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岡本太郎の生涯・年表まとめ【代表作品から名言、エピソード、死因まで】

岡本太郎は20世紀に活躍した日本の芸術家です。1970年に開催された大阪万博で「太陽の塔」を手がけた人物として名が知れています。他にも、渋谷駅構内のJR線と井の頭線の連絡通路に飾られている壁画「明日の神話」は見たことがある人も多いのではないでしょうか。

20代でピカソの絵に影響を受けてから芸術の道を本気で志し、「ピカソを超える」ことを目標に芸術作品を次々と生み出していきます。活躍は絵の世界だけにとどまらず、本を出してもベストセラー、テレビに出演すれば流行語を発信、など幅広い方面でその才能を発揮しました。

岡本太郎

日本の芸術家は数多くいますが、岡本太郎は現在でも多くのアーティストに影響を与え続けています。没後もこれほど話題にあがるのは何故なのでしょうか。もちろん彼の作品やキャラクターに惹かれる人も多いと思いますが、人気の理由はそれだけではありません。

あいみょんさんが岡本太郎のファンということで作品を調べた結果、自身もその個性的な芸術にはまってしまった筆者が岡本太郎について文献や作品を調べて得た情報をもとに、彼の生涯、名言、有名作品などをご紹介していきたいと思います。

岡本太郎とはどんな人物か

名前岡本太郎
誕生日1911年2月26日
没日1996年1月7日
(享年84歳)
生地神奈川県橘樹郡高津村大字二子
(現在の神奈川県川崎市高津区二子)
没地東京都新宿区信濃町
(慶應義塾大学病院)
配偶者なし
(養子として平野敏子を迎える)
埋葬場所多磨霊園

岡本太郎の生涯をハイライト

明日の神話

岡本太郎の生涯をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 芸術一家の長男として現在の神奈川県川崎市に誕生。
  • 東京芸術学校へ進学し、芸術の道へ進む。
  • ヨーロッパでピカソの絵に出会い、衝撃を受ける。それ以来「ピカソを超える」ことが目標に。
  • 岡本が26歳の時に描いた「傷ましき腕」がシュルレアリスムの創始者に評価される。
  • 「今日の芸術-時代を想像するものは誰か」を執筆し、ベストセラーに。
  • メキシコにて巨大壁画「明日の神話」製作。
  • 1970年大阪万博にて「太陽の塔」製作。
  • パーキンソン病の悪化に伴う呼吸筋の低下により、呼吸不全に。享年84歳で永眠。

岡本太郎の家族構成は?結婚はしたの?

岡本太郎と養子の平野敏子

岡本太郎は芸術一家の長男として生まれますが、そのあとに誕生する弟と妹はいずれも2歳の時に亡くなっています。そのため岡本太郎は3人家族として暮らしていました。

父・一平は漫画家で、ある程度の収入を得る身でしたが、生来の放蕩ぶりを発揮し、ほとんどの給料を使い果たしてしまうような生活をしていました。母・かの子は小説家でしたが、お嬢様育ちで家事や育児が全くできないお母さんでした。そして愛人も数人抱えていたそうです。

岡本太郎は生涯結婚をしなかったため、子孫がいません。しかし、岡本太郎自身も母の影響を受けてかプレイボーイではあったため何人もの女性と関係を持っていました。その中でも特に親密になった平野敏子という女性を養子として岡本家に迎え入れます。平野敏子はほとんど妻のような存在として岡本太郎に寄り添っていたようです。

岡本太郎が影響を受けた人物は?

パブロ・ピカソの「水差しと果物鉢」

岡本太郎が影響を受けた人物はパブロ・ピカソとジョルジュ・バタイユです。

岡本は幼少期から芸術に興味を持っていましたが、いざ「何のために絵を描くのだ?」と問われると答えに困っていました。しかし、家族とともにヨーロッパへ移り住んだ際にたまたま鑑賞した展覧会でピカソの「水差しと果物鉢」をみて衝撃を受けます。

この経験以来、「ピカソを超える画家になる」という目標ができたため、画家になるという夢に向かって突き進んでいくことができたのでした。

また、1936年、岡本が25歳の時に画家マックス・エルンストらと参加した集会でジョルジュ・バタイユの演説を聞く機会があり、その型破りな内容に感銘を受けます。この時のバタイユの言葉や思想はこの後の岡本の活動に大いに影響を与えるのでした。

岡本太郎の有名作品は?

