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幣原喜重郎の生涯・年表まとめ【内閣時代の政策や評価、日本国憲法の話まで】

幣原喜重郎は戦前から戦後にかけて活躍した外交官、政治家です。1920年代にかけて国際協調を柱としたワシントン体制が整えられます。喜重郎は幣原外交と呼ばれる、中国に対し平和的な協調外交を推し進めました。

戦後は総理大臣に任命され、喜重郎はGHQと共に秘密警察の廃止や婦人解放等の民主化を推し進めます。更には日本国憲法の草案にも大きな影響を与えたのです。

幣原喜重郎

幣原外交はアメリカやイギリスだけでなく中国とも信頼関係を構築し、束の間の平和な時代を作り上げました。喜重郎が後に総理大臣となったのは国際的な信頼が大きかったからです。戦後の日本の指針を示す上で、非常に意味のあった人物と言えるでしょう。

しかし日本人が中国人から襲撃を受ける中、喜重郎は一貫して平和路線を貫いた為、国内のみならず世界各国から批判を受けました。話し合いや信頼だけでは解決出来ない場面が歴史の中には存在しており、外交の難しさを考えさせてくれる人物でもあるのです。

今回は日本史だけでなく世界史も詳しく学んだ筆者が、幣原喜重郎の生涯を当時の世界情勢も交えて紹介します。

目次

幣原喜重郎とはどんな人物か

名前幣原喜重郎
誕生日1872年9月13日
没日1951年3月10日
生地大阪府茨田郡門真一番下村
(現大阪府門真市)
没地東京都
配偶者幣原雅子
(岩崎弥太郎の四女)
埋葬場所豊島区駒入の染井霊園

幣原喜重郎の生涯をダイジェスト

幣原喜重郎

喜重郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 1872年、大阪府門真一番村で誕生。
  • 外務省に入り、各地へ赴任。ワシントン会議の全権委員に就任。
  • 1924年、外務大臣となり幣原外交を展開。
  • 1930年、ロンドン海軍軍縮会議の軍縮に同意。
  • 満州事変の勃発により表舞台から退く。
  • 終戦に伴い、内閣総理大臣に就任。
  • 1947年に衆議院副議長に就任。
  • 1951年現職中に心筋梗塞で死去 享年78歳。

幣原喜重郎の家族構成や子孫

喜重郎の義理の父となった岩崎弥太郎

喜重郎は四人兄弟の次男として誕生。兄の坦は台湾帝国大学の創設に尽力した他、戦後に枢密院顧問官となりました。妹の操は助産婦であり、夫と共に幣原医院を開院します。末妹の節は大阪初の女医になりました。

喜重郎は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の四女の雅子と結婚しました。三人の男子に恵まれるものの、三男の平三は夭折。長男の道太郎は獨協大教授となり、次男の重雄は三菱製紙に勤務していました。

現在子孫が何をしているのかは不明ですが、道太郎の息子、隆太郎氏がTVで喜重郎について語った事がありました。更に隆太郎氏には2人の息子がいる事は判明しており、血筋は現在にも続いているのです。

幣原喜重郎の性格は?英語通だった?

1931年のタイムズ

喜重郎は信念を曲げない人で世論や諸外国が幣原外交を批判しても、方針を変える事はありませんでした。憲兵が幣原邸を訪ねて来た時は、懇々と説得して納得させる等、冷静さと度胸も持ち合わせていたのです。

外交官時代の喜重郎は部下に対して優しく接し、外交官に必要なノウハウを分かりやすく、時にユーモラスに伝えています。そして人の悪口を決して言わない優しい人格でした。

また喜重郎は外務省随一の英語通。ロンドン勤務時代はタイムズを日本語に訳し、更に英語に翻訳し直す事を日課にしています。戦後に昭和天皇は人間宣言を行いますが、喜重郎は英文で原案を作成しました。

また外国人記者から「貴方の名前は”しではら”か”ひではら”か?」と英語で問われた時は、「私はヒー(he)デハラ、妻はシー(she)デハラです」と答えます。ユーモアも踏まえるほど堪能だったんですね。

幣原喜重郎の内閣メンバーや政治内容は?

