アン女王の年表
1665年 – 0歳「アン女王の誕生」
ジェームズ2世の娘としてアン女王誕生
アン女王は1665年2月6日、セント・ジェームズ宮殿にて父・ヨーク公ジェームズと母・アラン・ハイドの次女として誕生します。8人兄弟でしたが、成人したのは姉のメアリー2世とアン女王だけでした。他の6人の兄弟は病気などで幼少期に亡くなってしまうのです。
アン女王はスポーツや乗馬が好きで、よく興じていましたが、勉学や読書、芸術などにはほとんど興味を示さず、教養を身につけずに成人することになります。姉のメアリー2世とともにプロテスタントとして教育を受けました。
目の病気の治療と母の死
アン女王は幼少期から視力が悪く、目の病気を患っていたというエピソードが残っています。目の病気の治療のため、母親のアラン・ハイドとともにフランスに移り、療養することになりました。しかし、フランスへと引っ越してまもなく、母のハイドは急死してしまいます。
アン女王は幼い頃に母親の死と6人の兄弟の死に鉢合わせることになるのでした。アン女王自身も17回妊娠して6回の流産、6回の死産に見舞われ、死のイメージが付きまとうような生涯を送ることになるのです。
1683年 – 18歳「フレデリク3世の次男と結婚」
フレデリク3世の次男ヨウエンと結婚
1683年7月28日、アン女王はデンマークのノルウェー王フレデリク3世の次男であるヨウエンと結婚することになります。ヨウエンの兄はクリスティアン5世で、ヨウエン自身も1689年にオッキンガム男爵、ケンダル伯爵、カンバーランド公爵の座に着くことになります。
アン女王とヨウエンの夫婦仲は良く、生涯に17回の妊娠をすることになります。しかし、アン女王が抗リン脂質抗体症候群(APS)という難病を患っていたために、流産や死産が多く、生まれた子供も成人することはありませんでした。
1688年 – 23歳「名誉革命でウィレム3世の元にかくまわれ、皇位継承者に」
名誉革命後、皇位継承者に
1688年に勃発した名誉革命では当時オランダ総督であったウィレム3世がイングランドに上陸してきます。ウィレム3世はアン女王の姉であるメアリー2世の夫であったことから、アン女王は彼らの元へかくまわれることになったのです。
革命によってアン女王とメアリー2世の父であるジェームズ2世は追放され、代わりにウィレム3世とメアリー2世が即位することになりました。しかし、2人には子供がいなかったので、アン女王が皇位継承者としてとらえられるようになります。
アン女王、皇室と決別
アン女王の父であるジェームズ2世の元で重要人物として仕えていたマールバラ公がウィレム3世・メアリ2世夫妻によりロンドン塔へ投獄されるという出来事が起こります。理由としてはマールバラ公が裏でジェームズ2世と通じていたことが発覚したためでした。
マールバラ公はアン女王の友人であるサラ・チャーチルの旦那でもあったため、アン女王はこの投獄に猛反対します。ウィレム3世夫妻との意見の食い違いが生じ、アン女王は宮廷と決別することになるのでした。
1702年 – 37歳「イングランド・スコットランドの女王として即位」
ウィレム3世との和解
マールバラ公のロンドン塔投獄に関してもめた後に絶縁状態となっていたメアリー2世が1694年に亡くなります。アン女王はこの機会に宮廷との関係を取り戻すためにウィレム3世と会見し、和解しました。再びセント・ジェームズ宮殿へと戻ってきたアン女王は皇位継承者として宮廷に仕え、ウィレム3世の側近としての役割を果たしていくようになります。
ウィレム3世の崩御とアン女王の即位
1702年に10年以上にわたって国王を務めてきたウィレム3世が崩御すると、皇位継承通りにアン女王が即位することになりました。夫のヨウエンは王配かつ海軍総司令官としてアン女王の側に仕えることになります。
この5年後にはイングランドとスコットランドの統合が行われ、グレートブリテン王国が誕生するため、アン女王はイングランド・スコットランド王国の最後の国王ということになるのでした。
