幣原喜重郎の簡単年表
幣原喜重郎は1872年に大阪府門真一番村にて誕生します。父親の新治郎は村の初代助役を務めています。幣原家は勉強熱心な家庭であり、喜重郎の兄弟は学長や医者として大成しています。
外交官となり1897年には韓国の仁川領事館に赴任します。日清戦争の歴史的勝利に沸き立つ国民と、三国干渉による外圧に伴い、外交官は難しい立場の中にありました。
1919年に駐米大使となり、1921年に開催されたワシントン軍縮会議に参加します。9か国が参加し、軍艦の保有量が定められた他、中国の領土保全が取り決められました。喜重郎の外交姿勢はこの時の方針に基づいています。
加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣の外務大臣を務め、幣原外交を展開させます。後に若槻礼次郎内閣が退陣すると、幣原外交に批判的だった田中義一内閣が発足し、積極外交を展開させます。
濱口雄幸内閣で外務大臣に返り咲きます。再度幣原外交を推し進めた他、ロンドン海軍軍縮条約を締結しています。後に満州事変が起こり、第二次若槻内閣は退陣。軍部独断の時代が続き、喜重郎は表舞台から退きます。
終戦に伴い吉田茂の推薦で総理大臣に就任。GHQの指示により五大改革の推進や、新たな憲法の着想に取り組みました。戦後初の総選挙後に内閣は総辞職しています
1947年に行われた総選挙で喜重郎は初当選し、日本進歩党の総裁となります。後に片山内閣を批判し、民主自由党に参加しました。
1951年3月10日、議員として政務に励む中、心筋梗塞で死去しました。
幣原喜重郎の生涯年表
1872年 – 0歳「幣原喜重郎誕生」
幣原喜重郎誕生
喜重郎は大阪府門真一番村にて豪農であった幣原新治郎と静ヅの次男として誕生します。祖父母と船に乗っていた時に、いつの間にか屋根の上で景色を眺めていて周りを心配させる等、腕白な少年として育ちます。
父新治郎の教え
新治郎は「子ども達には立派な教育を受けさせる為には、財産を売り払ってでも学費に当てなくてはいけない」と考えていました。親戚は大反対しましたが、新治郎は断固としていう事を聞かなかったそうです。
両親は勉強好きで、兄の垣は4〜5歳の頃から論語の手解きを受けていました。2人が小学校に上がる頃には書斎を勉強部屋として提供しています。そんな父の教えを受けて喜重郎も勉強に励みました。
1883年 – 11歳「大阪中学校に進学」
初めて英語に触れる
喜重郎兄弟は大阪中学校に進学します。大阪中学校は英語教育に力を入れた名門校であり、英語の将来性を確信した父の思いによるものでした。喜重郎は外国人教師から直接英語の指導を受けています。
第三高等学校に進学
後に喜重郎は京都にある第三高等中学校に進学します。同級生に後の同志とも言える濱口雄幸がいました。全国の秀才が集う名門校において、2人は常に1番2番を競い合っています。
1895年 – 23歳「外交官を志す」
東京帝国大学の法律科に進学
第三高等学校を卒業後、喜重郎は東京帝国大学の法律科に進学し英法を学びました。大学進学中に日清戦争が勃発します。日本は勝利するものの、三国干渉を受けて遼東半島を清国に返還。国民はロシアに反発してます。
喜重郎が外交官を志したのは、こうした国内外の不安によるものでした。しかし大学4年の頃に重度の脚気にかかり、外交官試験を断念。1895年に本意ではない農商務省鉱山局に勤務します。
農商務省鉱山局時代の喜重郎
農商務省鉱山局では行政訴訟を受け持ち、優秀と評判でした。しかし外交官試験が行われる事を知ると僅か3ヶ月で辞表を提出。1996年に喜重郎は僅か4名という狭き門を突破するのです。
1896年 – 24歳「外交官となる」
韓国の仁川領事館に勤務
外務省入省後、1897年1月に韓国の仁川領事館の領事館補に在勤。2年後にはロンドン総領事館に勤務となり、加藤高明の下で働きます。今まで習ってきた英語が通じず、毎晩勉強をしています。
1900年に加藤高明が第4次伊藤内閣の外務大臣に就任すると、喜重郎は領事に昇格。以降もベルギーや日本、釜山と各地を回ります。
雅子と結婚
1903年に岩崎弥太郎の四女雅子と結婚。喜重郎32歳、雅子23歳の時でした。加藤高明は岩崎弥太郎の長女と結婚した為、2人は義兄弟となったのです。2人は釜山で生活するものの、間も無く喜重郎は難局に挑む事になります。
1904年 – 32歳「日露戦争勃発」
電信課長代理に就任
1904年2月に日露戦争が勃発すると喜重郎は帰国。電信課長として戦時外交勤務の処理に従事しました。海外へ発信する電報の業務を受け持ち、重要な会議にも参加しています。
ポーツマス条約における国内外の仲介人
日露戦争で日本は勝利し、ポーツマスで講和が開かれます。喜重郎は談判に臨む小村寿太郎と、国内にいる重鎮達の間で電報を発信する役目を担います。重鎮は伊藤博文ら元老、陸海軍大臣と錚々たるメンバーでした。
