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武蔵坊弁慶とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説、義経との関係も紹介】

武蔵坊弁慶とは、平安末期から鎌倉時代最初期に源義経に仕えた僧兵です。怪力無双の荒法師として知られ、現在でも非常に多くの創作物の題材として親しまれている人物なだけに、その名前を聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。

武蔵坊弁慶を描いたとされる、江戸時代の浮世絵

弁慶は、歌舞伎や能などの伝統芸能の題材として語られることが多く、『義経千本桜』に代表される、源義経の生涯を描いた作品だけでなく、『橋弁慶』、『安宅』など彼自身が主役として語られる作品も数多く存在しています。

しかしそんな人気の一方で、武蔵坊弁慶という人物の生涯そのものは非常に記録が乏しく、極端な説の中には「武蔵坊弁慶は実在しなかった」というものまで囁かれているのが現状です。その説自体は流石に極端なものではありますが、そんな説が囁かれるほど記録に乏しいということは事実で、そのことで一層、武蔵坊弁慶という人物を語ることは難しくなっています。

ということでこの記事では「公的な歴史書に記されている弁慶」と「様々な創作に基づく弁慶のエピソード」を分けて考えつつ、彼が辿ったとされる生涯や、彼にまつわる様々な事物を紹介していければと思います。

武蔵坊弁慶とはどんな人物か

名前武蔵坊弁慶
幼名鬼若(若一(にゃくいち)、わか一(わかいち)という説もあり)
誕生日不明(1159年よりも前と思われる)
没日1189年6月15日
生地紀伊国という説が有力
没地陸奥国・衣川館
両親熊野別当の何某(父)、二位大納言の姫(母)という説が一般的
配偶者不明(おそらく無し)
主君源義経
埋葬場所不明(岩手県平泉町中尊寺という説が有力)

武蔵坊弁慶の生涯をハイライト

弁慶が生まれたとされる紀伊国・熊野は、現在は世界遺産である「熊野古道」で有名

鎌倉時代当時の弁慶についての記録は、『吾妻鏡』の中にある2文ほどのものしか存在しておらず、「武蔵坊弁慶」という人物が存在していたことは記録されていますが、それ以上の事は何も分からないのが現状です。

しかし、後に描かれた様々な創作の中では、弁慶は紀伊国・熊野の権力者である熊野別当の子であるという設定が成されています。母は二位大納言の姫とされていますが、熊野別当はこの姫を強奪して子を孕ませたらしく、生まれた家系はそれなりだったものの、望まれた子ではなかったという解釈が成されるのが一般的です。

生まれた弁慶は”鬼若”と名付けられ、乱暴者として成長していく

母の胎内に18か月(一説では3年とも)も宿り、生まれた時には3歳児並に成長していた弁慶を、父である熊野別当は「鬼子」と呼んで殺そうとしますが、京都に住まう叔母が彼を引き取ったことで、九死に一生を得ることに。

鬼若と名付けられたその子は、比叡山に入れられるも乱暴者すぎて寺を追い出され、自ら剃髪。武蔵坊弁慶を名乗って四国と播磨を渡り歩き、書写山圓教寺の堂塔を炎上させるなどの乱暴を繰り返すことになりました。

五条大橋の上で、後の源義経と出会ったことが、彼の人生の転機となったとされる

そんな狼藉者の弁慶でしたが、京都の五条大橋で「通りかかる武者を倒して、太刀を千本奪う」という試みの最中、あと一本で千本強奪を達成するという所で、後の源義経である牛若丸と決闘し、返り討ちに遭って敗北することになります。

弁慶はこの時に牛若丸の家来となり、以降は彼の忠臣として、平家との戦で数々の武功を上げていくこととなったのです。

乱暴者の”鬼若”は、最期には忠臣の”武蔵坊弁慶”として、その生涯を主君を守って終えたという

しかし、義経の最期はほとんどの皆様も知る通り。兄である頼朝によって鎌倉を追われ、陸奥国に身を寄せた義経一行でしたが、頼朝による追討軍に襲撃を受け、そのまま壊滅。

弁慶は最期まで義経を守って最前線に立ち続け、多くの刀傷や矢傷を負いながらも、仁王立ちのままの壮絶な姿でその生涯を終えたのだと言います。このエピソードは「弁慶の立ち往生」と呼ばれ、現在も「忠義者」を示す慣用句として用いられているのです。

