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鳩山一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や由紀夫との関係、政策や死因についても紹介】

鳩山一郎は戦後に総理大臣を務め、自民党の初代総裁となると共にソ連との国交回復に尽力した人物です。友愛精神の政治理念を掲げ、日本とソ連の国交回復だけでなく、独立体制の整備、経済自立の達成等の目標を掲げます。世間は鳩山ブームに沸いたのです。

一郎はソ連との国交回復を達成させると共に、国際連合への加入を成功させます。その結果シベリアに抑留されていた多くの日本人を救う事が出来ました。更に自由党と民主党を合併させ、自由民主党を結成しています。一郎は初代総裁に就任しています。一郎は国際的にも現在の日本にも大きな影響を与えた人物なのです。

総理大臣就任時の鳩山一郎

一郎は戦後に活躍した政治家と思われがちですが、初めて国会議員になったのは1915年。ずっと昔から活躍していた政治家です。そして戦前は政治闘争に明け暮れ、軍部の介入を招くきっかけを作った人物でもあります。一郎が総理大臣になるまでには実に険しい道のりがありました。

学校で日本史を習っていると、戦後は駆け足になってしまいます。ただこの時期に決められた事が現在の私達の生活に直結している部分もある為、非常に重要な時代でもあります。

今回は鳩山一郎の生涯を近代日本史が大好きな筆者が紹介させていただきます。

鳩山一郎とはどんな人物か

名前鳩山一郎
誕生日1883年1月1日
没日1959年3月7日
生地東京府東京市牛込区東五軒町
(現東京都新宿区)
没地東京都文京区
配偶者鳩山薫
埋葬場所谷中霊園(東京都台東区)

鳩山一郎の生涯をダイジェスト

鳩山一郎

鳩山一郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 1883年 東京市牛込区で誕生
  • 1907年 東京都帝国大学卒業後、父の弁護士事務所に勤務
  • 1915年 立憲政友会の公認で衆議院議員に当選
  • 1931年 犬養毅内閣で文部大臣に就任
  • 1943年 東條内閣を批判して軽井沢に移り住む
  • 1946年 総理大臣就任直前に公職追放となる
  • 1954年 内閣総理大臣に就任
  • 1956年 日ソ共同宣言に調印
  • 1959年 76歳で死去

鳩山一郎の家系図は?鳩山由紀夫との関係は?

首相当時の一郎と孫の由紀夫(中央)・邦夫(右)兄弟

鳩山家は政界の名門です。鳩山家は元々勝山藩(現岡山県)の武士の一族ですが、鳩山家の初代と呼ばれるのは一郎の父である鳩山和夫です。日本人第一号の法学博士となり、外務次官、衆議院議長を歴任しています。

和夫は二男一女をもうけており、一郎は長男です。次男の秀夫も衆議院議員を務めていますが、法律家として身を立てました。長女のかつ(一郎の姉)は政友会総裁になった鈴木喜三郎に嫁ぎました。

一郎は一男五女をもうけ、鳩山家の基盤は長男の威一郎が受け継ぎます。妻の安子はブリジストン創設者の石橋正二郎の娘です。石橋家は高額所得者の上位の常連である他、一郎の娘達も財界関係者の家系と結婚しています。

威一郎は二男一女をもうけ、長男の由紀夫は内閣総理大臣を務めています。つまり由紀夫は一郎の孫にあたります。次男の邦夫も衆議院議員だったものの2016年に死去。鳩山和子は筑波大学教授の井上多門に嫁ぎました。

鳩山一郎の性格や交友関係は?

