鳩山一郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や由紀夫との関係、政策や死因についても紹介】

1931年 – 48歳「文部大臣に就任」

滝川事件を伝える新聞

犬養毅内閣発足

若槻禮次郎内閣を倒閣の為、一郎や森恪は東條英機ら陸軍首脳と手を組もうとしますが断られています。満州事変の処理に失敗し若槻内閣が退陣すると、政友会の犬養毅が総理大臣に任命され、一郎は文部大臣に就任します。

程なく犬養毅は五一五事件で暗殺。統帥権干犯問題で軍部を暴走させたツケでした。次期総裁は喜三郎だったものの、元老西園寺公望は喜三郎の思想を危険し、穏健派の海軍軍人斎藤実を総理大臣に推挙します。

斎藤実内閣の鳩山一郎

斎藤実内閣でも一郎は文部大臣に留任していますが、これといった業績はありません。

  • 京都大学の滝川教授の著書を発禁処分(滝川事件)
  • 樺太工業から賄賂を受け取ったと追求される(樺太工業問題)
  • 11万株の帝人株を払い下げさせたとされる(帝人事件)

帝人事件はでっち上げが濃厚で一郎は関与していません。答弁で「明鏡止水の心境において善処します」と話すと、マスコミは一郎が大臣を辞めると勝手に報道した為、一郎は嫌気がさし本当に大臣を辞職します。

ちなみに明鏡止水はその年の流行語になり、以降政治家が自分の弁護をする際に使われるようになりました。

1941年 – 58歳「政友会の消滅」

鈴木喜三郎

鈴木喜三郎総裁の落選

1935年の岡田啓介内閣で美濃部達吉の天皇機関説を政友会は問題視。続く選挙で政友会は民政党に大敗し、総裁の喜三郎の落選と言う大失態をおかします。国民も政友会の節操の無さに嫌気がさしていたからです。

喜三郎は1937年に総裁を引退。その後自由主義派の一郎と、親軍派の中島知久平等に政友会は分裂します。

太平洋戦争時の一郎

第二次世界大戦が勃発すると新体制運動が起こり、政友会の多くは合流。一郎は軍部と併合するのは危険と考え、民政党総裁の町田忠治と手を組みますが、妨害され政友会も民政党も解散しました。

1942年には軍部主体の翼賛選挙が行われます。一郎は非推薦ながら立候補して当選。結局は世の流れに抗えず、1943年に一郎は軽井沢で隠遁生活を送ります。

権力闘争に明け暮れた一郎の政治家生命はここで絶たれたかと思われましたが、ここからが一郎の人生の第2章とも言えるのです。

1945年 – 62歳「日本自由党の結成」

日本自由党立ち上げの頃の一郎

日本自由党の党首となる

1945年に日本が敗戦すると一郎は11月には日本自由党を結成。メンバーは旧政友会の自由主義派達です。

  • 鳩山一郎(党首)
  • 河野一郎(河野太郎の祖父)
  • 芦田均(後の内閣総理大臣)
  • 三木武吉(旧民政党党員であり一郎の盟友) 等

日本自由党の政策は

  • 軍国主義的要素を根絶
  • 自由な経済活動を促進 等でした。

1946年の総選挙では日本自由党が第1党となり、一郎は総理大臣となる事が確実となります。

1946年 – 63歳「公職追放」

公職追放の通知書をみて我が目を疑う一郎

公職追放となる

1946年5月、一郎は昭和天皇から大命降下を受ける前日にGHQから公職追放の指示を受けます。戦前の統帥権干犯問題や滝川事件が危険視された為であり、戦前のツケが回ってきたのです。

一郎は後任に吉田茂を推挙。茂は最初は断るものの「追放が解けたらすぐにでも(政権を)君に返すよ」と第一次吉田内閣を発足しました。その後は河野一郎や三木武吉等、自由党の重鎮の多くが公職追放となりました。

