岡本太郎の生涯・年表まとめ【代表作品から名言、エピソード、死因まで】

岡本太郎の年表

1911年 – 0歳「岡本太郎の誕生」

岡本太郎と両親

神奈川県川崎市に誕生

岡本太郎は1911年2月26日、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の神奈川県川崎市高津区二子)に生まれます。両親は漫画家の父・岡本一平と小説家の母・岡本かの子です。父は収入のほとんどを遊びのために使ってしまうような放蕩者で、母は世間知らずのお嬢さんという家庭でした。

6歳になると近所の小学校へと進学しますが、馴染むことができずに退学してしまいます。その後、私塾や他の小学校を転々としますが、溶け込むことができませんでした。ようやく自分に合う学校が見つかったのは7歳の時で、慶應義塾幼稚舎に入学します。

東京美術学校へ

小学校での勉強の成績はあまりよろしくなく、52人いる生徒のうちでビリを取るほどでした。しかし、絵画に関しては小さい頃から興味を持っており、ゆくゆくは美術の道へと進むことを夢見ていました。

慶應義塾の課程を順調にこなし、慶應義塾普通部を卒業すると、東京芸術学校(のちの東京藝術大学)に進学することとなります。このときはまだ何のために絵を描くのか模索している段階でしたが、その答えを見つけるためにも芸術学校への進学を決意したのです。

1932年 – 21歳「ピカソの描いた絵に衝撃を受ける」

岡本太郎とピカソ

父・一平の渡欧に同伴しパリへ

1929年、ロンドン海軍軍縮会議の取材のため父・一平がヨーロッパへと旅立つことになります。それに連れ立って岡本太郎を含めた岡本家一行も渡欧することになりました。神戸港を出航した箱根丸に乗船し、一路フランス・パリへと向かいます。

両親は取材のためロンドンへと移動しますが、岡本太郎はパリへ残ることに決めます。以来10年間をフランス・パリで過ごすことになりました。パリ滞在中にはパリ大学(ソルボンヌ大学)にて美術や民俗学を学びます。

ピカソの絵に感動

岡本太郎はパリへと滞在してからも自分が何のために絵を描きたいのかがわからずに煩悶する日々が続きました。そんなある日、偶然訪れたポール・ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの絵画を発見します。

題名は「水差しと果物鉢」で太郎はこの絵を見た瞬間に今まで味わったことのないような衝撃を受けました。これ以来、「ピカソを超える」ことを目標に芸術の世界へ飛び込むことを決心したのです。

1937年 – 26歳「『傷ましき腕』を発表」

傷ましき腕

展覧会に「傷ましき腕」を出品

1937年6月には自身初めてとなる画集「OKAMOTO」を刊行します。そして10月の展覧会に「傷ましき腕」を出品し、アンドレ・ブルトンに評価されました。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの創立者でサルバドール・ダリなどと近しい存在として知られています。

「傷ましき腕」はこの後も、1938年にシュルレアリスム・パリ展、1941年二科展、1950年読売新聞社主催の展覧会、1972年ミュンヘン・シュルレアリスム展など数多くの展覧会で展示されることになりました。

第二次世界大戦の情勢悪化により帰国

第二次世界大戦は年々激しさを増していき、1940年にはドイツ軍によるフランス侵攻が開始しました。岡本は自らの身を案じてパリを離れることを決意し、日本への最後の引き揚げ船となる白山丸で日本へと戻ることになります。

日本へ戻ってから2年後には自身も戦争への兵力として駆り出され、中国へと派遣されています。この期間中に岡本太郎が画家であるという噂が広がり、上官の命令で師団長の肖像画を描くように言われたこともありました。

1941年 – 30歳「二科展で二科賞を受賞する」

二科展

二科展に「傷ましき腕」を出品し二科賞を受賞

1941年9月、第28回二科展に「傷ましき腕」を含む計4点を出品し、見事に二科賞を受賞します。同年には初となる個展を日本で開催することとなりました。ヨーロッパ滞在時の作品を展示し、作品紹介のパンフレットには横光利一、藤田嗣治など芸術界のそうそうたるメンツがコメントを寄せます。

この後も二科展には出品を頻繁に行い、1947年には二科会員に推薦されました。ちょうどこの頃には岡本自身も心機一転、世田谷区に自分のアトリエを構え、「新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を新聞に載せ、芸術界に対する意気込みを見せつけます。

