煬帝にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「倭王からの手紙『日出づる国の天子より…』に激怒」
607年に行われた第2回遣隋使で、小野妹子が手渡した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、煬帝はこれに激怒します。
ちなみに煬帝が激怒したのは倭王が天子と名乗っている部分であり、「日没する側の」天子と書かれたことに対してではないということは知らない方が多いのではないでしょうか。中華思想では天子が一人とされているため、煬帝以外の国の長を天子と呼ぶのはおかしいと激昂したのでした。
倭王に関しては諸説ありますが、多利思比孤という名前の王で、聖徳太子なのではないかとする説が多くなっています。
都市伝説・武勇伝2「激怒して部下を釜茹でに」
煬帝は高句麗遠征の際に隋国内で反乱を起こした楊玄感に手を煩わされていました。その楊玄感と関係の深かった軍人の斛斯政は煬帝の怒りに触れることを恐れ、高句麗へと亡命していました。第4回高句麗遠征の際に、高句麗の将軍から斛斯政を引き渡された煬帝はそれまでの怒りをぶつけるために部下によって斛斯政を射殺させます。
そしてそれでも飽き足らず、斛斯政の遺体を釜茹でにして食肉として調理し、宴会で家臣らに差し出したというエピソードが残っています。
都市伝説・武勇伝3「21世紀になり、工事現場で煬帝の墓が発見される」
2013年3月に中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発掘され、その遺跡が煬帝の墓であることがわかりました。そしてその隣には皇后である蕭皇后の墓も見つかったそうです。
証拠となったのは、遺跡から出土した高価な副葬品と墓誌銘の掘られた石版です。この石版には煬帝の名前と揚州で崩御したという史実が書かれていました。墓の中からは歯が発掘され、年齢鑑定から50歳前後の人物のものであるということが断定されたのです。
煬帝の墓は揚州市以外にも3つあり、埋葬場所が何度か移ったことが伺えます。今回発見された墓は最終埋没地と考えられ、現在では建屋が設けられ、厳重に保護されるようになりました。
煬帝の簡単年表
煬帝は本名を楊広といい、隋を建国したことで知られる文帝(楊堅)の息子として誕生します。煬帝の母は独孤伽羅で、「自分以外の女とは関係を持たない」ということを文帝に約束させて結婚したと言われています。
煬帝の父親である文帝は前回の王朝である西晋が滅びた後に300年近くに渡って分裂していた中国を統一するために、隋を建国します。618年に唐が中国を支配するようになるまで約40年に渡って中国を牽引しました。
中国を統一するために、南朝で勢力を広げていた陳への遠征軍を何度か派遣します。そして588年には煬帝がその指揮官を務める事になりました。この時に率いた軍勢は52万であり、当時としては過剰すぎるほどの規模であったため、陳は比較的容易に陥落してしまうのです。
煬帝率いる大軍に壊滅状態にされた陳の都・建康が滅び、陳の皇帝・陳叔宝も捕らえられ、南朝も隋の支配下となりました。こうして西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来405年ぶりに分裂時代の終焉を迎え、隋が中国をまとめるようになります。
当初、文帝は長男である楊勇を皇太子として扱っていましたが、楊勇は非常に女遊びが激しかったために、周囲からの評判はあまりよくありませんでした。父・文帝は質素な生活を好み、母・独孤伽羅は貞操を重要視していたため、両親の評価をも落としてしまい、ついには次男である楊広(煬帝)に皇太子の座を取られる事になったのでした。
両親に気に入られるように振舞っていた楊広はその甲斐もあって皇太子として扱われるようになりましたが、文帝が病に伏している際に楊広の本性を悟り、激怒します。再度、長男の楊勇を後継者として掲げるようになりましたが、それが広まる直前に文帝は亡くなってしまいます。
この時、楊広が文帝を暗殺したのではないかとの噂が流れましたが、その真偽は明らかになっていません。文帝の崩御により後継として皇帝の座に就いた楊広は皇帝・煬帝として実権を握るようになったのでした。
隋の時代には3回から5回程度遣隋使が派遣されたことが知られています。そのうちの第2回が607年に行われ、小野妹子が煬帝に宛てた国書をたずさえて訪れました。その内容に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」と書かれていたため、煬帝は「無礼者!」と激怒するのでした。
煬帝が激怒した国書から一年後の608年、第3回遣隋使が派遣されました。再び小野妹子が訪問し、留学生を多数引き連れていました。この留学生はのちに日本での改革に多大な貢献をするようになります。
文帝の代から建設に力を入れていた京杭大運河が610年に完成します。北京から杭州までを結ぶ2500kmの大運河で、この開削を機に中国全体の流通が活性化しました。
高句麗遠征は隋の時代に4度行われていますが、第2次遠征から第4次遠征を煬帝が遂行しました。612年に行われた第2次高句麗遠征では、60万もの大軍を引き連れて高句麗を侵攻します。当初、高句麗側の将軍は降伏の意を表明しましたが、隋軍の食糧不足を見て取ると、長期戦に持ち込むことを計画し、最終的には疲労や栄養不足で隋軍を壊滅状態に追いやるのでした。
613年に第3次高句麗遠征を行いますが、隋内での反乱が起きたために中止となります。614年に第4次高句麗遠征が行われましたが、毎年の戦争で隋軍も高句麗軍もお互いに消耗していたため、和議を結ぶことで合意しました。
度重なる戦争の後に将軍や部下などに十分な褒賞を与えなかったことから反発を受けるようになります。この頃から各地で新たな英雄が割拠するようになったため、煬帝は江都に身をひそめるようになりました。618年、家臣である宇文化及により長安へと戻るように進言されますが、煬帝はこれを拒否したため、家臣らによって絞首させられることになり、生涯を閉じました。
煬帝の年表
569年 – 0歳「楊広(のちに煬帝)の誕生」
楊広(煬帝)誕生
楊広はのちに隋の皇帝・煬帝となる人物で、文帝と独孤伽羅の息子として誕生します。文帝は隋を建国した皇帝で、それまで300年近くにわたって分裂していた当時の中国を統一した人として知られています。
母の独孤伽羅は文帝に対して厳しく、「自分以外の女とは関係を持たない」ことを文帝に誓わせた上で結婚したそうです。文帝ももともと派手な生活をするタイプではなかったため、それを忠実に守り、質素倹約に努めて生活していました。
581年 – 12歳「隋の建国、統一」
隋の建国、およそ300年ぶりに中国統一
581年、楊広(煬帝)が12歳の時に文帝が隋を建国します。300年以上にわたって分裂していた中国をまとめるために勢力を広げていくのでした。588年には南朝で勢力を持っていた陳を滅ぼすために楊広(煬帝)を指揮官として52万の軍を送り込みました。
50万以上の軍隊は当時としては相当な規模であったために、陳はあえなく降参し、陥落します。こうして西晋滅亡以来、実に273年ぶり、黄巾の乱から数えると405年ぶりに中国が統一されることになりました。