アン女王とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、戦争や死因についても紹介】

アン女王の功績

功績1「最後のイングランド王国君主・最初のグレートブリテン王国君主」

イギリスの国旗 成立過程

アン女王は1702年にウィレム3世が崩御すると、王位継承通りに即位し、イングランド・スコットランド国王となります。1707年にはアン女王の後継者がいないという問題から、イングランド・スコットランド間で対立が起こり、スコットランドが経済的に困窮したため、両国をグレートブリテン王国として統合することになりました。

もともと約100年前のジェームズ1世の時に同君連合としてイングランド・スコットランド王国は付かず離れずの関係で機能していましたが、王位継承問題を機に一つの国としてまとまることで合意したのです。1707年5月1日に誕生したグレートブリテン王国の初代女王としてアン女王は君臨することになるのでした。

功績2「ユトレヒト条約で海外領土を確保」

メノルカ島

スペインの王位継承問題をきっかけに開戦したスペイン継承戦争ですが、次第に和平推進派の声が多くなっていきます。アン女王も和平を進めるように考えを改め、戦争を控えるようになりました。戦争推進派のマールバラ公・サラ夫妻とは意見が対立しましたが、1710年に軍資金横領疑惑が持ち上がり、マールバラ公の失脚が成立すると、スペイン継承戦争の和平交渉が行われる運びとなったのです。

1713年にユトレヒト条約が締結され、スペイン継承戦争は終焉を迎えました。グレートブリテン王国はジブラルタルやメノルカ島などの海外領土の保有権も獲得することになったのです。

功績3「女性がもっとも活躍する王室に」

女性の活躍する社会 イメージ

アン女王は君主として即位すると、側近を親しい人物で固めるような人事を行いました。自身が女王、友人のサラを宮廷女官のトップに、それ以外の重要ポストにも多数の女性を起用します。イギリス宮廷史上もっとも女性の活躍する時代となりました。

しかし、能力関係なく、アン女王の好き嫌いによって構成された組織となってしまったので、客観性を失い、一度ほころびが生じ始めると一気に崩れ落ちていってしまいます。亀裂の生じた家臣たちの間で政党が二つに分裂し、密告や陰口など、揚げ足の取り合いが激化していきました。

「自分を愛していくれるかどうか」で人事を行い、女性で固められた宮廷は初めの頃はうまく機能しましたが、長くは続かなかったのです。

アン女王にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「合計17回妊娠し、6回の流産、6回の死産を経験」

アン女王とウィリアム王子

アン女王は生涯で17回の妊娠、6回の流産、6回の死産を経験しています。これだけ数が多くなったのは、王位継承者を育むためであったと言われています。そして、無事に産まれたアン女王の子供達も皆、幼少期に亡くなってしまい、最終的には誰も成人しませんでした。

この原因として抗リン脂質抗体症候群を患っていたことが挙げられています。自己免疫性疾患の一種である抗リン脂質抗体症候群は習慣流産を引き起こす病気として広く知られています。そのため、アン女王はこの難病を患っていて流産や死産が多く、子供も成長しないのではないかとの見解が示されたのでした。

そのほかにも天然痘や猩紅熱などで亡くなる子供もおり、アン女王は最後まで子孫には恵まれなかったのでした。

都市伝説・武勇伝2「ブランデーが大好き」

ブランデー

アン女王はブランデーが大好物で、ブランデー・アンというニックネームをつけられるほど凝っていました。その影響で体重は年を重ねるごとに増加し、自力で歩けないほどの肥満になってしまうのです。戴冠式へ向かう時なども輿に担がれてウエストミンスター寺院へと赴く様子などが逸話として残っています。

また、アン女王は紅茶も好物で、食事の時はもちろん、お茶会などを頻繁に開いて、自分のお気に入りの紅茶を友人に提供していたそうです。イングリッシュブレックファストやアフタヌーンティーという文化が始まったのはアン女王の影響ではないかとも言われています。

アン女王の簡単年表

1665年
アン女王の誕生

1665年2月6日、ジェームズ2世とアラン・ハイドの娘としてアン女王は生まれました。幼少期は姉のメアリー2世とともにプロテスタントとして育てられます。読書や芸術の勉強よりもスポーツや乗馬など体を動かすことの方が好きな少女であったので、教養はあまり身につきませんでした。