1924年頃の三木武吉

一郎はお金持ちの家に産まれた為、いわゆるお坊ちゃんとして育てられます。涙もろく悲しい話にはすぐに泣いていたそうです。汚れ仕事や腹芸は出来ない性格だった為、政治家として不向きな性格だったと思われます。

そんな一郎は有力な政治家と交友関係を持ち、勢力を拡大していきました。戦前は政友会の有力者である森恪や義兄の鈴木喜三郎らと結束。太平洋戦争直前には敵対していた民政党総裁の町田忠治と結束しました。

一郎の生涯の親友が三木武吉です。一郎の代わりに権謀術策を尽くし、共に民主党と自由党の合同を果たします。公職追放中の一郎に対し「俺がお前をいつか総理にしてやる」と労を惜しみませんでした。

一郎の周りには自然と色んな人が集まっており、それは友を愛して信じると言う事を信条にしていたからです。きっと人を惹きつける魅力があったのでしょうね。

鳩山一郎内閣の政策は?戦前の鳩山一郎は何をしていた?

第一次鳩山内閣

鳩山一郎内閣は1954年12月に憲法改正・再軍備・自主外交を掲げて発足されます。国民の支持を受け鳩山ブームを巻き起こします。総選挙を実施しますが、過半数を得るまでには至りませんでした。

一郎は憲法改正と再軍備は棚上げし、外交問題を中心に政策を実行。日ソ共同宣言を批准し、ソ連との国交を回復します。その結果国際連合にも加入します。更には中国と貿易協定を結ぶ等、国際的な地位向上に努めました。

戦前の一郎は1915年に衆議院議員となります。1927年には総理大臣の田中義一に気に入られ、内閣書記秘書官に任命されます。当時の一郎は政権闘争に明け暮れ、議員としては問題のある行動も多かったのです。

ロンドン海軍軍縮会議では軍縮問題に内閣が口を挟むのは問題だと浜口内閣を攻撃。その結果濱口雄幸は襲撃されると共に軍部の暴走を招きました。戦前の行動はGHQから危険視され、公職追放の原因となりました。

鳩山一郎の功績

功績1「軍部の台頭に抵抗した」

翼賛選挙のポスター

権力闘争に明け暮れた一郎でしたが、太平洋戦争前夜は戦争に反対の立場をとります。一党独裁を掲げた新体制運動に反発し、政友会と民政党を合同させて対抗しようと画策したのです。

1942年には東条内閣のもとで軍部に協力的な政治家が有利な選挙である翼賛選挙が行われます。一郎は推薦を受けず、圧倒的不利な状況で立候補し、見事当選しています(非推薦者は466人中わずか85人)。

元々は自分の責任でもあるものの、こうした軍部の台頭に抵抗した事は国民の目に焼きつく事になり、戦後の総理大臣として活躍するきっかけにもなったのです。

功績2「初代自由民主党総裁となった」

自由民主党本部

一郎は多くの保守派の政治家を集めて自由民主党を結成します。自由民主党は議席の3分の2を占める巨大与党に成長し、その後も多くの内閣が成立したのです。

一郎が生み出した自由民主党が優位の政治のあり方は55年体制と呼ばれ、40年に渡りその状態が続きます。自由民主党の政権下のもとで高度経済成長や沖縄返還等が行われた事を考えると、一郎の影響は計り知れませんね。

ちなみに一郎は日ソ共同宣言を締結した後は後任に譲る為、あっさりと総裁を辞職しています。一郎は権力にしがみつかず、自分の役割を終えると鮮やかに政治家を引退したのです。

功績3「日ソ共同宣言を締結した 」

日ソ共同宣言の様子

前述した通り一郎は日ソ共同宣言を締結させた事で、シベリア抑留されていた日本人を帰還させます。更に戦勝国であるソ連から許可を得る形で国際連合に加入し、国際社会にも復活したのです。

この功績は吉田茂のサンフランシスコ平和条約の締結と日本独立に匹敵するものであり、戦後の日本の復興を象徴しました。実はこの一郎の功績は吉田茂への対抗心から生まれたものだったのです。

一郎は1946年に幣原喜重郎内閣の後に総理大臣となる事が確実視されていましたが、公職追放により内閣は幻に終わります。代打となった吉田茂は一郎が公職追放後も内閣から降りる事はなく、両者の仲は険悪となります。