1702年 – 37歳「スペイン継承戦争への参戦」
スペイン継承戦争が激化
1701年から開戦したスペイン継承戦争へイングランドも参加することになります。イングランドはオランダ・オーストリアと同盟を組み、フランス・スペイン同盟に対峙しました。父・ジェームズ2世の時にも活躍したマールバラ公をイングランド軍総司令官に任命します。
マールバラ公はネーデルランド戦線、ブレンハイムの戦いなどで勝利をあげ、フランドル地方での戦いでも戦果を収めていきます。マールバラ公は後年、この時の栄誉を讃えて、オックスフォードシャーの領地やブレナム宮殿の建築費用を授かることになりました。
1707年 – 42歳「グレートブリテン王国の統合」
グレートブリテン王国の最初の君主に
1707年5月1日、イングランドとスコットランド間における合同法が可決され、グレートブリテン王国に統合されました。約100年前のジェームズ1世の際に同君連合としてそれぞれ機能してきた両国が正式に1つの国として統合されることになったのです。
統合の背景には王位継承問題が絡んでおり、端的に解説すると、プロテスタント信者であり、ジェームズ1世の外孫でもあるゾフィーを王位継承者とすることを目的にイングランドとスコットランドの間で合意が得られ、統合することに繋がっていったのでした。
1713年 – 48歳「ユトレヒト条約締結」
スペイン継承戦争は和平交渉に落ち着き、ユトレヒト条約締結へ
アン女王は次第に和平推進派へと思想が傾いていき、政党も和平を促す党派が政治の実権を握るようになっていきました。戦争に賛成派のマールバラ公とその妻のサラは徐々にアン女王と距離を置くようになり、最終的には軍資金横領疑惑により失脚することになります。
マールバラ公の失脚により、スペイン継承戦争は和平交渉を行う流れとなり、1713年にユトレヒト条約が締結されることになりました。ユトレヒト条約により、グレートブリテン王国はジブラルタルなどの領土を受け取ることになったのです。
1714年 – 49歳「アン女王死去・死因は脳卒中」
アン女王の崩御、死因は脳卒中
晩年のアン女王は極度の肥満となり、自力で歩くことが難しく、どこにいくときも車椅子や輿に乗っていたそうです。肥満の原因は大好きだったブランデーと言われ、生活習慣も乱れた生活を送っていました。その影響もあってか、体調を崩すことが多くなり、痛風・丹毒などの病気も患うようになっていきます。
1714年8月1日、ケンジントン宮殿にて脳卒中を引き起こし、帰らぬ人となります。棺はアン女王の大家に合わせて作られたのですが、その形が正方形になる程肥満は進行していたのでした。
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主役のアン女王を演じたのはオリヴィア・コールマンで、この映画が発表された年のアカデミー賞主演女優賞を受賞しています。そのほかにもエマ・ストーンやレイチェル・ワイズなどのそうそうたる役者を揃えて、アン女王の生涯と当時のイングランドの状況を鮮やかに描いた作品となっています。
アン女王についてのまとめ
アン女王はイングランド・スコットランドの最後の国王で、両国の統合にも多大な影響を及ぼしました。新しく誕生したグレートブリテン王国では初代国王となり、政治の実権を握っていましたが、自分のお気に入りの女性を多く登用した人事は時を重ねるごとにほころびを生じるようになるのでした。
アン女王は後継者をもうけるために生涯で17回の妊娠をしましたが、難病・抗リン脂質抗体症候群を患っていたこともあり、念願は叶いませんでした。
晩年はブランデー好きが高じて、生活習慣病のような症状を表すようになり、肥満も進行していき、自力で移動することも困難になります。そのような中、1714年に脳卒中により49年の生涯を閉じることになるのでした。
今回はアン女王についてご紹介しました。この記事を参考にさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。