諸葛孔明の簡易年表
諸葛孔明は、西暦181年、後漢の光和4年に生を受けました。兄に諸葛瑾、後に弟の諸葛均と妹が一人生まれます。父は諸葛珪で、泰山郡の副知事でしたが、孔明が幼いころに亡くなりました。
なお、孔明の本名は諸葛亮で、孔明は字(大人になってつける名前)です。ちなみにこの年、後漢最後の皇帝である献帝も生まれました。くしくも孔明は、後漢最後の皇帝と同年だったのですね。
父の死後、叔父の諸葛玄に引きとられた孔明は、叔父と一緒に荊州に移りました。この時兄の諸葛瑾と継母は、孔明たちと別れて江東へ向かいました。諸葛玄は荊州の刺史劉表と親しく、劉表に招かれたといわれています。
諸葛玄は任官のいざこざから197年に土民の反乱に会って殺されました。庇護者を失った孔明は弟の均とともに、荊州の南陽郡隆中に住むことになったのです。
西暦207年、後漢の建安12年。孔明は劉備と出会います。有名な三顧の礼は、この時のことです。劉備は20歳も年下の孔明を三度も訪ね、辞を低くして教えをこいました。孔明は、劉備の真摯な姿勢にうたれ、持論の「天下三分の計」を説きました。
劉備はよく孔明の言を聞き、孔明に出慮をこいます。ここに臥竜と呼ばれた諸葛孔明が、初めて世にでる時が来たのでした。
西暦208年、後漢の建安13年。荊州を曹操に追われた劉備玄徳の危機を救うため、孔明は単身、呉におもむき呉の孫権と対峙します。
孔明のたくみな交渉の結果、しゅびよく孫権は劉備と協力して、曹操の軍と戦うことになりました。決戦の場は、赤壁。小説や映画では、孔明が方術を駆使して東南の風を呼び寄せ、火計による大勝利を呼び寄せた功労者となっています。
しかし正史である陳寿の三国志では、赤壁の戦いでの孔明の活躍にはまったく触れていません。従来、赤壁の戦いでの孔明の活躍は、三国志演義の作者である羅貫中のフィクションであると考えられていました。
ところが平成13年のNHK「その時歴史が動いた」取材班の調査によると、孔明が地元の漁師に赤壁に吹く風についてたずねていたという、言い伝えが残っていることがわかりました。
孔明は、気象をくわしく観察して、あたかもみずからが風をまねいたように演出したのかもしれませんね。
西暦221年、蜀(蜀漢)の章武元年。孔明は、蜀の丞相になりました。この年、劉備が蜀(蜀漢)の皇帝として即位し、孔明が丞相に就任したのです。これに先立つ西暦220年に、魏の曹丕が漢の献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝を名のりました。
漢室の再興を目的とする蜀からすると、曹丕の即位は禅譲ではなく、皇位を力ずくで奪うことに他ならず、劉備の即位によって、漢の継続を内外に明示する必要があったのでした。
皇帝劉備と蜀の民の期待を一身に背負った諸葛孔明。蜀の丞相としての孔明の後半生の始まりでした。
西暦223年、蜀(蜀漢)の建興元年。劉備玄徳が、白帝城で逝去。孔明は、成都からかけつけ劉備の遺詔を受けます。
劉備は孔明に、「君の才能は魏の曹丕に十倍勝る。劉禅に皇帝としての資質があるのなら、助けてやってほしい。しかし資質がないのなら孔明自身が皇帝となってくれ。」と言いました。
孔明は劉備の真情に涙しながら、「私は臣下の本文を尽くし、忠誠の誠をもって死ぬまで
全力を捧げます。」と答えたのです。
三顧の礼をもって孔明をむかえた劉備が死の間際に見せた至誠の姿に、あらためてその子劉禅への変わらぬ忠誠と漢室の再興を誓うのでした。
西暦225年、蜀(蜀漢)の建興3年。劉備の死後、反乱を起こした南中の反乱を平定するために、孔明はみずから兵をひきいて南中に出兵しました。
南中は現在の雲南省からミャンマーやベトナムにいたる東南アジアを含む地域のことです。
