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アン女王とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、戦争や死因についても紹介】

アン女王はイングランド・スコットランド王国の最後の女王です。そして、グレートブリテン王国を統合して最初の女王にもなった人物としても歴史に名を刻んでいます。即位してからはアン女王のお気に入りの人物を側近としてたずさえ、内輪な政治を行ったことも有名になりました。

ブランデーが好きなことでも知られ、ニックネームとして「ブランデー・アン」と名付けられています。ブランデー好きが高じて、最終的には極度の肥満に陥り、遺体を収容する棺も正方形にせざるを得ないほどの大きさとなってしまったんです。

アン女王

女王として君臨している間にはいくつかの戦争にも参戦し、大きな戦果をあげています。スペイン継承戦争では最終的に和解案を持ち出して、ユトレヒト条約を結び、現在でもイギリスの重要な領地となっているジブラルタルをはじめとする土地を獲得することに成功するのでした。

映画「女王陛下のお気に入り」でアン女王のことについて知り、より詳しく調べてみたくなった筆者が様々な文献を読み漁った結果得た知識を元に、アン女王の生涯、功績、意外なエピソードまでご紹介していきます。

アン女王とはどんな人物か

名前アン・スチュワート
誕生日1665年2月6日
没日1714年8月1日
生地イングランド王国、セント・ジェームズ宮殿
没地グレートブリテン王国、ケンジントン宮殿
配偶者ジョージ・オブ・デンマーク(ヨウエン)
埋葬場所グレートブリテン王国、ウェストミンスター寺院

アン女王の生涯をハイライト

アン女王

アン女王の生涯をダイジェストにすると以下のようになります。

  • ジェームズ2世とアラン・ハイドの次女として誕生、兄弟は8人いたが、成人したのは姉のメアリー2世とアン女王のみ
  • 3歳の時に目の病気の治療のためフランスへと移るが、その直後に母・ハイドが急死
  • 幼少期はプロテスタントとして育てられ、乗馬などに勤しむ
  • 1683年にデンマーク・ノルウェー国王の次男と結婚
  • 生涯に17回妊娠するも、6回の流産、6回の死産を経験し、成人した子供はおらず
  • 名誉革命後にイングランド・スコットランドの王位継承者に
  • 1702年にイングランド・スコットランド女王へ
  • 1707年にグレートブリテン王国を統合し、初代女王に
  • スペイン継承戦争を和平で終戦させ、ユトレヒト条約を締結
  • 1714年、脳卒中にて帰らぬ人に。享年49歳

アン女王の家族構成は?子孫は?

ジェームズ2世

アン女王はジェームズ2世とアラン・ハイドの次女として誕生します。兄弟は8人でしたが、そのうちの6人が幼くして亡くなり、最終的に成人したのは姉のメアリー2世とアン女王だけでした。

アン女王はデンマーク・ノルウェー国王の次男ヨウエンと結婚し、生涯で17回の妊娠を経験します。しかし、そのうちの6回が流産、6回が死産で、無事に産まれた子供も全員幼少期に亡くなってしまうのでした。その原因としては、アン女王が抗リン脂質抗体症候群(APS)という病気を患っていたからではないかと言われています。これは後ほどの「アン女王の死因は?実は難病を患っていた?」の項目で解説します。

アン女王の戦った戦争の内容は?

マールバラ公

アン女王は1702年に国王として即位後にスペイン継承戦争への参戦を表明しています。スペイン継承戦争とはスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパの諸国を巻き込んで起こった戦争で、イングランド・オランダ・オーストリアの同盟軍とスペイン・フランスの同盟軍が対立する形となりました。

ブレンハイムの戦い

スペイン継承戦争の中で、マールバラ公をイングランド軍総司令官に任命し、ドイツやネーデルランドでの戦争を担当させました。マールバラ公は戦勝を重ねていき、ブレンハイムの戦いではフランス軍を撃破するという大きな戦果をあげ、これの褒賞を元にブレナム宮殿を建設しています。

また、フランスとの北アメリカの植民地を巡る「アン女王戦争」も引き起こしましたが、こちらは決着がつかずに終わることになりました。1712年に停戦協定が結ばれ、1713年のユトレヒト条約が締結されてスペイン継承戦争とともに終結することになったのです。

アン女王の死因は?実は難病を患っていた?

