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鳩山一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や由紀夫との関係、政策や死因についても紹介】

鳩山一郎は戦後に総理大臣を務め、自民党の初代総裁となると共にソ連との国交回復に尽力した人物です。友愛精神の政治理念を掲げ、日本とソ連の国交回復だけでなく、独立体制の整備、経済自立の達成等の目標を掲げます。世間は鳩山ブームに沸いたのです。

一郎はソ連との国交回復を達成させると共に、国際連合への加入を成功させます。その結果シベリアに抑留されていた多くの日本人を救う事が出来ました。更に自由党と民主党を合併させ、自由民主党を結成しています。一郎は初代総裁に就任しています。一郎は国際的にも現在の日本にも大きな影響を与えた人物なのです。

総理大臣就任時の鳩山一郎

一郎は戦後に活躍した政治家と思われがちですが、初めて国会議員になったのは1915年。ずっと昔から活躍していた政治家です。そして戦前は政治闘争に明け暮れ、軍部の介入を招くきっかけを作った人物でもあります。一郎が総理大臣になるまでには実に険しい道のりがありました。

学校で日本史を習っていると、戦後は駆け足になってしまいます。ただこの時期に決められた事が現在の私達の生活に直結している部分もある為、非常に重要な時代でもあります。

今回は鳩山一郎の生涯を近代日本史が大好きな筆者が紹介させていただきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

鳩山一郎とはどんな人物か

名前鳩山一郎
誕生日1883年1月1日
没日1959年3月7日
生地東京府東京市牛込区東五軒町
(現東京都新宿区)
没地東京都文京区
配偶者鳩山薫
埋葬場所谷中霊園(東京都台東区)

鳩山一郎の生涯をダイジェスト

鳩山一郎

鳩山一郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 1883年 東京市牛込区で誕生
  • 1907年 東京都帝国大学卒業後、父の弁護士事務所に勤務
  • 1915年 立憲政友会の公認で衆議院議員に当選
  • 1931年 犬養毅内閣で文部大臣に就任
  • 1943年 東條内閣を批判して軽井沢に移り住む
  • 1946年 総理大臣就任直前に公職追放となる
  • 1954年 内閣総理大臣に就任
  • 1956年 日ソ共同宣言に調印
  • 1959年 76歳で死去

鳩山一郎の家系図は?鳩山由紀夫との関係は?

首相当時の一郎と孫の由紀夫(中央)・邦夫(右)兄弟

鳩山家は政界の名門です。鳩山家は元々勝山藩(現岡山県)の武士の一族ですが、鳩山家の初代と呼ばれるのは一郎の父である鳩山和夫です。日本人第一号の法学博士となり、外務次官、衆議院議長を歴任しています。

和夫は二男一女をもうけており、一郎は長男です。次男の秀夫も衆議院議員を務めていますが、法律家として身を立てました。長女のかつ(一郎の姉)は政友会総裁になった鈴木喜三郎に嫁ぎました。

一郎は一男五女をもうけ、鳩山家の基盤は長男の威一郎が受け継ぎます。妻の安子はブリジストン創設者の石橋正二郎の娘です。石橋家は高額所得者の上位の常連である他、一郎の娘達も財界関係者の家系と結婚しています。

威一郎は二男一女をもうけ、長男の由紀夫は内閣総理大臣を務めています。つまり由紀夫は一郎の孫にあたります。次男の邦夫も衆議院議員だったものの2016年に死去。鳩山和子は筑波大学教授の井上多門に嫁ぎました。

鳩山一郎の性格や交友関係は?