「吉田茂に負けたくない」という思いから、吉田茂が成し遂げられなかった事を実現したのですね。

鳩山一郎の名言

ただ自分の真理を信じ、善と思う事を最愛の友に第一に語っては進む。

まだ薫と結婚する前の事、薫に送った手紙に添えられていた名言です。この時点で友愛の原点を持っていた事が分かります。

恐れているのは米ソ戦争だ。米ソ戦を防ぐには中ソとの関係を断交状態に置くことは逆効果で、相互の貿易、交通を盛んにすればおのずから平和への道が開ける。

一郎は友愛をスローガンに掲げて総理大臣に就任しました。その頃は冷戦が始まりつつある時代です。対立するのではなく、友愛の精神こそがお互いの為になる事を知っていたのです。

健全な若い人に譲った方が日本のためにもなると思う。

自由民主党の初代総裁を辞職した時の言葉です。権力闘争に明け暮れた一郎の姿はそこにはありません。一郎が権力に固執せずに日本の事を考えていた事が分かる名言です。

鳩山一郎の人物相関図

こちら鳩山一郎の家系図になります。

鳩山一郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「クリスチャンでありフリーメイソンだった」

フリーメイソンのシンボルマーク

一郎はクリスチャンであり、毎月賛美歌を歌う為に親戚を自宅に招いていたと由紀夫が語っています。クリスチャンで総理大臣になった人物は珍しくなく、片山哲や幣原喜重郎(推測)が挙げられます。

一郎は更にフリーメイソンに加入していました。フリーメイソンは儀式や講義を通して基本的な道徳について学び合う団体です。理念は自由 平等 友愛 寛容 人道であり、鳩山一郎内閣のスローガンにも反映されました。

加入するには様々な条件があり、昔は世界の要人やお金持ちしか加入出来ませんでした。ただの友愛団体ですが、秘匿性の高さから「世界金融を裏で操作している」「世界を動かしている」等の都市伝説が囁かれています。

一郎は華麗なる鳩山一族のメンバーであり、更に歴史を変えた1人です。そんな経緯とフリーメイソンという繋がりが噂になる要因でしょうか。

都市伝説・武勇伝2「大のゴルフ好きだった」

ゴルフの聖地であるセント・アンドリューズ

一郎は歴代総理大臣の中でも屈指のゴルフ好きと言われています。田中義一内閣や犬養毅内閣に属していた頃は政務をサボってゴルフに熱中していた為、他の閣僚から呆れられていました。

一郎はセント・アンドリューズやマスターズ等、世界の名だたるゴルフ場でプレイをしていました。当時の日本人には手が届かない名門ゴルフ場でゴルフが可能だったのは、フリーメイソンだったからと言われています。

ちなみに戦前の一郎は静岡県と福岡県で設けられたゴルフ税法案に断固反対しています。しかし総理大臣になった一郎は、公務員と業者のゴルフ禁止令を打ち出してました。戦前と戦後で心境の変化があったのでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「鳩山ファミリーが大金持ちの理由とは」

一郎の父 鳩山和夫

現在の鳩山家の総資産は400億円を超えていると言われます。政治家ファミリーとはいえ、ここまで資産があるのは特別です。鳩山家の資産のルーツは一郎の父親和夫から始まったとされます。

和夫は弁護士と衆議院議員を務める傍らで、北海道の原野という土地を政府から払い下げて地主として収入を得ていました。土地は東京ドーム58個分で、取り立ては中世ヨーロッパのようと言われ、過酷だったそうです。

鳩山家はこの他にも様々な金脈と血脈、教育を得て、繁栄していきます。

  • 国内でも珍しい4代続く政治家ファミリー
  • ファミリーの殆どは東大出身の超エリート
  • 秀で資産のある妻達
  • 浪費や身銭を切らないよう教育されている 等

ちなみに鳩山家には嫁選びに対する家訓があるとされます。鳩山家をみると一家が繁栄するのは本人の資質だけでなく、妻のお陰だという事が分かりますね。

鳩山一郎の簡単年表

1883年 - 0歳
鳩山一郎誕生

鳩山一郎は1883年1月1日に鳩山和夫と春子の長男として生まれます。当初は東五軒町に住んでいたものの、9歳の頃に音羽に引っ越します。豪邸であり、戦後に自由党の会合の場にもなった為、鳩山会館と呼ばれます。