ブランデー

アン女王の死因は脳卒中でした。晩年のブランデーの飲み過ぎにより、生活習慣の乱れを引き起こしており、様々な体の不調をきたしていました。特に肥満は顕著で、亡くなった時の棺の形が正方形になる程、大きな体格になっていたようです。

また、アン女王は抗リン脂質抗体症候群(APS)という難病を患っていたと言われており、流産や死産が多かったのもこの病気の影響によるものではないかと考えられています。

抗リン脂質抗体症候群は自己免疫疾患の一つで、抗リン脂質抗体という自己抗体を体の中で生成することにより血液が固まりやすくなるため、血栓症を引き起こしやすくなるのです。そしてこの病気が習慣流産の原因の一つであり、胎盤の血管に血栓が飛ぶことによって胎児に血液が供給されずに、流産・死産を招くことが知られています。

アン女王の功績

功績1「最後のイングランド王国君主・最初のグレートブリテン王国君主」

イギリスの国旗 成立過程

アン女王は1702年にウィレム3世が崩御すると、王位継承通りに即位し、イングランド・スコットランド国王となります。1707年にはアン女王の後継者がいないという問題から、イングランド・スコットランド間で対立が起こり、スコットランドが経済的に困窮したため、両国をグレートブリテン王国として統合することになりました。

もともと約100年前のジェームズ1世の時に同君連合としてイングランド・スコットランド王国は付かず離れずの関係で機能していましたが、王位継承問題を機に一つの国としてまとまることで合意したのです。1707年5月1日に誕生したグレートブリテン王国の初代女王としてアン女王は君臨することになるのでした。

功績2「ユトレヒト条約で海外領土を確保」

メノルカ島

スペインの王位継承問題をきっかけに開戦したスペイン継承戦争ですが、次第に和平推進派の声が多くなっていきます。アン女王も和平を進めるように考えを改め、戦争を控えるようになりました。戦争推進派のマールバラ公・サラ夫妻とは意見が対立しましたが、1710年に軍資金横領疑惑が持ち上がり、マールバラ公の失脚が成立すると、スペイン継承戦争の和平交渉が行われる運びとなったのです。

1713年にユトレヒト条約が締結され、スペイン継承戦争は終焉を迎えました。グレートブリテン王国はジブラルタルやメノルカ島などの海外領土の保有権も獲得することになったのです。

功績3「女性がもっとも活躍する王室に」

女性の活躍する社会 イメージ

アン女王は君主として即位すると、側近を親しい人物で固めるような人事を行いました。自身が女王、友人のサラを宮廷女官のトップに、それ以外の重要ポストにも多数の女性を起用します。イギリス宮廷史上もっとも女性の活躍する時代となりました。

しかし、能力関係なく、アン女王の好き嫌いによって構成された組織となってしまったので、客観性を失い、一度ほころびが生じ始めると一気に崩れ落ちていってしまいます。亀裂の生じた家臣たちの間で政党が二つに分裂し、密告や陰口など、揚げ足の取り合いが激化していきました。

「自分を愛していくれるかどうか」で人事を行い、女性で固められた宮廷は初めの頃はうまく機能しましたが、長くは続かなかったのです。

アン女王にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「合計17回妊娠し、6回の流産、6回の死産を経験」

アン女王とウィリアム王子

アン女王は生涯で17回の妊娠、6回の流産、6回の死産を経験しています。これだけ数が多くなったのは、王位継承者を育むためであったと言われています。そして、無事に産まれたアン女王の子供達も皆、幼少期に亡くなってしまい、最終的には誰も成人しませんでした。

この原因として抗リン脂質抗体症候群を患っていたことが挙げられています。自己免疫性疾患の一種である抗リン脂質抗体症候群は習慣流産を引き起こす病気として広く知られています。そのため、アン女王はこの難病を患っていて流産や死産が多く、子供も成長しないのではないかとの見解が示されたのでした。

そのほかにも天然痘や猩紅熱などで亡くなる子供もおり、アン女王は最後まで子孫には恵まれなかったのでした。

都市伝説・武勇伝2「ブランデーが大好き」

ブランデー

アン女王はブランデーが大好物で、ブランデー・アンというニックネームをつけられるほど凝っていました。その影響で体重は年を重ねるごとに増加し、自力で歩けないほどの肥満になってしまうのです。戴冠式へ向かう時なども輿に担がれてウエストミンスター寺院へと赴く様子などが逸話として残っています。

