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天才軍師「諸葛亮孔明」とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、逸話についても紹介】

劉禅への忠誠と再興の決意を記した「出師の表」

蜀漢の先帝劉備の死から4年、蜀漢建興5年(西暦227年)。孔明は、後主劉禅に出師の表を奉じます。

漢の再興をめざす蜀漢の丞相として、いよいよ宿敵魏との戦いにのぞむため、若き後主劉禅にささげた出師の表は、後の世に比べるものがない名文として知られ、「諸葛亮の出師表を読んで涙を堕さない者は、その人必ず不忠である。」とまで言われました。

この時、諸葛孔明は47歳。では、出師の表とはどのような内容だったのでしょうか?少し長くなりますが、全文(書き下し分)を引用します。

臣言(もう)す。 先創業未(いま)だ半(なか)ばならずして、中道に崩(ほうそ)せり。今、下三分し益州は疲弊す。 れに危急存亡の(とき)なり。

然れども待衛(じえい)の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋(けだ)し先の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲すればなり。 に宜しく聴(せいちょう)を開し、以(もっ)て先の遺徳を(かがや)かし、志士の気を恢(かいこう)すべし。宜しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひ はく)し、喩(たと)えを引き義を失い、もって忠諌(ちゅうかん)の路(みち)を塞ぐべからず。

宮中府中、(とも)に一体と為(な)り、否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。 若(も)し姦(かん)を作(な)し科を犯し、及び忠善を為す者有らば、宜しく有(ゆうし)に付して、其の刑賞(けいしょう)を論じ、以て陛下明の治を昭(あき)らかにすべし。

宜しく偏私(へんし)して、内外をして法を異にせしむべからず。 中・郎郭攸之(かくゆうし)・費褘(ひい)・董允(とういん)等は、れ皆良実にして志慮(しりょ)忠純なり。 是(ここ)を以て、先簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺(のこ)せり。

愚以為(おも)えらく宮中の事は、事大小とく、悉(ことごと)く以てこれに諮(はか)り、自然(しか)る後に施行せば、必ずや(よ)く闕漏(けつろう)を裨補(ひほ)し、広益する所有らんと。 将軍向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)、軍事に曉暢(ぎょうちょう)す。

昔日に試用せられ、先これを称してと(い)えり。是れを以て衆議寵(ちょう)を挙げて督と為す。 愚以為(おも)えらく営中の事は、事大小とく、悉く以てこれに諮らば、必ずやく行(こうじん)をして和穆(わぼく)し、優劣をして所を得しめんと。

賢臣に親しみ、小人を遠ざくる、れ先のせし所以(ゆえん)なり。 小人に親しみ、賢人を遠ざくる、これ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。

先在(いま)しし時、毎(つね)に臣との事を論じ、未だ(かつ)て桓・霊に嘆息(たんそく)痛恨(つうこん)せずんばあらざりしなり。 中・尚書、長史・参軍は、れ悉く貞(ていりょう)死節の臣なり。 願わくは陛下これに親しみこれを信ぜよば、則(すなわ)ち室のんなること、日を計りて待つ可(べ)きなり。

臣は本(もと)布衣(ほい)、南陽に躬耕(きゅうこう)す。 苟(いや)しくも性命を乱世に全うせんとし、聞達(ぶんたつ)を諸侯にめず。 先、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、(みだ)りに自ら屈(おうくつ)し、臣をの中(うち)に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以てせり。

是に由(よ)りて感し、遂に先に許すに駆馳(くち)を以てす。 後、傾覆(けいふく)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命(めい)を危難の間(かん)に奉ず。

爾来(じらい)二十有一年なり。 先、臣が謹慎を知る。故に崩ずるに臨んで臣に寄するに大事を以てせしなり。 命を受けて以来、夙(しゅくや)憂(ゆうたん)し、付託(ふたく)の効あらずして、以て先の明を傷(そこな)わんことを恐る。

故に五月瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入れり。 今、南方(すで)に定まり、兵甲に足る。 当(まさ)に三軍を奨率(しょうすい)し、北のかた中原を定むべし。 庶(こいねが)わくは駑鈍(どどん)を竭(つく)し、姦(かんきょう)を攘除(じょうじょ)し、室を復(こうふく)し旧都に還(かえ)さん。

れ臣の先に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。 損益を斟酌(しんしゃく)し、進んで忠言を尽くすに至りては、則ち之(ゆうし)・褘(い)・允(いん)の任なり。

願わくは陛下臣に託するに賊を討ち復するの効(こう)を以てせよ。 効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先の霊に告げよ。 若(も)し徳をすの言くんば、則ち之・褘・允の咎(とが)を責め、以て其の慢(まん)を(あらわ)せ。

陛下も宜しく自ら謀り、以て善を諮諏(ししゅ)し、言(がげん)を察納(さつのう)し、深く先の遺詔(いしょう)を追うべし。 臣、恩を受けて感に勝(た)えず。 今、遠く離るるに当り、表に臨んで涕泣(ていきゅう)し、う所を知らず。

孔明は、若き後主、劉禅に懇切丁寧に、自分が留守にする間に、国の政治や軍の指揮を執る人物を名指しし、あるいは職名を示し、何事も彼らに相談し判断をあおぐことを説きます。

前漢の皇帝たちが、有能な人材を登用し、つまらない人物を遠ざけたことが繁栄の原因であり、後漢が滅亡したのは、宦官をはじめとして私欲に満ちたつまらない人材を重く用いたことが、原因であったことをひもといています。

取るに足らない人物であった孔明のあばら屋に、劉備みずからが三度も足を運んでくれた熱意に感激したことを振り返り、その恩にむくいるために、後主劉禅を中原の都にかえして漢室の真の再興を果たす決意をのべます。

