天草四郎は、江戸時代初期に起こった大規模な一揆である「島原の乱」の総大将として知られる、キリシタンの少年です。
非常に強烈なカリスマ性と、一説では「奇跡」と称される不思議な能力を持っていた人物であるとされているほか、10代半ばの少年でありながら大規模な一揆の総大将に据えられ、志半ばで一揆衆と運命を共にした、悲劇の人としても知られています。
その悲劇的な生涯は、様々な創作物の題材としても知られており、『魔界転生』や『サムライスピリッツ』、あるいは『Fate』シリーズと言った様々な創作作品から、天草四郎という人物に興味を持った方も多いのではないでしょうか?
しかし実のところ、彼の生涯には非常に多くの謎が存在しており、彼の実像は日本史上においても、トップクラスに掴みにくいのが現状です。
というわけでこの記事では、そんな意外と難しい「天草四郎の生涯」に迫っていきたいと思います。
天草四郎とはどんな人物か
名前 | 天草四郎、益田時貞 |
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洗礼名 | ジェロニモ→フランシスコ |
誕生日 | 不明 |
没日 | 1638年4月12日(享年不明) |
生地 | 不明 (天草諸島の大矢野島という説が有力) |
没地 | 長崎県南島原市南有馬町乙・原城 |
家族構成 | 父、母、姉、姉、妹 |
配偶者 | 有家監物の娘 |
埋葬場所 | 不明 (現在は原城跡に史跡が残る) |
天草四郎の生涯をハイライト
天草四郎は、関ヶ原の戦いで西軍につき処刑された武将・小西行長の家臣である益田好次とその妻・よねの三番目の子であり、その嫡男として誕生しました。一家は仕えていた小西家の滅亡後は天草諸島に移住したとされているため、四郎も天草諸島で生まれたという説が有力ですが、確たる証拠はありません。
四郎の幼少期の記録はほとんど残っていませんが、武士の家系であったことから高い教養を持ち、周囲から慕われるカリスマ性を持った人物だったことが数少ない記録二も残っています。また、学問を修めるために長崎を何度か訪れていたことも記録されているため、経済的に余裕のある家だったことも読み取れるでしょう。
更に天草四郎の生涯には「海面を歩いた」「盲目の少女に手をかざすだけで、少女の目を見えるようにした」などの”奇跡”のエピソードも数多く語られています。『新約聖書』に語られるものと似たエピソードが多く、創作の可能性が高いエピソードですが、天草四郎の生涯や人物像を語る上では、これも欠かせないエピソードの一つです。
そして、四郎の名前が表舞台の記録に上るのは、1637年の「島原の乱」。
十代半ばの少年だった四郎は、そのカリスマ性に目を付けた一揆衆の大人たちによって大将に祭り上げられ、半ば強制的に島原の乱に参加。前線で戦ったり指揮をしたりということは殆どなかったようですが、「一揆衆には天草四郎がついている」という事実だけで、一揆衆の戦意高揚に貢献。
これにより島原の一揆は、様々な幸運が手伝ったとは言え、江戸から派遣されてきた幕府の軍勢を一度は破るという活躍を見せました。
しかし、いよいよ一揆衆討伐に本腰を入れた幕府が、「知恵伊豆」として知られる松平信綱を島原に派遣したことで状況は一変。一揆衆は瞬く間に追い詰められ、四郎は追い詰められた一揆衆とともに、原城にて戦死することになってしまったのでした。
幼いころから頭が良かった
天草四郎の幼少期の記録は少ないですが、頭が良かったといわれています。
キリシタン大名の遺臣で武士の、益田好次の子として生まれたため、幼いころから教養を持ち合わせていた天草四郎ですが、更に学問を修めるため長崎へ留学します。ここで更なる思慮や教養、知識を身に着けカリスマ性を身に着けます。
前述のような「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」といった奇跡の真偽は定かでは有りませんが、長崎留学にて更に深まったカリスマ性が、人々を魅了する一因になったことは間違いないといえるでしょう。
天草四郎はイケメンだった?