また、アン女王は紅茶も好物で、食事の時はもちろん、お茶会などを頻繁に開いて、自分のお気に入りの紅茶を友人に提供していたそうです。イングリッシュブレックファストやアフタヌーンティーという文化が始まったのはアン女王の影響ではないかとも言われています。

アン女王の簡単年表

1665年
アン女王の誕生

1665年2月6日、ジェームズ2世とアラン・ハイドの娘としてアン女王は生まれました。幼少期は姉のメアリー2世とともにプロテスタントとして育てられます。読書や芸術の勉強よりもスポーツや乗馬など体を動かすことの方が好きな少女であったので、教養はあまり身につきませんでした。

1668年
title=目の病気の治療のため、母とフランスへ引っ越すが、母親が急死

アン女王は生まれつき目が悪く、3歳の時には目の病気の治療のために母親のアラン・ハイドとともにフランスへと引越しをします。しかし、母のハイドはその直後に亡くなってしまうのでした。アン女王は幼くして家族の死を多く経験します。8人兄弟として育てられていましたが、そのうちの6人の兄弟は次々と亡くなっていき、最終的に残ったのはアン女王と姉のメアリー2世だけでした。

1683年
クリスティアン5世の弟・ヨウエンとの結婚

1683年7月28日、アン女王はデンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の次男ヨウエンと結婚することになります。2人は非常に仲が良く、アン女王は生涯の間に17回も妊娠しました。

1688年
名誉革命の乱世の中、皇位継承者としてとらえられるように

1688年に名誉革命が起こると、姉のメアリー2世の夫であるウィレム3世のもとへ抱えてもらうことになります。その後、ウィレム3世とメアリー2世が皇帝夫妻として即位することになりますが、皇帝夫妻には子供がいなかったために、アン女王が皇位継承者としてとらえられるようになるのでした。

1692年
父・ジェームズ2世の家臣、マールバラ公の投獄に反対

アン女王の父であるジェームズ2世の家臣であったマールバラ公が、ジェームズ2世と密かに連絡を取り合ったとしてウィレム3世、メアリー2世の皇帝夫妻の怒りを買い、投獄されます。マールバラ公の配偶者がアン女王の友人であるサラであったために、アン女王はマールバラ公の味方につき、投獄に反対するのでした。そのため、アン女王とメアリー2世の間に亀裂が生じ、アン女王は皇室を飛び出します。

1694年
メアリー2世死去、ウィレム3世との和解

マールバラ公の投獄に反対し、皇室を後にしたアン女王でしたが、それから2年後にメアリー2世が他界したため、皇室との和解を計ります。メアリー2世の夫であったウィレム3世はアン女王の受け入れを承諾し、和解に至り、再び宮殿へと住むことになるのでした。

1702年
ウィレム3世の崩御、アン女王の即位

名誉革命以後10年以上に渡ってイングランド・スコットランド王国を統治し続けていたウィレム3世が1702年に崩御します。皇位継承者として取られられていたアン女王はその後をついでイングランド・スコットランド王国の女王として即位することになるのでした。

1702年
スペイン継承戦争への参戦

1701年から開戦していたスペイン継承戦争へ参戦することになります。スペイン・フランス同盟に対し、イングランド・オランダ・オーストリア同盟が対抗することになりました。アン女王はマールバラ公を軍総司令官に任命し、ドイツに派遣、ネーデルランド戦で大勝利を上げる事になります。

1704年
ブレンハイムの戦いでの勝利

ネーデルランド戦で勝利後、勢いそのままに1704年のブレンハイム戦に挑む事になります。マールバラ公はこの戦いにも無事勝利し、その後もフランドル方面での戦勝を重ねました。アン女王はマールバラ公の功績に対してオックスフォードシャーの領地を与え、ブレナム宮殿を建設するのでした。

1707年
グレートブリテン王国統合

1707年5月1日にイングランドとスコットランド間で合同法が成立し、両国の正式統合が決定されました。両国が統合するのはジェームズ1世以来100年ぶりのことで、両国の統合した王国はグレートブリテンと名付けられる事になりました。アン女王はその初代君主として君臨することになるのでした。

1713年
ユトレヒト条約締結

マールバラ公とともに数々の戦争を乗り越えたアン女王でしたが、次第に和平推進派へ傾き始めます。1710年には夫のマールバラ公と戦争の推進をアン女王に提案していたサラを追放しました。その後、和平推進派の政党が政権の座に着くと、マールバラ公は軍資金の横領疑惑により失脚することになります。スペイン継承戦争に関しては和平交渉が進められ、1713年にユトレヒト条約が締結される事になりました。

