ツタンカーメンとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、ミイラの場所、呪いについても紹介】

ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラ

玄室に封印されていた石棺の調査をしたところ、中に入っていたのは人型の黄金の棺と、そしてその中にツタンカーメンのミイラがありました。

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が変質してしまっており、他のミイラと比較すると保存状態は良くありませんでした。しかもミイラの包帯が解かれる段階で、多くの外傷がつけられ脊椎が切断されたり、性器が消失したりしています。

近年の解析結果から、身長は165cmで内反足で一部の骨が腐っていたことなどが判明しています。

それだけでなくツタンカーメンの胸骨と肋骨、そして心臓もなくなっており、これは古代の「故人が冥界へ旅立つ際に心臓と同じ重さのスカラベが代わりに置かれる」という風習からも、非常に奇妙なことであることがわかっています。

ツタンカーメンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ツタンカーメンの墓だけ荒らされなかった理由」

奥:ラムセス6世の墓陵 手前:ツタンカーメンの墓陵

ツタンカーメンの墓陵はファラオの中でも、ほとんど墓荒らしの被害を受けませんでした。これは奇跡とも言える多くの条件が重なったからなのです。

ツタンカーメンが死亡し、王家の谷にファラオとして埋葬されました。埋葬された後すぐに、墓荒らしが盗掘にきます。しかしその時は持ち運びのしやすい宝石が主に狙われました。

当時の王家の谷には墓守と呼ばれる墓陵を守る番人がいました。墓守はツタンカーメンの墓陵に侵入された形跡を発見すると、ツタンカーメンの墓を厳重に封鎖し、警備体制をより強化するようになりました。

そして100年ほど経った頃、ツタンカーメンの王墓の近くにラムセス6世の墓が建造されます。この時に砂や瓦礫がツタンカーメンの墓に降り積もりました。さらに建造に携わる人々や神官の家がその土地に建てられました。

まさか誰も建物の下にファラオの墓があるなんて思いもしません。その結果ツタンカーメンの墓は3000年近く、盗掘の被害を受けずにすんだのです。

都市伝説・武勇伝2「ツタンカーメンは暴力によって亡くなった?」

ツタンカーメンの死因を研究

ツタンカーメンの死因は骨折の傷による敗血症とマラリア感染症であることは前述しました。しかし調べれば調べるほど面白い仮説が出ています。

  • 他殺説

ツタンカーメンはファラオとしては若く決定権に乏しかったため、側近たちの影響が非常に大きかったとされています。ツタンカーメンの側近としてホルエムヘブやアイの名が挙げられますが、他殺説はこの2人が王位を狙ってツタンカーメンを暗殺したとする説です。

  • 貧血による死亡説

近年の研究によって出てきた説になります。ツタンカーメンのミイラを入念に調べた結果、足の骨折部から鎌状赤血球貧血症の痕跡が見つかったと発表されたのです。この貧血は直接的に死亡の原因とはなりませんが、体内の酸素運搬機能の低下により微笑血管の閉塞から脳梗塞などの病気を引き起こしやすくなるとされています。

  • 歩行障害説

ツタンカーメンは生まれつき足が悪く、足の指の一部が腐っていたり、内反足があったりと、杖がないと生活できませんでした。そんな歩行障害をもつツタンカーメンは、他の人々よりも転倒しやすい状況にあったと考えられています。ツタンカーメンが骨折した原因に落馬したという説が有力視されているものの、実はこの歩行障害により転倒したためではないかとの声も挙がっているのです。

都市伝説・武勇伝3「ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?」

ツタンカーメン王墓発掘の出資者:ジョージ・ハーバート(カーナヴォン伯爵)

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは、ツタンカーメンの墓陵発掘に携わった人たちが次々と亡くなった出来事のことを指しています。この出来事により亡くなった人物は22人ともされ、世界中の人々を震撼させました。

しかしこれは新聞社によるデマでした。実際に亡くなったのは9人で、しかも死因が判明しているものがほとんどです。なんといっても、ツタンカーメンの墓を発見した立役者であるハワード・カーターが天寿を全うしています。当時の人々のうわさ好きがうかがえますね。

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?出来事や真実、犠牲者を紹介

ツタンカーメンの簡単年表

紀元前1342年 – 0歳
ツタンカーメン誕生

アメンホテプ4世と若い方の貴婦人の息子として生まれました。血統を大切にする古代エジプトでは、王の息子として幼いころから英才教育を受けました。

紀元前1333年 – 9歳
王位継承

アメンホテプ4世死去により王位を継承し、第18王朝の11代目ファラオとして即位しました。9歳という若さでの即位であったため、側近たちの影響力が非常に強かったとされています。

紀元前1333年~紀元前1324年 – 9~19歳
アメン神への信仰復活、テーベへ首都を戻す

アメンホテプ4世が行った宗教改革を翻し、アメン神の信仰復活、首都をアマルナからテーベへ首都を遷都するなど、元あった姿へと戻していきました。ツタンカーメンは王名表にも名前の記載がなく、具体的にいつ施策を行ったのか、はっきりとした記録は残っていません。

紀元前1324年 – 19歳
ツタンカーメン死去

骨折による傷から敗血症にかかり、それに拍車をかけるようにマラリア感染症にて19歳という若さで死去しました。死去後はミイラとして大量の副葬品や黄金たちとともに王家の谷に埋葬されました。


ツタンカーメンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ツタンカーメン 少年王の謎

ツタンカーメンの生まれや親子関係、即位の背景、死亡理由など、ツタンカーメンに関する全てが網羅されている一冊です。

2010年に行われたDNA鑑定の結果から大胆な説を提唱しており、非常に興味深い内容となっています。

図説 ツタンカーメン王

ツタンカーメンの王墓に焦点を絞り、カラー写真や図説が豊富に使われています。古代エジプトファンなら誰しもが満足のいく一冊となっています。

終盤にはツタンカーメン王墓の発掘者であるハワード・カーターのエピソードも載っており、発掘に関わる苦労話まで詳しく知ることができます。

 ツタンカーメンの謎

ツタンカーメンの人生について振り返るだけでなく、ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)などにも触れています。

また第18王朝の背景から複合的な考察がされているので、ツタンカーメンだけでなく、古代エジプトのロマンや謎に深く迫ることができるでしょう。

まとめ

ツタンカーメンについて解説しました。いかがでしたでしょうか。

ツタンカーメンは古代エジプトにおいて最も有名なファラオです。しかし彼を有名にしたのは彼の功績が評価されたわけではなく、盗掘されていない王墓の主だったからという、何とも物悲しいものです。

この記事を読んで、ツタンカーメンの功績やその生涯について興味を持っていただけますと幸いです。長い記事となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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