現代において天草四郎は、様々な創作の題材にて「イケメン」として描かれることが、非常に多いです。実際にイケメンだったのかどうかについては、当時の肖像画が残っていないことや、天草四郎に関する資料が少ないことから、あまり分かっていません。
ただ天草四郎は
- 10代半ばにしてカリスマ性があった
- 様々な奇跡を起こした
- 知性に溢れていた
こういったカッコいいエピソードが多くあるので、これがイケメンと思われる一因にはなっていると考えられます。
こちらの記事で、天草四郎はイケメンだったのかどうかを詳しく解説しているので、気になる方は是非参考にしてください。
天草四郎の家族構成
天草四郎は、キリシタン大名として知られる小西行長の遺臣・益田好次と、その妻である”よね”の三人目の子供であり嫡男として生まれました。一家は身分として浪人百姓でしたが、経済的にはそれなりに余裕があったようで、四郎は幼い頃から高い教養を持っていたとされています。
また、益田家はキリシタンの家系であり、四郎の父である好次は「ペイトロ」、よねは「マルタ」、姉二人は「レシイナ」「リオナ」、妹は「マルイナ」と、それぞれに洗礼名を持っていたようです。
四郎も当初は「ジェロニモ」という洗礼名をもらっていましたが、時はキリスト教弾圧が激化する江戸時代初期。一家も弾圧を避けるために一度は棄教をすることになったようです。しかし後の「島原の乱」では再びキリスト教に改宗を行っていたようで、島原の乱当時の四郎は、当初とは別の洗礼名である「フランシスコ」を名乗っていたと伝わっています。
また、『天草陣雑記』の中には、島原の乱で評定衆を務めた有家監物の娘と結婚していたという記述も存在しています。しかし四郎の結婚生活については殆ど記録が残っておらず、ここから彼の人物像を類推するのも、非常に難しいのが現状です。
天草四郎と「島原の乱」
天草四郎の短い生涯のうち、ハイライトとなるのはやはり「島原の乱」でしょう。キリシタンへの弾圧や藩主の暴政に耐えかねた農民たちによって起きたこの戦いは、日本史上でも最大規模の民衆反乱として知られています。
天草四郎は、この「島原の乱」の総大将として知られる人物であり、描かれ方によっては「藩主の暴政に苦しめられる天草諸島の民衆を見かねた四郎が武装蜂起を呼びかけ、その呼びかけに応じた民衆によって「島原の乱」が始まった」とされることもありますが、実はこの描かれ方は間違い。
四郎が総大将として選出されたのは、端的に言えば「人気目的」であり、彼が一揆衆の中で担ったのは、あくまでも戦意高揚のための「お飾りの大将」「神輿」という側面が殆どです。記録からも、実質的な武力蜂起や戦術立案などは、四郎の父である益田好次などの一揆衆の大人たちが担っていた事が読み取れ、四郎自身が一揆衆の指揮を執ったという記録は、実はほとんど残っていません。
とはいえ、あくまでも「一地方の民衆による反乱」でしかない島原の乱が、「日本史上最大規模の民衆反乱」とまで言われる激戦になったことに、天草四郎のカリスマ性が影響を与えていることは間違いない事実だと言えるでしょう。
天草四郎の最期
「島原の乱」の結末をご存知の方であれば、天草四郎がどのような最期を迎えたのかも想像がつくでしょう。天草四郎は多くの一揆衆がそうであったのと同じように、島原の乱の終焉の地である原城で戦死し、そのあまりにも短い生涯を終えることになりました。
原城の戦いは、幕府軍も一揆衆も双方ともに一歩も退かない激戦だったようで、実は一揆軍は、一度は幕府軍を撤退させ、幕府軍の大将だった板倉重昌を戦死させるという奮戦を見せてもいます。
しかし、「敵大将を討ち死にさせる」という大金星を挙げてしまったことで、むしろ幕府から島原一揆衆への警戒度が跳ね上がることに。幕府は「知恵伊豆」と名高い松平信綱を総大将とした第二陣を派遣し、これによって島原の乱は鎮圧。一揆衆はわずかな内通者や運よく逃げ延びたものを残して皆殺しにされ、四郎も戦いの中で討たれることになりました。
そしてこの戦いこそが、江戸幕府の対外政策を決定づけることに。
「島原の乱」が鎮圧されてから、幕府はキリスト教に対する弾圧を強化し、乱から一年後にはポルトガル船の来航を禁止。これによって江戸幕府の鎖国体制が決定づけられ、四郎たちの掲げたキリスト教は、長らく日本の歴史の表舞台から遠ざけられることになっていくのでした。
天草四郎の功績
功績1「非常に優れたカリスマ性の持ち主」
天草四郎は非常に有名な人物ですが、実のところ彼の功績は「島原の乱の総大将となった」という所に集約されており、それ以外に”功績”と呼べるような部分はあまり見当たりません。
しかし島原の乱当時、まだ十代半ばであった彼が総大将に担ぎ上げられたという事実自体が、天草四郎という人物の異質さを示していることは説明するまでもないでしょう。いわゆる「神輿」のようなタイプの大将だった彼に惹かれて、3万以上の民衆が一揆に参加したことからもそれは読み取れます。
現代においても、優れたトップというのは実務の部分のみならず、人格や雰囲気などの説明しがたい部分において、他者を引っ張っていくオーラや凄みを持っているもの。歴史においては「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉や坂本龍馬なんかは、実務だけではないトップの典型だと言えるでしょう。