武蔵坊弁慶の性格

身分上は「僧侶」である弁慶だが、その性格は「悪僧」「荒法師」と呼ばれるものだったようで…

史実における記録が非常に少ない弁慶ですが、創作における彼の性格は割合一貫して描かれています。多くの作品の中で作られた弁慶のイメージは、「気が荒い乱暴者」「認めたものに対しては、忠義に篤い人物」といった所が一般的です。

語られる多くのエピソードの中でも、義経と会うまでは「乱暴者」の側面が強く描かれる傾向が強く、書写山圓教寺の堂塔を炎上させるなどの、アウトローな印象のエピソードが非常に多く残って(作成されて?)います。

そして義経に忠誠を誓って以降の弁慶は、その武勇のみならず知恵でも義経に貢献しているエピソードが多く、とりわけ『勧進帳』のエピソードなどは、弁慶と義経の絆を代表するエピソードとして、現在でも歌舞伎などで演じられル、人気のエピソードとなっています。

武蔵坊弁慶と源義経の関係性

京都・五条大橋の上で決闘の末に主従関係となった、源義経と武蔵坊弁慶

一般に最も有名な弁慶と義経の関係性を示すエピソードは、「五条大橋の決闘」でしょう。「千本の太刀を狩ろうとする荒法師の武蔵坊」と、「そこを通りかかった身軽な若武者の牛若丸」の決闘は、非常に多くの作品に描かれ、またモチーフにもされています。

その決闘を経て義経の家来となった弁慶ですが、以降の彼はそれまでの乱暴狼藉はどこへやら、武勇だけではない様々な分野で義経を助ける、「義経四天王の一人」という異名をとるほどの忠臣として、その生涯の全てを彼のために尽くしました。

よく語られる弁慶の最期が、義経を守るために矢面で奮戦し続けての戦死だったということもあり、その忠誠心が揺るぎのないものだったことは、疑う余地のない部分だと思われます。

武蔵坊弁慶の武勇伝

ゲーム『Fate/Grand order』でキャラクター化された武蔵坊弁慶。一般的なイメージを踏襲して、多くの武器を背負っている

武蔵坊弁慶の武勇伝として最も有名なのは、これもやはり「五条大橋の刀狩り」のエピソードでしょう。「牛若丸に返り討ちに遭い、彼に仕えるようになった」という部分がクローズアップされがちですが、それまでに「999人の武者を決闘で下してきた」という時点で、彼が凄まじい実力者だということは理解できます。

他にも、あくまで伝説ではありますが、”岩融(いわとおし)”という巨大な薙刀(一説では刀)を振るって戦う人物だったとも言われており、そのような部分からも、彼が剛力で鳴らした猛者だったことも理解いただけるでしょう。

あくまで伝承上のエピソードであり、多くの異説等が唱えられる部分ではありますが、歴史的なロマンを感じられるエピソードが多く残る人物として、武蔵坊弁慶は現代にも愛され、親しまれているのです。

武蔵坊弁慶を元にした言葉

この写真に写っている部位も、”弁慶”という言葉を使って言い換えることができる

多くの創作者によって描かれ、古くから人々に親しまれてきた武蔵坊弁慶だけに、彼にまつわる故事や慣用句などは緋所に多く残っています。

このトピックでは、その中でも代表的なものをいくつか紹介していきましょう。

「弁慶の泣き所」

いわゆる「脛(すね)」の部分であるこの部位を指すこの言葉は、弁慶という人物の評価を示す言葉でもある

おそらく一般的に最も「弁慶」の言葉が使われるのは、この言葉であると思います。皮膚のすぐ下の部分に神経が通っているこの部位は、「弁慶ほどの豪傑でも、ここを打つと涙を流すほど痛がる」という意味で、「弁慶の泣き所」とも呼ばれているのです。

さほど意識せずに使う言葉ですが、冷静に意味を考えてみると、武蔵坊弁慶という人物がどれだけ剛勇の人物だと思われていたのかが分かる言葉のようにも思えます。

「弁慶の立ち往生」

武蔵坊弁慶の最期の姿から生まれたこの言葉は、弁慶の忠義を示す言葉でもある

弁慶が最期を迎えた時、主君である義経を守らんとして立ったまま事切れたことに由来する故事です。「忠義の士」を示す言葉として使われていましたが、そこから転じて「立ち往生」という、「進退窮まる状況」の意味にも派生していきました。

この言葉が語り継がれていることも、”武蔵坊弁慶”という人物の人気を示す一因となっているように思えます。

「内弁慶」

「ネット弁慶」=「ネット上で威勢がいいこと」

外では大人しく、気の知れた空間や仲間内では威勢のいい人物の事を指す言葉です。あまり良い意味では使われず、最近では「ネット弁慶」という派生形の言葉もSNS等で度々目にすることがあるでしょう。

