鳩山一郎の名言
ただ自分の真理を信じ、善と思う事を最愛の友に第一に語っては進む。
まだ薫と結婚する前の事、薫に送った手紙に添えられていた名言です。この時点で友愛の原点を持っていた事が分かります。
恐れているのは米ソ戦争だ。米ソ戦を防ぐには中ソとの関係を断交状態に置くことは逆効果で、相互の貿易、交通を盛んにすればおのずから平和への道が開ける。
一郎は友愛をスローガンに掲げて総理大臣に就任しました。その頃は冷戦が始まりつつある時代です。対立するのではなく、友愛の精神こそがお互いの為になる事を知っていたのです。
健全な若い人に譲った方が日本のためにもなると思う。
自由民主党の初代総裁を辞職した時の言葉です。権力闘争に明け暮れた一郎の姿はそこにはありません。一郎が権力に固執せずに日本の事を考えていた事が分かる名言です。
鳩山一郎の人物相関図
こちら鳩山一郎の家系図になります。
鳩山一郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「クリスチャンでありフリーメイソンだった」

一郎はクリスチャンであり、毎月賛美歌を歌う為に親戚を自宅に招いていたと由紀夫が語っています。クリスチャンで総理大臣になった人物は珍しくなく、片山哲や幣原喜重郎(推測)が挙げられます。
一郎は更にフリーメイソンに加入していました。フリーメイソンは儀式や講義を通して基本的な道徳について学び合う団体です。理念は自由 平等 友愛 寛容 人道であり、鳩山一郎内閣のスローガンにも反映されました。
加入するには様々な条件があり、昔は世界の要人やお金持ちしか加入出来ませんでした。ただの友愛団体ですが、秘匿性の高さから「世界金融を裏で操作している」「世界を動かしている」等の都市伝説が囁かれています。
一郎は華麗なる鳩山一族のメンバーであり、更に歴史を変えた1人です。そんな経緯とフリーメイソンという繋がりが噂になる要因でしょうか。
都市伝説・武勇伝2「大のゴルフ好きだった」
一郎は歴代総理大臣の中でも屈指のゴルフ好きと言われています。田中義一内閣や犬養毅内閣に属していた頃は政務をサボってゴルフに熱中していた為、他の閣僚から呆れられていました。
一郎はセント・アンドリューズやマスターズ等、世界の名だたるゴルフ場でプレイをしていました。当時の日本人には手が届かない名門ゴルフ場でゴルフが可能だったのは、フリーメイソンだったからと言われています。
ちなみに戦前の一郎は静岡県と福岡県で設けられたゴルフ税法案に断固反対しています。しかし総理大臣になった一郎は、公務員と業者のゴルフ禁止令を打ち出してました。戦前と戦後で心境の変化があったのでしょうか。
都市伝説・武勇伝2「鳩山ファミリーが大金持ちの理由とは」
現在の鳩山家の総資産は400億円を超えていると言われます。政治家ファミリーとはいえ、ここまで資産があるのは特別です。鳩山家の資産のルーツは一郎の父親和夫から始まったとされます。
和夫は弁護士と衆議院議員を務める傍らで、北海道の原野という土地を政府から払い下げて地主として収入を得ていました。土地は東京ドーム58個分で、取り立ては中世ヨーロッパのようと言われ、過酷だったそうです。
鳩山家はこの他にも様々な金脈と血脈、教育を得て、繁栄していきます。
- 国内でも珍しい4代続く政治家ファミリー
- ファミリーの殆どは東大出身の超エリート
- 秀で資産のある妻達
- 浪費や身銭を切らないよう教育されている 等
ちなみに鳩山家には嫁選びに対する家訓があるとされます。鳩山家をみると一家が繁栄するのは本人の資質だけでなく、妻のお陰だという事が分かりますね。
鳩山一郎の簡単年表
鳩山一郎は1883年1月1日に鳩山和夫と春子の長男として生まれます。当初は東五軒町に住んでいたものの、9歳の頃に音羽に引っ越します。豪邸であり、戦後に自由党の会合の場にもなった為、鳩山会館と呼ばれます。
衆議院議員と東京市議、更に東京弁護士会会長も務めていた父和夫が1911年に亡くなります。
父の弁護士事務所で働いていましたが、これを機会に政治家に転身。1915年には立憲政友会公認で衆議院議員となります。
一郎は田中義一に気に入られる形で内閣書記官長に就任。政友会は自由民権を第一とした政党でしたが、陸軍出身の田中義一が総裁になる事で親軍派・保守的な政党に変わり、一郎の言動や行動もそれに近づきます。
政友会が犬養毅内閣を発足すると一郎は文部大臣となりました。犬養毅が暗殺され斎藤実内閣になった際も留任します。思想弾圧事件の滝川事件に関与する他、樺太工業から賄賂を貰ったと報道を受け、大臣を辞職します。
近衛文麿が提唱した新体制運動に伴い、政友会は解散。一郎は軍部に対抗し、翼賛選挙では徹底的な妨害を受けながらも当選しています。1943年には東條英機内閣を批判して軽井沢に隠遁しました。
戦後に政界に復帰。日本自由党を結成し、一郎は総裁となります。1946年の選挙では第一党に躍進した為、総理大臣任命が確実視されますが、直後に公職追放の憂き目にあいます。追放中には脳溢血を発症しました。
公職追放が解除されると、政界に復帰します。総理大臣を代理としてお願いした吉田茂は権力の旨味を覚えてしまい、一郎に政権を譲る事はありません。一郎は同志を集めて1954年に日本民主党を結成して、吉田内閣に対抗しました。
