕府軍は、兵糧攻めや投降の呼びかけで一揆軍の戦力を削いでいき、1638年4月には原城への総攻撃を開始。

これによって原城に立てこもっていた一揆軍は、一部の内通者や運よく逃げ延びた者たちを除いて皆殺しにされ、天草四郎も肥後藩士陣佐左衛門に討ち取られてその生涯を終えました。

島原の乱、その後
島原の乱が終結したことで、まず農民たちが一揆をおこす原因を作った藩主・松倉勝家は斬首。天草藩を治めていた寺沢堅高もその責任を問われ、天草藩の領地を没収されることになりました。

そしてこの島原の乱から1年半後、江戸幕府は島原で布教を行っていたポルトガルとの国交を断絶。これにより、江戸幕府は鎖国体制を築いていくことになるのです。

天草四郎の年表

1620年代前期~中期 – 0歳「『神の子』の誕生」

『神の子』として生を受けた天草四郎

『神の子』天草四郎の誕生

天草四郎は、小西行長の遺臣である益田好次と、その妻”よね”の長男として生まれました。家族構成は、両親と姉が二人に、後に妹が一人。益田家は、小西氏の滅亡によって肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)に移り住んだ浪人百姓の家系でしたが、経済的には裕福な方で、武士でありながら畑を耕すなど、農民たちとも近い距離間で接する家系だったようです。

また、四郎は生まれたときから「神の子」として強いカリスマ性を発していたようで、家系の裕福さも相まって高い教養と、子供らしからぬ落ち着きを身に着けた少年だったことが伝わっています。

何故、天草四郎は「生まれながらのカリスマ」だった?

天草四郎の「生まれながらのカリスマ性」の理由には諸説がありますが、その中でも有力なのは「宣教師ママコフの予言」によるという説です。

1614年、宣教師ママコフは「25年後に天変地異が起こり、16歳の天童によってキリスト教徒は救われる」という予言を残しました。この「25年後の天変地異」というのが何なのかは定かではありませんが、もしかするとこれは「島原の乱」の事を指していたのかもしれません。

そして島原の乱当時、天草四郎は十代半ばだったと言われています。つまりママコフの予言における「天童」の部分に、天草四郎の出生はぴったり当てはまっているのです。

正直なところ、大分「こじつけ」の感じもする説ではありますが、当時のキリスト教徒たちが、他の子供とは違う落ち着きを持ち、かつ「天童」の条件を満たす四郎をカリスマとして崇めたと考えても、筋は通るだろうとも思えます。

1620年代後期 – 幼年期「謎に満ちた幼年期の四郎」

現在の熊本県宇土市

謎に包まれた幼年期

益田家自体が浪人百姓として、歴史の表舞台から遠ざかった家系だったため、四郎の幼少期についても確たる記録はほとんど残っていません。

四郎の母の陳述によると、四郎は「宇土で成長した」ということですので、その言葉を信じるなら、四郎は一家で肥後国の宇土に移住し、そこで畑を耕しながら過ごしていたと考えられます。

1630年代前期 – 少年期「学問を修めるために長崎へ遊学する」

四郎が遊学していた長崎は、今も様々な教会建築が有名

学問を修めるべく長崎へ

強いカリスマ性と穏やかで落ち着いた人格を持つ少年として成長した四郎は、学問を修めるために度々長崎を訪れていたことが伝わっています。

当時の長崎はポルトガル商館が存在する、日本におけるキリスト教のおひざ元のような場所であったため、四郎はこの辺りで、より一層キリスト教の教えに触れる機会を得たとも言えるでしょう。

様々な”奇跡”を起こした記録が残る

また、天草四郎を語る上では欠かせない様々な”奇跡”のエピソードが残るのも、この辺りからになっています。

「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」などのエピソードがとくに有名ですが、これらのエピソードは『新約聖書』の中に類似のエピソードが存在しているため、「島原の乱に際して、天草四郎のカリスマ性を高めるために創作されたエピソードだ」とする考え方が、現在では有力視されているようです。