吉田茂内閣発足

片山哲内閣、芦田均内閣は短命に終わり、茂は長期政権を築きます。茂は元官僚の為、官僚を自由党に組み込みました。内閣は完全に茂のイエスマンで固められ、茂の政治姿勢を学んだ事から「吉田学校」と揶揄されます。

面白くないのは自由党を結成した一郎やそのメンバーです。公職追放は5年に渡り、自由党は変質していきます。その間も茂は次々と功績を残し、一郎はその焦りから1951年6月に脳溢血で倒れ半身不随となります。

1951年 – 68歳「公職追放解除」

吉田茂

吉田茂との対立

9月には吉田茂内閣はサンフランシスコ平和条約を締結。茂は人気の絶頂を迎えます。条約締結に伴い一郎達公職追放組も復帰しました。茂が勇退するにはタイミング的にも良かったものの、茂は退陣しませんでした。

これは吉田茂(官僚政治家)vs鳩山一郎(非官僚政治家)という抗争を生みました。

この抗争は後々も続き

  • 池田勇人(茂の弟子)vs河野一郎(一郎の弟子)
  • 麻生太郎(茂の孫)vs鳩山由紀夫(一郎の孫)

等、現在でも対立の本質は変わっていないのです。

1954年 – 71歳「総理大臣となる」

鳩山会館に集まった政治家達

日本民主党の結成

1952年の総選挙で一郎は半身不随の中で友愛精神を唱えた遊説を行い、全国最高点で当選します。自由党に属するものの、総理の座を譲らない茂との争いは激化。1954年一郎は改進党と合流し日本民主党を結成します。

日本民主党の政策は

  • 自主憲法論(憲法9条の廃止・修正)
  • 再軍備
  • アメリカ以外との国交強化

等です。…かつての日本自由党と真逆の政策ですが、茂がアメリカに追従し続けており世間は不満に思っていた事と、茂に対抗する為に作られた政党だからです。

ようやく総理大臣となる

この頃吉田内閣はマンネリ感から不人気となっていました。日本民主党の期待感には抗えず、1954年12月に第五次吉田茂内閣は総辞職。ようやく一郎の元に総理大臣の座が回ってきたのです。

この時は右派社会党と左派社会党に早期解散の約束を取り付けて総理大臣の指名を受けました。1955年1月24日に一郎は約束通り衆議院を解散。議場は拍手と「万歳!」の掛け声が挙がりました。

記者から何故解散したのか問われると

天の声を聞いたからです

と話した事から、この解散を「天の声解散」と呼びます。

1955年 – 72歳「第二次鳩山一郎内閣発足」

自由民主党結党大会の様子

鳩山ブーム到来

1955年2月に選挙が行われます。世間では鳩山ブームが起き、一郎は大変な人気でした。これは一郎の人柄、公職追放と脳溢血後遺症による同情、政策の期待感等、多くの要因がありました。

選挙結果は

  • 日本民主党 185議席
  • 自由党 112議席
  • 日本社会党(右左合わせて) 156議席

となります。これを受け3月に第2次鳩山内閣が成立します。

保守合同

日本民主党は躍進したものの憲法改正に必要な三分の二以上の議席は得られませんでした。更に日本社会党が統一された為、日本民主党だけでなく自由党にとっても脅威となったのです。

その為、11月には日本民主党と自由党が合同し、現在にも続く自由民主党が成立します。議席の割合が自民党が三分の二、野党が三分の一を占める状態を「55年体制」と呼び40年に渡り続く事になりました。

1955年 – 72歳「ソ連との交渉」

シベリア抑留の様子

一郎が内閣の成果として決めたもの

自民党総裁となった一郎ですが、憲法改正と再軍備は議席数の関係から棚上げせざるを得ませんでした。残る政党の目玉は「アメリカ以外との国交強化」つまりソ連との国交回復です。

サンフランシスコ平和条約には中国は招かれておらず、ソ連はそれに反発して条約に調印していません。国連に加入するには連合国全ての許可が必要でしたが、ソ連が認めない為に加入出来ずにいました。

