宮沢賢治の名言10選!言葉の背景や意図も解説

みんなが遊んでいる時に、一人でいることで感じる侮辱や孤独から、歌が生まれる。

みんなが町で暮したり、一日あそんでゐるときに、おまへはひとりであの石原の草を刈る。そのさびしさでおまへは音をつくるのだ。多くの侮辱や窮乏の、それらを噛んで歌ふのだ。

みんなが賑やかな町で楽しく遊んでいる一方で、自分は一人で草刈りをしていたのなら、自分もみんなの輪に混ざりたいという思いもあるでしょうし、みんなからは何で一人でいるんだという侮辱も受けるかもしれません。それでも孤独でいることが創作活動に繋がるのだから、孤独を噛み締めて創作しなさいという意味です。

これは宮沢賢治の「告別」という詩の一部です。宮沢賢治が花巻農学校の教師を辞する際に書いた詩と言われています。教え子に音楽の才を持った若者がいて、その青年に向けての思いもあったようです。クリエイターと呼ばれるような職種の人たちからの支持が高い名言で、この言葉を胸に日々創作活動に打ち込む人も多いようです。

恋愛とは互いの魂が完全に永久にどこまでも一緒に行こうとするもので、性欲とは恋愛の理想が追及できずに辻褄を合わせるためのものだ。

じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと、完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする、この変態を恋愛といふ。そしてどこまでもその方向では、決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を、むりにもごまかし求め得やうとする、この傾向を性慾といふ。

宮沢賢治の初の詩集「春と修羅」に収められている「小岩井農場」パート九にあります。宮沢賢治にとって、恋愛とは「その人の魂と完全にいつまでもどこまでも一緒に行こうとするもの」でした。しかしそれは理想論であって、現実にはできないから、それを誤魔化すために人は性欲へと動くというのです。

この詩は、シンガーソングライターの米津玄師が愛読していることでも知られています。彼の楽曲には、宮沢賢治の作品からインスパイアされたものもあるそうです。

少しずつ身をもって学んでいくことが、これからの新しい学問である。

きみのやうにさ、吹雪やわづかの仕事のひまで、泣きながら、からだに刻んで行く勉強が、まもなくぐんぐん強い芽を噴いてどこまでのびるかわからない、それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ。

「春と修羅」第三集に収められています。宮沢賢治は、知識だけでは人を動かすことはできない、経験から得たものが本当に人の心を揺さぶるという話を他でもしています。

教育格差が社会問題になっています。確かに、生まれ育った環境によって左右されるものはあるかもしれません。しかし、たとえ塾に通えない、十分な学習教材が手に入らないからといって、学問を諦めるのではなく、自身の体験から学べることこそ学問だと言ってくれる宮沢賢治の言葉は、一つの希望の光になる気がします。

永久の未完成が完成なのだ。

永久の未完成これ完成である。

「農民芸術概論綱要」という宮沢賢治の芸術論に含まれているものです。どんなことも問い続ける姿勢を大事にした宮沢賢治にとって、完成というものは無かったように思います。それに対して悩む姿も見られますが、問うことをやめないことこそが完成だという境地に至ったのかもしれません。

世の中で何らかの仕事で「プロ」と呼ばれている人たちは、常に向上心を忘れず、歩みを止めません。皆に認められているからと言って、今の自分が完成形だとは思っていないのでしょう。それを思うとこの言葉の意味がずしりと響きます。

どんなことも自分のことは二の次にして、よく聞いて理解し、忘れない。

アラユルコトヲ、ジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の一節として有名ですね。この詩全体が宮沢賢治の理想像なのでしょうが、どう考えてもこんな人はいないでしょう!と言いたくなる人の話です。しかし、こういう人になりたいという思いが少しでもあれば、人は変われるとも思います。

特にこの一節は、人とコミュニケーションをとる時に大切にしたいですね。こういう謙虚な気持ちがあったならば、人との関係はきっと上手く行くと思います。

1 2 3

1 COMMENT

コメントを残す