武蔵坊弁慶とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説、義経との関係も紹介】

武蔵坊弁慶とは、平安末期から鎌倉時代最初期に源義経に仕えた僧兵です。怪力無双の荒法師として知られ、現在でも非常に多くの創作物の題材として親しまれている人物なだけに、その名前を聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。

武蔵坊弁慶を描いたとされる、江戸時代の浮世絵

弁慶は、歌舞伎や能などの伝統芸能の題材として語られることが多く、『義経千本桜』に代表される、源義経の生涯を描いた作品だけでなく、『橋弁慶』、『安宅』など彼自身が主役として語られる作品も数多く存在しています。

しかしそんな人気の一方で、武蔵坊弁慶という人物の生涯そのものは非常に記録が乏しく、極端な説の中には「武蔵坊弁慶は実在しなかった」というものまで囁かれているのが現状です。その説自体は流石に極端なものではありますが、そんな説が囁かれるほど記録に乏しいということは事実で、そのことで一層、武蔵坊弁慶という人物を語ることは難しくなっています。

ということでこの記事では「公的な歴史書に記されている弁慶」と「様々な創作に基づく弁慶のエピソード」を分けて考えつつ、彼が辿ったとされる生涯や、彼にまつわる様々な事物を紹介していければと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

武蔵坊弁慶とはどんな人物か

名前武蔵坊弁慶
幼名鬼若(若一(にゃくいち)、わか一(わかいち)という説もあり)
誕生日不明(1159年よりも前と思われる)
没日1189年6月15日
生地紀伊国という説が有力
没地陸奥国・衣川館
両親熊野別当の何某(父)、二位大納言の姫(母)という説が一般的
配偶者不明(おそらく無し)
主君源義経
埋葬場所不明(岩手県平泉町中尊寺という説が有力)

武蔵坊弁慶の生涯をハイライト

弁慶が生まれたとされる紀伊国・熊野は、現在は世界遺産である「熊野古道」で有名

鎌倉時代当時の弁慶についての記録は、『吾妻鏡』の中にある2文ほどのものしか存在しておらず、「武蔵坊弁慶」という人物が存在していたことは記録されていますが、それ以上の事は何も分からないのが現状です。

しかし、後に描かれた様々な創作の中では、弁慶は紀伊国・熊野の権力者である熊野別当の子であるという設定が成されています。母は二位大納言の姫とされていますが、熊野別当はこの姫を強奪して子を孕ませたらしく、生まれた家系はそれなりだったものの、望まれた子ではなかったという解釈が成されるのが一般的です。

生まれた弁慶は”鬼若”と名付けられ、乱暴者として成長していく

母の胎内に18か月(一説では3年とも)も宿り、生まれた時には3歳児並に成長していた弁慶を、父である熊野別当は「鬼子」と呼んで殺そうとしますが、京都に住まう叔母が彼を引き取ったことで、九死に一生を得ることに。

鬼若と名付けられたその子は、比叡山に入れられるも乱暴者すぎて寺を追い出され、自ら剃髪。武蔵坊弁慶を名乗って四国と播磨を渡り歩き、書写山圓教寺の堂塔を炎上させるなどの乱暴を繰り返すことになりました。

五条大橋の上で、後の源義経と出会ったことが、彼の人生の転機となったとされる

そんな狼藉者の弁慶でしたが、京都の五条大橋で「通りかかる武者を倒して、太刀を千本奪う」という試みの最中、あと一本で千本強奪を達成するという所で、後の源義経である牛若丸と決闘し、返り討ちに遭って敗北することになります。

弁慶はこの時に牛若丸の家来となり、以降は彼の忠臣として、平家との戦で数々の武功を上げていくこととなったのです。

乱暴者の”鬼若”は、最期には忠臣の”武蔵坊弁慶”として、その生涯を主君を守って終えたという

しかし、義経の最期はほとんどの皆様も知る通り。兄である頼朝によって鎌倉を追われ、陸奥国に身を寄せた義経一行でしたが、頼朝による追討軍に襲撃を受け、そのまま壊滅。

弁慶は最期まで義経を守って最前線に立ち続け、多くの刀傷や矢傷を負いながらも、仁王立ちのままの壮絶な姿でその生涯を終えたのだと言います。このエピソードは「弁慶の立ち往生」と呼ばれ、現在も「忠義者」を示す慣用句として用いられているのです。

武蔵坊弁慶の性格

身分上は「僧侶」である弁慶だが、その性格は「悪僧」「荒法師」と呼ばれるものだったようで…

史実における記録が非常に少ない弁慶ですが、創作における彼の性格は割合一貫して描かれています。多くの作品の中で作られた弁慶のイメージは、「気が荒い乱暴者」「認めたものに対しては、忠義に篤い人物」といった所が一般的です。

語られる多くのエピソードの中でも、義経と会うまでは「乱暴者」の側面が強く描かれる傾向が強く、書写山圓教寺の堂塔を炎上させるなどの、アウトローな印象のエピソードが非常に多く残って(作成されて?)います。

そして義経に忠誠を誓って以降の弁慶は、その武勇のみならず知恵でも義経に貢献しているエピソードが多く、とりわけ『勧進帳』のエピソードなどは、弁慶と義経の絆を代表するエピソードとして、現在でも歌舞伎などで演じられル、人気のエピソードとなっています。

武蔵坊弁慶と源義経の関係性

京都・五条大橋の上で決闘の末に主従関係となった、源義経と武蔵坊弁慶

一般に最も有名な弁慶と義経の関係性を示すエピソードは、「五条大橋の決闘」でしょう。「千本の太刀を狩ろうとする荒法師の武蔵坊」と、「そこを通りかかった身軽な若武者の牛若丸」の決闘は、非常に多くの作品に描かれ、またモチーフにもされています。

その決闘を経て義経の家来となった弁慶ですが、以降の彼はそれまでの乱暴狼藉はどこへやら、武勇だけではない様々な分野で義経を助ける、「義経四天王の一人」という異名をとるほどの忠臣として、その生涯の全てを彼のために尽くしました。

よく語られる弁慶の最期が、義経を守るために矢面で奮戦し続けての戦死だったということもあり、その忠誠心が揺るぎのないものだったことは、疑う余地のない部分だと思われます。

武蔵坊弁慶の武勇伝

ゲーム『Fate/Grand order』でキャラクター化された武蔵坊弁慶。一般的なイメージを踏襲して、多くの武器を背負っている

武蔵坊弁慶の武勇伝として最も有名なのは、これもやはり「五条大橋の刀狩り」のエピソードでしょう。「牛若丸に返り討ちに遭い、彼に仕えるようになった」という部分がクローズアップされがちですが、それまでに「999人の武者を決闘で下してきた」という時点で、彼が凄まじい実力者だということは理解できます。

他にも、あくまで伝説ではありますが、”岩融(いわとおし)”という巨大な薙刀(一説では刀)を振るって戦う人物だったとも言われており、そのような部分からも、彼が剛力で鳴らした猛者だったことも理解いただけるでしょう。

あくまで伝承上のエピソードであり、多くの異説等が唱えられる部分ではありますが、歴史的なロマンを感じられるエピソードが多く残る人物として、武蔵坊弁慶は現代にも愛され、親しまれているのです。

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