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天才軍師「諸葛亮孔明」とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、逸話についても紹介】

諸葛孔明。その名を聞いて何を思いうかべるでしょうか?蜀の劉備に仕えた丞相(総理大臣)で、知略に満ちた軍師であり、忠節の人であり、実務にたけた政治家であり、偉大な発明家でもあった三国志時代の英雄。

おそらく中国の歴史上でもっとも知られた人物で、もっとも人気のある人物と言っても言い過ぎではないと思います。孔明は、後漢の末期の西暦181年に今の山東省で生まれました。

諸葛亮孔明

27歳で後に蜀(蜀漢)の皇帝となる劉備玄徳と出会います。劉備が三度も孔明を訪れて、漢の再興に助力を願った三顧の礼はあまりにも有名ですね。以来、54歳で五丈原の戦陣で没するまで、孔明の人生はまさに波瀾万丈のものでした。

劉備と出会ってからの孔明の半生は、正史の記述だけをとっても、とてもドラマチックなものです。そして、その半生をつらぬいた至誠の生き方は、多くの人の魂を揺さぶるエピソードにあふれています。

だからこそ、三国志演義をはじめとする多くの小説や、映画、マンガにいたるまで、孔明に題材をとった作品は、現在でも生みだされつづけ、愛されつづけるのでしょうね。

1800年の時をへだてて、なお色あせない諸葛孔明の魅力とは何なのでしょうか?さあ、その実像にせまる旅に出かけましょう。

諸葛孔明ってどんな人?

名前諸葛亮(字は孔明)
誕生日不明(西暦181年)
生地徐州の琅邪(ろうや)郡、陽都(ようと)県、現在の山東省
没日不明。西暦234年8月。享年54歳
没地五丈原
配偶者荊州襄陽の有力者、黄承彦の娘
埋葬場所蜀の漢中にある定軍山(現在の陝西省漢中市)

諸葛孔明の生涯をハイライト

諸葛孔明の人生

三国志時代の天才軍師として有名な諸葛孔明。彼は一体、どのような生涯を送ったのでしょうか。簡単にまとめたので見ていきましょう。

諸葛孔明は西暦181年に現在の山東省で、4人兄弟の次男に生まれました。劉備と出会うまでの間は勉学に励んでおり、その才能は周囲が認めるほどでした。

西暦207年、孔明の運命が大きく動きます。

ある日、知略に富んだ者を探していた劉備が諸葛孔明の元を訪ねたのです。孔明は、自分が留守でも諦めず、劉備自ら3度も訪れてくれたことに感激し、「天下三分の計」を劉備に説きました。それに感激した劉備は、孔明を家臣として受け入れます。

西暦208年、領地を曹操に追われた劉備を助けるために、孔明は一人で呉の孫権と交渉を行いました。孔明の巧みな交渉術の結果、孫権と劉備の間には同盟が結ばれ、ともに曹操軍と戦うことになりました。

三国志で有名な、赤壁の戦いです。戦いの結果は大勝。曹操軍は北へと逃げ帰り、劉備は荊州南部に勢力を確保することに成功し、天下への第一歩を踏み出しました。

中国湖北省赤壁市にある赤壁古戦場

西暦214年、劉備たちは侵攻して蜀を手に入れました。知将として活躍していた孔明は、劉備から軍師将軍、左将軍に任じられ、軍政と人事を担当することになります。その後、劉備が漢中王となったり、関羽が戦死したりとさまざまなことが起こりました。

西暦221年、劉備が蜀の帝位につきます。孔明は丞相(政治を担う最高責任者)に任命され、蜀の命運を背負うことになりました。しかし、西暦223年劉備が亡くなり、彼の子劉禅が帝位に即位します。

劉備は死の間近、孔明を呼び「君の才能は魏の王に勝る。もし、漢の再興のために皇太子である劉禅が有能であれば補佐を、帝としての資質に欠けているならば孔明が帝業を継いでほしい」と告げました。

孔明は涙を流しながら死ぬまで劉禅に忠義を尽くすことを誓います。その言葉通り、劉備の死後は戦で疲弊した国を回復するために内政に励んだり、呉との関係を修復したりと蜀を守るために奔走しました。

西暦227年、蜀の国力回復に成功した孔明は、ついに漢を再興するために魏との戦いにのぞみます。そのさいに孔明は、劉禅への忠誠と再興の決意を記した「出師の表」を奉じました。

西暦227〜234年に渡って、孔明は魏へと5回侵攻しました。しかし国力の差は歴然で、魏を滅ぼすにはいたりません。孔明は5回目の五丈原で、志半ばに病に倒れ、死を迎えました。

諸葛亮孔明の「亮」ってなに?