1912年 - 29歳
東京市会議員に初当選

衆議院議員と東京市議、更に東京弁護士会会長も務めていた父和夫が1911年に亡くなります。
父の弁護士事務所で働いていましたが、これを機会に政治家に転身。1915年には立憲政友会公認で衆議院議員となります。

1927年 - 44歳
田中義一内閣で内閣書記官長となる

一郎は田中義一に気に入られる形で内閣書記官長に就任。政友会は自由民権を第一とした政党でしたが、陸軍出身の田中義一が総裁になる事で親軍派・保守的な政党に変わり、一郎の言動や行動もそれに近づきます。

1930年 - 47歳
犬養毅内閣で文部大臣となる

政友会が犬養毅内閣を発足すると一郎は文部大臣となりました。犬養毅が暗殺され斎藤実内閣になった際も留任します。思想弾圧事件の滝川事件に関与する他、樺太工業から賄賂を貰ったと報道を受け、大臣を辞職します。

1942年 - 59歳
翼賛選挙で非推薦にて当選

近衛文麿が提唱した新体制運動に伴い、政友会は解散。一郎は軍部に対抗し、翼賛選挙では徹底的な妨害を受けながらも当選しています。1943年には東條英機内閣を批判して軽井沢に隠遁しました。

1945年 - 63歳
日本自由党を結成

戦後に政界に復帰。日本自由党を結成し、一郎は総裁となります。1946年の選挙では第一党に躍進した為、総理大臣任命が確実視されますが、直後に公職追放の憂き目にあいます。追放中には脳溢血を発症しました。

1951年 - 68歳
公職追放解除後、日本民主党を結成

公職追放が解除されると、政界に復帰します。総理大臣を代理としてお願いした吉田茂は権力の旨味を覚えてしまい、一郎に政権を譲る事はありません。一郎は同志を集めて1954年に日本民主党を結成して、吉田内閣に対抗しました。

1954年 - 71歳
内閣総理大臣に就任

ようやく一郎は内閣総理大臣に就任。総選挙で日本民主党は躍進しますが、日本社会党も躍進した為、安定した政治運営が難しくなります。一郎は日本民主党と自由党を合同させ、自由民主党を結成します。更にソ連と交渉を重ね、日ソ共同宣言を締結する事に成功しました。

1959年 - 76歳
鳩山一郎死去

日ソ共同宣言締結後は総理大臣を引退。その後は療養していたものの、1959年に死去しました。

鳩山一郎の年表

1883年 – 0歳「鳩山一郎誕生」

鳩山会館

鳩山一郎誕生

鳩山一郎は1883年1月1日に東京都牛込区東五軒町で誕生します。一郎には1歳3ヶ月しか離れていない弟の秀夫がおり、2人はよく遊んでいたそうです。

1891年、一郎が9歳の頃に音羽に屋敷を建て移り住みます。後に屋敷は鳩山会館と呼ばれました。当時父親の和夫は選挙に負けており、心機一転する形で家を建築してもらったのです。

一郎はこの家の庭で、テニスや小高い丘の上で凧揚げをする等、裕福な暮らしをしています。和夫は「遊戯をしている間に人格をつくる」を信条としており、兄弟は時間がある時に一緒に遊んでもらいました。

1895年 – 12歳「高等師範学校附属小学校卒業」

鳩山春子

母春子の教育を受ける

和夫は仕事が不在で家を空ける事が多く、母春子が子ども達の教育を担います。春子は東京女子師範学校勝手掛や共立女子職業学校の創設に関わる等、教育者の一面も持っていました。

一郎達は学校より2年先の事を自宅で習っていた為、学校の成績は抜群だったそう。自宅と学校の距離はかなり離れていましたが、春子は強い体を作る為、子ども達を歩いて通わせていました。