漢はこの地方の異民族のことを西南夷と呼んでいました。
孔明は異民族を武力で押さえつけるのではなく、心から服属させる戦い方を心がけました。敵将孟獲の七縦七擒のエピソードはこの時のことです。
また孔明は、現地に蜀の役人を置くことをせず、現地の人たちの自治にまかせました。
このような孔明の徳を慕った南中の人たちは、孔明の死まで二度と反乱を起こすことはなかったのです。
西暦227年、蜀(蜀漢)の建興5年。この年、孔明は後主劉禅に出師の表を奉じ、漢室再興の旗を掲げて魏との戦いを開始します。これより234年までの間に、五度にわたる北伐(魏との戦い)の幕が切って落とされたのです。
正史三国志の著者である陳寿も高く評価した出師の表、街亭の大敗の責任者である馬謖を泣く泣く死刑に処したことなど、第一次北伐での孔明のエピソードにはことかきません。
また、敗戦の責任をみずからも負ったことや、敗戦の事実を財務状況もふくめてすべて蜀の民にまで公表したことなど、その公明正大な姿勢は、まさに孔明の真骨頂といえるのではないでしょうか。
西暦234年、蜀(蜀漢)の建興12年。最後の出兵となった5度目の北伐で孔明は、五丈原に陣を張りました。
そして魏の司馬懿仲達と対峙しますが、蜀軍の兵糧がつきるのを待つ戦術に出た魏軍を攻めあぐみます。あせる孔明は、仲達に女性の衣装とベールを贈ってからかいますが、仲達は応じません。
長年の激務に孔明の体はしだいにおとろえを見せ、遂に血を吐き病に伏してしまいました。
死をさとった孔明は劉禅に使者をこい、自らが亡き後の蜀の政治、軍事の後継者を指名し、
また劉禅の皇帝としての心がまえを説き、最後まで蜀の丞相としての使命をまっとうしました。
孔明の死後、撤退した蜀軍の陣地を視察した司馬懿仲達は、孔明の残した書類や帳簿の類を見て感じ入り、「孔明こそは天下の奇才である」と讃えたといいます。諸葛孔明、享年54歳。まさに巨星が墜ちたのでした。
諸葛孔明の具体年表
181年「孔明、生を受ける」
諸葛孔明は、西暦181年、後漢の光和4年に生まれました。
生地は徐州の琅邪(ろうや郡)、陽都(ようと)県、現在の山東省で、父の諸葛珪、母の章氏との間に生まれた次男でした。兄は呉の大将軍になった諸葛瑾、のちに弟の諸葛均と妹が一人生まれます。
中国では二字の姓はめずらしく、諸葛氏ももともと一字の葛氏だったのを諸葛氏にあらためたようです。改姓の理由は、諸県から陽都に移住した際に、陽都には以前から葛という姓がありました。これと区別するために、諸から来た葛氏という意味でいつしか諸葛氏と名乗るようになったという説が有力です。
父の諸葛珪は、泰山郡の丞(現代の副知事)を務めたということ以外、何も知られていません。
192年 – 12歳「父、諸葛珪の死」
西暦192年、後漢の初平3年、孔明の父諸葛珪が没する。
この年、孔明の父、諸葛珪が没しました。孔明の生母は2年前に亡くなっていたため、孔明は継母と幼い弟、妹とともに庇護者を失ったのです。7歳年上の兄、諸葛瑾はこのころ洛陽に遊学中でした。
父の死後、しばらくして孔明と弟の均は叔父の諸葛玄に引きとられました。
学業を終えた兄の瑾は叔父に従わず、継母ととともに江東(揚子江の南)に移住していきました。
既に20歳をこえていた瑾は、叔父の負担を考えみずから身を立てるために、別行動をとったといわれています。瑾は継母に生母同様の考を尽くしたと、三国志の呉書諸葛瑾伝に記されています。
瑾は継母を養いつつ、早く身を立てて孔明や瑾たちを引きとることを考えていたと言われますが、兄弟の運命は呉と蜀に別れ、この後一家がそろって暮らすことは二度とありませんでした。
197年 – 17歳「叔父、諸葛玄が死亡する」
西暦197年、後漢の建安2年、叔父、諸葛玄が死亡する。