良い意味ではない言葉ですが、「威勢がいい」の代名詞として使われているところを見るに、「弁慶」という人物の評価が分かりやすく表れている言葉でもあります。

「七つ道具」

「探偵の~」「電気屋の~」等の言い回しで用いられるこの言葉も、実は弁慶に由来する言葉

意外に思われるかもしれませんが、創作などではよく見られる「七つ道具」という言い回しも、弁慶に由来する慣用句です。

弁慶が持っていたとされる「薙刀、鉄の熊手、大槌、大鋸、刺又(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)」の7つの道具が語源とされており、現代でも「探偵の七つ道具」「電気屋の七つ道具」等の言い回しで使われます。

もっとも、鎌倉時代当時に刺又や突棒などは存在していなかったとされているため、実際の弁慶のエピソードに由来する言葉というわけではありません。しかしこの言葉が残っていること自体も、弁慶という人物の人気を示す要因であることには違いないでしょう。

武蔵坊弁慶にまつわる名所

弁慶にまつわる名所は数多く存在し、名所による町同士の交流も盛んにおこなわれている

弁慶にまつわる言葉が数多く存在するのと同様に、弁慶ゆかりの地とされる名所も、日本には各地に存在しています。

ということでこのトピックでは、その代表的なものをいくつか紹介していきたいと思います。

弁慶の墓(岩手県平泉町)

名の刻まれた墓ではないが、この五輪塔が弁慶の墓だと伝わっている

中尊寺入り口前の竹垣にある柄の根元に、弁慶が眠るとされる五輪塔が存在しています。

名の刻まれた墓ではありませんが、弁慶はここに眠っているとされており、「伝弁慶墓」の名前で中尊寺境内の特別史跡として認定も受けている場所です。

弁慶石(京都府京都市)

一見すると普通の岩石だが、これも弁慶にまつわる史跡の一つ

京都府の中京区、三条通麩屋町東入の歩道脇に存在する、弁慶ゆかりの史跡の一つです。男の子が触ると力持ちになるという言い伝えがあり、子供連れの観光客が訪れる事が多い場所となっています。

また、他にも弁慶石と呼ばれる石は点在しており、それぞれに「弁慶が運んだ」「弁慶が座った」「弁慶が投げ飛ばした」などの、弁慶にまつわる伝承が残されています。

弁慶の鏡池(兵庫県姫路市圓教寺)

暴れ者だったころのエピソードが多く残る、兵庫県の弁慶にまつわる史跡

乱暴者だったころの弁慶が訪れたとされる、圓教寺の池です。弁慶はこの池に映る自分の顔を見て、落書きをされていることに気づいて激怒したというエピソードが残っています。

圓教寺と言えば、弁慶によって堂塔を炎上させられたエピソードも残っているため、もしかするとこの時の落書きのエピソードが、弁慶が圓教寺で働いた乱暴狼藉のきっかけだったのかもしれませんね。

武蔵坊弁慶の最期

主君である義経への忠義を尽くしたその最期は、多くの作品で「名場面」の一つとされている

前述のトピックでも何度か触れているように、弁慶の最期は主君である義経を守っての戦死でした。

義経やその家族が隠れる仏堂を背にして、襲い掛かる追討軍にわずか10数人程度で応戦。次々と仲間たちが倒れていく中で、弁慶は刀傷や矢傷を受けながらも奮戦し続け、最期には立ったままで事切れ、その生涯を壮絶な形で終えたのです。

弁慶の奮戦も空しく、義経も同地で家族とともに生涯を終えた……というのが一般的な歴史観ですが、これには様々な異説が唱えられることがあります。それらの部分については、後のトピックで語らせていただければ幸いです。

武蔵坊弁慶の功績

功績1「主君・源義経と並ぶ”主役級”の英雄」

歌舞伎の演目として人気な源平合戦時代のエピソードだが、その中には弁慶を主役としてエピソードも多く残る

一般に”歴史”とは、多くの創作の題材として取り上げられやすい題材ですが、その中でも”主役”を張れる人物というのは限られています。織田信長や坂本龍馬のような大英雄はともかく、どれだけ有名であっても、”主役”とはなりにくい人物が大勢いることは、本屋に並ぶ歴史小説を見るだけでもご理解いただけるでしょう。