太陽の塔内部 生命の樹

岡本太郎の作品は数多く存在しますが、その中でも有名なのは「太陽の塔」、「明日の神話」、「傷ましき腕」でしょう。

「太陽の塔」は大阪万博のシンボルとしても多くの人に知られているオブジェで、現在でも万博公園にて見ることができます。高さは70mにもなり、当時の企画時には大屋根を飛び出してしまうということでスタッフと大いにもめたそうです。

「明日の神話」は第二次世界大戦における水爆の炸裂がモチーフとなっています。当初はメキシコオリンピック用に建設される、ホテルの壁画として製作されましたが、ホテル建設が頓挫したため行方不明となります。その後、2003年にメキシコにて発見され、紆余曲折を経て、渋谷駅へ展示されることとなりました。

「傷ましき腕」は太郎が20代の時に描いた油絵ですが、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンに評価され、その後も数多くの展覧会へ展示されることとなった名作です。

岡本太郎の功績

功績1「『太陽の塔』製作」

太陽の塔と塔内部

1970年の大阪万国博覧会で展示された建造物で、今でも万博のシンボルとして保存されています。高さは70m、腕の長さは25m、顔の大きさは10mとなっています。黄金の顔は日没の際に太陽の光が反射して光るように計算されて作られました。

塔内には「生命の樹」と呼ばれるモニュメントがあり、生命を支えるエネルギーの象徴をイメージして作られています。また、「太陽の塔」には地下室もあり、「地底の太陽」と呼ばれる顔のモニュメントが存在していましたが、万博終了と同時に行方不明となり、現在でも見つかっていません。

功績2「『今日の芸術』がベストセラーに」

『今日の芸術』

「今日の芸術-時代を想像するものは誰か」は1954年に刊行された本で、当時のベストセラー書籍となりました。執筆に至った経緯は、光文社の社長から岡本太郎へ直々に「中学生でもわかるような芸術の啓蒙書を書いて欲しい」と言われ、承諾したことからです。

この本では「今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」という文言が記載されており、話題となりました。今までの芸術を否定し、新しい芸術を生み出すことを説いた本書は多くの人に衝撃を与え、その上で受け入れられたのです。

功績3「フランス政府より芸術文化勲章を贈られる」

フランス イメージ

芸術文化勲章は1957年に創設され、フランス政府の通信省から与えられる称号です。日本におけるフランス文化の紹介、普及、支援に尽力した人が勲章の対象となります。

階級は3つに別れ、1等がコマンドゥール(Commandeur)、2等がオフィシエ(officier)、3等がシュヴァリエ(Chevalier)です。日本では全部の称号を合わせて120人がこの10年の間に授与されています。有名な人物では北野武(コマンドゥール、シュヴァリエ)、坂本龍一(オフィシエ)などが与えられました。

岡本太郎は1984年にオフィシエ、1989年にコマンドゥールの称号を授かっています。

岡本太郎の名言

「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。」

最初の一歩が踏み出せないということは誰にでもあると思います。岡本太郎自身も絵が好きでありながら、何の目的で描くのかを見出せないまま時間だけが過ぎていく時期を経験しました。それでも絵の世界に進み、色々な経験を積み重ねながら、最終的には日本を代表する芸術家になったのです。

「同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ。」

岡本太郎は前衛芸術を掲げて、従来の芸術の概念を覆すことに挑戦し続けました。今までになされてきたことをなぞるだけでは面白くない、そんなことをするくらいならやらなくても同じだという意味です。岡本太郎の作品が個性にあふれているのはこの信念を貫いたからでしょう。

