武蔵坊弁慶とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説、義経との関係も紹介】

武蔵坊弁慶を元にした言葉

この写真に写っている部位も、”弁慶”という言葉を使って言い換えることができる

多くの創作者によって描かれ、古くから人々に親しまれてきた武蔵坊弁慶だけに、彼にまつわる故事や慣用句などは緋所に多く残っています。

このトピックでは、その中でも代表的なものをいくつか紹介していきましょう。

「弁慶の泣き所」

いわゆる「脛(すね)」の部分であるこの部位を指すこの言葉は、弁慶という人物の評価を示す言葉でもある

おそらく一般的に最も「弁慶」の言葉が使われるのは、この言葉であると思います。皮膚のすぐ下の部分に神経が通っているこの部位は、「弁慶ほどの豪傑でも、ここを打つと涙を流すほど痛がる」という意味で、「弁慶の泣き所」とも呼ばれているのです。

さほど意識せずに使う言葉ですが、冷静に意味を考えてみると、武蔵坊弁慶という人物がどれだけ剛勇の人物だと思われていたのかが分かる言葉のようにも思えます。

「弁慶の立ち往生」

武蔵坊弁慶の最期の姿から生まれたこの言葉は、弁慶の忠義を示す言葉でもある

弁慶が最期を迎えた時、主君である義経を守らんとして立ったまま事切れたことに由来する故事です。「忠義の士」を示す言葉として使われていましたが、そこから転じて「立ち往生」という、「進退窮まる状況」の意味にも派生していきました。

この言葉が語り継がれていることも、”武蔵坊弁慶”という人物の人気を示す一因となっているように思えます。

「内弁慶」

「ネット弁慶」=「ネット上で威勢がいいこと」

外では大人しく、気の知れた空間や仲間内では威勢のいい人物の事を指す言葉です。あまり良い意味では使われず、最近では「ネット弁慶」という派生形の言葉もSNS等で度々目にすることがあるでしょう。

良い意味ではない言葉ですが、「威勢がいい」の代名詞として使われているところを見るに、「弁慶」という人物の評価が分かりやすく表れている言葉でもあります。

「七つ道具」

「探偵の~」「電気屋の~」等の言い回しで用いられるこの言葉も、実は弁慶に由来する言葉

意外に思われるかもしれませんが、創作などではよく見られる「七つ道具」という言い回しも、弁慶に由来する慣用句です。

弁慶が持っていたとされる「薙刀、鉄の熊手、大槌、大鋸、刺又(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)」の7つの道具が語源とされており、現代でも「探偵の七つ道具」「電気屋の七つ道具」等の言い回しで使われます。

もっとも、鎌倉時代当時に刺又や突棒などは存在していなかったとされているため、実際の弁慶のエピソードに由来する言葉というわけではありません。しかしこの言葉が残っていること自体も、弁慶という人物の人気を示す要因であることには違いないでしょう。

武蔵坊弁慶にまつわる名所

弁慶にまつわる名所は数多く存在し、名所による町同士の交流も盛んにおこなわれている

弁慶にまつわる言葉が数多く存在するのと同様に、弁慶ゆかりの地とされる名所も、日本には各地に存在しています。

ということでこのトピックでは、その代表的なものをいくつか紹介していきたいと思います。

弁慶の墓(岩手県平泉町)

名の刻まれた墓ではないが、この五輪塔が弁慶の墓だと伝わっている

中尊寺入り口前の竹垣にある柄の根元に、弁慶が眠るとされる五輪塔が存在しています。

名の刻まれた墓ではありませんが、弁慶はここに眠っているとされており、「伝弁慶墓」の名前で中尊寺境内の特別史跡として認定も受けている場所です。

弁慶石(京都府京都市)

一見すると普通の岩石だが、これも弁慶にまつわる史跡の一つ

京都府の中京区、三条通麩屋町東入の歩道脇に存在する、弁慶ゆかりの史跡の一つです。男の子が触ると力持ちになるという言い伝えがあり、子供連れの観光客が訪れる事が多い場所となっています。

また、他にも弁慶石と呼ばれる石は点在しており、それぞれに「弁慶が運んだ」「弁慶が座った」「弁慶が投げ飛ばした」などの、弁慶にまつわる伝承が残されています。

弁慶の鏡池(兵庫県姫路市圓教寺)