しかしそんな中でも弁慶は、史実にさほどの記録がないにもかかわらず、多くの主役としての作品を要する、中々珍しいタイプの人物でもあるのです。

伝統芸能との親和性が高い源平合戦時代の人物だということもありますが、記録が少ないにもかかわらずここまで人気の人物に押し上げられている時点で、その生涯に対する人々の評価や、あるいはその人柄に対する評価が高かったことが、暗に示されているように思えます。

功績2「怪力無双だけじゃない。文武両道の僧兵だった」

取り上げられる作品の中では、「腕っぷしが強い」「忠義者」というイメージが押し出されやすい弁慶だが、実はそれだけではなかったようで…

伝統芸能作品だけでなく、今では多くのゲームや漫画にまで進出している武蔵坊弁慶という人物。一般に「とにかく強い」「怪力無双の忠義者」というイメージが強い弁慶ですが、実は描かれている弁慶の一面は、そういった”武”の側面だけではありません。

実は歌舞伎作品で描かれる弁慶は、義経の相談役のような立ち位置にいることも多く、武勇でだけではない知識や知恵の側面で義経を助けていることも意外と多かったりしています。

前半生の「乱暴者の荒法師」の一面のイメージから、「猪突猛進系の武芸一辺倒」というイメージを持たれがちな弁慶ですが、実はかなりインテリな側面を持っていたことは、弁慶を語るうえで忘れてはいけない重要な部分だと言えるでしょう。

功績3「主君を救った「偽の勧進帳」 」

歌舞伎の題材となっている『勧進帳』のエピソードは、弁慶の知恵と機転を示す代表的な物語である

弁慶が武芸だけの猪武者ではないことを示すエピソードは、歌舞伎の中でも人気の題材である『勧進帳』に集約されていると言えるでしょう。

山伏に扮して落ち延びた義経一行の窮地を救った弁慶の機転や、あえて主君を痛めつけるという彼の忠義の姿が描かれ、演者の力量が試される演目であると同時に、歴史のロマンに思いを馳せることのできる名作として人気を博しています。

伝統芸能である歌舞伎として上演されるため、若干敷居が高い部分はありますが、弁慶好きや義経好きが観劇するのはもとより、歌舞伎の入門としても中々に良い作品ですので、是非一度ご覧になっていただくことをお勧めいたします。

武蔵坊弁慶にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は史実に”弁慶”はいなかった?」

各所にゆかりのある史跡が残る武蔵坊弁慶だが、記録の少なさから「非実在説」もあるようで…

これまでのトピックでも何度か触れている通り、武蔵坊弁慶という人物について、史実に残っている記録は非常に少数です。そのため、「武蔵坊弁慶という人物は、本当は実在していない」という説も、まことしやかに囁かれることがあります。

結論から言って、この説は「半分本当で、半分は嘘」というのが定説だと言えます。

「武蔵坊弁慶」を名乗る人物が存在していたことは、鎌倉時代の研究資料として使われている『吾妻鏡』にも記録されており、記録された武蔵坊弁慶が源義経に仕えていたことは、資料から裏付けが取れた事実であると言えるでしょう。

しかし、弁慶が残した様々なエピソードについては『吾妻鏡』には記録されておらず、それが現実に起こった事柄かどうかは疑問視されています。特に、都落ちした後の義経については、罪を犯して寺を追い出された僧侶(悪僧)に協力を得つつ東北に向かったという記録が残っているため、「武蔵坊弁慶」という忠臣のエピソードは、それらの悪僧たちのエピソードが統合されたものだと見るのが一般的です。

多くの悪僧のエピソードが統合された結果として生まれたのが、現在我々が多くの物語で親しむ武蔵坊弁慶。この説にも確たる証拠はないものの、歴史的なロマンや諸行無常を感じられる説ではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「実は北海道を訪れていた?」

北海道にある弁慶ゆかりの観光名所、「弁慶の土俵跡」
「弁慶の刀掛岩」

「源義経=チンギス・ハーン説」のような生存説があるように、義経と最期を共にした弁慶にも、実は生存説が存在しています。

陸奥国で頼朝からの追討を退け、なんとか生き延びた弁慶が向かったとされるのは、なんと当時からすると未開の地だった北海道。そこで彼はアイヌの力自慢と相撲勝負を行ったり、刀を置くために岩を抉ったりと、多くの剛力自慢エピソードを残したと伝わっているのです。

普通に考えれば、明らかに荒唐無稽でしかないトンデモ説ではありますが、義経生存説と共に弁慶の生存説が囁かれていることも、武蔵坊弁慶の人気を示す一つの要素となっているような気がします。