中高も優秀な成績を収める

その後は高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属)も優秀な成績を収め、学校生活を通じて答案用紙を1番最初に出してました。

入学した第一高等学校は寮生活が前提の学校でしたが、不衛生な環境を心配した春子が校長と悶着を起こしています。一郎は快適な寮生活を送ったそうですが、春子は厳しくも過保護な面もあったようですね。

1907年 – 24歳「帝国大学を卒業し弁護士となる」

帝国大学

帝国大学卒業

一郎は帝国大学(現東大)法学部を8番の成績で入学し、3番で卒業。十分成績優秀ですが、弟の秀夫は帝大開校以来の秀才と言われており、一郎は出来が悪かった方でした。

父の弁護士事務所へ

大学卒業後は父の弁護士事務所で働き始めます。自分の将来の方針というより、父の後を継ぐ事を考えての進路でした。この頃一郎は弁論のノウハウ等、政治家に必要な技術を磨きました。

その後1911年に和夫が食道癌で56歳で死去。一郎は29歳の時に和夫死去に伴う東京市会議員の補欠選挙で当選し、政治家となりました。

1915年 – 32歳「立憲政友会公認で衆議院議員となる」

政友会本部

被選挙権を満たして議員となる

30歳を超えた一郎は第12回衆議院議員総選挙で当選し、政友会に所属。母が原敬や渋沢栄一等の有力者に相談し、援助を受けた事も後押ししました。

当時は高額納税者かつ男性しか選挙権がありません。地元の有識者を訪ね歩き、2千票程で当選した為、非常に楽だったと話しています。

当時の一郎は普通選挙反対の演説を党を代表して行う等、庶民派とは言い難い政治家でした。とはいえ当時の政友会総裁は原敬であり、積極政策(教育拡大・交通機関の整備・軍拡等)を掲げ、安定した運営を行いました。

1924年 – 41歳「政友会の分裂と変質」

田中義一

政友会の分裂

1921年の原敬暗殺後、政友会で内輪揉めが起こります。1924年に政友会は分裂し政友本党に分かれ、一郎は政友本党に所属します。政友会では元陸軍大将の田中義一が外部から招かれ総裁となります。

1926年2月に一郎は政友会に復帰。残りの党員は憲政会に入党し、1927年6月に立憲民政党と名前を変えました。政友会と民政党は太平洋戦争直前まで日本の2大政党となりますが、政権争いは激化し国民の支持を失います。

田中義一内閣発足

1927年4月に田中義一内閣が発足すると一郎は内閣書記官長に任命されます。他には義兄の鈴木喜三郎や、森恪等、今までの政友会とは毛並みの違う人物が入閣しました。

喜三郎は国粋主義で有名な平沼騏一郎の部下でもあり、喜三郎は騏一郎の意思を政友会に反映していきます。更に森恪は対中強硬外交を展開する等、政友会は右傾化していくのです。

余談ですがこの頃の一郎はゴルフにハマり、閣議をサボって熱中しています。他の閣僚が苦言を示す中、当の義一からは「ゴルフちゅうもうんはそげん面白いもんかのう」とお咎めはありませんでした。

1930年 – 47歳「統帥権干犯問題」

濱口雄幸襲撃を伝える新聞

濱口雄幸内閣発足

田中義一内閣が総辞職すると、民政党の濱口雄幸内閣が組閣します。ロンドン海軍軍縮会議が行われ、雄幸は軍部の許可を得ずに条約に同意。一郎と総裁犬養毅は政権奪還の為に禁じ手の批判を行います。

軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である

この言葉は言い換えれば軍部は政府方針を無視できるという事です。後に雄幸は統帥権干犯問題にて狙撃され、その傷が元で死去します。軍部の暴走を招いたのは他ならぬ一郎だったのです。

1931年 – 48歳「文部大臣に就任」

滝川事件を伝える新聞

犬養毅内閣発足

若槻禮次郎内閣を倒閣の為、一郎や森恪は東條英機ら陸軍首脳と手を組もうとしますが断られています。満州事変の処理に失敗し若槻内閣が退陣すると、政友会の犬養毅が総理大臣に任命され、一郎は文部大臣に就任します。