「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。」

岡本太郎が「太陽の塔」の構想を練った時、仲間や部下と対立したそうです。大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」でしたが、岡本太郎はこれに反発し、「頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい」として自分の信念を押し通し、周囲から反対を受けていた「太陽の塔」を作り上げたのです。

岡本太郎の名言10選!人生や芸術にまつわる格言の意図も詳細解説

岡本太郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「バラエティ番組でも人気を博す」

岡本太郎「何だ、これは!」

岡本太郎はテレビ番組でもそのキャラクターが受け、活躍しました。1950年代ごろからバラエティ番組やクイズ番組への出演を果たしています。1980年前後に放送された「日立マクセルビデオカセット」のCMでは梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ様子が好評を博し、その年の流行語大賞にノミネートされました。

その後、1980年代半ばにはバラエティ番組内でも登場シーンの際に「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」と叫びながら出てくる演出が人気を集めました。

都市伝説・武勇伝2「小学校での成績は52人中52位」

通知表

岡本太郎は小学校になかなか馴染めずに転校を繰り返していましたが、最終的には慶應義塾幼稚舎に落ち着きます。そこでも授業にはあまり参加しなかったため、成績は52人の生徒中で52番目というものでした。

ちなみにその時の51番目の成績だったのが藤山一郎です。藤山一郎はのちに国民栄誉賞を与えられる日本の歌手、作曲家で「東京ラプソディ」などのヒット曲を生み出した人物です。歌手で国民栄誉賞を獲得したのは現在までで美空ひばりと藤山一郎しかいません。そのような人と岡本太郎が同じ学校で成績のビリを争っていたのはとても興味深いですよね。

都市伝説・武勇伝3 「生涯独身だが、プレイボーイであった」

岡本太郎 作品「女」

岡本太郎は生涯独身でした。そのため子供もいません。その代わりに平野敏子という女性を養子として迎え入れ、ほとんど妻同然のような関係を築いていました。

岡本はプレイボーイとして知られ、女性に関する多くの名言も残っています。

フランスでの生活が長かったことも手伝ってか、徹底的なフェミニスト、女性第一主義としても知られていました。他人が女性の悪口を言うと厳しく叱りつけるなど、その姿勢は一貫しています。

岡本太郎の簡単年表

1911年 - 0歳
岡本太郎誕生

2月26日、神奈川県橘樹郡高津村(現:神奈川県川崎市高津区)に漫画家の岡本一平、小説家の岡本かの子の間に生まれます。

1917年 - 6歳
小学校入学も、転校を繰り返す

青山にある青南小学校へ入学するも一学期で退学し、その後、私塾や小学校の転校を繰り返しました。

1918年 - 7歳
慶應義塾幼稚舎へ入学

慶應義塾幼稚舎へ入学し、良き理解者となる教師に巡り会いました。成績に関してはあまり良くなく、最下位を取ることもあったそうです。

1929年 - 18歳
東京美術学校へ

慶應義塾普通部を卒業後、芸術の道を志し、東京美術学校(現:東京藝術大学)へ進学します。父の一平がロンドン軍縮会議の取材のためヨーロッパへ行くことになったため、家族一同渡欧しました。

1930年 - 19歳
パリに滞在する

両親は取材のためにロンドンへと向かいますが、太郎はパリへ残ることを決断します。以来10年間に渡りパリで過ごすこととなりました。

1932年 - 21歳
ピカソの絵に感動する

パリ滞在中に訪れたポール・ローザンベール画廊にて展示されていたピカソ作「水差しと果物鉢」に感動を受けます。その年の10月に展覧会に「空間」という作品を出品し、それ以後展覧会への出品を継続します。

1936年 - 25歳
ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける

画家のマックス・エルンストらとともに、コントル・アタックの集会に参加し、そこで開催されたジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受けます。

1937年 - 26歳
初の画集「OKAMOTO」を刊行

6月には自身初となる画集「OKAMOTO」を出版します。その4ヶ月後には展覧会に「傷ましき腕」を出品し、アンドレ・ブルトン(フランスの詩人・シュルレアリスムの創始者)から評価されました。