ワシントン海軍軍縮会議の様子

幣原内閣は1945年10月9日から1946年5月22日まで続きました。発足翌日にはマッカーサーと面会し、五大改革の推進や新たな憲法作成等を命じられます。当時の日本はGHQの強い監視下にありました。

その後も財閥の解体や戦犯の逮捕、公職追放等の政策を断行しました。幣原内閣により戦後統治の流れが形作られていったのです。

メンバーは、後に総理大臣となる吉田茂や芦田均、軍大臣の米内光政や陸軍大臣の下村定が在籍しています。軍の解体や公職追放等により、入れ替わりが激しい内閣でした。

幣原が中国と行っていた外交とは?

1922年2月4日調印された「山東懸案解決条約」

幣原外交とは列強との協調を図り、中国への不干渉主義を軸とした外交の事です。諸国と協調する事で、自分達が手にした満洲の特殊権益を維持しようとしました。

喜重郎は幣原外交を厳守し、中国に穏便な対応をとりました。36回も交渉を重ねたそうです。その結果国外から軟弱外交と批判を浴びる事となり、満州事変の遠因となったのです。

幣原喜重郎の功績

功績1「幣原外交により世界平和に尽力した」

1930年代の幣原喜重郎

1920年代は幣原外交が展開された時期であり、短いながらも平和な時代が訪れていました。勿論中国国内では様々な暴動は起きていましたし、現状を打破しようと陸軍が暗躍した時代でもありました。

とはいえこの時期に日本が目立った対外戦争はしていません。軍艦の個数に制限が設けられた事で軍事費用も抑える事が出来ています。これらの功績が戦後の混乱期に総理大臣に任命された理由でしょう。

功績2「総理大臣に就任し、戦後の難局に対応した」

戦後の幣原喜重郎

喜重郎が総理大臣に任命されたのは1945年。政界を退いてから14年が経過しています。幣原外交の実績、そして天皇主義者という思想もあり、国内外でも就任に反対する人は殆どいませんでした。

当時の日本はGHQの支配下に置かれ、戦犯指名者が逮捕されていました。満州事変以降に政治に携わっていなかったからこそ、逮捕の追及等に関わる事なく、公職追放の手を逃れて総理大臣の仕事を全う出来たのです。

功績3「日本国憲法の草案に関わった」

日本国憲法

日本国憲法には「戦争放棄」の条項が盛り込まれています。これは喜重郎が戦争放棄と平和憲法の是非を訴えた事が関係しているとされます。

諸外国は天皇制が存続する事で、天皇の為に死んでいく皇軍が再び誕生すると考えました。天皇制廃止を考える国も多かったのです。喜重郎は平和主義を掲げて武力を放棄する事で、天皇制を保持できると考えました。

この考えが憲法9条の「戦争放棄」に深く関わりました。憲法改正に向けた議論も行われていますが、進んで戦争をしたいと考える人はいないでしょう。喜重郎の思想は憲法を通じて国民に浸透したのでした。

幣原喜重郎の名言

文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう

憲法改正案に対する決意表明の言葉と言われています。喜重郎は、武力ではなく信頼で国同士が分かり合えるものだと確信していました。それは外交官として各国を回った経験によるものでしょう。

国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない。

松岡洋右が日ソ中立条約を調印した時に批判した言葉です。戦争は軍部の暴走だけでなく、マスコミが国民を煽った事も要因です。国民の喝采に媚びる外交は、いずれ国益を損ねる事になると喜重郎は主張していました。

中国という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰しても、ほかの心臓が動いていて鼓動が停止しない。(中略)だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段をとると、いつになったら目的を達するか予測しえない

中国は様々な民族や文化が混在する国であり、1つの地域を制圧しても、国自体を屈服させる事は出来ません。喜重郎は中国の強大さを良く知っており、武力による制圧に反対したのです。

幣原喜重郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実はクリスチャンだった?」

キリスト教クエーカー派のシンボル

喜重郎はキリスト教徒であり、クエーカー派に属していたとも言われます。クエーカー派の人々は一貫して平和主義を貫き、差別を否定します。幣原外交をみるとクエーカー派の思想に非常に近い事が分かるでしょう。

後の日本国憲法に喜重郎の思いが盛り込まれるの事になるのですが、マッカーサーもクエーカー派だったからスムーズに事が進んだという説もあります。憲法の着想はキリスト教の教えに基づいているかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「憲法9条はマッカーサーの押し付けだった?」