程なく犬養毅は五一五事件で暗殺。統帥権干犯問題で軍部を暴走させたツケでした。次期総裁は喜三郎だったものの、元老西園寺公望は喜三郎の思想を危険し、穏健派の海軍軍人斎藤実を総理大臣に推挙します。

斎藤実内閣の鳩山一郎

斎藤実内閣でも一郎は文部大臣に留任していますが、これといった業績はありません。

  • 京都大学の滝川教授の著書を発禁処分(滝川事件)
  • 樺太工業から賄賂を受け取ったと追求される(樺太工業問題)
  • 11万株の帝人株を払い下げさせたとされる(帝人事件)

帝人事件はでっち上げが濃厚で一郎は関与していません。答弁で「明鏡止水の心境において善処します」と話すと、マスコミは一郎が大臣を辞めると勝手に報道した為、一郎は嫌気がさし本当に大臣を辞職します。

ちなみに明鏡止水はその年の流行語になり、以降政治家が自分の弁護をする際に使われるようになりました。

1941年 – 58歳「政友会の消滅」

鈴木喜三郎

鈴木喜三郎総裁の落選

1935年の岡田啓介内閣で美濃部達吉の天皇機関説を政友会は問題視。続く選挙で政友会は民政党に大敗し、総裁の喜三郎の落選と言う大失態をおかします。国民も政友会の節操の無さに嫌気がさしていたからです。

喜三郎は1937年に総裁を引退。その後自由主義派の一郎と、親軍派の中島知久平等に政友会は分裂します。

太平洋戦争時の一郎

第二次世界大戦が勃発すると新体制運動が起こり、政友会の多くは合流。一郎は軍部と併合するのは危険と考え、民政党総裁の町田忠治と手を組みますが、妨害され政友会も民政党も解散しました。

1942年には軍部主体の翼賛選挙が行われます。一郎は非推薦ながら立候補して当選。結局は世の流れに抗えず、1943年に一郎は軽井沢で隠遁生活を送ります。

権力闘争に明け暮れた一郎の政治家生命はここで絶たれたかと思われましたが、ここからが一郎の人生の第2章とも言えるのです。

1945年 – 62歳「日本自由党の結成」

日本自由党立ち上げの頃の一郎

日本自由党の党首となる

1945年に日本が敗戦すると一郎は11月には日本自由党を結成。メンバーは旧政友会の自由主義派達です。

  • 鳩山一郎(党首)
  • 河野一郎(河野太郎の祖父)
  • 芦田均(後の内閣総理大臣)
  • 三木武吉(旧民政党党員であり一郎の盟友) 等

日本自由党の政策は

  • 軍国主義的要素を根絶
  • 自由な経済活動を促進 等でした。

1946年の総選挙では日本自由党が第1党となり、一郎は総理大臣となる事が確実となります。

1946年 – 63歳「公職追放」

公職追放の通知書をみて我が目を疑う一郎

公職追放となる

1946年5月、一郎は昭和天皇から大命降下を受ける前日にGHQから公職追放の指示を受けます。戦前の統帥権干犯問題や滝川事件が危険視された為であり、戦前のツケが回ってきたのです。

一郎は後任に吉田茂を推挙。茂は最初は断るものの「追放が解けたらすぐにでも(政権を)君に返すよ」と第一次吉田内閣を発足しました。その後は河野一郎や三木武吉等、自由党の重鎮の多くが公職追放となりました。

吉田茂内閣発足

片山哲内閣、芦田均内閣は短命に終わり、茂は長期政権を築きます。茂は元官僚の為、官僚を自由党に組み込みました。内閣は完全に茂のイエスマンで固められ、茂の政治姿勢を学んだ事から「吉田学校」と揶揄されます。