そして使命を果たせなかった際には、帝みずから自分(孔明)を罰せよと言うのです。なんと熱い至誠に満ちた言葉でしょうか。先帝劉備にたくされた、決して英明とは言えない後主劉禅への変わらぬ忠誠と、漢室再興の決意をしめした「出師の表」。

正史である三国志を編纂した晋の陳寿も、全文を採録しています。また宋の時代には、科挙の受験参考書である「文章規範」や学問の初学者用の詩文名作集「古文真宝」などにも採択されました。

宋の時代やさらに下って明の時代の学者たちも、出師の表は技巧を凝らしたものではないが、心の奥底からあふれだした真情をあらわした名文であると評しています。

孔明の心の底からの真情あふれる言葉だからこそ、時代を超えて読む人の心を打つのでしょうね。

諸葛孔明の名言

人生や人間関係についてのヒントを得られる孔明の名言

人生とは、困難との戦いの連続である。

上記の名言の通り、諸葛孔明の人生は困難の連続と言えます。幼少期に父を亡くし、叔父に引き取られるも、その叔父も殺されてしまい保護者を失いました。

劉備と出会ってからは、強大な力を持つ曹操を打倒するために策を巡らせたり、辺境の地にあった蜀を盛り立てるために手を尽くします。さまざまな困難を乗り越えていった孔明らしい言葉ですね。

この名言は、たとえ困難にあってもどうするか考え、実行するのが大切とも解釈できます。

学ぶことで才能は開花する。志がなければ、学問の完成はない。

上記の名言は、目的のない学問はなにも生まないという意味です。

目的、と言ってもなんでもいいわけではありません。私利私欲が目的では、自分を励ますこともできなければ、本能に流されて楽な方へと流れてしまいます。また、自分のためだけの学問は世間から忘れられ、最後にはなにも残らない人生になってしまいます。

誰かの幸せのために学問を学ぶことで、人は自分を奮い立たせ、才能を開花させることができると孔明は言っています。事実、孔明は多くの人の幸せを目的に学び、歴史に名を残しました。

なにかを学ぶさいは、誰のために学びたいのか考えると自分の想像の上をいく結果が残せるかもしれません。

立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく

上記の名言は、どんな立場だろうと関係なく、あなた自身を大切にしてくれる人こそ本当の友だと言っています。

もし、あなたが多くの人に知られるような立派な人になったとします。たくさんの人があなたの下に集まりますが、そのほとんどが肩書きにひかれた人たちです。

そんな中、あなたが逆境に立たされた時や今の立場を失いどん底に落ちたとき、変わらずにいてくれる人ことこそ、本当の友情と言えます。もし、そのような人があなたにいるなら、大切にしてあげてください。

諸葛孔明の名言10選!発言に込められた意図や背景も解説

諸葛孔明の子孫

約1800年前に活躍した諸葛孔明ですが、彼の子孫は今どうしているのでしょうか。実は孔明の子孫は、2020年時点で世界に1万3000人いると言われています。

中国には、孔明の子孫が集まったとされる諸葛八卦村があり、住民の8割が諸葛姓です。彼らは孔明が伝えた文化を守り、諸葛八卦村は文化財として指定され、今は観光地として有名になっています。

諸葛八卦村

名前に入っている八卦の通り、村は八卦の文様のような円形の作りになっています。もし観光に行くことがあれば、ぜひその点も見てみてください。

諸葛孔明ににまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「空城の計」

馬謖の失策で蜀軍が敗走した時に、孔明が用いたといわれる策のことです。

孔明は、芝居仲達の追跡から逃れられないと知って、一人城門の上に座って静かに琴を奏で、開け放した門に仲達を誘いました。

孔明は、数少ない側近の兵たちと逃げていたのですが、仲達は開け放された城門の中に、大軍が隠れているのではないかと恐れ、兵を引いたといわれています。孔明の大胆不敵な戦術として有名なエピソードですが、史実ではなく後世のフィクションだといわれています。

都市伝説・武勇伝2「孔明は奇門遁甲の使い手だった?」

奇門遁甲(きもんとんこう)は、黄帝(中国の伝説上の皇帝)が蚩尤と戦ったときに天帝から授かった究極の占術で、孔明はこの術の使い手として恐れられました。

赤壁の戦いで七星壇を築いて季節外れの風を呼び起こしたり、鬼神を操り、豆を撒いて兵士をつくり、天文をよく読み人の生死を知ることが出来たなど、まるで神仙の域に達したスーパーマンですね。

もちろん、これはフィクションなのですが、現代でも孔明の術を受けついだと自称する占い師が存在します。まさに天才孔明だからこその都市伝説なのかもしれません。

都市伝説・武勇伝3 さまざまな逸話を残す諸葛孔明の妻『黄夫人』

黄夫人が設計したと言われている『木牛流馬』

諸葛孔明には、黄夫人という妻がいました。彼女についてはっきりとした文献が残っているわけではないので、事実かはわかりませんが、才知溢れる醜女だったと言われています。

劉備に仕える前、孔明は嫁探しをしており、黄承彦のすすめで黄夫人と出会いました。黄夫人は赤毛で色黒と、当時の中国では醜女と評される容姿だったようです。当時の漢人とはかけ離れた容姿だったことから、実は異国人だったのではないかとも言われています。

ともあれ、「孔明の嫁選びは参考にするな」とまで言われてしまうほどの黄夫人でしたが、才能や手先の器用さには目を見張るものがありました。

後の孔明が戦に置いて食料運搬のために作った「木牛流馬」は黄夫人が設計したものだったと、民間伝承では伝えられています。それほどの知性を備えた彼女の話は孔明を飽きさせることなく、夫婦仲は良好だったそうです。

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