孔明の叔父、諸葛玄は、荊州の刺史劉表と旧知の仲であったため、荊州にまねかれました。
任官して南昌(江西省)に赴任したのですが、これは群雄の一人である袁術の推挙によるものであり、漢の中央ではまったく関知しないものでした。
その後、正式な後任として赴任してきた朱 皓と争いになり、玄は敗れてしまいます。
玄は南昌から逃れましたが、土民の反乱にあって殺されてしまいました。
(※玄の死に関しては諸説があって、朱 皓に太守の任を明け渡し荊州に帰還した後に死亡したともいわれていますが、いずれにしろ死亡したのは197年で間違いがないようです。)
庇護者である叔父を失った孔明と弟の均は、再び荊州に還り襄陽(湖北省襄陽市)の北西20里にある隆中に住むことになりました。隆中の草慮での孔明の雌伏の時は10年におよび、劉備玄徳との運命的な出会いまで続くことになります。
198年 – 18歳「このころから徐庶、石 韜らと遊学する」
西暦198年、後漢の建安3年、このころから徐庶、石 韜らと遊学する。
叔父の死後、孔明は隆中の草慮に暮らしながら、徐庶、石 韜らとともに勉学にはげみます。劉表が学者や文化人を大事にしたたため、荊州の襄陽は、襄陽サロンともいうべきいわゆる名士の社交場となっていました。
友人たちが、経書の一言一句にこだわる議論をしていても、孔明はその大意を理解するにとどめたといわれています。孔明は自らを管仲・楽毅にたとえ、大言壮語だと笑われましたが、徐庶と崔州平の二人だけが、彼の才能を見ぬいて大言を認めていました。
このころ人物評論に定評のあった司馬徽から認められた龐統と、並びしょうされ「孔明は臥竜、龐統は鳳雛」とあらわされました。
またこの隆中での遊学中に孔明は、結婚しています。相手は襄陽の名士、黄承彦の娘で親も認める醜女でしたが、すばらしい才女で孔明は喜んで嫁に迎えたといわれています。この夫人は、孔明が見込んだとおり大変な賢夫人で、孔明が後顧のうれいなく公務に打ちこめる支えとなりました。
207年 – 27歳「劉備との出会い、三顧の礼」
西暦207年、後漢の建安12年、劉備との出会い、三顧の礼により出慮する。
建安12年、劉表のもとに身を寄せていた劉備はすでに47歳になっていました。劉備は、切実にブレーンとなる人材を求めていました。劉備には、関羽、張飛を肇とする武勇に優れた将は豊富でしたが、魏や呉に対抗できる知略に満ちた謀臣には恵まれていなかったのです。
47歳は当時としてはすでに老境であり、漢室再興の夢はまさに風前の灯だったのです。その劉備に、徐庶が臥竜・諸葛孔明をすすめます。劉備が徐庶に孔明を連れてきてくれないかというと、徐庶は「孔明は呼びつけることはできないので、劉備自ら会いに行くべきである。」と説くのでした。
襄陽の名士サロンの間では名が知られていた孔明ですが、世間的にはまだ無名の若干27歳の若者にすぎません。しかし劉備は徐庶の言を入れ、孔明の2度にわたる不在にもあきらめず、三度も訪問して出慮をこうたのです。
これが、劉備と孔明との出会いである三顧の礼の故事です。
この時、孔明は劉備に「天下三分の計」を説き、劉備を感嘆させました。
ただ、孔明と劉備の出会いには異説もあり、じつは孔明がみずから劉備をたづね、荊州の戸籍の不備を整備すれば、軍役につく兵士の数を増やすことができると進言し、劉備の配下となったという話もあります。
しかし、後の出師の表に孔明みずから、劉備が三度訪ねてきてくれたと記していることから、三顧の礼が史実であることはまちがいがないようです。
208年 – 28歳「孫権に使いする」
西暦208年、後漢の建安13年、孫権に使いする。
