毒殺説
古代エジプトではワインに毒を混ぜ、暗殺されるケースが多々ありました。しかも当時、ワインは非常に高価なものであるとされ、王や貴族といった一部の権力者だけが味わうことができました。
実際にツタンカーメンの墓陵内部にもワイン壺が収められています。しかし前述した頭部打撃説と比較すると、この毒殺説の根拠は乏しく不確かなものでした。
遺伝疾患説
ツタンカーメンは生まれつき多くの障害を抱えていたことがわかっています。過蓋咬合(簡単にいうと重度の出っ歯)で、足の指が一部なく、ひどい内反足で杖がないと歩くこともできませんでした。さらに低フォスファターゼ症候群という稀な遺伝疾患だったとも言われています。
これらによりツタンカーメンは常に杖を使用しており、歩行障害による転倒なども多々あったそうです。また低フォスファターゼ症候群は全体的に骨が脆く、慢性的な炎症を引き起こす病気です。
骨折するほどの衝撃でなくとも、骨が折れてしまったり、免疫力が弱くなっていたようです。ツタンカーメンに何の遺伝疾患もなく、健常な肉体を持っていたならば、敗血症やマラリア感染症にはならなかったかもしれませんね。
それでは、なぜツタンカーメンにはこれほどの遺伝疾患があったのでしょうか。これはエジプト王家の近親婚による影響とされています。
古代エジプト王家では父と娘や兄妹同士の結婚が一般的でした。というのもエジプトではファラオは神として扱われており、神話の神は近親同士で婚姻関係にあるため自分たちもそうするべきだと考えていたのです。さらにエジプト王家は血筋というものを非常に大切にしていたため、親族の中でもより近い間柄同士での婚姻が行われていました。
血筋が近いもの同士で婚姻し、生まれた子どもは似た遺伝子や同じ遺伝子を受け継ぎやすいため遺伝子が重複しやすくなります。これにより障害や病気の原因となる遺伝子も重複しやすいため、遺伝子疾患を持った子どもが生まれやすくなるというわけです。
ツタンカーメンの死後
次王はホルエムヘブ
ツタンカーメンの死後、ツタンカーメンには子どもがいなかったため、王家の血筋が途絶えました。そのためツタンカーメンの側近であったアイとホルエムヘブに次王の打診が来ます。
アイが次のファラオとして即位しますが、アイは高齢であったため、すぐに亡くなってしまいます。その後はホルエムヘブが跡を継ぎ、ファラオとしてエジプト王朝を存続させました。
ホルエムヘブはアメンホテプ4世やツタンカーメンの名を王名表から削除したり、建造物を破壊するなど王の存在を末梢しようとしました。しかしアメンホテプ4世が実施した宗教改革の問題点も分かっていたため、神官に権力が集中するような社会システムを変革し、第19王朝に繋げていきました。
ツタンカーメンはミイラとなり王家の谷に埋葬
古代エジプトのファラオはミイラとなり、多くの埋葬品とともに埋葬されます。ツタンカーメンも例外なくミイラとなり、王家の谷に埋葬されました。
ただしツタンカーメンのミイラは他のミイラと違い、不思議な点がいくつも見つかっています。まず胸骨や肋骨が一部失われていたり、心臓の代わりとなるスカラベも納められていませんでした。
またツタンカーメンの臀部から腹部にかけて大きな傷があります。これらが意味している理由はまだ判明していません。学者たちは今も検証を続けています。
ツタンカーメン死因に関するまとめ
ツタンカーメンの死因について解説してきました。いかがでしたでしょうか。
ツタンカーメンの死因は多くの学者たちを悩ませてきた問題の一つでしたが、最新の研究によってようやく解明されました。しかし研究はこれで終わりません。ツタンカーメンにはまだまだ謎の多いところがあるのです。
今でもツタンカーメンのミイラは最新の科学技術で検証が行われています。ツタンカーメンのミイラから古代エジプト王朝の新しい発見が見つかるかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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