一郎が日本民主党総裁になった頃は、多数の日本人がシベリアで強制労働されたままでした。一郎は友愛の精神と、自らの政治の功績としてソ連との国交回復を達成する事を決めました。

1956年 – 73歳「日ソ共同宣言」

日ソ共同宣言の様子

国交正常化交渉

一郎は与党基盤が変更になったとして、1955年11月に総辞職し第三次鳩山内閣を成立させます。この後本格的に国交回復が話し合われます。1956年5月には日ソ漁業交渉が決着し、日ソ間は徐々に歩み寄りました。

元々は1955年6月に交渉が進められていたものの、北方領土を巡り難航しています。1956年10月に一郎は河野一郎らとモスクワを訪問。粘り強い交渉の末、日ソ共同宣言を締結させたのです。

日ソ共同宣言の内容

決まった事は多々ありますが、大まかな内容として

  • 両国は外交関係を回復する
  • ソ連は日本の国際連合加盟を認める
  • ソ連は日本人を釈放し、日本に帰還させる。
  • 日ソ両国は通商関係の交渉を開始する
  • ソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す 等です。

12月の国際連合会議で日本の加入が認められた他、多くの日本人がシベリアから帰国しています。しかし北方領土については未だに平行線を辿り、歯舞群島と色丹島は返還の予定はありません。

1959年 – 76歳「鳩山一郎死去」

鳩山一郎銅像

政治家を引退する

1956年12月に一郎は内閣を解散。日ソ共同宣言を花道に政治家を引退しました。

ここでは掘り下げられなかったものの、フィリピンとの賠償協定中国と貿易協定原子力基本法を提出日本道路公団法 等の功績を残します。

憲法改正、再軍備については後の岸信介内閣で議論されるものの、それはまた別の機会に紹介します。

鳩山一郎死去

総理大臣引退後も衆議院議員として当選するものの、脳溢血の後遺症もあり後任の指導という形であり、表舞台には現れませんでした。引退して3年後の1959年3月7日に容態が急変し死去します。76歳でした。

鳩山一郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

鳩山一郎回顧録

1957年に出版された鳩山一郎の回顧録の電子書籍版です。旧字から新字体に変更されている等、読みやすくなりました。ユーモアをまじえた淡々とした語りからは暖かい人柄が伝わってきます。

池上彰と学ぶ日本の総理 第6号 鳩山一郎

池上彰と学ぶ日本の総理大臣シリーズです。鳩山一郎内閣の概要だけでなく、生涯や当時の情勢等が分かりやすく書かれています。受験にも活用出来る他、初めてこの時代を知りたいと思った時にオススメの1冊です。

歴史劇画 大宰相 第二巻 鳩山一郎の悲運

戸川猪佐武の小説吉田学校をさいとう・たかをが劇画化したものです。第二巻では吉田茂との闘争を経て、鳩山内閣が発足するまでが描かれており、政治家の虚構と真実について深く学ぶ事が出来ますよ。

おすすめの動画

【日本史】 現代10 昭和戦後10 成長の時代1 (17分)

こちら高校入試用の動画です。鳩山内閣で起きた出来事を図で表記しているので、55年体制等文章ではピンとこない事柄も自然と理解出来るようになっています。こちらのシリーズはどれも分かりやすくて良いですね。

おすすめの映画

小説吉田学校

小説吉田学校を映画化したものであり、一郎は吉田茂のライバルとして登場しています。戦後の政治劇を描いた作品は少なく、重厚な役者陣が揃う今作は時代を経ても色褪せない名作です。

関連外部リンク

鳩山一郎についてのまとめ

今回は鳩山一郎の生涯について紹介しました。戦前の一郎は権力闘争に明け暮れた政治屋であり、軍の暴走の片棒を担いだ事は否めません。それでも肯定的な評価を持つ人が多いのは、友愛の精神と、去り際の潔さではないでしょうか?

自分の使命を悟り、役割を終えたら次世代に引導を渡す。自分もまた一郎の精神を見習いたいものですね。

1 2 3

コメントを残す