日本国憲法の原本

1946年1月24日喜重郎とマッカーサーは面会。喜重郎はこのように述べてマッカーサーを感動させたと言われます。

このたび、病気をして寝ているうちに色々と考えた。原子爆弾のようなものができた今日、日本は二度と再び戦争を起こさないよう、この憲法に戦争放棄の条項を入れたい、一切の戦力を放棄する旨の条項を入れたいと思うのです。

これが憲法9条のもとになったとされます。密談は双方の回顧録に残されており、喜重郎の案というのが定説です。しかしマッカーサーが日本に戦争放棄を押し付け、喜重郎の提案にしたという説も根強くあるのです。

喜重郎が戦争放棄の発言をした事は何の違和感もないとは思いますが、憲法に規定する事までを望んだのかは不明です。真相が分かる日が来ると良いですね。

都市伝説・武勇伝3「眠っていた戦争調査会資料」

戦争調査会資料

喜重郎は玉音放送を聞き電車に乗って帰路に着く際、乗客の1人が「なぜ戦争をしなければならなかったのか」と叫んだ事に心を打たれました。喜重郎は国民を戦争に引き込んだ国家の責任を感じたのです。

その経緯もあり、喜重郎は戦後に戦争調査会を発足します。何故戦争が起きたのか、何故敗れたのか等を明らかにする為でした。この調査会には100人以上が関わる壮大なものでした。

ところが東京裁判が始まった事、ソ連やイギリスからの批判もあり、調査会は廃止に追い込まれます。資料は何と2016年まで書庫に眠り続けていました。この資料をもとにした書籍もあるので、一読してはいかがでしょうか。

幣原喜重郎の簡単年表

1872年 - 0歳
幣原喜重郎誕生

幣原喜重郎は1872年に大阪府門真一番村にて誕生します。父親の新治郎は村の初代助役を務めています。幣原家は勉強熱心な家庭であり、喜重郎の兄弟は学長や医者として大成しています。

1896年 - 24歳
外交官となる

外交官となり1897年には韓国の仁川領事館に赴任します。日清戦争の歴史的勝利に沸き立つ国民と、三国干渉による外圧に伴い、外交官は難しい立場の中にありました。

1921年 - 49歳
ワシントン軍縮会議の全権大使となる

1919年に駐米大使となり、1921年に開催されたワシントン軍縮会議に参加します。9か国が参加し、軍艦の保有量が定められた他、中国の領土保全が取り決められました。喜重郎の外交姿勢はこの時の方針に基づいています。

1924年 - 52歳
加藤高明内閣の外務大臣となる

加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣の外務大臣を務め、幣原外交を展開させます。後に若槻礼次郎内閣が退陣すると、幣原外交に批判的だった田中義一内閣が発足し、積極外交を展開させます。

1929年 - 57歳
ロンドン海軍軍縮会議の全権大使となる

濱口雄幸内閣で外務大臣に返り咲きます。再度幣原外交を推し進めた他、ロンドン海軍軍縮条約を締結しています。後に満州事変が起こり、第二次若槻内閣は退陣。軍部独断の時代が続き、喜重郎は表舞台から退きます。

1945年 - 73歳
内閣総理大臣に就任

終戦に伴い吉田茂の推薦で総理大臣に就任。GHQの指示により五大改革の推進や、新たな憲法の着想に取り組みました。戦後初の総選挙後に内閣は総辞職しています

1947年 - 75歳
衆議院議員に初当選

1947年に行われた総選挙で喜重郎は初当選し、日本進歩党の総裁となります。後に片山内閣を批判し、民主自由党に参加しました。

1951年 - 78歳
議員在職中に死去

1951年3月10日、議員として政務に励む中、心筋梗塞で死去しました。

幣原喜重郎の年表

1872年 – 0歳「幣原喜重郎誕生」

喜重郎の兄である幣原垣

幣原喜重郎誕生

喜重郎は大阪府門真一番村にて豪農であった幣原新治郎と静ヅの次男として誕生します。祖父母と船に乗っていた時に、いつの間にか屋根の上で景色を眺めていて周りを心配させる等、腕白な少年として育ちます。