前衛芸術についての会合「夜の会」発足

1948年、前衛芸術について話しあう会を設け、「夜の会」と命名しました。メンバーは花田清輝、埴谷雄高、安部公房などで、会の名前は岡本太郎の部屋に飾ってあった油彩画「夜」にちなんでいます。1950年には「アヴァンギャルド美術家クラブ」も創立し、植村鷹千代、小松義雄、瀧口修造らが会員として参加しました。

また、この頃には東京国立博物館で鑑賞した縄文土器に感動し、後年縄文土器に関する本をいくつか執筆することとなります。

1954年 – 43歳「大阪万博のプロデューサーに選出される」

太陽の塔

「今日の芸術-時代を創造するものは誰か」を出版し、ベストセラーに

1954年、光文社社長から「中学2年生でも理解できるような芸術の啓蒙書を書いてほしい」と依頼され、これを引き受けます。完成した作品は「今日の芸術-時代を創造するものは誰か」で、芸術は人生そのものであるという内容と今までの芸術のあり方を批判するような論評が受け、ベストセラーとなりました。

1950年代は本を執筆したこと以外にも、初のテレビ出演や映画のデザインへの関与、巨大壁画の制作など新しいことへの挑戦も増えていきます。

大阪万国博覧会で「太陽の塔」制作

1967年に日本で万国博覧会が開催されることが決定します。岡本太郎はテーマ館のプロデューサーを任され、今までにないような構想を練っていきました。そうして生まれたのが「太陽の塔」です。1970年、大阪万博は大成功に終わりましたが、「太陽の塔」も万博のシンボルとして大いに注目を集めました。

後年、「太陽の塔」は永久保存されることが決まり、大阪万博の開催の地である「万博公園」に現在も展示されています。

1972年 – 61歳「オリンピックの公式メダルのデザインを担当」

札幌オリンピック公式メダル

オリンピックメダルのデザインを依頼される

1972年に札幌で冬季オリンピックが開催されることになりました。岡本太郎は同大会の公式メダルをデザインを依頼されます。同じ年にミュンヘンにて夏季オリンピックも開催される予定となり、その大会のメダルデザインも任されました。

ちなみに岡本太郎は1964年東京オリンピックの参加記念メダルのデザインも担当しています。この時は表側のデザインのみの依頼で、裏側は田中一光が手がけました。

「芸術は爆発だ!」が流行語大賞ノミネート

岡本太郎はテレビ出演が多く、1950年代に初めて番組に出演したのを皮切りに、クイズ番組やバラエティ番組に登場しています。CMにも出演しており、「日立マクセルビデオカセット」のCMで梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ姿が反響を呼び、その年の流行語大賞にノミネートされました。惜しくも大賞は逃しましたが、語録賞を獲得しています。

1980年代のバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」ではレギュラー出演するようになり、煙の立ち込める中、梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」、「なんだ、これは!」と叫ぶ様子が人気を博しました。

1996年 – 84歳「岡本太郎死去・死因は急性呼吸不全」

フランス政府より芸術文化勲章を授与される

芸術文化勲章

1984年、これまでの功績を讃え、フランス政府より芸術文化勲章を贈られました。この称号は芸術家、作家、クリエイターなど、同業者からの尊敬を表す勲章で、フランス文化の発展・普及に貢献した人物に与えられるものとなっています。

芸術文化勲章は3つの階級から成り立っており、シュヴァリエ(3等)、オフィシエ(2等)、コマンドゥール(1等)に分かれます。岡本太郎は1984年にオフィシエ、1989年にコマンドゥールに選ばれました。日本人では他にも、北野武(コマンドゥール)や安藤忠雄(コマンドゥール)、川端康成(オフィシエ)などが保有しています。

急性呼吸不全が死因となり帰らぬ人に

岡本太郎は晩年、パーキンソン病を患っていました。パーキンソン病は体の震えが起こったり、筋肉が硬直して動きづらくなったりする病気です。そして、症状が進行すると筋肉の脆弱化が起こり、これが呼吸筋に及んだ場合に呼吸不全を引き起こすのです。

