幣原喜重郎は戦前から戦後にかけて活躍した外交官、政治家です。1920年代にかけて国際協調を柱としたワシントン体制が整えられます。喜重郎は幣原外交と呼ばれる、中国に対し平和的な協調外交を推し進めました。
戦後は総理大臣に任命され、喜重郎はGHQと共に秘密警察の廃止や婦人解放等の民主化を推し進めます。更には日本国憲法の草案にも大きな影響を与えたのです。
幣原外交はアメリカやイギリスだけでなく中国とも信頼関係を構築し、束の間の平和な時代を作り上げました。喜重郎が後に総理大臣となったのは国際的な信頼が大きかったからです。戦後の日本の指針を示す上で、非常に意味のあった人物と言えるでしょう。
しかし日本人が中国人から襲撃を受ける中、喜重郎は一貫して平和路線を貫いた為、国内のみならず世界各国から批判を受けました。話し合いや信頼だけでは解決出来ない場面が歴史の中には存在しており、外交の難しさを考えさせてくれる人物でもあるのです。
今回は日本史だけでなく世界史も詳しく学んだ筆者が、幣原喜重郎の生涯を当時の世界情勢も交えて紹介します。
この記事を書いた人
幣原喜重郎とはどんな人物か
名前 | 幣原喜重郎 |
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誕生日 | 1872年9月13日 |
没日 | 1951年3月10日 |
生地 | 大阪府茨田郡門真一番下村 (現大阪府門真市) |
没地 | 東京都 |
配偶者 | 幣原雅子 (岩崎弥太郎の四女) |
埋葬場所 | 豊島区駒入の染井霊園 |
幣原喜重郎の生涯をダイジェスト
喜重郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。
- 1872年、大阪府門真一番村で誕生。
- 外務省に入り、各地へ赴任。ワシントン会議の全権委員に就任。
- 1924年、外務大臣となり幣原外交を展開。
- 1930年、ロンドン海軍軍縮会議の軍縮に同意。
- 満州事変の勃発により表舞台から退く。
- 終戦に伴い、内閣総理大臣に就任。
- 1947年に衆議院副議長に就任。
- 1951年現職中に心筋梗塞で死去 享年78歳。
幣原喜重郎の家族構成や子孫
喜重郎は四人兄弟の次男として誕生。兄の坦は台湾帝国大学の創設に尽力した他、戦後に枢密院顧問官となりました。妹の操は助産婦であり、夫と共に幣原医院を開院します。末妹の節は大阪初の女医になりました。
喜重郎は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の四女の雅子と結婚しました。三人の男子に恵まれるものの、三男の平三は夭折。長男の道太郎は獨協大教授となり、次男の重雄は三菱製紙に勤務していました。
現在子孫が何をしているのかは不明ですが、道太郎の息子、隆太郎氏がTVで喜重郎について語った事がありました。更に隆太郎氏には2人の息子がいる事は判明しており、血筋は現在にも続いているのです。
幣原喜重郎の性格は?英語通だった?
喜重郎は信念を曲げない人で世論や諸外国が幣原外交を批判しても、方針を変える事はありませんでした。憲兵が幣原邸を訪ねて来た時は、懇々と説得して納得させる等、冷静さと度胸も持ち合わせていたのです。
外交官時代の喜重郎は部下に対して優しく接し、外交官に必要なノウハウを分かりやすく、時にユーモラスに伝えています。そして人の悪口を決して言わない優しい人格でした。
また喜重郎は外務省随一の英語通。ロンドン勤務時代はタイムズを日本語に訳し、更に英語に翻訳し直す事を日課にしています。戦後に昭和天皇は人間宣言を行いますが、喜重郎は英文で原案を作成しました。
また外国人記者から「貴方の名前は”しではら”か”ひではら”か?」と英語で問われた時は、「私はヒー(he)デハラ、妻はシー(she)デハラです」と答えます。ユーモアも踏まえるほど堪能だったんですね。
幣原喜重郎の内閣メンバーや政治内容は?
幣原内閣は1945年10月9日から1946年5月22日まで続きました。発足翌日にはマッカーサーと面会し、五大改革の推進や新たな憲法作成等を命じられます。当時の日本はGHQの強い監視下にありました。
その後も財閥の解体や戦犯の逮捕、公職追放等の政策を断行しました。幣原内閣により戦後統治の流れが形作られていったのです。
メンバーは、後に総理大臣となる吉田茂や芦田均、軍大臣の米内光政や陸軍大臣の下村定が在籍しています。軍の解体や公職追放等により、入れ替わりが激しい内閣でした。
幣原が中国と行っていた外交とは?