1714年
アン女王の死去

アン女王は生前からブランデーが好きで、よく飲んでいたのですが、それが原因で体調も崩すことが多くなります。お酒による痛風や丹毒などの病気を患うようになり、病床に伏す時間が増えていきました。1714年、ケンジントン宮殿にて脳卒中を引き起こし、帰らぬ人となってしまいます。晩年は生活習慣の乱れから肥満が進行し、自力で歩けないほどの体格になっていたそうです。遺体を収容する棺も正方形に仕立てるほど肥満になっていたと伝えられています。

アン女王の年表

1665年 – 0歳「アン女王の誕生」

アン女王の幼少期

ジェームズ2世の娘としてアン女王誕生

アン女王は1665年2月6日、セント・ジェームズ宮殿にて父・ヨーク公ジェームズと母・アラン・ハイドの次女として誕生します。8人兄弟でしたが、成人したのは姉のメアリー2世とアン女王だけでした。他の6人の兄弟は病気などで幼少期に亡くなってしまうのです。

アン女王はスポーツや乗馬が好きで、よく興じていましたが、勉学や読書、芸術などにはほとんど興味を示さず、教養を身につけずに成人することになります。姉のメアリー2世とともにプロテスタントとして教育を受けました。

目の病気の治療と母の死

アン女王は幼少期から視力が悪く、目の病気を患っていたというエピソードが残っています。目の病気の治療のため、母親のアラン・ハイドとともにフランスに移り、療養することになりました。しかし、フランスへと引っ越してまもなく、母のハイドは急死してしまいます。

アン女王は幼い頃に母親の死と6人の兄弟の死に鉢合わせることになるのでした。アン女王自身も17回妊娠して6回の流産、6回の死産に見舞われ、死のイメージが付きまとうような生涯を送ることになるのです。

1683年 – 18歳「フレデリク3世の次男と結婚」

フレデリク3世

フレデリク3世の次男ヨウエンと結婚

1683年7月28日、アン女王はデンマークのノルウェー王フレデリク3世の次男であるヨウエンと結婚することになります。ヨウエンの兄はクリスティアン5世で、ヨウエン自身も1689年にオッキンガム男爵、ケンダル伯爵、カンバーランド公爵の座に着くことになります。

アン女王とヨウエンの夫婦仲は良く、生涯に17回の妊娠をすることになります。しかし、アン女王が抗リン脂質抗体症候群(APS)という難病を患っていたために、流産や死産が多く、生まれた子供も成人することはありませんでした。

1688年 – 23歳「名誉革命でウィレム3世の元にかくまわれ、皇位継承者に」

名誉革命 一場面

名誉革命後、皇位継承者に

1688年に勃発した名誉革命では当時オランダ総督であったウィレム3世がイングランドに上陸してきます。ウィレム3世はアン女王の姉であるメアリー2世の夫であったことから、アン女王は彼らの元へかくまわれることになったのです。

ウィレム3世

革命によってアン女王とメアリー2世の父であるジェームズ2世は追放され、代わりにウィレム3世とメアリー2世が即位することになりました。しかし、2人には子供がいなかったので、アン女王が皇位継承者としてとらえられるようになります。

アン女王、皇室と決別

アン女王の父であるジェームズ2世の元で重要人物として仕えていたマールバラ公がウィレム3世・メアリ2世夫妻によりロンドン塔へ投獄されるという出来事が起こります。理由としてはマールバラ公が裏でジェームズ2世と通じていたことが発覚したためでした。

マールバラ公はアン女王の友人であるサラ・チャーチルの旦那でもあったため、アン女王はこの投獄に猛反対します。ウィレム3世夫妻との意見の食い違いが生じ、アン女王は宮廷と決別することになるのでした。

1702年 – 37歳「イングランド・スコットランドの女王として即位」

アン女王

ウィレム3世との和解

マールバラ公のロンドン塔投獄に関してもめた後に絶縁状態となっていたメアリー2世が1694年に亡くなります。アン女王はこの機会に宮廷との関係を取り戻すためにウィレム3世と会見し、和解しました。再びセント・ジェームズ宮殿へと戻ってきたアン女王は皇位継承者として宮廷に仕え、ウィレム3世の側近としての役割を果たしていくようになります。