1940年 - 29歳
第二次世界大戦のドイツ軍侵攻によりフランスを離れることに

この時期は第二次世界大戦の真っ只中で、ドイツによるフランス侵攻が決行されました。身の安全を確保するために日本へと帰国することになります。

1941年 - 30歳
二科展に作品を出品し、二科賞を受賞

第28回二科展にフランスでも評価された「傷ましき腕」他4点を出品し、見事に二科賞を受賞しました。その後、日本で初の個展も開催します。

1942年 - 31歳
兵役のため中国へ

第二次世界大戦の兵役をこなすため、中国戦線へと駆り出されます。

1948年 - 37歳
「夜の会」結成

花田清輝らとともに「夜の会」を結成します。この会は岡本太郎のアトリエにかかっていた作品「夜」にちなんで名前がつけられ、前衛芸術運動を掲げて発足したものでした。

1951年 - 40歳
「岡本太郎展」開催

戦後に製作した作品のみを集めた「岡本太郎展」が日本橋三越にて開催されました。この年には東京国立博物館に展示されていた縄文土器に衝撃を受けることとなります。

1954年 - 43歳
「今日の芸術ー時代を想像するものは誰か」を刊行し、ベストセラーに

光文社社長から直々に「中学二年生でも理解できるような芸術の本を書いて欲しい」との依頼を受け、「今日の芸術ー時代を想像するものは誰か」を執筆・刊行します。今までの芸術のあり方を覆すような論評が書かれており、ベストセラーの売り上げを記録しました。

1967年 - 56歳
日本万国博覧会の展示プロデューサーに任命される

日本万国博覧会が1970年に大阪で開催されることが決定し、テーマ館展示プロデューサーに就任しました。

1970年 - 59歳
大阪万博にて「太陽の塔」展示

日本万国博覧会のシンボルゾーン中央に「太陽の塔」などを展示したテーマ館が完成します。大阪万博開催の期間中、テーマ館の館長を務めました。

1972年 - 61歳
札幌オリンピックの公式メダルを製作

1972年札幌オリンピック開催を機に公式メダルのデザインを任されます。また、同年のミュンヘンオリンピックの公式メダルのデザインも依頼されました。

1981年 - 70歳
「芸術は爆発だ!」が流行語大賞の語録賞を受賞

バラエティ番組にて梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ姿が話題となり、その年の流行語大賞にノミネートされます。大賞獲得はなりませんでしたが、語録賞を授与されました。

1984年 - 73歳
フランス政府より芸術文化勲章を授けられる

今までの功績が認められ、フランス政府より芸術文化勲章を与えられます。1989年にも再度受賞しています。

1987年 - 76歳
「ばら色の人生」にて俳優デビュー

NHK製作のドラマ「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演し、俳優デビューを果たします。この時の役柄は学校の校長先生でした。

1996年 - 84歳
急性呼吸不全にて帰らぬ人に

以前からパーキンソン病を患っていましたが、年々症状が悪化していきます。呼吸筋の衰えも生じ始め、1996年1月7日、呼吸不全に陥り、そのまま息を引き取ってしまいます。享年84歳でした。葬儀は行われず、岡本の誕生日である2月26日にお別れの会が開かれ、今までの作品が展示されました。

岡本太郎の年表

1911年 – 0歳「岡本太郎の誕生」

岡本太郎と両親

神奈川県川崎市にて岡本太郎誕生

岡本太郎は1911年2月26日、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の神奈川県川崎市高津区二子)に生まれます。両親は漫画家の父・岡本一平と小説家の母・岡本かの子です。父は収入のほとんどを遊びのために使ってしまうような放蕩者で、母は世間知らずのお嬢さんという家庭でした。

6歳になると近所の小学校へと進学しますが、馴染むことができずに退学してしまいます。その後、私塾や他の小学校を転々としますが、溶け込むことができませんでした。ようやく自分に合う学校が見つかったのは7歳の時で、慶應義塾幼稚舎に入学します。

東京美術学校へ

小学校での勉強の成績はあまりよろしくなく、52人いる生徒のうちでビリを取るほどでした。しかし、絵画に関しては小さい頃から興味を持っており、ゆくゆくは美術の道へと進むことを夢見ていました。