武候祠の諸葛孔明像

三国志の歴史を漁っていると諸葛亮孔明、と記されているのを見かけます。諸葛孔明で知られているため、それを見て「亮」ってなに?と思う方も多いのではないでしょうか?

諸葛孔明の真ん中に入っている「亮」は名前です。中国では、個人を表す名前の要素が姓と名の他にもう一つ、「字(あざな)」と3つあります。字は成人してからの名前のようなものです。

諸葛亮孔明、なら姓は「諸葛」、名前が「亮」、字が「孔明」となります。

孔明の時代では名を軽々しく呼ぶことは無礼なこととして嫌がられました。名を呼べるのは、その者よりも上の立場の人間だけです。逆に、上の立場のものが「名」ではなく「字」で呼ぶことは、その者への敬意を示す意味がありました。

中国では、3つのうちどれを呼ぶかでその者への敬意や立場、関係を表していたのです。

諸葛孔明と劉備との出会い

諸葛孔明のエピソードは数多くありますが、やはり最初に語るべきことは、孔明と劉備との出会いのエピソードである三顧の礼でしょう。

この時劉備は、敗軍の将として同属の劉表のもとに身を寄せていた浪々の身とはいえ、年齢はすでに47を数え、その名声は国中にひびいていました。

後に蜀(蜀漢)の初代皇帝となるその劉備玄徳が、徐庶の助言によって、若干27歳の無名の青年をわざわざ三度訪ねたのです。

孔明は、劉備のその熱意に感じ入ります。劉備に漢室再興の策を問われ、孔明が答えたのが、あの有名な「天下三分の計」です。

後に劉備をして「水魚の交わり」とまで言わしめた、諸葛孔明との運命的な出会いでした。時に後漢の献帝、建安12年(西暦207)のことでした。孔明はこれより劉備に臣従し、三国志の歴史を作っていくことになるのです。

諸葛孔明は誰にでも平等に接する性格だった

諸葛孔明は情に厚く、正直で誰にでも平等に接する人です。

泣いて馬謖を斬る、のエピソードから冷血なイメージを持たれる孔明ですが、それは国を思ったがゆえの行動でした。実際に自身の降格も申し出ており、自分の立場が悪くなろうと、平等であることを重視しています。

泣いて馬謖を切る

孔明の性格がわかるエピソードにはこのようなものもあります。

孔明が、本来は部下がやるべき仕事をやっていると、その部下から「私たちには私たちの仕事があります。あなたが私たちの仕事をやっていては、回るものも回らなくなり、どの仕事も終わらなくなってしまいます。働きすぎではないでしょうか」といさめられます。

このときの孔明は国の内政を取り仕切っている、上の立場の人間でした。通常、下の立場の者に意見されれば怒るようなところを、孔明は「まったくその通りだ。申し訳ない」と謝ったそうです。

さらに、彼をいさめた部下がなくなったときには3日間、涙を流し続けたと言われています。孔明は「私」よりも「公」を優先した人だったといえます。

諸葛孔明の死因は過労死だった?

5人分の働きをしていたと言われる孔明

諸葛孔明の死因は過労だったのではないか、と今では言われています。

劉備が亡くなったあと、蜀を維持するために孔明は内政に励みました。国を整えたり、軍を管理したり、部下の仕事をチェックしたりと早朝から深夜まで忙しく働いていました。

孔明が亡くなった戦、五丈原でもそれは同じでした。睡眠時間は短く、さらには食も細かったそうです。

ここまで聞くと完全に過労が原因で死んだと考えられます。しかし、過労死の定義を考えるとそうとも言えません。過労死とは、長時間労働が原因の突然死、または自殺です。孔明は病によって徐々に弱っていった、という記述があるため、過労死の定義から外れます。