この年、荊州の劉表が亡くなりました。劉表の後を継いだ劉 琮は戦わずして曹操に降ります。このことは樊城の劉備にはまったく知らされず、劉備一行は曹操の軍勢から逃れるため、樊城を撤退し、南下することを決意します。
一時は蒼梧の呉 巨を頼ろうとした劉備ですが、呉の魯粛と話し合い、孔明を孫権への使者として派遣します。孔明は孫権と堂々と渡りあい劉備との同盟を承諾させ、ともに曹操にあたることを決意させたのです。
208年 – 28歳「赤壁の戦い」
西暦208年、後漢の建安13年、赤壁の戦い
孫権を説きふせた孔明の功により、劉備は呉とともに曹操の軍と戦うことになりました。
決戦の場は揚子江沿岸の赤壁。三国志演義の最大の山場である赤壁の戦いです。
演義では孔明が10万本の矢を労せずしてえたエピソードや、七星檀をもうけて東南の風を呼びおこした方術など、孔明の活躍が語られますが、正史の三国志には一切記述がありません。
しかし、当時孔明が地元の漁師に、東南の風が吹く気象条件を聞いていたという言い伝えがあることから、方術ではなく科学的に気象条件を正しく読みとり、呉軍にアドバイスした可能性は十分にあるのではないでしょうか?
孔明の華々しい活躍は三国志演義のフィクションだとしても、流浪の将軍に過ぎなかった劉備と呉の孫権の同盟を結ぶことに成功したことは、まぎれもない事実であり、孔明でなければなしえなかった快挙でしょう。
赤壁の戦いに大敗した曹操は、命からがら北へ逃げ帰り、劉備は荊州南部に勢力を確保し、孔明の説いた天下三分の計はここにその第一歩を踏みだしたのでした。
214年 – 34歳「孔明蜀に入る」
西暦214年、後漢の建安19年、孔明蜀に入る。
この年、劉備は龐統のすすめに従って、遂に劉章を追い蜀(益州)を取ることを決意しました。これまで荊州に残り情勢をうかがっていた孔明は、機が到来したとばかり、荊州の守備に関羽を残して、張飛や趙雲とともに、蜀の地に攻めいったのです。
蜀の将たちには劉備の裏切りを憎み、劉章に同情を寄せるものも少なくなかったのですが、劉章は百姓の困苦を思い、また臣下の方正の言をいれて、遂に成都の城門を開き劉備の軍にくだりました。
劉備は劉章の財産を保証し、振威将軍の印綬を与えて厚く遇し、公安の地に封じました。孔明はこの時、劉備から軍師将軍を拝命。さらに董和とともに左将軍にも任じられました。つまり劉備から軍政と人事をまかされたことになります。
孔明とならんで劉備を支えた龐統は、成都入りを目前にして戦死しました。龐統を失ったことにより孔明の肩には、劉備そして蜀の将来がさらに重くのしかかってくることになります。
219年 – 39歳「劉備が漢中王となる。関羽死す」
西暦219年、後漢の建安24年、劉備が漢中王となる。関羽死す。
西暦216年、魏の曹操はみずから魏王となりました。漢室の運命はまさに風前の灯です。
孔明は219年に、諸臣とともに劉備を漢中王に推戴しました。魏の専横を漢の賊とみなしてまっこうから異議を唱えたのです。
すでに荊州、益州(蜀)を手中におさめ、孔明の天下三分の計は、着々と歩を進めていましたが、この年大きな悲劇が蜀にふりかかります。一人荊州を守ってきた関羽が敗死したのです。それと同時に蜀は荊州の地を失いました。
実現間近に見えた天下三分の計に、にわかに暗雲が立ちこめたのでした。関羽の死は孔明や劉備にとっても、また蜀にとっても一人の武将の死にとどまらず、大きな禍根となったのでした。この時、関羽の死の原因となった呉の裏切りは、劉備の怒りをかきたて、後の災いのもととなりました。
221年 – 41歳「劉備が即位し帝位に就く。孔明、丞相となる」
西暦221年、蜀漢の章武元年、劉備が即位し帝位に就く。孔明、丞相となる。
