幣原喜重郎とは何をした人?内閣時代の外交や評価、名言、子孫も紹介

1929年 – 57歳「再度の外務大臣就任」

浜口雄幸

浜口雄幸内閣発足

田中義一内閣が退陣し、立憲民政党の浜口雄幸内閣が発足。喜重郎と浜口は学生時代の盟友でもありました。喜重郎は再度外務大臣に就任し、悪化していた中国との関係修復に務めます。

利権回収運動

1928年に中国国民党政府が中国を統一し、諸外国に関税自主権や領事裁判権の承認を主張していました。アメリカやイギリスは1928〜29年に渡り、これらを承認しています。

喜重郎は1930年5月に関税自主権を承認しました。中国はその後も利権回収運動を続け、その中には旅順・大連の租借権等の日本の権益も含まれていました。日本では武力に訴えてでも利益を守るべきと声が上がります。

1930年 – 58歳「ロンドン海軍軍縮会議」

ロンドン海軍軍縮会議の様子

ロンドン海軍軍縮条約の締結

1930年に補助艦保有量の制限を取り決める為のロンドン海軍軍縮会議が開催されます。浜口は放漫財政の整理、喜重郎は協調路線の観点から軍縮に積極的でした。

希望の軍艦保有数を満たさなかったものの、雄幸は条約に同意します。野党がこれに反発し統帥権干犯問題を引き起こした事で、雄幸は襲撃されました。喜重郎は臨時で内閣総理大臣代理を116日もの間勤めています。

浜口雄幸内閣の退陣

政友会は軍縮条約を批准した事を執拗に追及。野党は答弁の中で喜重郎が責任を天皇に転化したと批判しました。浜口は無理に国会に復帰させられた事が原因で病状が悪化し、内閣は総辞職しています。

1931年 – 59歳「幣原外交の終焉」

柳条湖事件を伝える新聞

第二次若槻内閣発足

第二次若槻内閣でも喜重郎は留任し、幣原外交を厳守します。6月には中村震太郎陸軍参謀が銃殺される事件が起こり、喜重郎は謝罪や責任者の処罰、賠償を中国に伝えます。この頃は幣原外交は行き詰まりを見せていました。

満州事変と幣原外交の終焉

9月には柳条溝事件が勃発。喜重郎は不拡大方針を国連で約束しますが、関東軍は満洲を占領します。世論も軍事行動を支持し、若槻内閣は総辞職。喜重郎は外務省を辞任し、幣原外交は終わりを告げたのです。

その後の喜重郎は表舞台から遠ざかるものの、血盟団事件や2.26事件で暗殺対象となっています。1945年には空襲で自邸が焼失。喜重郎は戦時中の状況を度々批判しますが、その声は届く事はありませんでした。

1945年 – 73歳「内閣総理大臣に就任」

ダグラス・マッカーサー
出典:Wikipedia

表舞台への復帰

表舞台から遠ざかっていた喜重郎は突如、総理大臣として政界に担ぎ出されます。推薦したのは吉田茂ですが、最終的に判断したのは昭和天皇でした。戦後の喜重郎は痩せて活気がなく、老齢そのものだったそうです。

喜重郎は既に忘れられた存在であり、政治記者からは「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚かれました。推薦されたマッカーサーは「英語は話せるのか?」と苦笑いしています。

内閣総理大臣に就任

10月9日に喜重郎はマッカーサーと面会。マッカーサーは口頭で5大改革指令として

  • 秘密警察の廃止
  • 労働組合の結成奨励
  • 婦人解放
  • 学校教育の自由化
  • 経済の民主化

これらを命じています。

1946年 – 73歳「憲法の改正」

幣原内閣

更なるGHQからの指示

喜重郎内閣は改革を進めるものの、財閥解体や戦犯の逮捕等、マッカーサーから次々と指示を受けています。12月には喜重郎は風邪で倒れ、病床で「とある決意」をマッカーサーに伝える事を決めました。

年末には復帰し、人間宣言を英文で作成。1月1日に発布しました。4日にはGHQから公職追放が指示され内閣は存続危機を迎えますが、閣僚を入れ替える事で存続します。喜重郎は激高し内閣総辞職も考えていました。

