アン女王はイングランド・スコットランド王国の最後の女王です。そして、グレートブリテン王国を統合して最初の女王にもなった人物としても歴史に名を刻んでいます。即位してからはアン女王のお気に入りの人物を側近としてたずさえ、内輪な政治を行ったことも有名になりました。
ブランデーが好きなことでも知られ、ニックネームとして「ブランデー・アン」と名付けられています。ブランデー好きが高じて、最終的には極度の肥満に陥り、遺体を収容する棺も正方形にせざるを得ないほどの大きさとなってしまったんです。
女王として君臨している間にはいくつかの戦争にも参戦し、大きな戦果をあげています。スペイン継承戦争では最終的に和解案を持ち出して、ユトレヒト条約を結び、現在でもイギリスの重要な領地となっているジブラルタルをはじめとする土地を獲得することに成功するのでした。
映画「女王陛下のお気に入り」でアン女王のことについて知り、より詳しく調べてみたくなった筆者が様々な文献を読み漁った結果得た知識を元に、アン女王の生涯、功績、意外なエピソードまでご紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アン女王とはどんな人物か
名前 | アン・スチュワート |
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誕生日 | 1665年2月6日 |
没日 | 1714年8月1日 |
生地 | イングランド王国、セント・ジェームズ宮殿 |
没地 | グレートブリテン王国、ケンジントン宮殿 |
配偶者 | ジョージ・オブ・デンマーク(ヨウエン) |
埋葬場所 | グレートブリテン王国、ウェストミンスター寺院 |
アン女王の生涯をハイライト
アン女王の生涯をダイジェストにすると以下のようになります。
- ジェームズ2世とアラン・ハイドの次女として誕生、兄弟は8人いたが、成人したのは姉のメアリー2世とアン女王のみ
- 3歳の時に目の病気の治療のためフランスへと移るが、その直後に母・ハイドが急死
- 幼少期はプロテスタントとして育てられ、乗馬などに勤しむ
- 1683年にデンマーク・ノルウェー国王の次男と結婚
- 生涯に17回妊娠するも、6回の流産、6回の死産を経験し、成人した子供はおらず
- 名誉革命後にイングランド・スコットランドの王位継承者に
- 1702年にイングランド・スコットランド女王へ
- 1707年にグレートブリテン王国を統合し、初代女王に
- スペイン継承戦争を和平で終戦させ、ユトレヒト条約を締結
- 1714年、脳卒中にて帰らぬ人に。享年49歳
アン女王の家族構成は?子孫は?
アン女王はジェームズ2世とアラン・ハイドの次女として誕生します。兄弟は8人でしたが、そのうちの6人が幼くして亡くなり、最終的に成人したのは姉のメアリー2世とアン女王だけでした。
アン女王はデンマーク・ノルウェー国王の次男ヨウエンと結婚し、生涯で17回の妊娠を経験します。しかし、そのうちの6回が流産、6回が死産で、無事に産まれた子供も全員幼少期に亡くなってしまうのでした。その原因としては、アン女王が抗リン脂質抗体症候群(APS)という病気を患っていたからではないかと言われています。これは後ほどの「アン女王の死因は?実は難病を患っていた?」の項目で解説します。
アン女王の戦った戦争の内容は?
アン女王は1702年に国王として即位後にスペイン継承戦争への参戦を表明しています。スペイン継承戦争とはスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパの諸国を巻き込んで起こった戦争で、イングランド・オランダ・オーストリアの同盟軍とスペイン・フランスの同盟軍が対立する形となりました。
スペイン継承戦争の中で、マールバラ公をイングランド軍総司令官に任命し、ドイツやネーデルランドでの戦争を担当させました。マールバラ公は戦勝を重ねていき、ブレンハイムの戦いではフランス軍を撃破するという大きな戦果をあげ、これの褒賞を元にブレナム宮殿を建設しています。
また、フランスとの北アメリカの植民地を巡る「アン女王戦争」も引き起こしましたが、こちらは決着がつかずに終わることになりました。1712年に停戦協定が結ばれ、1713年のユトレヒト条約が締結されてスペイン継承戦争とともに終結することになったのです。
アン女王の死因は?実は難病を患っていた?
アン女王の死因は脳卒中でした。晩年のブランデーの飲み過ぎにより、生活習慣の乱れを引き起こしており、様々な体の不調をきたしていました。特に肥満は顕著で、亡くなった時の棺の形が正方形になる程、大きな体格になっていたようです。
また、アン女王は抗リン脂質抗体症候群(APS)という難病を患っていたと言われており、流産や死産が多かったのもこの病気の影響によるものではないかと考えられています。
抗リン脂質抗体症候群は自己免疫疾患の一つで、抗リン脂質抗体という自己抗体を体の中で生成することにより血液が固まりやすくなるため、血栓症を引き起こしやすくなるのです。そしてこの病気が習慣流産の原因の一つであり、胎盤の血管に血栓が飛ぶことによって胎児に血液が供給されずに、流産・死産を招くことが知られています。