西暦220年、曹操が死に、曹丕が後を継ぎましたが、曹丕は後漢の献帝を廃し、みずから帝位につきました。禅譲(徳をなくした帝が徳を持った人物に自ら帝位を譲ること)を受けた形をとりましたが、まぎれもなく帝位を力ずくで奪ったのです。ついに400年に及んだ漢の命運はつきたのでした。
劉備は漢室を継ぐことを宣言し、蜀の地で帝の位につきました。
国号は漢。後の世では蜀漢、あるいは単に蜀と呼ばれる政権です。劉備の即位にともない、孔明は丞相(総理大臣)に任命され、まさに蜀の命運をになうことになりました。
孔明は以後、蜀の二帝につかえ、建国の大本である漢室の復興、魏の討伐に向けて生涯をささげることになるのです。
222年 – 42歳「劉備、呉に戦いを挑み敗戦」
西暦222年、蜀漢の章武2年、劉備、呉に戦いを挑み敗戦。
即位後、劉備は趙雲や他の臣下の制止をふりきって呉との戦いにのぞみました。趙雲は、漢の正統を自認する蜀が戦うべき相手は、あくまでも魏であり、魏を滅ぼせば呉はおのずから服属すると劉備を説きました。まさに正論です。
しかし、劉備は関羽の死をもたらした呉の裏切りを許すことができませんでした。この戦いには、当然先頭を切るべき張飛の姿はありません。張飛は部下の反乱にあい、首をとられたのです。
また、趙雲は蜀国内に残り、劉備の率いる軍は歴戦の勇将より、一回りも二回りも見おとりする将にひきいられて出軍したのです。劉備はのびきった補給線を呉の陸遜に各地で打ちやぶられ、白帝城まで逃げて病に伏してしまいました。
不思議なことにこの戦いを孔明が制止した形跡はありません。蜀の建国の理念からすれば、趙雲がいった通り魏との戦いが優先されるべきであることは、孔明にとっても自明の理であったはずです。しかし、正史である三国志や他の歴史書でも孔明の見解は述べられていないのです。
おそらく孔明は、天下三分の計の実現に向かって荊州の奪還は必須の条件であることをかんがみ、劉備の私憤ともいうべき怒りに眼をつむったのではないでしょうか?
そうとでも考えなければ孔明の沈黙は、理解できないのです。
223年 – 43歳「劉備死す。孔明、遺詔を受ける」
西暦223年、蜀漢の章武3年、劉備死す。孔明、遺詔を受ける。
西暦223年、劉備は白帝城で病に伏し死にひんしていました。自らの死をさとった劉備は、成都から丞相孔明を呼びよせ、後事をたくします。
劉備は孔明の才能が魏の曹丕に十倍勝るといい、漢の再興のために皇太子である劉禅が有能であればこれを補佐してほしいと頼みます。しかし、劉禅が帝の資質が欠けていれば孔明みずから帝業を継ぐように告げたのです。
孔明は落涙しながら「臣あえて股肱の力を尽くして、忠貞の節をいたし、これに継ぐに死を以てせん。」と答えたのでした。つまり、孔明は死ぬまで忠義を劉禅に尽くすことをちかったのです。
この後、劉備は劉禅への遺言として、人の見きわめ方や読むべき本など事こまかに説いたうえで、自分の死後は丞相(孔明)を父と思って仕えなさいとまで言いきります。一代の英雄である劉備には、我が子劉禅の資質が、みずからには遠くおよばないことが、手にとるように見えていたのでしょうね。
225年 – 45歳「南征する」
西暦225年、蜀漢の建興3年、孔明、自ら南征する。
西暦223年、劉備の死を見はからったように南方での反乱が起きました。すぐにでも平定の軍を出すべきところですが、蜀はいまだ呉との戦いの傷もいえず、国力も疲弊していました。
丞相である孔明は、まず国力の回復のために内政の充実に力をそそぎ、つぎに呉との関係修復に動きました。そして満を持してこの年、みずから指揮をとって南方平定の軍を起こしたのです。
孔明は、側近である馬謖の言を入れ、異民族を力で屈服させるのではなく、心から服させるような戦いを行いました。かの有名な「七縦七擒」のエピソードはこの時のことで、敵将孟獲は、孔明に心服し蜀の検察庁長官にまで昇りつめます。