慶應義塾の課程を順調にこなし、慶應義塾普通部を卒業すると、東京芸術学校(のちの東京藝術大学)に進学することとなります。この時はまだ何のために絵を描くのか模索している段階でしたが、その答えを見つけるためにも芸術学校への進学を決意したのです。

1932年 – 21歳「ピカソの描いた絵に衝撃を受ける」

岡本太郎とピカソ

父・一平の渡欧に同伴し、フランス・パリへ

1929年、ロンドン海軍軍縮会議の取材のため父・一平がヨーロッパへと旅立つことになります。それに連れ立って岡本太郎を含めた岡本家一行も渡欧することになりました。神戸港を出航した箱根丸に乗船し、一路フランス・パリへと向かいます。

両親は取材のためロンドンへと移動しますが、岡本太郎はパリへ残ることに決めます。以来10年間をフランス・パリで過ごすことになりました。パリ滞在中にはパリ大学(ソルボンヌ大学)にて美術や民俗学を学びます。

たまたま訪れた画廊に展示してあったピカソの絵に感動する

岡本太郎はパリへと滞在してからも自分が何のために絵を描きたいのかがわからずに煩悶する日々が続きました。そんなある日、偶然観覧することになったポール・ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの絵画を発見します。

題名は「水差しと果物鉢」で太郎はこの絵を見た瞬間に今まで味わったことのないような衝撃を受けました。これ以来、「ピカソを超える」ことを目標に芸術の世界へ飛び込むことを決心したのです。

1937年 – 26歳「後年にわたって評価される『傷ましき腕』を発表」

傷ましき腕

展覧会に「傷ましき腕」を出品

1937年6月には自身初めてとなる画集「OKAMOTO」を刊行します。そして10月の展覧会に「傷ましき腕」を出品し、アンドレ・ブルトンに評価されました。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの創立者でサルバドール・ダリなどと近しい存在として知られています。

「傷ましき腕」はこの後も、1938年にシュルレアリスム・パリ展、1941年二科展、1950年読売新聞社主催の展覧会、1972年ミュンヘン・シュルレアリスム展など数多くの展覧会で展示されることになりました。

第二次世界大戦の情勢悪化により日本へ戻る

第二次世界大戦は年々激しさを増していき、1940年にはドイツ軍によるフランス侵攻が開始しました。岡本は自らの身を案じてパリを離れることを決意し、日本への最後の引き揚げ船となる白山丸で日本へと戻ることになります。

日本へ戻ってから2年後には自身も戦争への兵力として駆り出され、中国へと派遣されています。この期間中に岡本太郎が画家であるという噂が広がり、上官の命令で師団長の肖像画を描くように言われたこともありました。

1941年 – 30歳「二科展で二科賞を受賞する」

二科展

二科展に「傷ましき腕」を出品し、二科賞を受賞する

1941年9月、第28回二科展に「傷ましき腕」を含む計4点を出品し、見事に二科賞を受賞します。同年には初となる個展を日本で開催することとなりました。ヨーロッパ滞在時の作品を展示し、作品紹介のパンフレットには横光利一、藤田嗣治など芸術界のそうそうたるメンツがコメントを寄せます。

この後も二科展には出品を頻繁に行い、1947年には二科会員に推薦されました。ちょうどこの頃には岡本自身も心機一転、世田谷区に自分のアトリエを構え、「新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を新聞に載せ、芸術界に対する意気込みを見せつけます。

前衛芸術についての会合「夜の会」発足

1948年、前衛芸術について話しあう会を設け、「夜の会」と命名しました。メンバーは花田清輝、埴谷雄高、安部公房などで、会の名前は岡本太郎の部屋に飾ってあった油彩画「夜」にちなんでいます。1950年には「アヴァンギャルド美術家クラブ」も創立し、植村鷹千代、小松義雄、瀧口修造らが会員として参加しました。