マッカーサーと面会

1月24日に喜重郎はマッカーサーと面会し、憲法に平和主義を提案したとされています。近年では憲法9条には喜重郎の意思が反映たという説が有力です。様々な過程を経て3月6日に憲法改正草綱が採択されました。

1946年 – 73歳「内閣総辞職」

第22回衆議院議員総選挙の様子

第22回衆議院議員総選挙

4月10日に戦後初の総選挙が行われます。本来は過半数を取った政党が政権を担いますが、この選挙では泡沫政党も含めると258もあった為、過半数を取った政党はありませんでした。

喜重郎が第2党(94議席)である進歩党に入り内閣を延命する案もありましたが、猛反発を受けて幣原内閣は5月22日に総辞職します。戦後の混乱期に様々な改革を進めた喜重郎の功績は大きいでしょう。

第一次吉田内閣に入閣

結果的に第1党の日本自由党の吉田茂が内閣を発足し、喜重郎も国務大臣として入党します。1947年に日本国憲法が発布された事で総選挙が行われ、喜重郎は初めて衆議院として初当選しています。

1952年 – 78歳「心筋梗塞で死去」

幣原喜重郎のお墓

晩年の喜重郎

1949年には衆議院議長に就任し、戦前から活躍する政治家としての地位を確立します。戦後間もない時の衰えた喜重郎の姿はなく、心身共に健康を取り戻していたようです。

1951年3月10日に心筋梗塞にて現職中に死去。最後まで登院しており、国の為に尽くした生涯でした。

マッカーサーの言葉

この頃、アメリカとソ連は冷戦を展開。日本はその地勢的な立場から重要な拠点にあった為、日米の関係はより強固になっていました。マッカーサーはその死に対してこう述べています。

「現下の緊迫した世界情勢に際し、幣原氏の死去は必ずや大きな損失となろう」

共に憲法を話し合った2人の間には、特別なものがあったのかもしれません。

幣原喜重郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

戦争調査会 幻の政府文書を読み解く

戦争調査会の資料をもとに、筆者が見解を述べた書籍です。戦争に至る経緯やプロセスを当時の視点から考察しており、非常に興味深い内容です。

同じ過ちを繰り返さない為にも、失敗に対しての原因や過程の追及は不可欠である事を教えてくれます。

外交五十年

喜重郎による回顧録であり、1920年代から戦後に至る激動の時代を知る事が出来ます。憲法9条の経緯についても触れられており、憲法改正が騒がれる今だからこそ読んでほしい1冊です。

幣原喜重郎とその時代

日本の外交の歴史を考察したシリーズで、日清戦争時の陸奥宗光、日露戦争時の小村寿太郎に続く3冊目となります。信頼性のおける情報を丁寧にまとめており、幣原外交について詳しく知りたい方におススメです。

おすすめの動画

【日本史】 現代2 昭和戦後2 占領下の日本2 (17分)

こちら高校入試用の動画ですが、幣原内閣の政策や当時の背景を非常に分かりやすくまとめてあります。高校生だけでなく、喜重郎について知りたい人にもおススメです。

68回 幣原外交の悪夢に学ぶお花畑平和主義の弊害

幣原外交の問題点について説明しています。偏った意見ではあるものの、幣原外交が諸外国から批判を浴びた事は事実です。幣原外交の良し悪しを判断するのでなく、1つの意見として視聴してはいかがでしょうか。

おすすめの映画

小説吉田学校

戦後の日本の独立と政治闘争を描いた作品であり、小説を映画化した作品です。主人公は吉田茂ですが、喜重郎は先輩という立場で物語上で重要な役目を果たしています。現代史を詳しく知りたい方にオススメです。

関連外部リンク

幣原喜重郎についてのまとめ

今回は幣原喜重郎の生涯を、当時の世界情勢と合わせて紹介しました。喜重郎は平和を望んでいた事は間違いありませんが、複雑な世界情勢の中で、その声はいつしかかき消されてしまいました。

外交の難しさや平和とは何かを考える人物として、喜重郎は重要な存在です。今回の記事を通じて喜重郎に興味を持っていただけたら幸いです。

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