孔明はまた、現地の統治をきょくりょく現地の人間の自治にまかせました。かっての漢の圧政をあらため、異民族の心をつかむと同時に、蜀の負担をもできるだけ軽くする見事な統治政策でした。
南方の民は選抜されて蜀の国軍に編入され、その勇猛果敢さから「飛軍」と称されたといいます。さらに孔明は南方の鉱物資源(金、銀、水銀)や漆、耕牛、軍馬を上納させたので、その後の北伐の大きな財源となりました。
南方の民は孔明の徳をしたい、孔明が死ぬまで二度と反乱を起こすことはありませんでした。
227年 – 47歳「出師の表、北伐を開始」
西暦227年、蜀漢の建興5年、劉禅に出師の表を奉じ、北伐を開始する
呉との関係を修復し南方を平定した孔明は、さらに2年の間国力の充実につとめ、西暦227年、蜀漢の建興5年、遂に宿敵魏との戦いにのぞみます。
魏との戦いは、蜀が漢の正統な後継であることをあらわすため、北伐と呼ばれました。
この年の第一回北伐から足掛け8年、5度に渡る北伐(西暦230年の魏の侵攻を入れると6度)のスタートです。
この年の第一次北伐にあたって、孔明が後主劉禅に奉じた出師の表は、後年まで名文としてたたえられました。後世に安子順(宋の時代の文人)により「諸葛亮の出師表を読んで涙を堕さない者は、その人必ず不忠である。」まで言わしめた出師の表。正史三国志の著者である陳寿も全文を採録しています。
出師の表を劉禅に奉じ、決然と孔明は出陣したのでした。
228年 – 48歳「街亭の敗戦」
西暦228年、蜀漢の建興6年、街亭の敗戦
孔明は成都を出て漢中に陣を張りました。漢中はけわしい山道である蜀桟の険をへだててではありますが、魏の領土である関中とは指呼の先である、要衝の地です。
この時、勇将魏延は自分に別動隊をあたえてくれれば、10日で魏の長安にたっすることができ、孔明の軍と合流して、一気に関中を平定できると進言しましたが、孔明はこれを却下します。
孔明は、博打にもにた魏延の積極策はリスクが大きいと判断したのです。この後、魏延は孔明を軽んじるようになり、みずからの最後を汚す遠因となりました。
この第一次北伐にあたり、孔明はさほど実績のない馬謖を抜擢して、街亭の司令官に任命します。馬謖の実力を危ぶみ、魏延や他の将をおす声が高かったのですが、馬謖の軍事理論を高くかっていた孔明は、馬謖に街亭をまかせたのでした。
馬謖は街亭に布陣するにあたり、孔明から決して高所に布陣してはならないと厳命を受けていたにも関わらず、自分の軍事理論を過信して山上に布陣しました。副将の王平も馬謖をいさめましたが聞きいれません。
魏軍の将、張郃は馬謖の布陣を見て、麓を包囲して食料や水の補給を断ちました。
馬謖はやぶれかぶれの攻撃を挑みますが、さんざんに打ち負かされあえなく敗走しました。
街亭の敗戦の衝撃は大きく、孟達の内応がいち早く司馬懿仲達に察知され、失敗に終わったこともあいまって、孔明の第一次北伐は失敗に終わったのです。
228年 – 48歳「泣いて馬謖を斬る」
西暦228年、蜀漢の建興6年、泣いて馬謖を斬る。
孔明の第一次北伐は失敗に終わり、街亭の敗戦の責任者である馬謖への処分は
厳しいものとなりました。孔明の下した裁定は「斬」死刑です。
馬謖の才能を惜しんだ多くの人が、減刑を進言しましたが、孔明は聞き入れず
軍規にてらした処分を断行したのです。
また、孔明はみずからの責任も明らかにして、帝劉禅に三等級の降格処分を願いでますが、帝は罪一等を減じ、孔明を右将軍としました。
孔明は、政務や軍務を行うにあたって、信賞必罰、つねに公明正大に物事をさばいたので、彼に罰せられた人々も孔明を恨むことはなかったといいます。
