岡本太郎の生涯・年表まとめ【代表作品から名言、エピソード、死因まで】

岡本太郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「バラエティ番組でも人気を博す」

岡本太郎「何だ、これは!」

岡本太郎はテレビ番組でもそのキャラクターが受け、活躍しました。1950年代ごろからバラエティ番組やクイズ番組への出演しています。1980年前後に放送された「日立マクセルビデオカセット」のCMでは梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ様子が好評を博し、その年の流行語大賞にノミネートされました。

その後、1980年代半ばにはバラエティ番組内でも登場シーンの際に「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」と叫びながら出てくる演出が人気を集めました。

都市伝説・武勇伝2「小学校での成績は52人中52位」

成績は同級生の中でビリだった

岡本太郎は小学校になかなか馴染めずに転校を繰り返していましたが、最終的には慶應義塾幼稚舎に落ち着きます。そこでも授業にはあまり参加しなかったため、成績は52人の生徒中で52番目というものでした。

ちなみにその時の51番目の成績だったのが藤山一郎です。藤山一郎はのちに国民栄誉賞を与えられる日本の歌手、作曲家で「東京ラプソディ」などのヒット曲を生み出した人物です。歌手で国民栄誉賞を獲得したのは現在までで美空ひばりと藤山一郎しかいません。

そのような人と岡本太郎が同じ学校で成績のビリを争っていたのはとても興味深いですよね。

都市伝説・武勇伝3 「生涯独身だが、プレイボーイであった」

岡本太郎 作品「女」

岡本太郎は生涯独身でした。そのため子供もいません。その代わりに平野敏子という女性を養子として迎え入れ、ほとんど妻同然のような関係を築いていました。

岡本はプレイボーイとして知られ、女性に関する多くの名言も残っています。フランスでの生活が長かったことも手伝ってか、徹底的なフェミニスト、女性第一主義としても知られていました。他人が女性の悪口を言うと厳しく叱りつけるなど、その姿勢は一貫しています。

岡本太郎の簡単年表

1911年 – 0歳
岡本太郎誕生

2月26日、神奈川県橘樹郡高津村(現:神奈川県川崎市高津区)に漫画家の岡本一平、小説家の岡本かの子の間に生まれます。

1917年 – 6歳
小学校入学も、転校を繰り返す

青山にある青南小学校へ入学するも一学期で退学し、その後、私塾や小学校の転校を繰り返しました。

1918年 – 7歳
慶應義塾幼稚舎へ入学

慶應義塾幼稚舎へ入学し、良き理解者となる教師に巡り会いました。成績に関してはあまり良くなく、最下位を取ることもあったそうです。

1929年 – 18歳
東京美術学校へ

慶應義塾普通部を卒業後、芸術の道を志し、東京美術学校(現:東京藝術大学)へ進学します。父の一平がロンドン軍縮会議の取材のためヨーロッパへ行くことになったため、家族一同渡欧しました。

1930年 – 19歳
パリに滞在する

両親は取材のためにロンドンへと向かいますが、太郎はパリへ残ることを決断します。以来10年間に渡りパリで過ごすこととなりました。

1932年 – 21歳
ピカソの絵に感動する

パリ滞在中に訪れたポール・ローザンベール画廊にて展示されていたピカソ作「水差しと果物鉢」に感動を受けます。その年の10月に展覧会に「空間」という作品を出品し、それ以後展覧会への出品を継続します。

1936年 – 25歳
ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける

画家のマックス・エルンストらとともに、コントル・アタックの集会に参加し、そこで開催されたジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受けます。

1937年 – 26歳
初の画集「OKAMOTO」を刊行

6月には自身初となる画集「OKAMOTO」を出版します。その4ヶ月後には展覧会に「傷ましき腕」を出品し、アンドレ・ブルトン(フランスの詩人・シュルレアリスムの創始者)から評価されました。

1940年 – 29歳
第二次世界大戦のドイツ軍侵攻によりフランスを離れることに

この時期は第二次世界大戦の真っ只中で、ドイツによるフランス侵攻が決行されました。身の安全を確保するために日本へと帰国することになります。

1941年 – 30歳
二科展に作品を出品し、二科賞を受賞

第28回二科展にフランスでも評価された「傷ましき腕」他4点を出品し、見事に二科賞を受賞しました。その後、日本で初の個展も開催します。

1942年 – 31歳
兵役のため中国へ

第二次世界大戦の兵役をこなすため、中国戦線へと駆り出されます。

1948年 – 37歳
「夜の会」結成

花田清輝らとともに「夜の会」を結成します。この会は岡本太郎のアトリエにかかっていた作品「夜」にちなんで名前がつけられ、前衛芸術運動を掲げて発足したものでした。

1951年 – 40歳
「岡本太郎展」開催

戦後に製作した作品のみを集めた「岡本太郎展」が日本橋三越にて開催されました。この年には東京国立博物館に展示されていた縄文土器に衝撃を受けることとなります。

1954年 – 43歳
「今日の芸術ー時代を想像するものは誰か」を刊行し、ベストセラーに

光文社社長から直々に「中学二年生でも理解できるような芸術の本を書いて欲しい」との依頼を受け、「今日の芸術ー時代を想像するものは誰か」を執筆・刊行します。今までの芸術のあり方を覆すような論評が書かれており、ベストセラーの売り上げを記録しました。

1967年 – 56歳
日本万国博覧会の展示プロデューサーに任命される

日本万国博覧会が1970年に大阪で開催されることが決定し、テーマ館展示プロデューサーに就任しました。

1970年 – 59歳
大阪万博にて「太陽の塔」展示

日本万国博覧会のシンボルゾーン中央に「太陽の塔」などを展示したテーマ館が完成します。大阪万博開催の期間中、テーマ館の館長を務めました。

1972年 – 61歳
札幌オリンピックの公式メダルを製作

1972年札幌オリンピック開催を機に公式メダルのデザインを任されます。また、同年のミュンヘンオリンピックの公式メダルのデザインも依頼されました。

1981年 – 70歳
「芸術は爆発だ!」が流行語大賞の語録賞を受賞

バラエティ番組にて梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ姿が話題となり、その年の流行語大賞にノミネートされます。大賞獲得はなりませんでしたが、語録賞を授与されました。

1984年 – 73歳
フランス政府より芸術文化勲章を授けられる

今までの功績が認められ、フランス政府より芸術文化勲章を与えられます。1989年にも再度受賞しています。

1987年 – 76歳
「ばら色の人生」にて俳優デビュー

NHK製作のドラマ「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演し、俳優デビューを果たします。この時の役柄は学校の校長先生でした。

1996年 – 84歳
急性呼吸不全にて帰らぬ人に

以前からパーキンソン病を患っていましたが、年々症状が悪化していきます。呼吸筋の衰えも生じ始め、1996年1月7日、呼吸不全に陥り、そのまま息を引き取ってしまいます。享年84歳でした。葬儀は行われず、岡本の誕生日である2月26日にお別れの会が開かれ、今までの作品が展示されました。

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