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煬帝とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、功績や死因についても紹介】

煬帝は隋の第2代皇帝で、遣隋使を受け入れたことで有名な人物です。小野妹子が差し出した「日出づる国の天子…」の手紙に激怒したという逸話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。激昂しやすい皇帝としても知られ、部下を釜茹でにしたり、残酷な刑罰を復活させたりしたというエピソードも残っています。

一方で、中国の北と南を結ぶ大運河を建設して物流を盛んにさせたり、高句麗遠征を何度も行って、最終的には和議を締結させたりと中国の発展に寄与した人物でもあるのです。

煬帝民衆や家臣の反感を買い、真綿で首を締められるという悲劇的な最期を迎えることになりますが、煬帝が中国の歴史に与えた影響は計り知れません。

倭王に対して激怒したり、兄弟を暗殺したり、部下を釜茹でにしたり、そして最期には自らが首を締められたりと派手な生涯を送った煬帝に興味が湧き、様々な文献を漁った筆者が得た知識をもとに、今回は暴君・煬帝の生涯、功績、残虐エピソードなどをご紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

煬帝とはどんな人物か

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名前煬帝(楊広)
誕生日569年(天和4年)
没日618年4月11日
生地不明
没地中国・江都
配偶者煬愍蕭皇后(582年−618年)
埋葬場所中国江蘇省揚州市

煬帝の生涯をハイライト

煬帝の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 隋の初代皇帝・文帝とその妻・独孤伽羅の次男として誕生。
  • 588年に52万の軍を従えて、陳を制圧。
  • 589年に隋が中国を統一。
  • 604年に文帝が崩御すると、隋の第2代皇帝・煬帝として政治の実権を握る。
  • 607年に遣隋使・小野妹子が携えてきた国書に激怒。
  • 京杭大運河の建設を促し、610年に完成。
  • 高句麗遠征を行い、最終的には和議にこぎつける。
  • 618年、家臣に絞首され、生涯を閉じる。

煬帝の家族はどんな人たち?子孫は?

文帝

煬帝は文帝と独孤伽羅の次男として生を受けます。文帝は隋を建国し、初代皇帝となった人物で、質素倹約を好み、女遊びもしなかったそうです。独孤伽羅は文帝に対して厳しい女性だったようで、「自分以外の女性と関係を持たないこと」を条件に、文帝と結婚しました。

煬帝の兄・楊勇は煬帝と皇太子・皇帝の座を争いましたが、いずれも煬帝の計略に破れ、最終的には殺害されてしまいます。煬帝の弟・楊諒も皇帝の座を狙って反乱を起こしましたが、煬帝に鎮圧されてしまうのでした。

煬帝には子供が5人おり、男子が楊昭(元徳太子・606年に病で亡くなる)、楊カン(斉王・煬帝とともに殺される)、楊杲(趙王・煬帝とともに殺される)で女子が南陽公主(宇文士及の妻)、皇女某(大宗妃、呉王李恪らの母親)です。

煬帝の暴君と呼ばれる性格とは?

暴君として知られるローマ皇帝ネロ

煬帝は中国史上最大の暴君として知られています。小野妹子が遣隋使で訪れた際に、倭王の国書に激怒したことからもその短気っぷりは伺うことができますが、エピソードはそれだけではないのです。

京杭大運河

京杭大運河の建設の際には要所の工事に100万人もの民衆を動員し、急ピッチで仕事をさせたという史実がありますが、その時に人数を増やすために女性も多数参加させたそうです。その上、出来上がった運河は煬帝が私用で利用することが多かったようで、本格的に流通の要となったのはの時代になってからでした。

また、煬帝が皇帝になる際には自分の兄弟がその座を狙う恐れから、暗殺や武力による制圧でその勢いを抑えるなどしています。そして、政治の実権を握るようになると過去に廃止された残虐な刑罰も復活させ、その運用も計るようになったのでした。

煬帝の死因は?自殺?他殺?

絞首台

煬帝は高句麗遠征後、部下の不満と民衆の反発・反乱の難を逃れるために江都へ身をひそめることになります。皇帝としての権威が完全に失われ、途方にくれる毎日を送っている最中に家臣の宇文化及が長安へ戻ってくるように促します。

煬帝はこれを拒否し、江都に居座り続けました。しかし、家臣の反乱に自身が飲み込まれる恐れがあることを知ると、毒酒による自害を試みようとしたのです。最終的には、自害する前に宇文化及、宇文智及兄弟をはじめとする家臣たちに真綿で首を締められ、殺されてしまうのでした。

煬帝の功績

功績1「大運河の建設」

京杭大運河

京杭大運河は587年に淮水と長江を結ぶ水路を建設したところから工事が始まりました。煬帝の父である文帝が、南北の分裂の原因は小河川の多さにあると考え、北と南を水路で結ぶ大運河を建設しようと試みたのです。

その建設を隋の2代目皇帝である煬帝が引き継ぎ、多い時には100万人もの民衆を動員して工事を進めていきました。完成したのは工事着工から23年後の610年ですが、その後の水運に大きな影響を及ぼすこととなったのです。

京杭大運河は中国の歴史を代表する建造物として2014年に世界文化遺産に登録されています。

功績2「隋代を代表する詩人でもある」

代の代表詩人 白居易

煬帝はその生涯で多数の文学的作品も残しており、高い評価を受けています。各地に赴く際にそれぞれの地で詩を詠み、作品として残していったとされています。晩年には自らの権威が落ちていき、寂寥感を抱えながら生活していたことを表すような抒情詩が多く制作されました。

代表作としては「野望」、「春江花月夜」などがあり、趣のある風景を見て感じたことをそのまま詩としてしたためています。

功績3「国外遠征を積極的に行う 」

煬帝へ手紙を送った聖徳太子

煬帝は他国との交流を積極的に計った皇帝として有名です。倭国との遣隋使は在任中に4回行われ、友好関係を深めていたことが知られています。

主要な国外遠征として高句麗遠征も挙げられますが、こちらは隋の時代に4度遂行されました。初回は文帝が30万の軍隊を率いて、2度目は煬帝が60万の大軍を率いて侵攻しましたが、いずれも食糧不足により撤退しています。最終的には度重なる戦争による疲弊により隋と高句麗の間で和議を結ぶことで合意したのでした。

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