父新治郎の教え

新治郎は「子ども達には立派な教育を受けさせる為には、財産を売り払ってでも学費に当てなくてはいけない」と考えていました。親戚は大反対しましたが、新治郎は断固としていう事を聞かなかったそうです。

両親は勉強好きで、兄の垣は4〜5歳の頃から論語の手解きを受けていました。2人が小学校に上がる頃には書斎を勉強部屋として提供しています。そんな父の教えを受けて喜重郎も勉強に励みました。

1883年 – 11歳「大阪中学校に進学」

第三高等学校

初めて英語に触れる

喜重郎兄弟は大阪中学校に進学します。大阪中学校は英語教育に力を入れた名門校であり、英語の将来性を確信した父の思いによるものでした。喜重郎は外国人教師から直接英語の指導を受けています。

第三高等学校に進学

後に喜重郎は京都にある第三高等中学校に進学します。同級生に後の同志とも言える濱口雄幸がいました。全国の秀才が集う名門校において、2人は常に1番2番を競い合っています。

1895年 – 23歳「外交官を志す」

東京帝国大学

東京帝国大学の法律科に進学

第三高等学校を卒業後、喜重郎は東京帝国大学の法律科に進学し英法を学びました。大学進学中に日清戦争が勃発します。日本は勝利するものの、三国干渉を受けて遼東半島を清国に返還。国民はロシアに反発してます。

喜重郎が外交官を志したのは、こうした国内外の不安によるものでした。しかし大学4年の頃に重度の脚気にかかり、外交官試験を断念。1895年に本意ではない農商務省鉱山局に勤務します。

農商務省鉱山局時代の喜重郎

農商務省鉱山局では行政訴訟を受け持ち、優秀と評判でした。しかし外交官試験が行われる事を知ると僅か3ヶ月で辞表を提出。1996年に喜重郎は僅か4名という狭き門を突破するのです。

1896年 – 24歳「外交官となる」

現在のロンドン総領事館

韓国の仁川領事館に勤務

外務省入省後、1897年1月に韓国の仁川領事館の領事館補に在勤。2年後にはロンドン総領事館に勤務となり、加藤高明の下で働きます。今まで習ってきた英語が通じず、毎晩勉強をしています。

1900年に加藤高明が第4次伊藤内閣の外務大臣に就任すると、喜重郎は領事に昇格。以降もベルギーや日本、釜山と各地を回ります。

雅子と結婚

1903年に岩崎弥太郎の四女雅子と結婚。喜重郎32歳、雅子23歳の時でした。加藤高明は岩崎弥太郎の長女と結婚した為、2人は義兄弟となったのです。2人は釜山で生活するものの、間も無く喜重郎は難局に挑む事になります。

1904年 – 32歳「日露戦争勃発」

日露戦争

電信課長代理に就任

1904年2月に日露戦争が勃発すると喜重郎は帰国。電信課長として戦時外交勤務の処理に従事しました。海外へ発信する電報の業務を受け持ち、重要な会議にも参加しています。

ポーツマス条約における国内外の仲介人

日露戦争で日本は勝利し、ポーツマスで講和が開かれます。喜重郎は談判に臨む小村寿太郎と、国内にいる重鎮達の間で電報を発信する役目を担います。重鎮は伊藤博文ら元老、陸海軍大臣と錚々たるメンバーでした。

小村寿太郎は賠償金も領地割譲を撤回する旨を国内に伝えており、喜重郎は憤慨しています。領土の割譲は達成しますが、当時の喜重郎は幣原外交と異なる姿勢を見せています。

ちなみに喜重郎は日露戦争の功績を経て勲四等旭日小綬章を拝受しました。

1912年 – 40歳「ワシントンに単身着任」

土地所有禁止法を定めたカリフォルニア州知事のハイラム

ワシントンへ渡米

アメリカと日本は日露戦争を機会に関係性が悪化。アメリカでは反日感情が湧き上がり、日本人への迫害や移民敗訴の動きが活発化します。喜重郎はワシントンに渡米し、日米間の外交問題に関与します。

カリフォルニア州土地所有禁止法

しかし1913年にはカリフォルニア州土地所有禁止法が施行され、日系人は土地所有が出来なくなります。国内ではアメリカと戦争も辞さないという意見も上がりますが、喜重郎はこのように述べています。