面白くないのは自由党を結成した一郎やそのメンバーです。公職追放は5年に渡り、自由党は変質していきます。その間も茂は次々と功績を残し、一郎はその焦りから1951年6月に脳溢血で倒れ半身不随となります。

1951年 – 68歳「公職追放解除」

吉田茂

吉田茂との対立

9月には吉田茂内閣はサンフランシスコ平和条約を締結。茂は人気の絶頂を迎えます。条約締結に伴い一郎達公職追放組も復帰しました。茂が勇退するにはタイミング的にも良かったものの、茂は退陣しませんでした。

これは吉田茂(官僚政治家)vs鳩山一郎(非官僚政治家)という抗争を生みました。

この抗争は後々も続き

  • 池田勇人(茂の弟子)vs河野一郎(一郎の弟子)
  • 麻生太郎(茂の孫)vs鳩山由紀夫(一郎の孫)

等、現在でも対立の本質は変わっていないのです。

1954年 – 71歳「総理大臣となる」

鳩山会館に集まった政治家達

日本民主党の結成

1952年の総選挙で一郎は半身不随の中で友愛精神を唱えた遊説を行い、全国最高点で当選します。自由党に属するものの、総理の座を譲らない茂との争いは激化。1954年一郎は改進党と合流し日本民主党を結成します。

日本民主党の政策は

  • 自主憲法論(憲法9条の廃止・修正)
  • 再軍備
  • アメリカ以外との国交強化

等です。…かつての日本自由党と真逆の政策ですが、茂がアメリカに追従し続けており世間は不満に思っていた事と、茂に対抗する為に作られた政党だからです。

ようやく総理大臣となる

この頃吉田内閣はマンネリ感から不人気となっていました。日本民主党の期待感には抗えず、1954年12月に第五次吉田茂内閣は総辞職。ようやく一郎の元に総理大臣の座が回ってきたのです。

この時は右派社会党と左派社会党に早期解散の約束を取り付けて総理大臣の指名を受けました。1955年1月24日に一郎は約束通り衆議院を解散。議場は拍手と「万歳!」の掛け声が挙がりました。

記者から何故解散したのか問われると

天の声を聞いたからです

と話した事から、この解散を「天の声解散」と呼びます。

1955年 – 72歳「第二次鳩山一郎内閣発足」

自由民主党結党大会の様子

鳩山ブーム到来

1955年2月に選挙が行われます。世間では鳩山ブームが起き、一郎は大変な人気でした。これは一郎の人柄、公職追放と脳溢血後遺症による同情、政策の期待感等、多くの要因がありました。

選挙結果は

  • 日本民主党 185議席
  • 自由党 112議席
  • 日本社会党(右左合わせて) 156議席

となります。これを受け3月に第2次鳩山内閣が成立します。

保守合同

日本民主党は躍進したものの憲法改正に必要な三分の二以上の議席は得られませんでした。更に日本社会党が統一された為、日本民主党だけでなく自由党にとっても脅威となったのです。

その為、11月には日本民主党と自由党が合同し、現在にも続く自由民主党が成立します。議席の割合が自民党が三分の二、野党が三分の一を占める状態を「55年体制」と呼び40年に渡り続く事になりました。

1955年 – 72歳「ソ連との交渉」

シベリア抑留の様子

一郎が内閣の成果として決めたもの

自民党総裁となった一郎ですが、憲法改正と再軍備は議席数の関係から棚上げせざるを得ませんでした。残る政党の目玉は「アメリカ以外との国交強化」つまりソ連との国交回復です。

サンフランシスコ平和条約には中国は招かれておらず、ソ連はそれに反発して条約に調印していません。国連に加入するには連合国全ての許可が必要でしたが、ソ連が認めない為に加入出来ずにいました。

一郎が日本民主党総裁になった頃は、多数の日本人がシベリアで強制労働されたままでした。一郎は友愛の精神と、自らの政治の功績としてソ連との国交回復を達成する事を決めました。