幣原外交とは列強との協調を図り、中国への不干渉主義を軸とした外交の事です。諸国と協調する事で、自分達が手にした満洲の特殊権益を維持しようとしました。
喜重郎は幣原外交を厳守し、中国に穏便な対応をとりました。36回も交渉を重ねたそうです。その結果国外から軟弱外交と批判を浴びる事となり、満州事変の遠因となったのです。
幣原喜重郎の功績
功績1「幣原外交により世界平和に尽力した」
1920年代は幣原外交が展開された時期であり、短いながらも平和な時代が訪れていました。勿論中国国内では様々な暴動は起きていましたし、現状を打破しようと陸軍が暗躍した時代でもありました。
とはいえこの時期に日本が目立った対外戦争はしていません。軍艦の個数に制限が設けられた事で軍事費用も抑える事が出来ています。これらの功績が戦後の混乱期に総理大臣に任命された理由でしょう。
功績2「総理大臣に就任し、戦後の難局に対応した」
喜重郎が総理大臣に任命されたのは1945年。政界を退いてから14年が経過しています。幣原外交の実績、そして天皇主義者という思想もあり、国内外でも就任に反対する人は殆どいませんでした。
当時の日本はGHQの支配下に置かれ、戦犯指名者が逮捕されていました。満州事変以降に政治に携わっていなかったからこそ、逮捕の追及等に関わる事なく、公職追放の手を逃れて総理大臣の仕事を全う出来たのです。
功績3「日本国憲法の草案に関わった」
日本国憲法には「戦争放棄」の条項が盛り込まれています。これは喜重郎が戦争放棄と平和憲法の是非を訴えた事が関係しているとされます。
諸外国は天皇制が存続する事で、天皇の為に死んでいく皇軍が再び誕生すると考えました。天皇制廃止を考える国も多かったのです。喜重郎は平和主義を掲げて武力を放棄する事で、天皇制を保持できると考えました。
この考えが憲法9条の「戦争放棄」に深く関わりました。憲法改正に向けた議論も行われていますが、進んで戦争をしたいと考える人はいないでしょう。喜重郎の思想は憲法を通じて国民に浸透したのでした。
幣原喜重郎の名言
文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう
憲法改正案に対する決意表明の言葉と言われています。喜重郎は、武力ではなく信頼で国同士が分かり合えるものだと確信していました。それは外交官として各国を回った経験によるものでしょう。
国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない。
松岡洋右が日ソ中立条約を調印した時に批判した言葉です。戦争は軍部の暴走だけでなく、マスコミが国民を煽った事も要因です。国民の喝采に媚びる外交は、いずれ国益を損ねる事になると喜重郎は主張していました。
中国という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰しても、ほかの心臓が動いていて鼓動が停止しない。(中略)だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段をとると、いつになったら目的を達するか予測しえない
中国は様々な民族や文化が混在する国であり、1つの地域を制圧しても、国自体を屈服させる事は出来ません。喜重郎は中国の強大さを良く知っており、武力による制圧に反対したのです。
幣原喜重郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実はクリスチャンだった?」
喜重郎はキリスト教徒であり、クエーカー派に属していたとも言われます。クエーカー派の人々は一貫して平和主義を貫き、差別を否定します。幣原外交をみるとクエーカー派の思想に非常に近い事が分かるでしょう。
後の日本国憲法に喜重郎の思いが盛り込まれるの事になるのですが、マッカーサーもクエーカー派だったからスムーズに事が進んだという説もあります。憲法の着想はキリスト教の教えに基づいているかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「憲法9条はマッカーサーの押し付けだった?」
1946年1月24日喜重郎とマッカーサーは面会。喜重郎はこのように述べてマッカーサーを感動させたと言われます。
このたび、病気をして寝ているうちに色々と考えた。原子爆弾のようなものができた今日、日本は二度と再び戦争を起こさないよう、この憲法に戦争放棄の条項を入れたい、一切の戦力を放棄する旨の条項を入れたいと思うのです。
これが憲法9条のもとになったとされます。密談は双方の回顧録に残されており、喜重郎の案というのが定説です。しかしマッカーサーが日本に戦争放棄を押し付け、喜重郎の提案にしたという説も根強くあるのです。
喜重郎が戦争放棄の発言をした事は何の違和感もないとは思いますが、憲法に規定する事までを望んだのかは不明です。真相が分かる日が来ると良いですね。
都市伝説・武勇伝3「眠っていた戦争調査会資料」
喜重郎は玉音放送を聞き電車に乗って帰路に着く際、乗客の1人が「なぜ戦争をしなければならなかったのか」と叫んだ事に心を打たれました。喜重郎は国民を戦争に引き込んだ国家の責任を感じたのです。
その経緯もあり、喜重郎は戦後に戦争調査会を発足します。何故戦争が起きたのか、何故敗れたのか等を明らかにする為でした。この調査会には100人以上が関わる壮大なものでした。
ところが東京裁判が始まった事、ソ連やイギリスからの批判もあり、調査会は廃止に追い込まれます。資料は何と2016年まで書庫に眠り続けていました。この資料をもとにした書籍もあるので、一読してはいかがでしょうか。