また、そもそも魏や呉にくらべて圧倒的に人材に乏しい蜀において、孔明の人材を求めるところは切実で、馬謖を処分するのも断腸の思いであったことはまちがいないでしょう。
しかし建国まもなく、国土せまく、人材にとぼしい蜀を保っていくためには、公正な政治を行うことこそが重要であるという孔明の信念を伺い知ることができるエピソードですね。
228年 – 48歳~「北伐続く」
西暦228年~、蜀漢の建興6年~、北伐続く
第一次から始まり孔明の北伐は計五度にわたります。しかし、そのつど部分的な勝利の局面はありましたが、結果として魏を滅ぼすにはいたらず、また荊州の地を回復することもできませんでした。
蜀は荊州を失ってからは、益州(蜀)一州を領するにすぎず、魏の12州(2州はその一部)、呉が4州にまたがる領土を有していたのにくらべると、明らかに劣勢です。また、人口も魏の443万人、呉の230万人に対して、わずか94万人でした。
三国志の著者、陳寿は孔明を評して、政治や行政の才能には賛辞を惜しみませんでしたが、その軍事的才能に関しては、「応変の将略は、その長ずるところにあらざるか」と疑義をていしています。
たしかに孔明は、5次にわたる北伐で、魏延が進言したような一気に魏の領土を伺うような戦略は、ほぼ取りませんでした。孔明には軍事的な才能はなかったのだという評価は、陳寿だけではなく、後年の歴史家にも多く見られます。
しかし、実は孔明の北伐は、魏を滅ぼすことが目的ではなく、国力に劣る蜀を守るための軍事行動であったという研究者もいるのです。荊州を失い益州のみの国力では、天下三分の計は実現できない。まずは魏の侵攻を防ぎつつ、植民、食料の増産を図らざるをえない。
おそらくこれが孔明の苦しい心中であったのではないでしょうか?
魏を討伐し漢を再興するのが蜀の大義名分です。
そして、漢室に恩顧を受けた人々の記憶が新しいうちに、すみやかに魏との決戦にのぞむことが有利な事は、孔明にも充分わかっていたことでしょう。
にも関わらず、実はまだ魏を滅ぼす力を持っていない蜀の実情を誰よりも知っていた孔明。
孔明の胸中をさっすると、じつに哀惜の念を覚えざるをえません。
232年 – 52歳~「木牛、流馬を造る」
西暦232年~、蜀漢の建興10年~、木牛、流馬を造る
蜀の北伐にはつねに物資の輸送が大きな問題となりました。孔明が陣を張った漢中から魏へ侵攻するには、けわしい(3,000メートル級)の秦嶺山脈が立ちはだかり、桟道と呼ばれる岩をうがった人一人がとおるのがやっとの山道しかなかったのです。
孔明はけわしい山道で効率よく、軍需物資を運ぶために、木牛、流馬と呼ばれる運搬用の道具を考案したといわれています。この運搬道具は1台で、兵1年分の食料を運ぶことができたと伝わっています。しかし、残念ながらその形状がわかるような記録は残されていません。
一説では、今も中国の農村で使われている「一輪車」の原型ではないかともいわれますが、いずれにしろ、蜀の補給部隊は木牛や流馬で食料を運び、桟道を通って北伐を繰り返したのです。孔明の非凡な才能が、兵站、補給の面でも発揮されたことが史実であることは、まちがいがないようです。
234年 -54歳「孔明、五丈原の陣中で没する」
西暦234年、蜀の建興12年、孔明、五丈原の陣中で没する。
第5次の北伐で、孔明は呉との連携を図り、五丈原に布陣します。過去4回にわたる北伐で蜀の国力は疲弊しきっていました。
孔明は今度こそ魏との決着をつけるべく、3年の期間をおいて周到に準備しました。木牛、流馬での食料の運搬だけではなく、五丈原のふもとに兵士たちを居住させて、屯田(作物の種をまかせて食料の自給を行うこと)を図りました。