1956年 – 73歳「日ソ共同宣言」

日ソ共同宣言の様子

国交正常化交渉

一郎は与党基盤が変更になったとして、1955年11月に総辞職し第三次鳩山内閣を成立させます。この後本格的に国交回復が話し合われます。1956年5月には日ソ漁業交渉が決着し、日ソ間は徐々に歩み寄りました。

元々は1955年6月に交渉が進められていたものの、北方領土を巡り難航しています。1956年10月に一郎は河野一郎らとモスクワを訪問。粘り強い交渉の末、日ソ共同宣言を締結させたのです。

日ソ共同宣言の内容

決まった事は多々ありますが、大まかな内容として

  • 両国は外交関係を回復する
  • ソ連は日本の国際連合加盟を認める
  • ソ連は日本人を釈放し、日本に帰還させる。
  • 日ソ両国は通商関係の交渉を開始する
  • ソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す 等です。

12月の国際連合会議で日本の加入が認められた他、多くの日本人がシベリアから帰国しています。しかし北方領土については未だに平行線を辿り、歯舞群島と色丹島は返還の予定はありません。

1959年 – 76歳「鳩山一郎死去」

鳩山一郎銅像

政治家を引退する

1956年12月に一郎は内閣を解散。日ソ共同宣言を花道に政治家を引退しました。

ここでは掘り下げられなかったものの、フィリピンとの賠償協定中国と貿易協定原子力基本法を提出日本道路公団法 等の功績を残します。

憲法改正、再軍備については後の岸信介内閣で議論されるものの、それはまた別の機会に紹介します。

鳩山一郎死去

総理大臣引退後も衆議院議員として当選するものの、脳溢血の後遺症もあり後任の指導という形であり、表舞台には現れませんでした。引退して3年後の1959年3月7日に容態が急変し死去します。76歳でした。

鳩山一郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

鳩山一郎回顧録

1957年に出版された鳩山一郎の回顧録の電子書籍版です。旧字から新字体に変更されている等、読みやすくなりました。ユーモアをまじえた淡々とした語りからは暖かい人柄が伝わってきます。

池上彰と学ぶ日本の総理 第6号 鳩山一郎

池上彰と学ぶ日本の総理大臣シリーズです。鳩山一郎内閣の概要だけでなく、生涯や当時の情勢等が分かりやすく書かれています。受験にも活用出来る他、初めてこの時代を知りたいと思った時にオススメの1冊です。

歴史劇画 大宰相 第二巻 鳩山一郎の悲運

戸川猪佐武の小説吉田学校をさいとう・たかをが劇画化したものです。第二巻では吉田茂との闘争を経て、鳩山内閣が発足するまでが描かれており、政治家の虚構と真実について深く学ぶ事が出来ますよ。

おすすめの動画

【日本史】 現代10 昭和戦後10 成長の時代1 (17分)

こちら高校入試用の動画です。鳩山内閣で起きた出来事を図で表記しているので、55年体制等文章ではピンとこない事柄も自然と理解出来るようになっています。こちらのシリーズはどれも分かりやすくて良いですね。

昭和宰相列伝5 鳩山一郎、石橋湛山(1954-1957)

鳩山内閣と石橋内閣の事を紹介した当時のニュースです。ちなみに動画内には若き日の中曽根康弘も映っています。一郎のスピーチからは人柄が伝わり、野党からも一定の支持があった事が分かりますね。

おすすめの映画

小説吉田学校

小説吉田学校を映画化したものであり、一郎は吉田茂のライバルとして登場しています。戦後の政治劇を描いた作品は少なく、重厚な役者陣が揃う今作は時代を経ても色褪せない名作です。

関連外部リンク

鳩山一郎についてのまとめ

今回は鳩山一郎の生涯について紹介しました。戦前の一郎は権力闘争に明け暮れた政治屋であり、軍の暴走の片棒を担いだ事は否めません。それでも肯定的な評価を持つ人が多いのは、友愛の精神と、去り際の潔さではないでしょうか?

自分の使命を悟り、役割を終えたら次世代に引導を渡す。自分もまた一郎の精神を見習いたいものですね。

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