1637年12月 – 「島原の乱、勃発」

島原の乱において、一揆軍に破壊された仏像

島原の乱、勃発

島原の乱は、島原藩主である松倉勝家と、その父である松倉重政の長年の暴政を原因としています。

松倉父子は非常に見栄っ張りな性質で、城の改修のために領民から重税を巻き上げ、税を納められない者には、女や子供であっても残酷な拷問や処刑を行うという、まさに「暗君」を地で行く大名でした。

島原の民たちはその暴政にも何とか耐えてきましたが、決定的な事件が起きたのは1637年の10月。税を納められなかった庄屋の妻が、身重のまま水牢に入れられ、その中で出産させられることになったのです。村民たちは庄屋の妻を助けようと話し合いますが、庄屋の妻は6日間を水牢の中で苦しんだ末に、水中で産んだ子と共に死亡してしまいます。

これによって島原の民たちは決起を決意し、代官である林兵左衛門を殺害。この事件によって、日本史上有数の大規模な民衆反乱・島原の乱が勃発することになったのでした。

天草四郎、島原の乱の総大将に抜擢

こうして勃発した島原の乱には、四郎の父である益田好次も参加。そして四郎も、その圧倒的なカリスマ性と人気を買われて、旗印である総大将として、島原の乱に参加することになりました。

総大将となった四郎は、一説では「十字架を掲げて最前線で指揮をしていた」とも記録されていますが、実際はあくまで「旗印」として扱われ、一揆の実務面は浪人や庄屋などの大人たちが担っていたようです。

1638年2月 – 「勢いづく一揆衆~敵大将撃破~」

一揆衆討伐軍の大将だった板倉重昌を撃破したが…

原城の攻防

島原でキリシタンを中心とした一揆が勃発したことで、同じく暴政に苦しんでいた天草藩でもキリシタンによる一揆が勃発。これと合流して合従軍となった一揆衆は、原城に立てこもり、幕府軍相手に一歩も退かない激しい攻防を繰り広げました。

原城に立てこもった一揆衆は、総勢3万7000人ほど。原城の跡からは失火対策などが行なわれていた事が読み取れ、一揆衆が「一つの軍勢」として、厳しい規律でまとめあげられていたことが分かります。

そして、この一揆衆の勢いを重く見た幕府は、新たに「知恵伊豆」と名高い松平信綱を大将とした討伐軍第二陣の派遣を決定。そしてこの決定こそが、島原の乱の行く末を決定づける一手となるのです。

板倉重昌の失策

「松平信綱の派遣」の報せに誰よりも焦ったのは、一揆衆ではなく討伐軍の大将・板倉重昌でした。

元々同僚である柳生宗矩からも「人望や石高を見ても、討伐軍を率いることは難しい」と評されていた彼は、信綱に手柄を奪われまいと焦り、無謀な総攻撃を行ってしまいます。人望が薄く策もない重昌のこの指示は全く功を奏さず、幕府軍の死傷者はこの総攻撃だけで4000人以上。大将である重昌も狙撃を受けて落命し、討伐軍の第一陣は、ここに完全敗北を喫することになってしまいました。

これによって一揆衆は更に勢いづくことになるのですが、「重昌戦死」の報を受けた幕府は、九州諸侯に更なる増援を指示。時を同じくして松平信綱も討伐軍の大将として着陣し、戦いの風向きは、皮肉にもこの大金星によってひっくり返りつつありました。

1638年4月 – 「島原の虐殺~天草四郎、戦場に没する~」

天草四郎の墓や慰霊碑は、現在も各所に残っている

ひっくり返る戦況

松平信綱の着陣によって持ち直した討伐軍は、豊富な兵力を用いて原城に対する包囲戦を展開。オランダ船に依頼しての大砲による威嚇射撃や、補給線を塞いでの兵糧責めを断続的に行い、これによって一揆衆は徐々に苦しい戦いを強いられることになっていきました。