また、この頃には東京国立博物館で鑑賞した縄文土器に感動し、後年縄文土器に関する本をいくつか執筆することとなります。

1954年 – 43歳「ベストセラー作家にもなり、万博のプロデューサーにも選出される」

太陽の塔

「今日の芸術-時代を想像するものは誰か」を出版し、ベストセラーに

1954年、光文社社長から「中学二年生でも理解できるような芸術の啓蒙書を書いて欲しい」と依頼され、これを引き受けます。完成した作品は「今日の芸術-時代を想像するものは誰か」で、芸術は人生そのものであるという内容と今までの芸術のあり方を批判するような論評が受け、ベストセラーとなりました。

1950年代は本を執筆したこと以外にも、初のテレビ出演や映画のデザインへの関与、巨大壁画の制作など新しいことへの挑戦も増えていきます。

大阪万国博覧会で「太陽の塔」制作

1967年に日本で万国博覧会が開催されることが決定します。岡本太郎はテーマ館のプロデューサーを任され、今までにないような構想を練っていきました。そうして生まれたのが「太陽の塔」です。1970年、大阪万博は大成功に終わりましたが、「太陽の塔」も万博のシンボルとして大いに注目を集めました。

後年、「太陽の塔」は永久保存されることが決まり、大阪万博の開催の地である「万博公園」に現在も展示されています。

1972年 – 61歳「札幌オリンピック、ミュンヘンオリンピックの公式メダルのデザインを担当」

札幌オリンピック公式メダル

オリンピックの公式メダルのデザインを依頼される

1972年に札幌で冬季オリンピックが開催されることになりました。岡本太郎は同大会の公式メダルをデザインするように依頼されます。同じ年にミュンヘンにて夏季オリンピックも開催される予定となり、その大会のメダルデザインも任されました。

ちなみに岡本太郎は1964年東京オリンピックの参加記念メダルのデザインも担当しています。この時は表側のデザインのみの依頼で、裏側は田中一光が手がけました。

「芸術は爆発だ!」が流行語大賞ノミネート

岡本太郎はテレビ出演が多く、1950年代に初めて番組に出演したのを皮切りに、クイズ番組やバラエティ番組に多く登場しています。CMにも出演しており、「日立マクセルビデオカセット」のCMで梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫ぶ姿が反響を呼び、その年の流行語大賞にノミネートされました。惜しくも大賞は逃しましたが、語録賞を獲得しています。

1980年代のバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」ではレギュラー出演するようになり、煙の立ち込める中、梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」、「なんだ、これは!」と叫ぶ様子が人気を博しました。

1996年 – 84歳「岡本太郎死去・死因は急性呼吸不全」

フランス政府より芸術文化勲章を授与される

芸術文化勲章

1984年、これまでの功績を讃え、フランス政府より芸術文化勲章を贈られました。この称号は芸術家、作家、創作者など、同業者からの尊敬を表す勲章で、フランス文化の発展・普及に貢献した人物に与えられるものとなっています。

芸術文化勲章は3つの階級から成り立っており、シュヴァリエ(3等)、オフィシエ(2等)、コマンドゥール(1等)に分かれます。岡本太郎は1984年にオフィシエ、1989年にコマンドゥールに選ばれました。日本人では他にも、北野武(コマンドゥール)や安藤忠雄(コマンドゥール)、川端康成(オフィシエ)などが保有しています。

急性呼吸不全が死因となり帰らぬ人に

岡本太郎は晩年、パーキンソン病を患っていました。パーキンソン病は体の震えが起こったり、筋肉が硬直して動きづらくなったりする病気です。そして、症状が進行すると筋肉の脆弱化が起こり、これが呼吸筋に及んだ場合に呼吸不全を引き起こすのです。

岡本は晩年も精力的に作品作りに取り組んでいましたが、80歳を超えてから体調を崩すことが多くなり、パーキンソン病の病状も進行していきました。1996年1月7日、呼吸筋の低下が顕著になり、呼吸不全を発症し、そのまま息を引き取り帰らぬ人となってしまうのでした。