暴れ者だったころのエピソードが多く残る、兵庫県の弁慶にまつわる史跡

乱暴者だったころの弁慶が訪れたとされる、圓教寺の池です。弁慶はこの池に映る自分の顔を見て、落書きをされていることに気づいて激怒したというエピソードが残っています。

圓教寺と言えば、弁慶によって堂塔を炎上させられたエピソードも残っているため、もしかするとこの時の落書きのエピソードが、弁慶が圓教寺で働いた乱暴狼藉のきっかけだったのかもしれませんね。

武蔵坊弁慶の最期

主君である義経への忠義を尽くしたその最期は、多くの作品で「名場面」の一つとされている

前述のトピックでも何度か触れているように、弁慶の最期は主君である義経を守っての戦死でした。

義経やその家族が隠れる仏堂を背にして、襲い掛かる追討軍にわずか10数人程度で応戦。次々と仲間たちが倒れていく中で、弁慶は刀傷や矢傷を受けながらも奮戦し続け、最期には立ったままで事切れ、その生涯を壮絶な形で終えたのです。

弁慶の奮戦も空しく、義経も同地で家族とともに生涯を終えた……というのが一般的な歴史観ですが、これには様々な異説が唱えられることがあります。それらの部分については、後のトピックで語らせていただければ幸いです。

武蔵坊弁慶の功績

功績1「主君・源義経と並ぶ”主役級”の英雄」

歌舞伎の演目として人気な源平合戦時代のエピソードだが、その中には弁慶を主役としてエピソードも多く残る

一般に”歴史”とは、多くの創作の題材として取り上げられやすい題材ですが、その中でも”主役”を張れる人物というのは限られています。織田信長や坂本龍馬のような大英雄はともかく、どれだけ有名であっても、”主役”とはなりにくい人物が大勢いることは、本屋に並ぶ歴史小説を見るだけでもご理解いただけるでしょう。

しかしそんな中でも弁慶は、史実にさほどの記録がないにもかかわらず、多くの主役としての作品を要する、中々珍しいタイプの人物でもあるのです。

伝統芸能との親和性が高い源平合戦時代の人物だということもありますが、記録が少ないにもかかわらずここまで人気の人物に押し上げられている時点で、その生涯に対する人々の評価や、あるいはその人柄に対する評価が高かったことが、暗に示されているように思えます。

功績2「怪力無双だけじゃない。文武両道の僧兵だった」

取り上げられる作品の中では、「腕っぷしが強い」「忠義者」というイメージが押し出されやすい弁慶だが、実はそれだけではなかったようで…

伝統芸能作品だけでなく、今では多くのゲームや漫画にまで進出している武蔵坊弁慶という人物。一般に「とにかく強い」「怪力無双の忠義者」というイメージが強い弁慶ですが、実は描かれている弁慶の一面は、そういった”武”の側面だけではありません。

実は歌舞伎作品で描かれる弁慶は、義経の相談役のような立ち位置にいることも多く、武勇でだけではない知識や知恵の側面で義経を助けていることも意外と多かったりしています。

前半生の「乱暴者の荒法師」の一面のイメージから、「猪突猛進系の武芸一辺倒」というイメージを持たれがちな弁慶ですが、実はかなりインテリな側面を持っていたことは、弁慶を語るうえで忘れてはいけない重要な部分だと言えるでしょう。

功績3「主君を救った「偽の勧進帳」 」

歌舞伎の題材となっている『勧進帳』のエピソードは、弁慶の知恵と機転を示す代表的な物語である

弁慶が武芸だけの猪武者ではないことを示すエピソードは、歌舞伎の中でも人気の題材である『勧進帳』に集約されていると言えるでしょう。

山伏に扮して落ち延びた義経一行の窮地を救った弁慶の機転や、あえて主君を痛めつけるという彼の忠義の姿が描かれ、演者の力量が試される演目であると同時に、歴史のロマンに思いを馳せることのできる名作として人気を博しています。

伝統芸能である歌舞伎として上演されるため、若干敷居が高い部分はありますが、弁慶好きや義経好きが観劇するのはもとより、歌舞伎の入門としても中々に良い作品ですので、是非一度ご覧になっていただくことをお勧めいたします。

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