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煬帝とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、功績や死因についても紹介】

煬帝は隋の第2代皇帝で、遣隋使を受け入れたことで有名な人物です。小野妹子が差し出した「日出づる国の天子…」の手紙に激怒したという逸話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。激昂しやすい皇帝としても知られ、部下を釜茹でにしたり、残酷な刑罰を復活させたりしたというエピソードも残っています。

一方で、中国の北と南を結ぶ大運河を建設して物流を盛んにさせたり、高句麗遠征を何度も行って、最終的には和議を締結させたりと中国の発展に寄与した人物でもあるのです。

煬帝民衆や家臣の反感を買い、真綿で首を締められるという悲劇的な最期を迎えることになりますが、煬帝が中国の歴史に与えた影響は計り知れません。

倭王に対して激怒したり、兄弟を暗殺したり、部下を釜茹でにしたり、そして最期には自らが首を締められたりと派手な生涯を送った煬帝に興味が湧き、様々な文献を漁った筆者が得た知識をもとに、今回は暴君・煬帝の生涯、功績、残虐エピソードなどをご紹介していきます。

煬帝とはどんな人物か

名前煬帝(楊広)
誕生日569年(天和4年)
没日618年4月11日
生地不明
没地中国・江都
配偶者煬愍蕭皇后(582年−618年)
埋葬場所中国江蘇省揚州市

煬帝の生涯をハイライト

煬帝の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 隋の初代皇帝・文帝とその妻・独孤伽羅の次男として誕生。
  • 588年に52万の軍を従えて、陳を制圧。
  • 589年に隋が中国を統一。
  • 604年に文帝が崩御すると、隋の第2代皇帝・煬帝として政治の実権を握る。
  • 607年に遣隋使・小野妹子が携えてきた国書に激怒。
  • 京杭大運河の建設を促し、610年に完成。
  • 高句麗遠征を行い、最終的には和議にこぎつける。
  • 618年、家臣に絞首され、生涯を閉じる。

煬帝の家族はどんな人たち?子孫は?

文帝

煬帝は文帝と独孤伽羅の次男として生を受けます。文帝は隋を建国し、初代皇帝となった人物で、質素倹約を好み、女遊びもしなかったそうです。独孤伽羅は文帝に対して厳しい女性だったようで、「自分以外の女性と関係を持たないこと」を条件に、文帝と結婚しました。

煬帝の兄・楊勇は煬帝と皇太子・皇帝の座を争いましたが、いずれも煬帝の計略に破れ、最終的には殺害されてしまいます。煬帝の弟・楊諒も皇帝の座を狙って反乱を起こしましたが、煬帝に鎮圧されてしまうのでした。

煬帝には子供が5人おり、男子が楊昭(元徳太子・606年に病で亡くなる)、楊カン(斉王・煬帝とともに殺される)、楊杲(趙王・煬帝とともに殺される)で女子が南陽公主(宇文士及の妻)、皇女某(唐大宗妃、呉王李恪らの母親)です。

煬帝の暴君と呼ばれる性格とは?

暴君として知られるローマ皇帝ネロ

煬帝は中国史上最大の暴君として知られています。小野妹子が遣隋使で訪れた際に、倭王の国書に激怒したことからもその短気っぷりは伺うことができますが、エピソードはそれだけではないのです。

京杭大運河

京杭大運河の建設の際には要所の工事に100万人もの民衆を動員し、急ピッチで仕事をさせたという史実がありますが、その時に人数を増やすために女性も多数参加させたそうです。その上、出来上がった運河は煬帝が私用で利用することが多かったようで、本格的に流通の要となったのは唐の時代になってからでした。

また、煬帝が皇帝になる際には自分の兄弟がその座を狙う恐れから、暗殺や武力による制圧でその勢いを抑えるなどしています。そして、政治の実権を握るようになると過去に廃止された残虐な刑罰も復活させ、その運用も計るようになったのでした。

煬帝の死因は?自殺?他殺?