岡本は晩年も精力的に作品作りに取り組んでいましたが、80歳を超えてから体調を崩すことが多くなり、パーキンソン病の病状も進行していきました。1996年1月7日、呼吸筋の低下が顕著になり、呼吸不全を発症し、そのまま息を引き取り帰らぬ人となってしまうのでした。

岡本太郎の関連作品

代表作品

1/350スケール 太陽の塔 PVC&ABS製 塗装済み 完成品

「太陽の塔」を350分の1のスケールに集約した商品です。実物も微妙に左に傾いているのですが、それを忠実に再現しており、とても精巧な作りとなっています。台座には岡本太郎自身の直筆風で「太陽の塔」と記されており、ファンにはたまらないデザインです。

カプセルQミュージアム 岡本太郎アートピース集 光の饗宴 【6.犬の植木鉢】

岡本太郎作品の「犬の植木鉢」をフィギュアにした商品です。こちらはシリーズ物となっており、他にもいろいろな岡本太郎の彫刻作品が取り揃えてあります。色合いや形、ディテールに凝った商品となっているので岡本太郎の作品が好きな方にはおすすめです。

岡本太郎デザイン 1972年 ミュンヘンオリンピック 記念メダル ケース付き

岡本太郎がデザインした1972年ミュンヘンオリンピックの記念メダルのレプリカです。材質は本物と異なりますが、デザインは忠実に再現しています。表面も裏面も精巧に作られており、遠目から見るだけでは本物と見間違えてしまいます。

おすすめ書籍・本・漫画

自分の中に毒を持て

「人間はみんな人に好かれようとし過ぎている、安全な道を選び過ぎている、時には人に嫌われてもいいから自分の信念を貫け」というメッセージを発信し続けた岡本太郎の生き様が描かれた本です。長年多くの人に愛されてきたこの本が新装されました。岡本太郎の思想に触れたい方にはおすすめです。

今日の芸術-時代を想像するものは誰か

今までの芸術はうまい絵を描くことを目標としていましたが、岡本太郎は「芸術はうまくあってはならない。きれいであってはならない」と提唱します。この考えが反響を呼び、ベストセラーとなった1冊です。

強く生きる言葉

テレビやCMで発した言葉が流行語になるほどキャッチーな名言を生み出す岡本太郎。彼が生涯で残した言葉を集め、さまざまな悩みを抱えている現代人に勇気を与えてくれる1冊に仕上げられています。

岡本太郎についてよくわかるおすすめ本8選【作品集や自伝、芸術論などを紹介】

おすすめの動画

「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」 岡本太郎は何者?

岡本太郎に迫ったドキュメンタリーの動画です。彼の芸術に対する考え方、生き様などがよくわかる内容となっています。岡本太郎の名言を実際に彼自身の口から聞くことができるので、より強い印象を覚えます。

タモリ対談_2

テレビ司会者のタモリが岡本太郎と対談をする動画になります。個性的な2人ですが、見事に会話が調和しており、普通ならばなかなか突っ込むことのできない話題まで話が及んでいます。岡本太郎の喋っている姿を見ることでその人となりにも触れることができると思われます。

おすすめの映画

太陽の塔

1970年の高度経済成長真っ只中で開催された大阪万博。そのシンボルとしても知られる「太陽の塔」がいまだに多くに人々を魅了している理由に迫ります。制作に携わった人から、岡本太郎に近しい人までを取材する中で見えてきた真相とは?

おすすめドラマ

TAROの塔

岡本太郎の生涯を家族模様から「太陽の塔」制作秘話まで詳細に表現したドラマです。岡本太郎を松尾スズキが演じ、助演俳優に常盤貴子、田辺誠一、濱田岳、寺島しのぶという豪華キャストを迎えた作品となっています。

岡本太郎についてのまとめ

岡本太郎はピカソに影響を受け、芸術家の道へ進むことを決心し、生涯に数多くの作品を残しました。中でも大阪万博の「太陽の塔」と渋谷駅の「明日の神話」は多くの人に衝撃と感動を与えたことでしょう。岡本太郎自身のキャラクターも受け、テレビやCMにも出演するなど多岐にわたって活躍をしました。

最後はパーキンソン病の悪化による呼吸不全にて亡くなりますが、現在でもその作品はアーティストをはじめとする各界の人々に影響を与えています。

今回は岡本太郎についてご紹介しました。この記事で彼の魅力を知り、興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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