また呉に連携を持ちかけて、魏を挟撃することに同意もえて、万全の構えで陣を張ったのです。むかえうつ魏の将は宿敵の司馬懿仲達です。仲達は孔明が直接長安への進路をとることを恐れていましたが、五丈原への出陣を知って逆に安堵したといいます。
仲達は、孔明とまともにぶつかり合うことを避け、蜀軍の兵站の疲弊を待つ戦略を取りました。孔明の周到な準備をもってしても、蜀軍の兵站はいつまでも持たないことを性格に予期していたのです。
孔明は何度も挑発を繰り返しますが、仲達は応じません。孔明は呉の呼応に期待していましたが、呉は魏への侵攻に失敗し、兵を引いてしまいます。
もはや蜀軍のみで魏にあたることを覚悟した孔明ですが、劉備の死後26年の長きにわたって、蜀を支えてきた孔明の体は疲れきっていて、ついに陣中で病を発しました。
三国志演義では、死期をさとった孔明が、祈祷をもって延命を図り、魏延の粗暴なふるまいで失敗するシーンがありますが、これはフィクションで史実ではありません。
蜀の後主劉禅は、孔明の病が篤いことを知り、李福を成都から派遣します。孔明は自らの後継を指名しました。また、蜀軍の撤退の際に、魏延が謀反することを危惧して殿軍に配置することまで、細かく指示しました。
孔明死すとの報を受けた仲達が、撤退する蜀軍を追撃した際に、反転してきた蜀軍を恐れ孔明の死が偽計であることをうたがって、追撃をあきらめたことは良く知られ「死せる孔明、生きた仲達を走らす」と蜀に心を寄せる人たちが言いはやしたと伝わっています。
この言を聞いた仲達は、苦笑して「自分は生者を相手にすることはできるが死者を相手にすることはできない」と言いました。仲達も孔明の才を良く知り、孔明が去った後の陣を視察して、「孔明は天下の奇才である」と称賛したのです。
諸葛孔明は五丈原の陣中で波乱に満ちた54歳の生涯を閉じました。
まさに一代の英雄としてその生涯は、長く語り伝えられることになります。
中国だけではなく、わが国でも孔明の人気がいまだに衰えないことは言うまでもありませんね。
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諸葛孔明についてのまとめ
いかがでしたでしょうか?中国史上、おそらく最も人気のある人物である諸葛孔明の生涯について、詳細に追ってみました。
孔明はその人気のあまり三国志演義に代表される数々のフィクションで脚色され、ついには神仙とまで称されました。
本稿では、その脚色された部分をきょくりょく避けて、正史である陳寿の三国志にもとづいた歴史家や研究者などの書籍やテレビ局の現地取材から、孔明の実像を描きだすように試みました。
史実に見える孔明は、当然のことながら、演義に書かれたようなスーパーマンではありません。それでも、孔明の残した足跡は、まれに見る偉大な才能を持った政治家であり、軍人であったと思います。
2002年に出版されたNHKの「別巻 その時歴史が動いた 三国志英雄伝」の中で、諸葛孔明の孫、諸葛京の末裔たちが暮らす諸葛村(諸葛八卦村)の記述があります。
2002年当時、諸葛京から数えて、45代から55代にわたる人たちが住み、その8割が諸葛姓を名乗る村です。この村には孔明が子孫のために残した家訓「誡子書」が、今でも伝えられています。
「優れた人は静かに身を納め徳を養う
無欲でなければ志はたたず
穏やかでなければ道は遠い
学問は静から、才能は学から生まれる
学ぶことで才能は開花する
志がなければ学問の完成はない」
1800年の時を超えて孔明の教えを伝え、守りつづける村がある。まさに孔明の清廉で忠義にあつく無私をつらぬいた生き方が、現代にいたるまで多くの人の共感を呼ぶことが、すなおに納得できる家訓ではないでしょうか。
「誡子書」の意味をかみしめ、孔明の生涯に思いを馳せながら、本稿を閉じたいと思います。
とても分かりやすくて参考になりました。