絞首台

煬帝は高句麗遠征後、部下の不満と民衆の反発・反乱の難を逃れるために江都へ身をひそめることになります。皇帝としての権威が完全に失われ、途方にくれる毎日を送っている最中に家臣の宇文化及が長安へ戻ってくるように促します。

煬帝はこれを拒否し、江都に居座り続けました。しかし、家臣の反乱に自身が飲み込まれる恐れがあることを知ると、毒酒による自害を試みようとしたのです。最終的には、自害する前に宇文化及、宇文智及兄弟をはじめとする家臣たちに真綿で首を締められ、殺されてしまうのでした。

煬帝の功績

功績1「大運河の建設」

京杭大運河

京杭大運河は587年に淮水と長江を結ぶ水路を建設したところから工事が始まりました。煬帝の父である文帝が、南北の分裂の原因は小河川の多さにあると考え、北と南を水路で結ぶ大運河を建設しようと試みたのです。

その建設を隋の2代目皇帝である煬帝が引き継ぎ、多い時には100万人もの民衆を動員して工事を進めていきました。完成したのは工事着工から23年後の610年ですが、その後の水運に大きな影響を及ぼすこととなったのです。

京杭大運河は中国の歴史を代表する建造物として2014年に世界文化遺産に登録されています。

功績2「隋代を代表する詩人でもある」

唐代の代表詩人 白居易

煬帝はその生涯で多数の文学的作品も残しており、高い評価を受けています。各地に赴く際にそれぞれの地で詩を詠み、作品として残していったとされています。晩年には自らの権威が落ちていき、寂寥感を抱えながら生活していたことを表すような抒情詩が多く制作されました。

代表作としては「野望」、「春江花月夜」などがあり、趣のある風景を見て感じたことをそのまま詩としてしたためています。

功績3「国外遠征を積極的に行う 」

煬帝へ手紙を送った聖徳太子

煬帝は他国との交流を積極的に計った皇帝として有名です。倭国との遣隋使は在任中に4回行われ、友好関係を深めていたことが知られています。

主要な国外遠征として高句麗遠征も挙げられますが、こちらは隋の時代に4度遂行されました。初回は文帝が30万の軍隊を率いて、2度目は煬帝が60万の大軍を率いて侵攻しましたが、いずれも食糧不足により撤退しています。最終的には度重なる戦争による疲弊により隋と高句麗の間で和議を結ぶことで合意したのでした。

煬帝にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「倭王からの手紙『日出づる国の天子より…』に激怒」

倭王が送ったとされる国書 4行目に問題となる文言が載っている

607年に行われた第2回遣隋使で、小野妹子が手渡した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、煬帝はこれに激怒します。

ちなみに煬帝が激怒したのは倭王が天子と名乗っている部分であり、「日没する側の」天子と書かれたことに対してではないということは知らない方が多いのではないでしょうか。中華思想では天子が一人とされているため、煬帝以外の国の長を天子と呼ぶのはおかしいと激昂したのでした。

倭王に関しては諸説ありますが、多利思比孤という名前の王で、聖徳太子なのではないかとする説が多くなっています。

都市伝説・武勇伝2「激怒して部下を釜茹でに」

釜茹で イメージ

煬帝は高句麗遠征の際に隋国内で反乱を起こした楊玄感に手を煩わされていました。その楊玄感と関係の深かった軍人の斛斯政は煬帝の怒りに触れることを恐れ、高句麗へと亡命していました。第4回高句麗遠征の際に、高句麗の将軍から斛斯政を引き渡された煬帝はそれまでの怒りをぶつけるために部下によって斛斯政を射殺させます。

そしてそれでも飽き足らず、斛斯政の遺体を釜茹でにして食肉として調理し、宴会で家臣らに差し出したというエピソードが残っています。

都市伝説・武勇伝3「21世紀になり、工事現場で煬帝の墓が発見される」

煬帝の墓

2013年3月に中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発掘され、その遺跡が煬帝の墓であることがわかりました。そしてその隣には皇后である蕭皇后の墓も見つかったそうです。

証拠となったのは、遺跡から出土した高価な副葬品と墓誌銘の掘られた石版です。この石版には煬帝の名前と揚州で崩御したという史実が書かれていました。墓の中からは歯が発掘され、年齢鑑定から50歳前後の人物のものであるということが断定されたのです。

煬帝の歯

煬帝の墓は揚州市以外にも3つあり、埋葬場所が何度か移ったことが伺えます。今回発見された墓は最終埋没地と考えられ、現在では建屋が設けられ、厳重に保護されるようになりました。