ようやく一郎は内閣総理大臣に就任。総選挙で日本民主党は躍進しますが、日本社会党も躍進した為、安定した政治運営が難しくなります。一郎は日本民主党と自由党を合同させ、自由民主党を結成します。更にソ連と交渉を重ね、日ソ共同宣言を締結する事に成功しました。
日ソ共同宣言締結後は総理大臣を引退。その後は療養していたものの、1959年に死去しました。
鳩山一郎の年表
1883年 – 0歳「鳩山一郎誕生」
鳩山一郎誕生
鳩山一郎は1883年1月1日に東京都牛込区東五軒町で誕生します。一郎には1歳3ヶ月しか離れていない弟の秀夫がおり、2人はよく遊んでいたそうです。
1891年、一郎が9歳の頃に音羽に屋敷を建て移り住みます。後に屋敷は鳩山会館と呼ばれました。当時父親の和夫は選挙に負けており、心機一転する形で家を建築してもらったのです。
一郎はこの家の庭で、テニスや小高い丘の上で凧揚げをする等、裕福な暮らしをしています。和夫は「遊戯をしている間に人格をつくる」を信条としており、兄弟は時間がある時に一緒に遊んでもらいました。
1895年 – 12歳「高等師範学校附属小学校卒業」
母春子の教育を受ける
和夫は仕事が不在で家を空ける事が多く、母春子が子ども達の教育を担います。春子は東京女子師範学校勝手掛や共立女子職業学校の創設に関わる等、教育者の一面も持っていました。
一郎達は学校より2年先の事を自宅で習っていた為、学校の成績は抜群だったそう。自宅と学校の距離はかなり離れていましたが、春子は強い体を作る為、子ども達を歩いて通わせていました。
中高も優秀な成績を収める
その後は高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属)も優秀な成績を収め、学校生活を通じて答案用紙を1番最初に出してました。
入学した第一高等学校は寮生活が前提の学校でしたが、不衛生な環境を心配した春子が校長と悶着を起こしています。一郎は快適な寮生活を送ったそうですが、春子は厳しくも過保護な面もあったようですね。
1907年 – 24歳「帝国大学を卒業し弁護士となる」
帝国大学卒業
一郎は帝国大学(現東大)法学部を8番の成績で入学し、3番で卒業。十分成績優秀ですが、弟の秀夫は帝大開校以来の秀才と言われており、一郎は出来が悪かった方でした。
父の弁護士事務所へ
大学卒業後は父の弁護士事務所で働き始めます。自分の将来の方針というより、父の後を継ぐ事を考えての進路でした。この頃一郎は弁論のノウハウ等、政治家に必要な技術を磨きました。
その後1911年に和夫が食道癌で56歳で死去。一郎は29歳の時に和夫死去に伴う東京市会議員の補欠選挙で当選し、政治家となりました。
1915年 – 32歳「立憲政友会公認で衆議院議員となる」
被選挙権を満たして議員となる
30歳を超えた一郎は第12回衆議院議員総選挙で当選し、政友会に所属。母が原敬や渋沢栄一等の有力者に相談し、援助を受けた事も後押ししました。
当時は高額納税者かつ男性しか選挙権がありません。地元の有識者を訪ね歩き、2千票程で当選した為、非常に楽だったと話しています。
当時の一郎は普通選挙反対の演説を党を代表して行う等、庶民派とは言い難い政治家でした。とはいえ当時の政友会総裁は原敬であり、積極政策(教育拡大・交通機関の整備・軍拡等)を掲げ、安定した運営を行いました。
1924年 – 41歳「政友会の分裂と変質」
政友会の分裂
1921年の原敬暗殺後、政友会で内輪揉めが起こります。1924年に政友会は分裂し政友本党に分かれ、一郎は政友本党に所属します。政友会では元陸軍大将の田中義一が外部から招かれ総裁となります。
1926年2月に一郎は政友会に復帰。残りの党員は憲政会に入党し、1927年6月に立憲民政党と名前を変えました。政友会と民政党は太平洋戦争直前まで日本の2大政党となりますが、政権争いは激化し国民の支持を失います。
田中義一内閣発足
1927年4月に田中義一内閣が発足すると一郎は内閣書記官長に任命されます。他には義兄の鈴木喜三郎や、森恪等、今までの政友会とは毛並みの違う人物が入閣しました。
喜三郎は国粋主義で有名な平沼騏一郎の部下でもあり、喜三郎は騏一郎の意思を政友会に反映していきます。更に森恪は対中強硬外交を展開する等、政友会は右傾化していくのです。
余談ですがこの頃の一郎はゴルフにハマり、閣議をサボって熱中しています。他の閣僚が苦言を示す中、当の義一からは「ゴルフちゅうもうんはそげん面白いもんかのう」とお咎めはありませんでした。
1930年 – 47歳「統帥権干犯問題」
濱口雄幸内閣発足
田中義一内閣が総辞職すると、民政党の濱口雄幸内閣が組閣します。ロンドン海軍軍縮会議が行われ、雄幸は軍部の許可を得ずに条約に同意。一郎と総裁犬養毅は政権奪還の為に禁じ手の批判を行います。
軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である
この言葉は言い換えれば軍部は政府方針を無視できるという事です。後に雄幸は統帥権干犯問題にて狙撃され、その傷が元で死去します。軍部の暴走を招いたのは他ならぬ一郎だったのです。