1924年頃の三木武吉

一郎はお金持ちの家に産まれた為、いわゆるお坊ちゃんとして育てられます。涙もろく悲しい話にはすぐに泣いていたそうです。汚れ仕事や腹芸は出来ない性格だった為、政治家として不向きな性格だったと思われます。

そんな一郎は有力な政治家と交友関係を持ち、勢力を拡大していきました。戦前は政友会の有力者である森恪や義兄の鈴木喜三郎らと結束。太平洋戦争直前には敵対していた民政党総裁の町田忠治と結束しました。

一郎の生涯の親友が三木武吉です。一郎の代わりに権謀術策を尽くし、共に民主党と自由党の合同を果たします。公職追放中の一郎に対し「俺がお前をいつか総理にしてやる」と労を惜しみませんでした。

一郎の周りには自然と色んな人が集まっており、それは友を愛して信じると言う事を信条にしていたからです。きっと人を惹きつける魅力があったのでしょうね。

鳩山一郎内閣の政策は?戦前の鳩山一郎は何をしていた?

第一次鳩山内閣

鳩山一郎内閣は1954年12月に憲法改正・再軍備・自主外交を掲げて発足されます。国民の支持を受け鳩山ブームを巻き起こします。総選挙を実施しますが、過半数を得るまでには至りませんでした。

一郎は憲法改正と再軍備は棚上げし、外交問題を中心に政策を実行。日ソ共同宣言を批准し、ソ連との国交を回復します。その結果国際連合にも加入します。更には中国と貿易協定を結ぶ等、国際的な地位向上に努めました。

戦前の一郎は1915年に衆議院議員となります。1927年には総理大臣の田中義一に気に入られ、内閣書記秘書官に任命されます。当時の一郎は政権闘争に明け暮れ、議員としては問題のある行動も多かったのです。

ロンドン海軍軍縮会議では軍縮問題に内閣が口を挟むのは問題だと浜口内閣を攻撃。その結果濱口雄幸は襲撃されると共に軍部の暴走を招きました。戦前の行動はGHQから危険視され、公職追放の原因となりました。

鳩山一郎の功績

功績1「軍部の台頭に抵抗した」

翼賛選挙のポスター

権力闘争に明け暮れた一郎でしたが、太平洋戦争前夜は戦争に反対の立場をとります。一党独裁を掲げた新体制運動に反発し、政友会と民政党を合同させて対抗しようと画策したのです。

1942年には東条内閣のもとで軍部に協力的な政治家が有利な選挙である翼賛選挙が行われます。一郎は推薦を受けず、圧倒的不利な状況で立候補し、見事当選しています(非推薦者は466人中わずか85人)。

元々は自分の責任でもあるものの、こうした軍部の台頭に抵抗した事は国民の目に焼きつく事になり、戦後の総理大臣として活躍するきっかけにもなったのです。

功績2「初代自由民主党総裁となった」

自由民主党本部

一郎は多くの保守派の政治家を集めて自由民主党を結成します。自由民主党は議席の3分の2を占める巨大与党に成長し、その後も多くの内閣が成立したのです。

一郎が生み出した自由民主党が優位の政治のあり方は55年体制と呼ばれ、40年に渡りその状態が続きます。自由民主党の政権下のもとで高度経済成長や沖縄返還等が行われた事を考えると、一郎の影響は計り知れませんね。

ちなみに一郎は日ソ共同宣言を締結した後は後任に譲る為、あっさりと総裁を辞職しています。一郎は権力にしがみつかず、自分の役割を終えると鮮やかに政治家を引退したのです。

功績3「日ソ共同宣言を締結した 」

日ソ共同宣言の様子
出典:好書好日

前述した通り一郎は日ソ共同宣言を締結させた事で、シベリア抑留されていた日本人を帰還させます。更に戦勝国であるソ連から許可を得る形で国際連合に加入し、国際社会にも復活したのです。

この功績は吉田茂のサンフランシスコ平和条約の締結と日本独立に匹敵するものであり、戦後の日本の復興を象徴しました。実はこの一郎の功績は吉田茂への対抗心から生まれたものだったのです。

一郎は1946年に幣原喜重郎内閣の後に総理大臣となる事が確実視されていましたが、公職追放により内閣は幻に終わります。代打となった吉田茂は一郎が公職追放後も内閣から降りる事はなく、両者の仲は険悪となります。

「吉田茂に負けたくない」という思いから、吉田茂が成し遂げられなかった事を実現したのですね。

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