煬帝の簡単年表

569年
煬帝誕生

煬帝は本名を楊広といい、隋を建国したことで知られる文帝(楊堅)の息子として誕生します。煬帝の母は独孤伽羅で、「自分以外の女とは関係を持たない」ということを文帝に約束させて結婚したと言われています。

581年
文帝が隋を建国する

煬帝の父親である文帝は前回の王朝である西晋が滅びた後に300年近くに渡って分裂していた中国を統一するために、隋を建国します。618年に唐が中国を支配するようになるまで約40年に渡って中国を牽引しました。

588年
陳への遠征軍の指揮をとる

中国を統一するために、南朝で勢力を広げていた陳への遠征軍を何度か派遣します。そして588年には煬帝がその指揮官を務める事になりました。この時に率いた軍勢は52万であり、当時としては過剰すぎるほどの規模であったため、陳は比較的容易に陥落してしまうのです。

589年
隋が中国を統一

煬帝率いる大軍に壊滅状態にされた陳の都・建康が滅び、陳の皇帝・陳叔宝も捕らえられ、南朝も隋の支配下となりました。こうして西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来405年ぶりに分裂時代の終焉を迎え、隋が中国をまとめるようになります。

597年
皇太子の座を占める

当初、文帝は長男である楊勇を皇太子として扱っていましたが、楊勇は非常に女遊びが激しかったために、周囲からの評判はあまりよくありませんでした。父・文帝は質素な生活を好み、母・独孤伽羅は貞操を重要視していたため、両親の評価をも落としてしまい、ついには次男である楊広(煬帝)に皇太子の座を取られる事になったのでした。

604年
文帝の崩御、煬帝の即位

両親に気に入られるように振舞っていた楊広はその甲斐もあって皇太子として扱われるようになりましたが、文帝が病に伏している際に楊広の本性を悟り、激怒します。再度、長男の楊勇を後継者として掲げるようになりましたが、それが広まる直前に文帝は亡くなってしまいます。

この時、楊広が文帝を暗殺したのではないかとの噂が流れましたが、その真偽は明らかになっていません。文帝の崩御により後継として皇帝の座に就いた楊広は皇帝・煬帝として実権を握るようになったのでした。

607年
遣隋使として小野妹子が派遣される

隋の時代には3回から5回程度遣隋使が派遣されたことが知られています。そのうちの第2回が607年に行われ、小野妹子が煬帝に宛てた国書をたずさえて訪れました。その内容に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」と書かれていたため、煬帝は「無礼者!」と激怒するのでした。

608年
小野妹子が再度遣唐使として訪れる

煬帝が激怒した国書から一年後の608年、第3回遣隋使が派遣されました。再び小野妹子が訪問し、留学生を多数引き連れていました。この留学生はのちに日本での改革に多大な貢献をするようになります。

610年
京杭大運河の完成

文帝の代から建設に力を入れていた京杭大運河が610年に完成します。北京から杭州までを結ぶ2500kmの大運河で、この開削を機に中国全体の流通が活性化しました。

612年
第2次高句麗遠征

高句麗遠征は隋の時代に4度行われていますが、第2次遠征から第4次遠征を煬帝が遂行しました。612年に行われた第2次高句麗遠征では、60万もの大軍を引き連れて高句麗を侵攻します。当初、高句麗側の将軍は降伏の意を表明しましたが、隋軍の食糧不足を見て取ると、長期戦に持ち込むことを計画し、最終的には疲労や栄養不足で隋軍を壊滅状態に追いやるのでした。

614年
第4次高句麗遠征を実施し、和議を結ぶ

613年に第3次高句麗遠征を行いますが、隋内での反乱が起きたために中止となります。614年に第4次高句麗遠征が行われましたが、毎年の戦争で隋軍も高句麗軍もお互いに消耗していたため、和議を結ぶことで合意しました。

618年
煬帝の死去・死因は家臣による絞首

度重なる戦争の後に将軍や部下などに十分な褒賞を与えなかったことから反発を受けるようになります。この頃から各地で新たな英雄が割拠するようになったため、煬帝は江都に身をひそめるようになりました。618年、家臣である宇文化及により長安へと戻るように進言されますが、煬帝はこれを拒否したため、家臣らによって絞首させられることになり、生涯を閉じました。