1668年
title=目の病気の治療のため、母とフランスへ引っ越すが、母親が急死

アン女王は生まれつき目が悪く、3歳の時には目の病気の治療のために母親のアラン・ハイドとともにフランスへと引越しをします。しかし、母のハイドはその直後に亡くなってしまうのでした。アン女王は幼くして家族の死を多く経験します。8人兄弟として育てられていましたが、そのうちの6人の兄弟は次々と亡くなっていき、最終的に残ったのはアン女王と姉のメアリー2世だけでした。

1683年
クリスティアン5世の弟・ヨウエンとの結婚

1683年7月28日、アン女王はデンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の次男ヨウエンと結婚することになります。2人は非常に仲が良く、アン女王は生涯の間に17回も妊娠しました。

1688年
名誉革命の乱世の中、皇位継承者としてとらえられるように

1688年に名誉革命が起こると、姉のメアリー2世の夫であるウィレム3世のもとへ抱えてもらうことになります。その後、ウィレム3世とメアリー2世が皇帝夫妻として即位することになりますが、皇帝夫妻には子供がいなかったために、アン女王が皇位継承者としてとらえられるようになるのでした。

1692年
父・ジェームズ2世の家臣、マールバラ公の投獄に反対

アン女王の父であるジェームズ2世の家臣であったマールバラ公が、ジェームズ2世と密かに連絡を取り合ったとしてウィレム3世、メアリー2世の皇帝夫妻の怒りを買い、投獄されます。マールバラ公の配偶者がアン女王の友人であるサラであったために、アン女王はマールバラ公の味方につき、投獄に反対するのでした。そのため、アン女王とメアリー2世の間に亀裂が生じ、アン女王は皇室を飛び出します。

1694年
メアリー2世死去、ウィレム3世との和解

マールバラ公の投獄に反対し、皇室を後にしたアン女王でしたが、それから2年後にメアリー2世が他界したため、皇室との和解を計ります。メアリー2世の夫であったウィレム3世はアン女王の受け入れを承諾し、和解に至り、再び宮殿へと住むことになるのでした。

1702年
ウィレム3世の崩御、アン女王の即位

名誉革命以後10年以上に渡ってイングランド・スコットランド王国を統治し続けていたウィレム3世が1702年に崩御します。皇位継承者として取られられていたアン女王はその後をついでイングランド・スコットランド王国の女王として即位することになるのでした。

1702年
スペイン継承戦争への参戦

1701年から開戦していたスペイン継承戦争へ参戦することになります。スペイン・フランス同盟に対し、イングランド・オランダ・オーストリア同盟が対抗することになりました。アン女王はマールバラ公を軍総司令官に任命し、ドイツに派遣、ネーデルランド戦で大勝利を上げる事になります。

1704年
ブレンハイムの戦いでの勝利

ネーデルランド戦で勝利後、勢いそのままに1704年のブレンハイム戦に挑む事になります。マールバラ公はこの戦いにも無事勝利し、その後もフランドル方面での戦勝を重ねました。アン女王はマールバラ公の功績に対してオックスフォードシャーの領地を与え、ブレナム宮殿を建設するのでした。

1707年
グレートブリテン王国統合

1707年5月1日にイングランドとスコットランド間で合同法が成立し、両国の正式統合が決定されました。両国が統合するのはジェームズ1世以来100年ぶりのことで、両国の統合した王国はグレートブリテンと名付けられる事になりました。アン女王はその初代君主として君臨することになるのでした。

1713年
ユトレヒト条約締結

マールバラ公とともに数々の戦争を乗り越えたアン女王でしたが、次第に和平推進派へ傾き始めます。1710年には夫のマールバラ公と戦争の推進をアン女王に提案していたサラを追放しました。その後、和平推進派の政党が政権の座に着くと、マールバラ公は軍資金の横領疑惑により失脚することになります。スペイン継承戦争に関しては和平交渉が進められ、1713年にユトレヒト条約が締結される事になりました。

1714年
アン女王の死去

アン女王は生前からブランデーが好きで、よく飲んでいたのですが、それが原因で体調も崩すことが多くなります。お酒による痛風や丹毒などの病気を患うようになり、病床に伏す時間が増えていきました。1714年、ケンジントン宮殿にて脳卒中を引き起こし、帰らぬ人となってしまいます。晩年は生活習慣の乱れから肥満が進行し、自力で歩けないほどの体格になっていたそうです。遺体を収容する棺も正方形に仕立てるほど肥満になっていたと伝えられています。

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