もしかすると天草四郎も、秀吉や龍馬と似たような「トップの器」というものを持っていて、それを買われた結果、島原の乱のトップに据えられた人物なのかもしれませんね。
功績2「10代半ばにして3万7000人を指揮する」
10代半ばという年若さで、藩主の暴政に反発する一揆の総大将に押し上げられた天草四郎。普通ならその責任から逃げ出したくて仕方なくなりそうなものですが、そこから逃げずに最期まで一揆衆と運命を共にしたことも、天草四郎という人物の異質さを示す部分だと言えます。
実質的な指揮官役は、父である益田好次や浪人たちを中心とした評定衆が執っていたとはいえ、四郎の威光に惹かれて一揆に参加した者たちにとっては、四郎の存在や言葉も非常に大きいもの。
前線に出ていたという記録こそほとんどありませんが、一揆からの離脱を戒める法度書きの通称が『四郎法度書』となっているなど、一揆衆にとって彼が欠かせない存在だったのは、そのような部分からも読み取ることができるのです。
功績3「様々な”奇跡”を起こした「神の子」 」
事実か創作かは不確かな部分が多いですが、天草四郎には「神の奇跡」とも言うべき不可思議な現象を起こした逸話が、数多く遺されています。
中でも有名なのは「海面を歩いた」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療した」というもの。これらはいずれも、天草四郎の少年期に起こったとされる出来事であり、記録が少ないことから事実かどうかは定かではありません。
また、四郎の起こした奇跡に似た記述は『新約聖書』の中にキリストの御業として記されているエピソードと酷似しているため、現在では「天草四郎のカリスマ性を補強するために、聖書から題材を取って創作されたエピソード」と見るのが妥当であると判断されています。
とはいえ、そのような普通ならあり得ないエピソードが「あり得るかもしれない」と語られていた辺り、これも天草四郎という人物の異質なカリスマ性を示すエピソードだと言えそうです。
天草四郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「生まれることが予言されていた」
天草四郎は、宣教師ママコフに生まれることが予言されていたと言われています。
当時の日本ではキリシタン信者は、火あぶりの刑などの様々な迫害を受けていました。そのため民衆は、幕府に対して強い不満を持っていたのですが、この不満を抑えていたのが宣教師ママコフの予言です。
1613年に、宣教師ママコフは「25年後に天変地異が起こり、16歳の天童によってキリスト教徒は救われる」と予言します。キリシタン信者はこの予言を信じ、迫害を耐え抜きました。
そして予言から25年目となる1637年、長崎への留学から帰ってきた天草四郎が「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」などの奇跡を起こし、予言の子が現れたと人々が崇めるようになりました。
都市伝説・武勇伝2「実は豊臣秀吉の孫だった?」
非常に強いカリスマ性を持って、日本史上最大規模の民衆反乱の旗印となった天草四郎。単なる百姓浪人の子としてはあまりに強すぎるそのエピソードの数々からか、四郎の出生には様々な異説が唱えられています。
中でも有名なのは、「天草四郎の父は、大阪の陣から落ち延びた豊臣秀頼である」という説。豊臣氏滅亡の際に、秀頼が薩摩の島津氏を頼って九州に落ち延びたという説があることや、秀頼と四郎に「若いながら強いカリスマ性を持っていた」という共通点があることから唱えられた説です。
また、この説を裏付ける論拠としては、「天草四郎の馬印が、豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であること」「一揆の参加者名簿の中に『豊臣秀綱』の名前があったこと」も上げられています。
とはいえ、現時点で信頼できる文献からすると、この説は「トンデモ説」の一つに過ぎないと判断されているのが現状です。
しかし、万が一本当に四郎が秀頼の子だったとしたら。そう言った観点から「島原の乱」を考えてみるのも、面白いかもしれません。
都市伝説・武勇伝3「実は『妖術師の弟子』だった?」
島原の乱に参加した者の中には「森宗意軒(もり そういけん)」という人物が存在していました。宗意軒は四郎の父と同じ小西行長の遺臣の一人であり、中国で火術や外科治療などを学び、一説では妖術を会得した「妖術師」だったとも語られています。
この事から、ごくたまに「天草四郎は森宗意軒の弟子であり、妖術を会得していた」などと語られることもありますが、これに関してはあくまでも「眉唾」「創作」と考えるのが一般的です。
この説の広まりについては、山田風太郎の小説『魔界転生』によるイメージが非常に大きく影響を与えており、『魔界転生』後の島原の乱を描いた作品の中では、度々そうしたイメージで、宗意軒・四郎の二人が描かれています。当たり前ですが史実において「二人が妖術を用いた」という記録はなく、それらのイメージはあくまでも、小説やゲームなどの中だけと考えるべき部分です。
とはいえ、そうした説がまことしやかに語られる程度には、四郎も宗意軒も謎の多い人物だったことは事実。特に四郎については、有名でありながら真偽が定かならざるエピソードを数多く遺しているだけに、「実は妖術師だった」と言われても、少し納得できるところかもしれません。