煬帝の年表

569年 – 0歳「楊広(のちに煬帝)の誕生」

煬帝

楊広(煬帝)誕生

楊広はのちに隋の皇帝・煬帝となる人物で、文帝と独孤伽羅の息子として誕生します。文帝は隋を建国した皇帝で、それまで300年近くにわたって分裂していた当時の中国を統一した人として知られています。

母の独孤伽羅は文帝に対して厳しく、「自分以外の女とは関係を持たない」ことを文帝に誓わせた上で結婚したそうです。文帝ももともと派手な生活をするタイプではなかったため、それを忠実に守り、質素倹約に努めて生活していました。

581年 – 12歳「隋の建国、統一」

隋 支配図

隋の建国、およそ300年ぶりに中国統一

581年、楊広(煬帝)が12歳の時に文帝が隋を建国します。300年以上にわたって分裂していた中国をまとめるために勢力を広げていくのでした。588年には南朝で勢力を持っていた陳を滅ぼすために楊広(煬帝)を指揮官として52万の軍を送り込みました。

50万以上の軍隊は当時としては相当な規模であったために、陳はあえなく降参し、陥落します。こうして西晋滅亡以来、実に273年ぶり、黄巾の乱から数えると405年ぶりに中国が統一されることになりました。

604年 – 35歳「煬帝即位」

皇帝に即位

590年代に皇太子に

文帝は長男である楊勇を次期皇帝として立てることを当初予定していましたが、楊勇の女遊びに頭を悩ませていました。楊広はそのことをうまく利用して兄・楊勇の派手な生活を文帝に誇張して伝え、皇太子として自分を立てるように仕向けるのです。

実際は楊広も女性関係に関しては奔放な行動をしていましたが、両親の前では質素な生活を心がけるように見せかけていました。それを信じた文帝は皇太子として楊広を選ぶようになり、次期皇帝として扱うようになったのです。

文帝が崩御し、次期皇帝として煬帝が実権を握る

7世紀の初めに文帝が病床に伏すようになると、楊広が次期皇帝としての役割を果たせるように準備を進めていきます。そのさなかに楊広の派手な生活を知った文帝は、騙されていたことを悟り、激怒しました。しかし、楊広を皇太子から降ろす前に崩御してしまうのです。

煬帝の弟 楊諒

文帝が亡くなると、晴れて皇帝となった楊広は「煬帝」として即位することになりました。即位後は皇帝の座を取られることを警戒して、兄の楊勇を殺害し、皇帝の地位を狙った弟の楊諒の反乱も鎮めることに成功します。

607年 – 38歳「遣隋使の受け入れ」

小野妹子

遣隋使・小野妹子の差し出した国書に激怒

遣隋使は隋の時代に3回から5回ほど行われたとされています。607年には第2回遣隋使として小野妹子が国書を携えて煬帝の元へやってきましたが、その手紙の内容に立腹しました。国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、煬帝は「このような無礼な手紙は一生自分に見せるな」と激怒したそうです。

その後、小野妹子は返書を受け取って日本へと帰ることになりますが、その重要な文書を帰国途中の百済で盗まれてしまうのでした。実際には煬帝の返書の内容が日本を卑下するような文言であったために破棄したのではないかとも言われています。

遣隋使の再訪

608年には第三回遣隋使の派遣が行われ、再び小野妹子が隋を訪れました。第3回は日本からの留学生を多く引き連れ、隋の文化を学ばせるために留めることになります。この留学生はのちに日本の改革に重要な役割を果たすようになるのでした。

遣隋使では大陸の文化や制度を学ぶ良い機会となりましたが、614年に最後の遣隋使が行われ、それ以降は中止となっています。

610年 – 41歳「京杭大運河の完成」

京杭大運河

北京と杭州を結ぶ京杭大運河の完成

京杭大運河は北京から杭州までを結ぶ2500kmにも及ぶ大運河で、中国全体の流通を活性化させた重要な水路です。西晋の滅亡以降、南朝と北朝がなかなか相容れない原因はその間に小さな河川が多数存在することであると結論づけた隋の建国者・文帝が、北と南を結ぶ大運河の建設を計画します。