「米国の歴史を見ると、外国に対し不正と思われる行為を冒した例が相当あります。しかしその不正は米国人自身の発意でそれを矯正しています。我々は黙ってその時機の来るのを待っているのが最も賢明な策です。」

アメリカと戦争をする国力を日本は持ち合わせておらず、喜重郎は抗議をするに留めました。この姿勢は後の幣原外交にも通ずるものがありますね。

1914年 – 42歳「第一次世界大戦勃発」

オランダ常駐の特命全権大使に任命される

喜重郎がオランダに赴任した頃、第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟に伴いドイツに宣戦布告。1915年1月には中国に対して、ドイツが所有していた山東省の利権を要求したのです(対華21カ条要求)。

要求したのは第2次大隈重信内閣の外務大臣となっていた加藤高明でした。喜重郎も最初は「当然」と考えていましたが、何日も黙考した上で加藤に反対の意を述べます。この要求は後の遺恨になると確信したからです。

外務次官に就任

喜重郎は1915年7月に内閣改造を行った大隈重信の外務次官に任命されました。対華21カ条要求は元老の批判も多く、加藤への批判も紛糾しました。喜重郎は寺内正毅内閣、原敬内閣においても外務次官を務めます。

1921年 – 49歳「ワシントン体制の確立」

加藤友三郎

ワシントン会議の全権委員となる

1921年には国際秩序の見直しを目的としたワシントン会議が開催。喜重郎は腎臓結石の激痛を耐えながら加藤友三郎首席全権を補佐しています。この会議は日本を脅威に感じたアメリカの牽制の意味もありました。

日本は満州の利益が認められたものの、中国の門戸開放・機会均等・主権尊重に伴い山東省を返却。更に軍艦保有数もアメリカイギリスに比べて6割に抑えられ、日英同盟が廃止される等、日本には不利なものでした。

幣原外交の展開

対華21カ条要求は中国からの反発を招いただけでなく、アメリカから野心を疑われる事となり、良い結果を生みませんでした。喜重郎は、国際協調と中国への内政不干渉を厳守した幣原外交を今後展開していきます。

1924年 – 52歳「加藤高明内閣の外務大臣に就任」

加藤高明

加藤高明内閣の外務大臣に就任

1924年6月に加藤高明内閣が発足。加藤は護憲三派運動を通じ、対華21カ条要求等の強硬路線から協調路線に転換しており、外務大臣に喜重郎を起用します。喜重郎は就任演説でワシントン体制の厳守を宣言しました。

奉直事件の勃発

当時の中国は辛亥革命により混乱状態にありました。9月には直隷派の呉佩孚、奉天派の張作霖には奉直戦争が勃発。閣内では張作霖支持が大半を占める中、喜重郎は不干渉を貫き、辞表すら用意する程の覚悟でした。

この戦争は直隷派の将軍馮玉祥がクーデターを起こす事で終結し、満州権益は保持されます。背後には関東軍が馮玉祥に資金を渡した事が関係しています。幣原外交は開始当初から軍部は強い不信感を抱いていたのです。

1926年 – 54歳「南京事件勃発」

逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵

南京事件の勃発

1926年に蒋介石が北伐を開始すると、江右軍が領事館や居住地を襲撃。日本人だけでなく各国の住人が殺害や陵辱されています。アメリカやイギリス軍は艦砲射撃を開始し、江右軍の討伐と自国民の保護に動きました。

イギリスとの関係悪化

アメリカイギリスが中国に対して最後通告を突きつける中、日本もそれを打診されます。喜重郎はそれを止めるよう説得し、断念させました。この態度はイギリスから「日本は中国と繋がっているのでは」と懸念を抱かせます。

中国への内政不干渉を取り決めたのは元々はアメリカとイギリスです。外交路線の厳守を貫いたばかりに今度はイギリスに疑われるという、日本にとっては辛い状況となりました。外交の難しさが良く分かります。

1927年 – 55歳「田中外交を批判する」

山東出兵の様子

国内で批判が高まる

南京事件で喜重郎が穏便な態度に出た事は、国内からも批判を受ける事になります。国内では第一次若槻内閣が昭和金融恐慌の処理に失敗し総辞職。背景には幣原外交への不満もあったとされます。