原城総攻撃~島原の虐殺~

そして1638年4月、討伐軍による総攻撃が開始。この時の一揆軍には食料も弾薬もほぼ無く、戦いと言うよりは一方的な虐殺が展開されていったことが記録されています。

この総攻撃によって原城は落城。天草四郎も肥後細川藩士である陣佐左衛門によって討ち取られ、その生涯を終えました。この時の総攻撃は、文字通りに一揆衆を皆殺しにするまで続いたらしく、原城に立てこもっていた中で生き延びたのは、幕府に内通していた山田右衛門作だけだったと言われています。

1638年以降 – 「島原の乱の終結後…」

黒船の来航まで続いた鎖国体制は、島原の乱から始まった

島原の乱の戦後処理

島原の乱の戦後処理に当たった松平信綱は、まず島原藩主の松倉勝家と、天草藩主の寺沢堅高を処分。勝家は江戸時代の大名としては唯一の斬首刑を受け、堅高は領地を没収された末に発狂の末に自害するという最期を迎えました。

また、松平信綱はこの一揆鎮圧の件で更に幕府から信頼を受けることになり、3万石の加増を受けて河越藩に移封。徳川家を支える知将としての地位を築き上げました。

鎖国体制へ

島原の乱の平定から1年半後、幕府は松平信綱からの進言もあって、ポルトガルとの国交断絶を決定。これによって江戸時代の日本の鎖国体制が、本格的に始まることになりました。

天草四郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

江戸人物伝 天草四郎 (コミック版 日本の歴史)

歴史初学者にはお馴染みの『コミック日本の歴史』シリーズです。若干誇張された部分が目立つものの、天草四郎という人物の生涯に最初に触れるには、やはりこの一冊からがいいかと思います。

少し島原の民を「いい人」に書きすぎている部分は見受けられますが、この頃の江戸幕府の「キリシタン弾圧思想」の部分にも触れているため、「江戸初期のキリスト教史」が知りたい方にもオススメできる一冊です。

島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起

天草四郎が指揮を執った、島原の乱の「理由」について深掘りした学術書です。本書では「島原の乱は宗教的反乱だった」という説を採用し、それに基づいて論考が展開されています。

かなり知識があることが前提となっている一冊のため、初学者向けとは言えない本ですが、その分「島原の乱について深掘りしたい!」という方にはお勧めしたい一冊です。

上記以外に他にも天草四郎を知れるおすすめ書籍を以下の記事で紹介しているので、読んでみてください。

天草四郎をよく知れるおすすめ本・書籍6選【伝記から評論、漫画まで】

おすすめの映画

ミュージカル『MESSIAH ―異聞・天草四郎―』

宝塚の花組が演じた、天草四郎をテーマにしたミュージカル作品です。史実に即しているとはいいがたい作品ですが、とにかく派手でかっこよく「これはこれでアリ」と思える凄みのあるミュージカルでした。

魔界転生

山田風太郎による小説作品の映画版です。天草四郎は魔界からよみがえり幕府転覆を目論む悪役として登場しています。

そんな天草四郎を演じるのは沢田研二さん。端正な顔立ちながら、そこから醸し出される不気味さと、インパクト抜群のラストシーンの熱演はそれだけでも見る価値ありの名演です。作品自体に興味がなくとも、そこに関してはぜひ見ていただきたいと思います。

関連外部リンク

天草四郎についてのまとめ

現在でも様々な創作のモチーフにされている天草四郎ですが、実のところ彼の実像を探るには、その周辺の歴史や人物を非常に深くまで掘り下げねばならず、生半可な知識だけで彼の実像を想像するのは、非常に困難を極めます。

天草四郎を知るにあたって、島原の民が蜂起に至った理由や、島原の乱の平定後の鎖国体制への移行などの前提知識が必要なことは、その最たるものでしょう。実のところ「天草四郎の生涯」というのは「江戸時代初期のキリスト教史」とほぼ同義であると言えるのかもしれません。

「島原の虐殺に散った悲劇のカリスマ」という印象が有名な天草四郎。その有名さの反面、彼自身の実像は非常につかみにくい人物ですが、この記事で少しでも天草四郎に興味を持っていただけたなら幸いです。

それでは、本記事におつきあいくださいまして、誠にありがとうございました。

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