587年に淮水と長江を結ぶところから工事に着手し、604年に煬帝が隋の皇帝として即位してからも積極的に建設が進められていきました。要所の工事の際には100万人もの人々が駆り出され、急ピッチで建設が進行していきます。そして、ついに610年に23年の歳月をかけて大運河が完成したのでした。

612年 – 43歳「高句麗遠征」

隋の高句麗遠征

大軍を率いて高句麗を攻めるも、食糧不足により敗北

高句麗遠征は隋の時代に4回行われています。第1回は文帝が30万の大軍で高句麗へと進行しましたが、天候に恵まれず、伝染病や食糧不足も重なったために戦果をあげることができませんでした。

第2回から第4回は612年から614年の間に立て続けに行われ、煬帝が指揮を取りました。

焦土作戦の一例

その初回である第2回高句麗遠征では60万人の大軍を率いていったため、当時の高句麗の将軍も観念しようとしましたが、煬帝率いる軍隊が食糧不足に悩まされていることを知ると、戦争を長引かせ、相手の食料を焼き払う作戦(焦土作戦)に変更します。煬帝率いる軍隊は食料が底をつき、疲労困憊となったために撤退せざるを得なくなり、第2回高句麗遠征は失敗に終わります。

第3回遠征は、途中で隋内の内乱が発生し、撤退を余儀なくされます。第4回遠征では隋も高句麗も度重なる戦争で消耗していたため、両方のトップが会見をし、和議を結ぶこととなりました。

618年 – 49歳「煬帝の死去・死因は家臣による絞首」

絞首に使用された真綿

最期は家臣によって絞首される

高句麗遠征終了後、隋内では反乱が絶えず、その度に煬帝は部下に褒賞を与えることを引き換えに鎮圧へと向かわせていました。しかし、鎮圧が成し遂げられても、十分な報酬を受け取ることのできなかった家臣たちの間では不満が募っていきます。その中で各地方の強力な軍閥が力をつけていったために煬帝は江都へ身をひそめるようになるのでした。

618年、煬帝は、のちに皇帝となる家臣の宇文化及により長安へと戻るように諭されますが、これを拒否します。そのため、宇文化及、宇文智及をはじめとする家臣らによって、真綿で絞首させられることになり、そのまま生涯を閉じることになったのでした。

煬帝の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

隋の煬帝

隋を建国した父・文帝を殺害し、即位したとされる隋の第2代皇帝・煬帝。中国史上もっとも悪名高い人物の生涯を解説しながら、隋の時代の考察も行っています。中国史を研究し続けた著者が迫った煬帝の素顔とはいかに。

煬帝

若い頃は聡明で両親からも慕われていた皇太子が皇帝に即位し、史上最悪の暴君と化す。父・文帝が隋を築き上げていながら、その大国を2代にして滅ぼしてしまった煬帝の生涯とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

通俗隋煬帝外史上

江戸時代中期の儒者である西田維則が書いた「通俗隋煬帝外史」を現代語訳に読みやすく改訂した書籍となっています。文帝が隋を統一してから、その後皇帝が煬帝に変わり、2代で滅亡していく隋の様子を描いた歴史大河小説です。

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【世界史】 隋・唐の時代1 隋の時代

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隋唐演義〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜

隋が建国されてから煬帝が皇帝として実権を握り、数々の悪政を行っていく様を全62話に渡って詳細に描いています。大運河建設や高句麗遠征の様子、そして最後には隋の世が乱れていき滅亡していく過程がありありと表現されています。

煬帝についてのまとめ

煬帝は暴君として中国史に名を刻んでいますが、遣隋使として関係を持ったことから日本にも馴染みの深い人物となっています。皇帝に成り上がるために兄弟を殺したり、激怒して部下を釜茹でにしたり、現在ではとても考えられないような鬼の所業をしましたが、それだけのインパクトがあるからこそ現代にも語り継がれているのかもしれません。

悪者として扱われることの多い煬帝ですが、大運河の建設、遣隋使の受け入れなどはのちの中国にも大きな影響を及ぼしています。最期は家臣に首を締められて亡くなってしまいますが、煬帝の業績は消えることなく、これからも継承されていくのではないでしょうか。

今回は煬帝についてご紹介しました。今回の記事を参考にさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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