そのため、孔明の死因は過労だった、とは必ずしも言えないでしょう。

「七縦七擒」諸葛孔明に服した孟獲とのエピソード

諸葛孔明は、蜀の丞相(総理大臣)として、内政、外交に大活躍しました。しかし、劉備の死と相前後して劉備を支えた軍人たち、三国志演義で五虎大将軍としょうされた関羽、張飛、黄忠、馬超もあいついでこの世を去り、趙雲も老境をむかえていました。

孔明は、人材少ない蜀を支えるために、自ら軍の指揮もとらざるをえなかったのです。亡き先主劉備の遺勅を受け、漢の再興を果たすための環境整備として、呉との国交回復を行いました。

そして、反乱を起こした南方の土着民族を鎮圧するために、みずから出陣の先頭に立ったのです。ここでいう南方の民族とは、蜀の益州(現在の雲南省昆明県)からベトナム、ミャンマーなどにいたる東南アジアの民族で、漢では西南夷と呼んでいました。

七縦七擒(しちしょうしちきん)とは、反乱のリーダーであった孟獲に対した孔明のエピソードです。孟獲をとらえた孔明は、陣中をくまなく案内し、「この陣を見てどう思うか?」と問いかけました。

孟獲が「陣立てがわからずに負けてしまったが、次は負けない。」と豪語したため、孔明は大笑して解き放ちました。

孟獲は7度捉えられ7度放たれました。7度目に捉えられたとき、孟獲は「公は天威なり。南人また反せず。」と孔明に心から服したのでした。

七縦七擒のエピソードは、孔明の武ではなく、心で持って勝利する戦い方をよくあらわしています。孟獲はその後、孔明を支える蜀の高官(現代でいう検察長官)となり、南方の民は孔明の死まで、一度も反することはなかったのです。

諸葛孔明の功績

功績1「『天下三分の計』で歴史を変えた」

『天下三分の計』が実現したことにより、三国時代が到来した。

諸葛孔明は『天下三分の計』を劉備に説き、実践することで曹操を打倒し、中国を三国時代へと導きました。

『天下三分の計』とは、同じぐらいの力を持つ勢力を対立させ、均衡を保つという戦術です。では、具体的にどういう策だったのでしょうか。

当時の曹操軍は、劉備だけではとても戦えないほど強大な力を持っていました。そこで、まずは東の孫権を味方につけ、自身は荊州と益州を支配下に置きつつ西と南の異民族と良好な関係を築きます。そうして力を蓄えつつ、曹操軍に隙ができるのを待つ、という戦略です。

結果として、劉備たちは赤壁の戦いで勝利し、荊州と益州を手に入れました。さらには劉備を蜀の皇帝にすることにも成功し、三国が均衡する下地を作ったのです。

この功績は、孔明がいなければ劉備は蜀の皇帝になれず、三国時代は来なかったと言われているほどです。

功績2「死後も少なくない影響を残した諸葛孔明」

死後も仲間を守った孔明

五丈原の戦いの最中に亡くなった孔明ですが、死んだあとも彼は仲間を助けました。

敵対していた魏の軍師は、孔明が長くないことを情報から知っていました。そのため、撤退する蜀軍を見て、諸葛孔明が死去したと判断し蜀軍に追い討ちをかけたのです。

しかし蜀軍が反撃の姿勢をとったのをみて、魏の軍師は即座に撤退しました。孔明の死はウソで、魏軍を釣る計略だったと勘違いしたからです。

結果、孔明は死後もその存在によって、仲間を無事に国へと返したのです。この出来事は後に「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉が生まれるきっかけになりました。

功績3「公明正大な政治で国をまとめあげた 」

三国の中で最も国力のない蜀で安定した政治を敷いた

孔明は天才的な政治家でした。彼の政治はどんな人にも平等だったため、普通であれば反発が起こるほど厳格な政治だったにも関わらず、孔明を恨むものはいませんでした。

孔明はたとえ友であろうと仇であろうと、国のために働いたものには、それがどんなに小さな行いでも褒賞を与え、法を犯したものには、それがどんなに些細な罪でも罰を与えました。どんな身分のものにも公平で、「私」を入れない孔明は民衆の人気を集めたのです。

辺境の地で国力も劣る蜀が国として持ったのは、孔明の天才的な手腕によるものだと言われています。実際、孔明亡き後の蜀は汚職などで腐敗し、わずか30年で滅びてしまいました。

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