武蔵坊弁慶の簡単年表

1159年以前? - 0歳
熊野別当の子として誕生
生年不肖ではありますが、少なくとも12世紀中ごろに、後の武蔵坊弁慶となる子供が誕生しました。母の腹に18か月(一説では3年)も宿り続けたその子は、生まれた時点で3歳児ほどまで育っていたらしく、不気味がった父親の熊野別当は、その子を「鬼子」と呼んで殺そうとしたそうです。

しかし母親である二位大納言の姫の姉妹に引き取られたことで、その子は九死に一生を得て、京都で養育されることになりました。

??年 - ?歳
比叡山に入れられるも、乱暴三昧で追い出される
”鬼若”と名付けられた幼い弁慶は、比叡山に入れられますが、そこで乱暴狼藉を働いて、最終的には山を追い出されてしまいます。

これを受けた彼は、自ら剃髪を行って、名を「武蔵坊弁慶」と改め、四国や播磨近辺で乱暴狼藉を働く荒くれ者として日々を送っていきました。

??年 - ?歳
五条大橋の決闘~牛若丸との出会い~
四国や播磨で乱暴の限りを尽くした弁慶は、京都で武者と決闘をし、太刀を千本奪おうと思い立ちます。

五条大橋に陣取って多くの武者を下した弁慶は、悲願の達成まであと1本のところまで迫りますが、最後の相手として目を付けた、後の源義経――牛若丸の身軽さに翻弄されて敗北。決闘の中で彼に魅せられたらしい弁慶は、義経の配下として彼に忠誠を捧げることになりました。

弁慶を代表するエピソードですが、当時の京都に「五条大橋」という橋は存在していなかったことが分かっており、実際にあったエピソードかどうかは疑問視されているのが現状です。

1180年~1185年4月頃 - ?歳
源義経の配下として、平家討伐に貢献
義経の配下となった弁慶は、平家との合戦の多くに出陣。その武勇や智謀の全てを使って、義経や源氏の勝利に多大な貢献を行ったとされています。

ただし史実資料に弁慶の活躍が記録されているわけではなく、その活躍の実態については謎に包まれている状況です。

1185年以降 - ?歳
頼朝の変心~苦難に満ちた逃避行~
平家討伐に多大な貢献を行った義経や弁慶ですが、幕府を開いた頼朝が義経を疎ましがったことで、義経一行は都を落ち延び、北に向けて逃避行をすることを余儀なくされてしまいます。

山伏に紛争しての逃避行は非常に苦しいものだったようですが、弁慶はこの時も義経に同行し、持ち前の知恵と剛力によって一行を助けたそうです。

武蔵坊弁慶の名前が『吾妻鏡』に登場するのもこの頃ですが、あくまで名前が登場するだけにとどまっており、その活躍の実態はやはり謎だと言わざるを得ません。

1186年~1187年? - ?歳
『勧進帳』で忠義を示す
逃避行を続ける義経一行でしたが、加賀国安宅の関で冨樫左衛門に見咎められてしまいます。この時弁慶は、「自分たちは山伏である」と証明するために、白紙の巻物を勧進帳(山伏の持つ布教の道具)に見立てて朗々と偽の勧進帳を読み上げ、一行の窮地を救ったと伝わっています。

また、その際に疑われた義経を、「お前が小柄だから疑われたのだ」と罵倒しながら殴りつけることで危機を回避したという逸話も残っています。

冨樫左衛門はこの、「主を殴ってでも守る覚悟」に感じ入り、嘘を見抜きながらも彼らを通過させたと言われており、このエピソードは義経と弁慶を語るうえで決して欠かすことのできないエピソードとなっているのです。

1189年6月15日 - ?歳
弁慶の立ち往生~主君を護り、壮絶な討死を遂げる~
辛くも奥州にたどり着き、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せた義経一行でしたが、秀衡の死後に家督を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の裏切りに遭い、鎌倉からの追討軍に襲撃を受けてしまいます。

弁慶は義経を守る最後の砦として、義経たちが隠れる仏堂の前で奮戦しましたが、最期には矢の雨を浴び、無数の傷を負った状態で立ったまま絶命したと言われています。

武蔵坊弁慶の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

弁慶 (手塚治虫文庫全集)

言わずと知れた「漫画の神様」・手塚治虫の描く弁慶の生涯です。今風の漫画としてみると表現的に古く感じられる部分もありますが、武蔵坊弁慶の生涯を簡単に知るには、この作品が最も適しているかと思われます。