岡本太郎の関連作品

代表作品

1/350スケール 太陽の塔 PVC&ABS製 塗装済み 完成品


「太陽の塔」を350分の1のスケールに集約した商品です。実物も微妙に左に傾いているのですが、それを忠実に再現しており、とても精巧な作りとなっています。台座には岡本太郎自身の直筆風で「太陽の塔」と記されており、ファンにはたまらないデザインです。

カプセルQミュージアム 岡本太郎アートピース集 光の饗宴 【6.犬の植木鉢】


岡本太郎作品の「犬の植木鉢」をフィギュアにした商品です。こちらはシリーズ物となっており、他にもいろいろな岡本太郎の彫刻作品が取り揃えてあります。色合いや形、ディテールに凝った商品となっているので岡本太郎の作品が好きな方にはおすすめです。

岡本太郎デザイン 1972年 ミュンヘンオリンピック 記念メダル ケース付き


岡本太郎がデザインした1972年ミュンヘンオリンピックの記念メダルのレプリカです。材質は本物と異なりますが、デザインは本物を忠実に再現しています。表面も裏面も精巧に作られており、遠目から見るだけでは本物と見間違えてしまいます。

岡本太郎の代表作品5選!絵画やモニュメント、壁画の制作秘話も解説

おすすめ書籍・本・漫画

自分の中に毒を持て


「人間はみんな人に好かれようとし過ぎている、安全な道を選び過ぎている、時には人に嫌われてもいいから自分の信念を貫け」というメッセージを発信し続けた岡本太郎の生き様が描かれた本です。長年多くの人に愛されてきたこの本が新装ました。岡本太郎の思想に触れたい方にはおすすめです。

今日の芸術-時代を想像するものは誰か


今までの芸術はうまい絵を描くことを目標としていましたが、岡本太郎は「芸術はうまくあってはならない。きれいであってはならない。」と提唱します。この考えが反響を呼び、ベストセラーとなった一冊です。

強く生きる言葉


テレビやCMで発した言葉が流行語になるほどキャッチーな名言を生み出す岡本太郎。彼が生涯の間にこぼした言葉を集め、さまざまな悩みを抱えている現代人に勇気を与えてくれる一冊に仕上げられています。

岡本太郎についてよくわかるおすすめ本8選【作品集や自伝、芸術論などを紹介】

おすすめの動画

「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」 岡本太郎は何者?

岡本太郎に迫ったドキュメンタリーの動画です。彼の芸術に対する考え方、生き様などがよくわかる内容となっています。岡本太郎の名言を実際に彼自身の口から聞くことができるので、より強い印象を覚えます。

タモリ対談_2

テレビ司会者のタモリが岡本太郎と対談をする動画になります。個性的な2人ですが、見事に会話が調和しており、普通ならばなかなか突っ込むことのできない話題まで話が及んでいます。岡本太郎の喋っている姿を見ることでその人となりにも触れることができると思われます。

おすすめの映画

太陽の塔

1970年の高度経済成長真っ只中で開催された大阪万博。そのシンボルとしても知られる「太陽の塔」がいまだに多くに人々を魅了している理由に迫ります。制作に携わった人から、岡本太郎に近しい人までを取材する中で見えてきた真相とは?

おすすめドラマ

TAROの塔

岡本太郎の生涯を家族模様から「太陽の塔」制作秘話まで詳細に表現したドラマです。岡本太郎を松尾スズキが演じ、助演俳優に常盤貴子、田辺誠一、濱田岳、寺島しのぶという豪華キャストを迎えた作品となっています。

岡本太郎についてのまとめ

岡本太郎はピカソに影響を受け、芸術家の道へ進むことを決心し、生涯に数多くの作品を残しました。中でも大阪万博の「太陽の塔」と渋谷駅の「明日の神話」は多くの人に衝撃と感動を与えたことでしょう。岡本太郎自身のキャラクターも受け、テレビやCMにも出演するなど多岐にわたって活躍をしました。

最後はパーキンソン病の悪化による呼吸不全にて亡くなりますが、現在でもその作品はアーティストをはじめとする各界の人々に影響を与えています。

今回は岡本太郎についてご紹介しました。この記事で彼の魅力を知り、興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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