ウィレム3世の崩御とアン女王の即位

1702年に10年以上にわたって国王を務めてきたウィレム3世が崩御すると、皇位継承通りにアン女王が即位することになりました。夫のヨウエンは王配かつ海軍総司令官としてアン女王の側に仕えることになります。

この5年後にはイングランドとスコットランドの統合が行われ、グレートブリテン王国が誕生するため、アン女王はイングランド・スコットランド王国の最後の国王ということになるのでした。

1702年 – 37歳「スペイン継承戦争への参戦」

スペイン継承戦争

スペイン継承戦争が激化

1701年から開戦したスペイン継承戦争へイングランドも参加することになります。イングランドはオランダ・オーストリアと同盟を組み、フランス・スペイン同盟に対峙しました。父・ジェームズ2世の時にも活躍したマールバラ公をイングランド軍総司令官に任命します。

マールバラ公はネーデルランド戦線、ブレンハイムの戦いなどで勝利をあげ、フランドル地方での戦いでも戦果を収めていきます。マールバラ公は後年、この時の栄誉を讃えて、オックスフォードシャーの領地やブレナム宮殿の建築費用を授かることになりました。

1707年 – 42歳「グレートブリテン王国の統合」

グレートブリテン王国 国旗

グレートブリテン王国の最初の君主に

1707年5月1日、イングランドとスコットランド間における合同法が可決され、グレートブリテン王国に統合されました。約100年前のジェームズ1世の際に同君連合としてそれぞれ機能してきた両国が正式に1つの国として統合されることになったのです。

ゾフィー

統合の背景には王位継承問題が絡んでおり、端的に解説すると、プロテスタント信者であり、ジェームズ1世の外孫でもあるゾフィーを王位継承者とすることを目的にイングランドとスコットランドの間で合意が得られ、統合することに繋がっていったのでした。

1713年 – 48歳「ユトレヒト条約締結」

ユトレヒト条約で領地となったジブラルタル

スペイン継承戦争は和平交渉に落ち着き、ユトレヒト条約締結へ

アン女王は次第に和平推進派へと思想が傾いていき、政党も和平を促す党派が政治の実権を握るようになっていきました。戦争に賛成派のマールバラ公とその妻のサラは徐々にアン女王と距離を置くようになり、最終的には軍資金横領疑惑により失脚することになります。

マールバラ公の失脚により、スペイン継承戦争は和平交渉を行う流れとなり、1713年にユトレヒト条約が締結されることになりました。ユトレヒト条約により、グレートブリテン王国はジブラルタルなどの領土を受け取ることになったのです。

1714年 – 49歳「アン女王死去・死因は脳卒中」

アン女王 メダル

アン女王の崩御、死因は脳卒中

晩年のアン女王は極度の肥満となり、自力で歩くことが難しく、どこにいくときも車椅子や輿に乗っていたそうです。肥満の原因は大好きだったブランデーと言われ、生活習慣も乱れた生活を送っていました。その影響もあってか、体調を崩すことが多くなり、痛風・丹毒などの病気も患うようになっていきます。

1714年8月1日、ケンジントン宮殿にて脳卒中を引き起こし、帰らぬ人となります。棺はアン女王の大家に合わせて作られたのですが、その形が正方形になる程肥満は進行していたのでした。

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女王陛下のお気に入り

主役のアン女王を演じたのはオリヴィア・コールマンで、この映画が発表された年のアカデミー賞主演女優賞を受賞しています。そのほかにもエマ・ストーンやレイチェル・ワイズなどのそうそうたる役者を揃えて、アン女王の生涯と当時のイングランドの状況を鮮やかに描いた作品となっています。

アン女王についてのまとめ

アン女王はイングランド・スコットランドの最後の国王で、両国の統合にも多大な影響を及ぼしました。新しく誕生したグレートブリテン王国では初代国王となり、政治の実権を握っていましたが、自分のお気に入りの女性を多く登用した人事は時を重ねるごとにほころびを生じるようになるのでした。

アン女王は後継者をもうけるために生涯で17回の妊娠をしましたが、難病・抗リン脂質抗体症候群を患っていたこともあり、念願は叶いませんでした。

晩年はブランデー好きが高じて、生活習慣病のような症状を表すようになり、肥満も進行していき、自力で移動することも困難になります。そのような中、1714年に脳卒中により49年の生涯を閉じることになるのでした。

今回はアン女王についてご紹介しました。この記事を参考にさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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