田中義一内閣発足

1927年4月に田中義一内閣が発足し、外務大臣を田中義一と森恪が担当します。幣原外交を破棄し、山東出兵等の軍事行動を起こす事で中国関係は悪化。喜重郎は野党側として田中外交を批判しました。

1929年 – 57歳「再度の外務大臣就任」

浜口雄幸

浜口雄幸内閣発足

田中義一内閣が退陣し、立憲民政党の浜口雄幸内閣が発足。喜重郎と浜口は学生時代の盟友でもありました。喜重郎は再度外務大臣に就任し、悪化していた中国との関係修復に務めます。

利権回収運動

1928年に中国国民党政府が中国を統一し、諸外国に関税自主権や領事裁判権の承認を主張していました。アメリカやイギリスは1928〜29年に渡り、これらを承認しています。

喜重郎は1930年5月に関税自主権を承認しました。中国はその後も利権回収運動を続け、その中には旅順・大連の租借権等の日本の権益も含まれていました。日本では武力に訴えてでも利益を守るべきと声が上がります。

1930年 – 58歳「ロンドン海軍軍縮会議」

ロンドン海軍軍縮会議の様子

ロンドン海軍軍縮条約の締結

1930年に補助艦保有量の制限を取り決める為のロンドン海軍軍縮会議が開催されます。浜口は放漫財政の整理、喜重郎は協調路線の観点から軍縮に積極的でした。

希望の軍艦保有数を満たさなかったものの、雄幸は条約に同意します。野党がこれに反発し統帥権干犯問題を引き起こした事で、雄幸は襲撃されました。喜重郎は臨時で内閣総理大臣代理を116日もの間勤めています。

浜口雄幸内閣の退陣

政友会は軍縮条約を批准した事を執拗に追及。野党は答弁の中で喜重郎が責任を天皇に転化したと批判しました。浜口は無理に国会に復帰させられた事が原因で病状が悪化し、内閣は総辞職しています。

1931年 – 59歳「幣原外交の終焉」

柳条湖事件を伝える新聞

第二次若槻内閣発足

第二次若槻内閣でも喜重郎は留任し、幣原外交を厳守します。6月には中村震太郎陸軍参謀が銃殺される事件が起こり、喜重郎は謝罪や責任者の処罰、賠償を中国に伝えます。この頃は幣原外交は行き詰まりを見せていました。

満州事変と幣原外交の終焉

9月には柳条溝事件が勃発。喜重郎は不拡大方針を国連で約束しますが、関東軍は満洲を占領します。世論も軍事行動を支持し、若槻内閣は総辞職。喜重郎は外務省を辞任し、幣原外交は終わりを告げたのです。

その後の喜重郎は表舞台から遠ざかるものの、血盟団事件や2.26事件で暗殺対象となっています。1945年には空襲で自邸が焼失。喜重郎は戦時中の状況を度々批判しますが、その声は届く事はありませんでした。

1945年 – 73歳「内閣総理大臣に就任」

ダグラス・マッカーサー

表舞台への復帰

表舞台から遠ざかっていた喜重郎は突如、総理大臣として政界に担ぎ出されます。推薦したのは吉田茂ですが、最終的に判断したのは昭和天皇でした。戦後の喜重郎は痩せて活気がなく、老齢そのものだったそうです。

喜重郎は既に忘れられた存在であり、政治記者からは「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚かれました。推薦されたマッカーサーは「英語は話せるのか?」と苦笑いしています。

内閣総理大臣に就任

10月9日に喜重郎はマッカーサーと面会。マッカーサーは口頭で5大改革指令として

  • 秘密警察の廃止
  • 労働組合の結成奨励
  • 婦人解放
  • 学校教育の自由化
  • 経済の民主化

これらを命じています。

1946年 – 73歳「憲法の改正」

幣原内閣

更なるGHQからの指示

喜重郎内閣は改革を進めるものの、財閥解体や戦犯の逮捕等、マッカーサーから次々と指示を受けています。12月には喜重郎は風邪で倒れ、病床で「とある決意」をマッカーサーに伝える事を決めました。

年末には復帰し、人間宣言を英文で作成。1月1日に発布しました。4日にはGHQから公職追放が指示され内閣は存続危機を迎えますが、閣僚を入れ替える事で存続します。喜重郎は激高し内閣総辞職も考えていました。