小村寿太郎は賠償金も領地割譲を撤回する旨を国内に伝えており、喜重郎は憤慨しています。領土の割譲は達成しますが、当時の喜重郎は幣原外交と異なる姿勢を見せています。
ちなみに喜重郎は日露戦争の功績を経て勲四等旭日小綬章を拝受しました。
1912年 – 40歳「ワシントンに単身着任」
ワシントンへ渡米
アメリカと日本は日露戦争を機会に関係性が悪化。アメリカでは反日感情が湧き上がり、日本人への迫害や移民敗訴の動きが活発化します。喜重郎はワシントンに渡米し、日米間の外交問題に関与します。
カリフォルニア州土地所有禁止法
しかし1913年にはカリフォルニア州土地所有禁止法が施行され、日系人は土地所有が出来なくなります。国内ではアメリカと戦争も辞さないという意見も上がりますが、喜重郎はこのように述べています。
「米国の歴史を見ると、外国に対し不正と思われる行為を冒した例が相当あります。しかしその不正は米国人自身の発意でそれを矯正しています。我々は黙ってその時機の来るのを待っているのが最も賢明な策です。」
アメリカと戦争をする国力を日本は持ち合わせておらず、喜重郎は抗議をするに留めました。この姿勢は後の幣原外交にも通ずるものがありますね。
1914年 – 42歳「第一次世界大戦勃発」
オランダ常駐の特命全権大使に任命される
喜重郎がオランダに赴任した頃、第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟に伴いドイツに宣戦布告。1915年1月には中国に対して、ドイツが所有していた山東省の利権を要求したのです(対華21カ条要求)。
要求したのは第2次大隈重信内閣の外務大臣となっていた加藤高明でした。喜重郎も最初は「当然」と考えていましたが、何日も黙考した上で加藤に反対の意を述べます。この要求は後の遺恨になると確信したからです。
外務次官に就任
喜重郎は1915年7月に内閣改造を行った大隈重信の外務次官に任命されました。対華21カ条要求は元老の批判も多く、加藤への批判も紛糾しました。喜重郎は寺内正毅内閣、原敬内閣においても外務次官を務めます。
1921年 – 49歳「ワシントン体制の確立」
ワシントン会議の全権委員となる
1921年には国際秩序の見直しを目的としたワシントン会議が開催。喜重郎は腎臓結石の激痛を耐えながら加藤友三郎首席全権を補佐しています。この会議は日本を脅威に感じたアメリカの牽制の意味もありました。
日本は満州の利益が認められたものの、中国の門戸開放・機会均等・主権尊重に伴い山東省を返却。更に軍艦保有数もアメリカイギリスに比べて6割に抑えられ、日英同盟が廃止される等、日本には不利なものでした。
幣原外交の展開
対華21カ条要求は中国からの反発を招いただけでなく、アメリカから野心を疑われる事となり、良い結果を生みませんでした。喜重郎は、国際協調と中国への内政不干渉を厳守した幣原外交を今後展開していきます。
1924年 – 52歳「加藤高明内閣の外務大臣に就任」
加藤高明内閣の外務大臣に就任
1924年6月に加藤高明内閣が発足。加藤は護憲三派運動を通じ、対華21カ条要求等の強硬路線から協調路線に転換しており、外務大臣に喜重郎を起用します。喜重郎は就任演説でワシントン体制の厳守を宣言しました。
奉直事件の勃発
当時の中国は辛亥革命により混乱状態にありました。9月には直隷派の呉佩孚、奉天派の張作霖には奉直戦争が勃発。閣内では張作霖支持が大半を占める中、喜重郎は不干渉を貫き、辞表すら用意する程の覚悟でした。
この戦争は直隷派の将軍馮玉祥がクーデターを起こす事で終結し、満州権益は保持されます。背後には関東軍が馮玉祥に資金を渡した事が関係しています。幣原外交は開始当初から軍部は強い不信感を抱いていたのです。
1926年 – 54歳「南京事件勃発」
南京事件の勃発
1926年に蒋介石が北伐を開始すると、江右軍が領事館や居住地を襲撃。日本人だけでなく各国の住人が殺害や陵辱されています。アメリカやイギリス軍は艦砲射撃を開始し、江右軍の討伐と自国民の保護に動きました。
イギリスとの関係悪化
アメリカイギリスが中国に対して最後通告を突きつける中、日本もそれを打診されます。喜重郎はそれを止めるよう説得し、断念させました。この態度はイギリスから「日本は中国と繋がっているのでは」と懸念を抱かせます。
中国への内政不干渉を取り決めたのは元々はアメリカとイギリスです。外交路線の厳守を貫いたばかりに今度はイギリスに疑われるという、日本にとっては辛い状況となりました。外交の難しさが良く分かります。
1927年 – 55歳「田中外交を批判する」
国内で批判が高まる
南京事件で喜重郎が穏便な態度に出た事は、国内からも批判を受ける事になります。国内では第一次若槻内閣が昭和金融恐慌の処理に失敗し総辞職。背景には幣原外交への不満もあったとされます。
田中義一内閣発足
1927年4月に田中義一内閣が発足し、外務大臣を田中義一と森恪が担当します。幣原外交を破棄し、山東出兵等の軍事行動を起こす事で中国関係は悪化。喜重郎は野党側として田中外交を批判しました。