単純にわかりやすいだけでなく、ストーリー仕立てで読みやすい作品でもあるため、歴史を学びたい方だけでなく、子供に与える学習漫画を探している方にもおすすめしたい一冊です。

牛若と弁慶

タイトルが示す通り、源義経と武蔵坊弁慶を主軸にした解説書です。さほど新しい書籍ではないため、内容自体には若干古い所がありますが、分かりやすさの観点で言えば随一の一冊だと言えます。

筆者の感情的な部分が最小限に抑えられているため、「良い悪い」の観点ではない所から二人の関係性を知ることができる、「学び」に適した一冊としておすすめさせていただきます。

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶を主役に据えた小説作品です。かなり古めの作品であり、内容自体もかなりぶっ飛んだ部分が散見されますが、その分エンタメ作品としても楽しめる一冊になっています。

「本気で歴史を学びたい!」という方には向いていない作品ではありますが、いわゆる『戦国BASARA』のようなぶっ飛んだ歴史モチーフの作品が好きな方には何よりおすすめできる、非常に痛快な小説作品です。

おすすめの映画

虎の尾を踏む男達

この記事でもたびたび触れた『勧進帳』のエピソードを、黒澤明が映画化した作品です。

内容が歌舞伎の『勧進帳』から少し改変されていることもそうですが、シリアスにもコミカルにもよらない独特の作風は、古臭さを感じさせつつも何故か目を離せなくなる魅力に満ち溢れています。

ツッコミどころのない作品とは言えませんが、弁慶について興味がある方や、あるいは黒澤明ファンの方には、見ておいて損はない作品だと思います。

五条霊戦記 GOJOE

義経と弁慶の出会いである「五条大橋の戦い」をモチーフとした、SF時代劇作品です。

「真面目な歴史もの」を志向する方は憤慨すること請け合いの作品ですが、設定のぶっ飛び方や、意外と深く重苦しい話の内容、エピソード性の強い歴史解釈などは、ハマる人にはどっぷりハマること請け合いです。

万人におすすめできる作品とは決して言えませんが、エンタメ系時代劇の極致とも言える作品ですので、嫌でない方はぜひ見ていただきたいと思います。

おすすめドラマ

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶を主役に据えた大河ドラマです。かなり古めの作品ではありますが、現代的な要素も要所要所に詰め込まれており、現在見ても楽しむことのできる息の長い作品になっています。

単純な歴史解釈のみならず、仏教的な考え方なども用いられた構成はあまりにも巧みで、特に平家との決戦に流れ込んでいく辺りは、おそらく涙なくして見ることができる方はいないでしょう。

初めて見た時こそ、少々違和感を感じるかもしれない大河ドラマですが、是非最後まで見ていただきたい、紛れもない名作ドラマの一つだと筆者は思っております。

大河ドラマ 義経

弁慶が最期まで忠義を尽くした主君、源義経の生涯を描く大河ドラマです。武蔵坊弁慶は松平健さんが演じ、重厚かつ迫力のある演技は、見ているこちらの心を画面に集めて離しません。

この作品の弁慶は義経と同様に、ある種の悲劇のヒーローとして描かれています。その壮絶な最期も相まって、泣かされることは間違いありません。長い作品ではありますが、必ず最後まで見てほしい作品となっています。

関連外部リンク

武蔵坊弁慶についてのまとめ

おそらく源平合戦期でも有数の有名人でありながら、実は非実在説すら囁かれるほどに記録が少ない武蔵坊弁慶という人物。しかしそういった「記録だけでない名前の広がり方」などは、偉業を追うだけではない歴史の楽しみ方を、私たちに暗に示してくれているようにも思えます。

『戦国BASARA』に代表される、歴史をモチーフにしたぶっ飛んだ作品は、根強いファンを抱える反面、アンチ層からの反発も大きいもの。しかし実は武蔵坊弁慶なんかも、そういった「ぶっ飛んだ」解釈によって人気を得た人物だったというのは、中々に面白い所なのではないでしょうか。

一口に”歴史”と言っても、「学ぶ」「読む」「書く」「描く」「作る」と、楽しみ方は人それぞれ。もちろん故人に対するリスペクトを持たねばならないのは当然ですが、そういった歴史の様々な楽しみ方を学べる人物こそが、この「武蔵坊弁慶」という人物なのではないかなと思います。

それでは、この記事におつきあいいただきまして、誠にありがとうございました。

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