マッカーサーと面会

1月24日に喜重郎はマッカーサーと面会し、憲法に平和主義を提案したとされています。近年では憲法9条には喜重郎の意思が反映たという説が有力です。様々な過程を経て3月6日に憲法改正草綱が採択されました。

1946年 – 73歳「内閣総辞職」

第22回衆議院議員総選挙の様子

第22回衆議院議員総選挙

4月10日に戦後初の総選挙が行われます。本来は過半数を取った政党が政権を担いますが、この選挙では泡沫政党も含めると258もあった為、過半数を取った政党はありませんでした。

喜重郎が第2党(94議席)である進歩党に入り内閣を延命する案もありましたが、猛反発を受けて幣原内閣は5月22日に総辞職します。戦後の混乱期に様々な改革を進めた喜重郎の功績は大きいでしょう。

第一次吉田内閣に入閣

結果的に第1党の日本自由党の吉田茂が内閣を発足し、喜重郎も国務大臣として入党します。1947年に日本国憲法が発布された事で総選挙が行われ、喜重郎は初めて衆議院として初当選しています。

1952年 – 78歳「心筋梗塞で死去」

幣原喜重郎のお墓

晩年の喜重郎

1949年には衆議院議長に就任し、戦前から活躍する政治家としての地位を確立します。戦後間もない時の衰えた喜重郎の姿はなく、心身共に健康を取り戻していたようです。

1951年3月10日に心筋梗塞にて現職中に死去。最後まで登院しており、国の為に尽くした生涯でした。

マッカーサーの言葉

この頃、アメリカとソ連は冷戦を展開。日本はその地勢的な立場から重要な拠点にあった為、日米の関係はより強固になっていました。マッカーサーはその死に対してこう述べています。

「現下の緊迫した世界情勢に際し、幣原氏の死去は必ずや大きな損失となろう」

共に憲法を話し合った2人の間には、特別なものがあったのかもしれません。

幣原喜重郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

戦争調査会 幻の政府文書を読み解く

戦争調査会の資料をもとに、筆者が見解を述べた書籍です。戦争に至る経緯やプロセスを当時の視点から考察しており、非常に興味深い内容です。

同じ過ちを繰り返さない為にも、失敗に対しての原因や過程の追及は不可欠である事を教えてくれます。

外交五十年

喜重郎による回顧録であり、1920年代から戦後に至る激動の時代を知る事が出来ます。憲法9条の経緯についても触れられており、憲法改正が騒がれる今だからこそ読んでほしい1冊です。

幣原喜重郎とその時代

日本の外交の歴史を考察したシリーズで、日清戦争時の陸奥宗光、日露戦争時の小村寿太郎に続く3冊目となります。信頼性のおける情報を丁寧にまとめており、幣原外交について詳しく知りたい方におススメです。

おすすめの動画

【日本史】 現代2 昭和戦後2 占領下の日本2 (17分)

こちら高校入試用の動画ですが、幣原内閣の政策や当時の背景を非常に分かりやすくまとめてあります。高校生だけでなく、喜重郎について知りたい人にもおススメです。

68回 幣原外交の悪夢に学ぶお花畑平和主義の弊害

幣原外交の問題点について説明しています。偏った意見ではあるものの、幣原外交が諸外国から批判を浴びた事は事実です。幣原外交の良し悪しを判断するのでなく、1つの意見として視聴してはいかがでしょうか。

おすすめの映画

小説吉田学校

戦後の日本の独立と政治闘争を描いた作品であり、小説を映画化した作品です。主人公は吉田茂ですが、喜重郎は先輩という立場で物語上で重要な役目を果たしています。現代史を詳しく知りたい方にオススメです。

関連外部リンク

幣原喜重郎 Wikipedia
【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<40>
幣原喜重郎 ~その人と外交~
幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について

幣原喜重郎についてのまとめ

今回は幣原喜重郎の生涯を、当時の世界情勢と合わせて紹介しました。喜重郎は平和を望んでいた事は間違いありませんが、複雑な世界情勢の中で、その声はいつしかかき消されてしまいました。

外交の難しさや平和とは何かを考える人物として、喜重郎は重要な存在です。今回の記事を通じて喜重郎に興味を持っていただけたら幸いです。

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